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還る街(ところ)  作者: 鴨南ばん
1/1

誰にでもある場所

もし、そんな世界があるとしたらどうしたい?

つまり、それはある意味、やり直しが出来るってことかも。だとしたら、もっとより良く生きたいよね?だから今、時に力を抜くことも大切だけど、もっと頑張って工夫して生きてみようよ。

 1.偶然


 夏休みも終わり、九月に入ってから直ぐの土曜日。光陽高校野球部の恒例、山登りこと登山マラソンが始まった。登山マラソンは開校2年目から続く部活伝統行事で、春と秋の年二回、足腰の鍛錬と持久力をつけることが目的である。本来秋は10月に開催されるが、今年は学校行事との兼ね合いで、ひと月早い開催となった。まだまだ充分な暑さの残る中での、過酷な登山マラソンとなった。2年生の小堺日向こさかい ひなたは今回で4回目になる。海抜千メートル近くある光輪山こうりんざんは、比較的なだらかな登山道があり、初級者から登れる山として、ハイカーにも広く知られている。そんなこともあり、年間を通じて多くの登山客が訪れる山でもある。この日も部員たちは、学校から一斉にスタートをして、一般客に混じり山を登り、頂上の見晴台で折り返して学校まで戻って来る。この山は、頂上まで2時間程度かかるが、その頂からの眺めは素晴らしいものだ。麓の街並みの先に海が望め、後方には遠くの連山まで見渡すことができる。これからの季節は特に「紅葉の名所」としても賑わいをみせる人気の山でもあるのだ。


 小堺日向は先頭を行く同じ二年生の長野友樹ながの ともきと、篠原翔太しのはら しょうたを追っていた。頂上手前ですれ違った時は、距離的には追いつける範囲だと思っていた。しかし、思った以上に彼らの足は速く、確認のために振り返った時には、下って行ったその姿もすぐに見えなくなってしまったので、酷くがっかりした。やっとの思いで山頂の折り返し点、見晴台まで来た時にはハイペースが祟り、呼吸は乱れて足もガクガクになっていた。見晴台脇にあるベンチでは、休憩していたハイカーのおばさんたちが、声援を送ってくれた。日向は帽子を取ってお礼を言うと、更に拍手までしてくれた。そんな嬉しい応援も、目に入った汗がしみて、何故か悲しく思う日向だった。いよいよ後半戦の下りに入った。スピードが落ちたせいもあり、後から走ってきた太田悟おおた さとると、一年生の小林歩こばやし あゆむの二人に抜かれてしまった。日向は残りの体力も考えて、登山道を駆け下って行った。下り道は、衝撃が膝にくるので、注意しなければならない上、疲れのピークが響いている。日向はそんな自分を励ますように、ブツブツと独りごとを言いながら走っていると、またしても一年生の原田仁はらだ じんに、抜かれてしまった。日向が原田の背中を無言で見送ったその時、上の方からよく知っている声がした。

「余裕で走ってんなぁ。先に行かれるの、嫌いじゃなかったんだな」

 幼馴染でもある糸川類いとかわ るいだ。

「前半を飛ばし過ぎたんだよッ!おまえこそ色んな意味で、藤川に追い越されるんじゃね?」

 いつも遠慮のない類に、ちょっとイヤミを混ぜた日向だった。

「オレが?そんなの絶対ないし!」

 類は、はっきりと自信ある口調で答えた。今の日向にとっては、ちょっとジェラシーを感じる言い方だ。

「オレはアイツとは違うぜ!オレには足があるからなッ・・・」

 類の屁理屈を半分も聞かないうちに置き去りにして、日向はスピードを上げて走り去って行った。


 「差をつけた!」と日向は思った。ところが、日向がどんなに早く走ったつもりでも、類はしっかりと後を追って来た。と言うのも、九十九折の登山道を正直に下りている日向に対し、類は登山道が折れ曲がっている箇所をショートカットしてピョンピョンと飛び降りていたのだ。さすがに、そんな手を使って下りられる箇所は多くない。それに気づいた日向が、それは不正行為だと非難すると、山登りの走り方に規定はないし、危険でなかったら許される、と類はしれっとして言ってのけたのだ。二人は追いつ追われつして、小笹が密集した見通しが悪い場所まで来た。ところがどうしたことか、ここまで来て、とうとう日向にもいたずら心が疼き出してしまった。幸いなことに、辺りには二人の他は誰もいなかった。突然日向は、登山道を外れて小笹の藪に突っ込んで行ってしまった。それを見た類は慌てて、真似するなと叫びながら、自らも藪に入って来た。

「だって類がやってるんだもん。これって裏技じゃん?もしかして類が考えたとか」

 日向は妙に関心した顔で、類に向きながら言った。

「違う!ある先輩が、こっそり教えてくれた秘策だ」

 類はぶっきら棒に答えたが、足が遅い訳でもない真面目な類に、誰が教えたのか?と日向は考えを巡らせながら走った。日向には一人だけ心当たりがある。野球部でも一番のお調子者で、とても人気があった松木優先輩だ。しかし、その名を言うと類は「違う」と言っただけで、教えてはくれなかった。「チェッ」舌打ちした日向が興味を持ったのは、自分を追い抜いて行った部員たちを抜き返すことだった。出来るなら、今しがた抜かれた仁の前へ出られたら、と思っていた。そして、更に思いっきり飛ぶようにして、真っ直ぐ走った。日向は山肌を走り下りる感じが、鹿か何かの動物的で楽しく思えた。

「危ないぞ日向!・・・右だ!!日向、みぎぃ!!・・・」

 慌てた類の声が、ガサガサと藪をかき分け進む音に混じって少し遠くに聞こえた。類のヤツついて来ない?と思った瞬間かなり後方から悲鳴のような叫び声が上がった。

「ひなぁーーーっ!!」

 全くの予想外だった。再び登山道に出ると思っていたが違い、笹と低い広葉樹が隠していた崖だった。ふわりと浮遊感を味わった直後、日向の身体は地面に打ち付けられた。

「痛ったたたぁ・・・最悪ぅ・・・」

 やってしまった感がいっぱいになり、悲しくなった。予想も出来なかった突然の落下で、身体中が痛む日向はしばらく目を閉じて動かなかった。いや、動けなかった。そして、助けに来てくれる筈の類を待つことにした。


 しかし、来る筈のその助けは、一向に来る気配がなかった。どのくらい経ったのだろう、日向の周囲は静まり返ったままだった。

(アイツめ、おれを置いて行きやがったとか?だったら許さないぞッ)

 ゆっくりと手足を動かしてみた。幸いに骨はどこも折れてはいないようだ。ただ、自分と類に腹立たしさを感じていた。しばらくして、日向は痛む身体を起き上がらせると、麓と思える方向にふらふらと歩き出した。頭が痛み、意識が飛びそうになるのを我慢して、杉林の中を進んで行った。どのくらい、麓に下りてきたのか分からないくらい、距離感もなくなっていた。やがて木々がまばらになったかと思うと、突然に視界が開けた。目に映るその景色に日向は立ちつくした。あれほど痛かった身体も痛みがなくなっている。見たことがある景色が広がっているけれど、そこは自分たちが住んでいる街ではなかった。

「ウソ!何?何で・・・」

 日向は、身体中の力が抜けてしまうのと同時に、意識も遠のいてしまった。それから、どのくらい経ったのだろうか・・・・・。

(あっおれ、生きてる?助かった?)

 段々と日向の意識が戻ってくると、何だかとても懐かしい雰囲気の中にいることを感じた。それと、ここが静かで温かく凄く気持ちの良い、不思議な空間だと思えた。

(あれ?誰かがおれの頭を撫でている・・・優しい手。誰が撫でてるの?・・・おれ、知ってるよ?この手の持ち主知ってる!)

 まさかと思ったが、目を開けるとやはりそこには母方の祖父、海藤勇かいとう いさむがいた。

(爺ちゃんの家だ!)

「おっ、気がついたか?やれやれ。まったくオマエはいつまでたっても心配かける、いたずら坊主だなぁ」

 勇はニコニコして言うと、立ち上がって奥のキッチンに行き、小さなマグカップにホットミルクを持って来てくれた。そして、冷めないうちに、と日向を抱き起こして飲ませてくれた。まだ状況が分からずに混乱している頭を、温かなミルクが包んで解し、そして体全体に染み渡っていく感じがした。

「ありがとう爺ちゃん、もう大丈夫だよ?」

 祖父と最後に話しをしたのは、もう1年以上も前になるだろうか。日向は空になったカップを両手で包むと、その記憶を遡っていった。

(そうだ、あれは家族で、入院していた爺ちゃんのお見舞いに行った、何度目か以来だ。それから、最後に会ったのは・・・)

 日向は、なんとか自力で上半身を起こすと、祖父に向き直った。

「爺ちゃん、おれ、どうしてここに居る?」

 祖父と再会できた嬉しさ以上に、とにかく最初に知りたい事だと思った。

「えっ、ヒナ忘れちゃったのか?あー、こりゃヤバイよ。やっぱり頭を打ってるんだな」

 驚いた勇は心配そうな顔で、また日向の頭を撫でてくれた。日向はカップを脇に置くと、その祖父のその手を取り、光輪山で下山途中、崖から落ちたのだと訴えた。勇は日向の顔をじっと眺めていたが、やがてカラカラと笑い出した。

「何バカを言ってるんだ。ヒナは自転車がひっくり返って、どこかへ頭をぶつけたんだろ?」

 そして気を失っていた間に、夢でも見たのだろうとも言った。

(やっぱりおかしい、変だよ?!)

「ねえ、爺ちゃん。婆ちゃんはどこ?」

 ふと祖母のことを思いつき、日向は祖父に尋ねた。この家では、二人はいつも一緒に居たはずなのだ。ところが祖父の答えは、予想外にも「知らない」のひとことで、腕組みをして困惑の表情を浮かべていた。そして、少しの間目を閉じると眉根に皺を寄せ、何かを思い出そうとしているようだった。

「爺ちゃん?婆ちゃんって、爺ちゃんの伴侶のことだろ?」

 信じられない思いの日向は、わなわなと唇が震えているのが分かった。

「伴侶?うーん、誰だったかなぁ、覚えてないよ。もう分からん、忘れた」

 勇の目には、悲しさが滲んでいた。

知美ともみ婆ちゃんだよ!爺ちゃん、本当に忘れちゃったのか?」

(これって笑うに笑えない冗談!?本当なら、とても悲しいよ)

 日向は思った。そして、困り顔の祖父を見ているのが酷く辛くなり、布団から飛び出すとその背中に回り、ギュッとしがみついた。日向がもっと小さかった頃に、その背中には何度もおんぶされた。祖父の温かくて大きな背中に、おんぶされるのが大好きだった。

(爺ちゃんの背中、おれ大好きだよ!)

 日向は、祖父のこの背中の感触を、二度と味わうことはできない、という現実を知っていた。だから自然と、涙がこぼれてくるのを我慢できなかった。

「爺ちゃんっ・・・」

「ん、泣いてるのか?」

 勇は優しく言った。

「・・・・・」

 答えられなかったけれど、日向は祖父の背に、そのまま身体を預けた。そして、祖父はこちらに来てからの話をポツリポツリと語ってくれた。

「俺は、あっちの世界ではもう、死んじゃったんだよな・・・」

 勇は呟いた。日向は頷いたけれど、また、黙って祖父の言葉を聞くことにした。

「それに色々と、もう忘れかけているんだよ」

 祖父は付け加えた。どうやら時間が経つほど、生きていた時の記憶は消えていくようだ。

「あの時は世話になったな・・・俺は嬉しかったぞ。おまえたち皆が来てくれたし、励ましてくれたから」

 日向は、祖父が亡くなるその日も家族でお見舞いに来ていた。しかし、その時はまだ子どもだからと言われ、いとこたちと一緒に病室から出されてしまい廊下にいた。そして、その後の病室からは、声にならない声がして嗚咽が漏れてきた。その空気に触れると、子どもたちにも祖父が死んでしまったのだと感じ、揃って泣き出したりしたのだった。

「爺ちゃん」

「うん?」

「あのね・・・」

「何?」

「あのね」

 もっとずっと小さかった頃、こんな些細なやりとりが好きだった。

「おれ、爺ちゃんとキャッチボールしたい!」

 無理なことだと分かっていたけど、日向は言ってみた。日向が野球を始めたのは、祖父の影響が少なからずあった。

「はははっ、うん。いいぞ」

 祖父は笑って頷いた。

「ホント!?ねぇ、本当に本当?」

「うん、本当だ」

「やったー!」日向は嬉しさのあまり小さな子どものように喜んだ。

「爺ちゃんっ、いくぞぉ」

「おう!」

 勇が応えた。 

(あれ?いつの間にここに?)

 景色がガラリと変わって、小学生の頃に祖父とキャッチボールをした空き地にいた。手にはグローブをはめてボールを握っている。

「ほら、こんな風に投げてみろ」

 勇は投げる動作を見せてくれた。その投球フォームは、少年野球時代の思い出と重なり合い、とても懐かしく嬉しくもあった。

「うん、しっかり捕ってね!」

 日向は今の自分を知って欲しくて、力いっぱいに投げ込んだ。「ビシッ」と鋭い音がして「痛っ」と祖父が声を上げたのを聞いた。

「大丈夫?」

「大丈夫だよ、このくらい」

 勇がすごく良い笑顔を見せてくれている。

(おれ、今、爺ちゃんとキャッチボールしてる!スゲエ幸せ!!)

 日向は心底幸せを感じた。それから少しだけ力を抜いてボールを投げ合った。一つのボールが、祖父と自分の間を行き来する。ただ、それだけのことが、どんなに愛おしいことであるのか、どんなに大切なことであったのか、今さらながら思い知った。


「このくらいでどうだ?」

 しばらくすると勇が言った。

「うん、いいよ。疲れた?」

「いやな、ヒナの投げたボールに迷いがある、って思って」

 祖父は、日向の投げたボールを受けて、それを感じ取ったのだろう。祖父の言葉に驚いたけれど、改めて心に刺さる小さな棘を意識した。

「爺ちゃんゴメンな。おれ、大事な場面で失投して、チームを負けさせっちゃった」

 日向は正直に言った。

「うん、知ってるよ。だけどな、ヒナは周りを恨んだら、それは間違えだそ」

 勇は日向の目の前に立っている。

「あの時は、ヒナが自信過剰になって、自分を見失ってたんじゃないか?」

 日向はハッとした。確かにあの当時は調子に乗って、自分のことしか考えていなかったのだ。甲子園を目指した夏の県予選、勝てば決勝戦という試合だった。弱小の光陽高校が、初めてベスト4にまで勝ち上がった上、その試合も9回まで進み1点差で勝っていた。スタンドが後いくつで完投だと囃し出した頃だった。監督が「牧田の指示通りに投げろ」と伝令を送ってきた。しかし、その時の日向は「おれなら絶対抑え込める!」とばかりにキャッチャーの出すサインに首を振った。得意のシュートで仕留めるつもりでいたのだ。慌てた先輩のキャッチャー、牧田優まきた ゆうがタイムを取って日向に言った。

「アウト二つ取ってるから慌てるな!とにかくここは、ストレートを外に一つ外して様子を見る、いいな?」

 先輩の言葉に頷いてみせたが、日向は全てを理解しないでいた。主審の声で試合が再開され、牧田がサインを送ってきた。同じだ「ストレートを外角低めに」日向は構え、そして投げた。

「カキーーン」

 金属バットの良い音がして、ボールは外野観客席に吸い込まれていった。キャッチャーが要求した所とは違う所に、「どうぞ打って下さい」と言わんばかりの投球をして本塁打を食らった。同点となり、最大の見せ場を演出してしまった日向は、呆然と打者が一周するのを眺めた。その後は、気持ちの焦りから球は高めに浮き、ヒットを打たれて打者を塁に出し、立て直せないうちに、とうとう逆転されてしまったのだ。日向が自ら崩れて負けた、いや、負けさせてしまった.試合後のミーティングは、目も耳も塞いでしまいたい日向だった。ところが、大事な場面で失敗した日向を、誰も責めようとしなかったのだ。それどころか、先輩たちは日向を気遣ってくれた。とても悔しいはずなのに、先輩たちは誰一人として、日向を責めることはしなかった。日向としては、誰かに打たれた方が、気が楽になっただろう。しばし、無音が支配する中、監督が口を開いた。

「今日の試合は、有意義な試合だったと思う。それぞれが反省すべき点、改めるべき点など分かっていると思う。今日のことを踏まえ、今後は無駄に打ち急いだり、投げ急いだりしないで、チームの一員としてのプレイで、いつもよりもっともっと考えて取り組んで欲しい。焦って進む前に止まって考えろ!今、チームの為に必要なのは何かを」

 そして、秋季大会よりピッチャーの体制を変えると全員に告げた。今まで先発完投でいた日向は、その舞台の半分、または状況によっては全部を誰かに譲らなくてはならない。失投してチームを敗北させた日向には、致し方ない事だと感じられた。日向は監督をはじめ、先輩たち一人づつに頭を下げた。先輩たちは口々に「気にするな」と言ってくれたが、期待がどれ程大きかったのか、を考えるといたたまれなかった。「すみませんでした」では済まされないはずだった。重い雰囲気が支配している中、キャプテンの斉藤大地さいとう だいちが突然「自惚れてんじゃねぇよ」と一喝したのだ。その場の全員が驚いてキャプテンに顔を向けた。

「おまえ一人で野球やってんじゃねえぞ?オレたちと皆でやってんだぞ。そこんトコもっと意識しろよ」

 少し興奮気味な斉藤は、言葉を続けた。

「確かにピッチャーが、責任を負うところは大きいと思うよ。だけど、オレたちも失敗するよ?守備や打撃でもさ。その前に、自分の技量がなくて泣いたりもしたよ。だけど、だけどな、オレたち全員は頑張って支え合ってるんだ。だから、もっとオレたち、守ってるやつらを信じてくれよ」

 斉藤の心からの思いは、トゲトゲして冷たくなってしまっていた日向の心に、じわじわと染み込んできた。

「斉藤先輩っ、ありがとうございます!」

 日向はその思いやりを、素直に受け止めることが出来た。心にも温かい何かが満ちてきて、再び深々と頭を下げた。

「だから、カッコつけてんじゃねぇって言ってんだよ!オマエ一人の責任じゃねぇし」

 斉藤は優しく日向の肩に手を置いた。彼の温かな手から、色々な感情が伝わって来た気がした。

「さあ、明日からまた練習だな。お疲れさん、今日のことはここで終わり!」

 そして部員たちは、それぞれの思いは胸にしまい込み、解散して行った。日向は何とか自分自身を奮い立たせ、帰ろうとした時に牧田が声をかけてきた。

「お疲れ、日向ごめんな」

 思ってもいなかった先輩の言葉に、日向は驚いてしまった。

「先輩!謝らないで下さい。悪いのはおれですから」

 殆ど反射的に日向が言うと、はにかむ様子を見せた牧田は「一瞬でも夢を見させてくれた日向には純粋に礼を言いたかった」と言い更に「日向の良い面を、もっと引き出してやれなかった」と悔やんだ。

「そうだな、その点わたしも同罪だと思う」

 それを聞いていた、監督の兵頭啓太も頷いた。

「監督まで、そんなこと言わないで下さい・・・」

 日向は胸がいっぱいで、涙が溢れそうになっていた。

「試合において監督として、すべての責任はわたしにある。わたしの読みが甘かった点が確かにあったし、それに修正点をいくつか見つけられた。小堺、連投ご苦労さん!まだまだ、主力として投げてもらわなければならないから、心しておけよ」

 監督は笑顔で言ってくれた。

(そうだ、色々と思い出した)

 監督は牧田先輩を通して「気負わず肩の力を抜け、打たれても後ろが守るから心配するな」と言っていたのだ。 野球は九人が揃ってプレイする、だからチームがまとまらなければ、どんなに凄いピッチャーが一人いても、勝てるはずはない。

「ひとりは皆のために、皆はひとりのために」

 野球を始めたばかりの頃、チームプレイの大切さを、少年野球の監督や、爺ちゃんに聴かされていたはずなのに、驕った独りよがりの考えで、周りに迷惑をかけてしまった。

(それは、信じて任せること!)

 心にあったモヤモヤしていたものが、段々と薄くなって消え、それと同時に、刺さっていた棘も抜け落ちたように感じられた。勇が日向の顔を覗き込むようにしたので、ハッとした。

「いい顔になったじゃないか!」

「えっ、そうかな?」

「ああ、もう大丈夫だ!」

 祖父の励ましを受けて、なんだか気恥ずかしくなって、日向は空を仰ぎ見た。透明な空気を感じ、ここは、幸せも沢山感じさせてくれる場所なんだな、と実感した。

「もう、行くんだろ?」

 突然、祖父が尋ねた。

「行くって、どこに?・・・」

「どこにって、そりゃぁ家族みんなの所だよ」

 祖父の言葉に、日向の心臓は激しく打ち始めた。

「爺ちゃんがいいって、いいって言ったらもう少し居たい!」

 日向は、純粋な気持ちで言った言葉だ。だが、勇は首を振り、生きている人間は、ここに居てはいけないと言ったのだった。

「なぜ?だめ?・・・なぜだめ?」

 日向は小さな子どものように祖父にすがった。勇はそんな日向の行動が嬉しかったのだろう、日向をなだめるようにその背中を、何度も何度も撫でた。

「おお、丁度いい。あれを見てごらん」

 しばらくして、勇が日向の肩を抱いて言った。

 祖父が指差す方を見ると、屋根の上にキラキラした沢山の「クリスタルの破片」のようなものが柱状にゆっくりと昇って行くのが見えた。そしてそれは、虹色に溶け込むように静かに消えていった。それはそれは美しく、誰もが心が洗われるであろう、とても神々しく荘厳な光景であった。

「爺ちゃん、あれは?」

「うん、あの人は向こうで生まれ変わるんだよ。だから俺もここで、その時を待っているんだよ」

「・・・・・そうなんだ」

 亡くなった人はこの街に来て、また向こうの世界で生まれ変わるための準備をするという。

「さあ、行け!」

 温かな祖父の手は日向の背をそっと押した。

(おれ、戻っちゃうの?いいのかな・・・爺ちゃんありがとう!)

 日向はまた意識がもうろうとして、自分自身が消えていくような感覚を覚えた。


「あ、つっう・・・」

 再び激痛が身体中を走った。

「た!・・・ヒナ・・日向!!」

(類の声・・・だ)

 日向の意識は徐々にはっきりしてきた。

「目を開けろ日向!」

 類の声に応えるように目を開けると、類は今にも泣き出しそうな顔をしている。日向は草の匂いに包まれて、雑草の茂みに横たわっていた。

(類ってこんな顔だったんだな)

 しみじみと思っていると、急に乱暴に抱きかかえられた。

「まったくオマエはぁ!」

 叫ぶなり日向の頭を締め上げたのだ。

「あははははッ」

 痛みと驚きで日向は笑い出してしまった。今なら分かる、類がとても心配していたこと、そしてその痛みが生きていることの証でもあることも。

「この大バカ野郎が!ヘタしたら大怪我か、それ以上だったんだぞ!」

 類が泣き笑いをしている。

「うん、分かった分かった。だから、そんなに大声出すなよ、心配かけたな」

 日向の言葉に照れくさかったのか、類はぶっきら棒に日向の身体を支えると、起き上がらせてくれた。

「痛っ!おれ、どのくらい気を失ってたかな?」

 ずいぶん長く、気を失っていたはずだ。向こうの世界では色々とあって、長く居たような気がする。

「ああ、たぶん5分くらい。10分はしていないと思うけど」

「えっ、短っ」

 日向は、驚かないわけにはいかなかった。あの時間が、あれだけの時間が、たった5分だなんて信じられなかった。しかし日向は、今はあえてその「混乱する思考」を停止させることにした。

「長く感じた?ただの脳震盪のうしんとうだろうけど」

 類が冷静に答えた。

「ああ、そうなんだ。安心したよ」

 日向は何だかほっとした。そして、背の高い雑草をかき分けて、歩きながら肩を回したりして、身体のチェックをした。特に痛む所はなく、両足も大丈夫そうだった。

「ごめん!時間をロスしたよね?」

 類によると、すぐ下に登山道があり、おそらく原田の後ろあたりに出るはずだと言った。日向が無事なことを確認できた類が、先頭になり石段を下りて行くと、登山道との合流点があった。すると突然、類はスパートをかけ走り出し、日向を置き去りにしようとしたのだ。

(今度は逆?おれたちって、こういう所がまだガキかな?)

 日向はつくづくそう思えたので、声を上げて笑った。登山マラソンに復帰した日向は、学校に着くまでに類は追い抜いたが、とうとう原田には追いつけなかった。結局、七着でゴールしたが、結果としては前回より順位を下げた。

「おっ、小堺泥んこじゃん。どうした?」

 部員が続々と戻ってくる中、杉下薫が訊いてきた。

「そうなんだよ薫。コイツ足を滑らせたと思ったら、思いっきりゴロゴロって転がちゃってさ、オレの他は誰も見てなくてよかったよ。コイツ、見られてたら恥ずかしくって、明日から学校に来れないとこだったよ」

 日向の代わりに、類はおどけて答えてくれた。日向は、またも窮地を救われたと思った。

「そういえば、杉下も転んだよな」

 杉下の横にいた田中心が思い出したのか、ケラケラと笑出だした。

「テメー!田中ぁ、それは言うんじゃねーって言っただろ!」

 杉下が田中にゲンコツをおみまいしようとした時に「本当は田中の方が転がるはずだったけどね」と、榊原北斗が加わったのでゲンコツの巴戦になってしまった。と、いっても犬のじゃれ合い程度だったのが、更に長野と篠原、太田が加わって周囲を巻き込む大騒ぎになっていった。仲が良すぎる2年生たちでもあり、気の置けない仲間たちでもある。

「静かにぃ!」

 可愛い声が割って入った。女子マネージャーの飯田彩乃だ。マスコット的存在の彼女の声が掛かると、部員たちはいつものように静かになった。

「みなさん、今回も全員ゴールできました。また、ケガをした人もいなかったようで良かったです。お疲れさまでした」

「したーーーっ」

「顧問の内藤先生が、会議の時間になってしまったので、先生からの伝言を伝えます。今日はこれで終わりになります、明日も8時からの練習ですが自主練の部分は個人の判断でということでお願いします。簡単ですが以上です!」

 彩乃が言い終わると、新キャプテンの篠原が解散を宣言した。

「お疲れ、転ばないように気をつけて帰ってね小堺君!」

 飯田マネージャーにも言われ、とうとう2年生部員全員にひやかされた日向だった。着替えを終えて部室から出ると、日向は気を失っていた時のことが頭をよぎった。そして、どうしてもあの場所をしっかりと確認しなくては、という思いにかられ、その思いが段々と大きくなっていくのが分かった。

「ねえ類、悪いけど先に帰ってもいいよ?」

「へ?そんなのダメに決まってるじゃん。オマエ、頭打ったから、帰り道で迷子にでもなったら困るだろ?」

 そんな事は無いと思っても、もっともな意見であった。

「うん、でもね」

「それともなんだ?飯田とデートするとか」

 類はわざと囁くように小さな声で言った。

「チゲーよ!」

 (何でコイツはこんな思考なんだ)

 日向はそう思ったが自転車に飛び乗ると、類にはお構いなしにさっさと走り出した。類に待てと言われても、待つ気はさらさらない。

「オイ!どこ行くんだよ」

 類は自分と日向の家とは逆方向の、それも再び光輪山の方向に向かっている日向を追いかけて行った。彼らは無言で自転車をこぎ、麓の小さな公園まで来ると自転車を降りて鍵を掛けた。

「今から落ちた場所に行くけど、イヤだったら来ないでいいよ!」

 日向は言った。

「マジカぁ?また、あそこまで登る気?」

 文句を言いながらも、類は日向について登り始めた。さすがに制服姿で登るのは変な感じで、下山してくる人にはジロジロ見られた気がした。

3、40分くらい登った所に登山道から逸れる石段が現れた。今まで気にも留めなかった石段を今度は登って行く。杉木立に囲まれた九十九折れの石段を五十段くらい行くと、背丈の高い雑草が生い茂る少し広めの場所に出た。ここが、類に助けられた場所で、日向が落ちた崖はそのすぐ近くだった。崖の高さは大体6、7メートルくらいだろうか。草木が密集していた場所なので、それがクッションとなり日向にケガが無かったのだ。思いを巡らせるように、日向はぐるりと見渡した。

「何か落としたのか?」

 類の問いかけに日向は首を振った。

「ねえ類、この先ってどうなってるか知ってる?」

 日向は今来た方向の逆を指差した。

「あっちには行けないだろ、登山道もないし。あっても獣道くらいだし」

「そうかぁ、でも向こう側から下りることはできるのかな?」

 日向は雑草をかき分けながらその方向に歩いて行こうとしたが足を止めた。

「さあ、まったく分からないよ。行っても、迷って遭難かもね」

 類は予想される事実を言った。

「へえぇ」

 日向は、この場所を取り囲むような杉木立のてっぺんを、ぐるりと見上げた。そこだけが、ぽっかりと青空が見えている。

「ねえ類、ここって昔、何かあった所じゃない?」

 類もその空間の空を見上げた。

「うん、それっぽいね。それより何か見つけた?」

「ぜーんぜん。ナッシング」

 首を振った日向を見て、類は何も得る物はないと感じた。

「何だか知らないけど、収穫なしか。さて、納得したら帰るぞ!日向」

「うん、今日は色々とありがとうな類。本当に助かったよ」

「いいってことよ。なんたってオレとオマエの仲だからな、ってクサイ科白っ!」

 お互いに笑い合った。彼らは親友として、とても自然で良い関係だと確信している。二人が麓の公園まで下りて来た時ると七、八人の子どもたちが賑やかに追いかけっこをしていた。その中に、おかっぱ頭の一風変わった子が一人混じっているのを日向は見た。

「楽しそうだな、あの子たち」

「オレたちも、だろ?」

 類が可笑しそうに笑った。

 日向は空腹感を覚え、腕時計を見ると12時をとうに過ぎていた。やっぱり腹が減るはずだ、と思いながら自転車を引いて公園から出ようとした時、類の腹がタイミング良く空腹を訴えた。

「腹減ったよな、飯食ってくか?迷惑かけっちゃったし」

 日向はお詫びを兼ねて、近くの牛丼屋へ類を誘った。

「やっぱりウマイなぁ」

 大好物の牛丼を幸せそうに頬ばる類を見ていて、日向は類に「5分間の出来事」を話そうと決心した。

「なあ類、オマエは信じてくれるよな?」

 身を乗り出すように言出だした日向に、少し驚いた類は事と場合によると答えた。

「もうっ!類は信じるのか、信じないのかって話だよっ」

「信じるも何も、だから何?」

 類は目をパチパチさせた。

「・・・やっぱりここで話すのやめた!類の家に行くから」

「何でオレの家なんだよ!」

「ごちそうさん!」

 日向はコップの水を飲み干すと勢いよく立ち上がり、類を急かして店を出た。

(全く、コイツはいつも・・・)

 「オレの先を行くヤツだ」と類は思った。思えば小学生の時、少年野球のチームには類よりも遅く入団したのに、学年が上がる度に誰からみても上達し、とうとう類より先にレギュラーになった。日向は足も速かったので最初は外野手だった。しかし内野にコンバートされると、その守備では華麗なフィールディングで、下級生の憧れの存在となるほどだった。その上、たまたまピッチングをやらせてみれば、安定した投球が認められ、なるべくしてピッチャーへ転向したのだった。つまり、何をやらせても器用にこなした日向だった。そんな行動的な日向を羨ましく思うことがある類は、慎重派であるけれど、守備も打撃も堅実にこなすプレーヤーとして定評があり、高校に入学してからはレギュラーでファーストを守っている。

「おぉーい!類ぃ、置いてっちゃうぞ?」

 20メートルほど先を走る日向はスピードを上げていた。このままのペースで行くと、類の自宅に「ただいま」と自分の家のように上がりこみそうな勢いだ。彼らが小学校の5、6年の頃からだったか、類の代わりに日向が「ただいま」と言って家に上がり、彼の家族を驚かせたりしていたのだ。今日は丁度、類の母親が仕事が休みで自宅に居るはずなので、また驚かせてしまうだろう。

「危ないからスピード落とせよ!」

 大声で叫んだ類は加速して日向に追いついていった。類の自宅は、大通りの家電量販店の角を曲がり、三つ目の交差点を右に少し行った所にある。

「何だか久しぶりっ」

 やっとスピードを落とした日向は、ウキウキしているようだ。

(違げーし!オマエ、この前来たのいつだと思ってるのさっ)

 類はツッコミを入れたかった。自宅に着くと自転車をカーポートの隅に並べて停めた。類が足早に玄関へ向かったのに対し、日向はゆっくりと歩いた。そして、おや?と思っているであろう類に言った。

「おれオトナだから、余裕あるところ見せなくっちゃな」

 ところが類は「じゃあね!」と言うと、ドアを開け中へ入るとすぐに鍵を閉めてしまった。

「おぉっ、ひでエ!るぅいっ、類くぅーん」

 慌てた日向は小刻みにドアをノックしている。そんな二人のやり取りを見ていた人物がすぐ近くにいた。近所のスーパーから帰って来た、類の母親のみのりだ。相変わらずの息子たちを微笑ましく思ってしまうが、本当はそろそろ、大人の言動を期待してもいるのである。

「あら、ヒナ君いらっしゃい。寄っていくでしょ?」

 笑いを堪えたみのりは、深呼吸してから声を掛けた。

「あっ、おばさん、こんにちは。お邪魔してもいいですか?」

 驚いた日向は、ごく普通の一般的な挨拶をした。日向がいつもの、振りの違うバージョンで挨拶してくれる、と期待していたみのりは、少し残念に思ってしまった。

「いいわよ、もちろん。さあどうぞ」

 みのりがドアを開けてくれたのでお礼を言い、玄関で靴を揃えると、急いで二階の類の部屋へ向かった。

「類、入るよ?」

 ノックをしてドアを開けようとした途端ドアが開いた。

「もっと面白く入って来いよ!」

 類がつまらなそうな顔をした。

「出たぁ、類の無茶ぶり~ぃ!一般バージョンで悪かった?まったくもーっ、糸川家の人たちは欲しがりなんだからぁ!」

 芸人のように、オーバーアクションで類を笑わせた。日向は小学生以来、糸川家を訪問する度に何かをやったり言ったりしていて、それがこの家では普通になってしまっている。なので時にする、一般的な挨拶をされると、一抹の寂しさがあるようだ。

「まあまあ。で、話って?」

 類が先に切り出した。類は日向が何を話したかったのか、とても気になっていたようだ。


 2.泰然


 類は日向と一緒に床に胡坐をかき、日向が体験した不思議な出来事を、じっくりと聴いてくれた。

 話の内容を咀嚼そしゃくしているのか、時々目を閉じたり頷いたりしている。彼なりに感じることもあったのだろう、話を最後まで聴くと、大きく息を吐き出した。そして、照れくさいのか、頭を掻きながら言った。

「とにかく、夢でも本当でも凄いことだと思うよ。誰もが体験できることじゃないよね。それに、なぜオレじゃなくて日向だったのかとか、細かいことを考えると切りがない」

(そうだ、なぜおれだったのか・・・)

「だけど、もしオレがそうなったら、気味が悪くてどうかしちゃうかもな」

 類は屈託の無い笑顔を見せた。

「うん。おれ、この話を他の誰かに言ったら、きっと頭がおかしくなったって思われるだろうね」

「かもな、って日向がバカだって皆知ってるし」

「バカって言うな!類だって・・・」

 話を聞いてもらい、日向の気持ちも軽くなってきた。

「あっ、あれ。懐かしいなぁ」

 日向の視線は、コルクボードに貼られた一枚の写真に釘付けになっていた。

「チョット!あの写真、ずっと前から貼ってありましたが日向君?」

 確かに類の言う通りだ4、5年前から貼られている。あれは小学6年の時、ピッチャーとして初登板した日の日向と、一塁手の類が肩を組み笑顔で写っている。対戦相手がどこのチームだったか忘れてしまったけれど、記憶の中では、とても良い思いでとして残っている。

「あの写真、日向からもらったんだよな。試合を見に来てくれた、日向のお爺さんが撮ってくれたとかって」

(ああ、そうだったな。爺ちゃんが記念に、って撮ってくれたんだ。おれは、アルバムに貼ってしまってあるけど・・・)

 きちんと整理され飾り気の無い類の部屋も、今日は何だか知らないけれど懐かしく感じられた。

「さてと、帰るかな。サンキュ!類」

「おぅ、寄り道しないで気をつけて帰れよ」

 日向は立ち上がると、いつものように挨拶をして自宅へと帰って行った。


 その日の夜、日向は夢を見た。フワフワして引力があるような、ないような所を走っていた。周囲は何もなく、例えるなら雲の上を走っている感じだ。時々、その柔らかさで足を取られそうになる。それに、どんな理由があってそんな足場の悪い所を、一生懸命に走っているのかが分からなかった。

(何やってんだろ、おれは!)

 訳も分からなく走っている。そんな自分に腹立たしくなり、ムシャクシャして、とうとう立ち止まった。すると今までと景色が一変して霧に包まれてしまった。

(おいおい、やめてくれよぉ。おれ、心細くなっちゃうタイプだよ?それに、こんな所に崖でもあったら、また落ちるだろ?)

 思った瞬間やっぱり落ちた。しかし、今度は凄くゆっくりと、まるで木の葉が落ちるようにヒラヒラ落下した。

「うっそー!おれ、こーゆーのキライなんだからーっ」

 どのくらいの時間落ちるのかと思うくらい、多分そのくらい落ちて行った。そして、今度は誰かにキャッチされた。

「またおまえか!?今度は何の用だ?」

 祖父の勇がニコニコと微笑んでいる。

「爺ちゃん何で?分かんないよ!おれ、本当に分かんないんだからっ」

 日向は駄々っ子のように手足をバタつかせた。

「なた・・・ひなた・・・」

(また、誰かに呼ばれてる。今度は・・・えっ父さん?)

 目を開けると、父の陽一よういちが居た。

「バタバタ音がするって、母さんが言うから見に来たんだよ」

(おれ、本当にバタバタした?)

「寝ぼけたのか?それとも、ベッドから落ちて、溺れた夢でも見のか?」

「ははっ、そうかも知れない。ゴメン!」

 笑うしかなかった。日向がベッドに戻ると、父も安心して部屋から出て行った。

(おれ、本当に疲れてんだよな?)

 神経が興奮したせいか、しばらくは眠りに落ちることが出来なかった。しかし、夜の帳から白々とした朝の気配に移る前には、ぐっすりと眠っていた。そして、すっかり明るくなり、朝日に満ちる頃にまた夢を見た。小さな公園で、子どもたちが楽しそうに遊んでいる。

(あぁ、あの公園じゃん?ん、あの子だ!)

「一緒に遊ぼうよ」

 あのおかっぱ頭の子が、走って近づいて来た。

「うん、いいよ。何して遊ぶ?ねえ、ちょっと気になるんだけど、君は男の子?それとも・・・」

 尋ねるとその子はキャッキャッと笑った。

「僕は男だよ。ねえ、日向は何が知りたかったの?」

 日向は驚いて飛び起きた。心臓が早鐘のように鳴っている。

(えーっ、何であの子がおれの名前を知ってんだぁ・・・?てか、おれ、夢見が悪うぅ)

 昨日、頭に作ったコブをなでながら、日向はぼんやりとしていた。


 しばらくするとドアがノックされたが早いか、母の泉が入って来た。

「おはよう日向、今日も練習日でしょ!?何回起こしたら起きるのよ!」

 日向は枕元の置き時計を取った。もう7時を10分過ぎている。

「やばー!」

 母には6時半に起こすように言ってあったのだ。慌てて布団を跳ね除け、洗面所に走って行った。

「こっちは休みなんだから。一人で起きて当たり前だよね?」

 泉の文句に、今日は耳を貸さないことにした日向であった。洗面と歯磨きを済ませると、キッチンの冷蔵庫を開けてエナジードリンクを取り出し、立ったまま飲み始めた。リビングでは陽一が新聞を広げている。

「遅いぞ、日向。相変わらず小学生みたいな生活だな、しっかりしろよ。」

 父が声を掛けてきた。

「おはよう!父さんのその言い方は、小学生に失礼らしいよ?」

 飲み終わった空き缶を缶入れに放り込むと、リビングの父に言った。

「はいはい、屁理屈は要らない!さっさと支度しなさい」

 キッチンに戻って来た泉が割って入る。

「お父さん、日向には小学生みたいじゃなくて、並か以下って言わなきゃ・・・」

 母の小言は文句以上、更に気にしないようにしている日向である。小さな頃から「どんな逆境でも前向きな思考でいられるように」と云われ続けてきたので、実際に何を言われても、動じなくなってきていた。つまり、神経が太くなったとも言えるだろう。序に、家族間の会話については「ボケとツッコミ」の延長線上か、同じようなものだと捉えている節もあるようだ。

「あっ、そうそう。さっき、陽日はるひからメールが来て、今日帰って来るって」

 夏休みに帰って来なかった娘が帰宅する、泉はちょっと嬉しそうに言った。陽日は日向の4つ上の姉で、東京の大学に進学している。

「そうか。じゃ、今日は焼肉にしようか?」

 父は急に機嫌が良くなったようだ。

「ヤッター焼肉!」

 日向が喜ぶと、母のゲンコツが落ちてきた。

「ちょっと、アナタは練習へ行くんでしょ?」

 そうなのだ。日向は大好物の焼肉のことで、しばし練習へ行くことを忘れてしまいそうになっていた。

「どうしようもないよね。子どもで・・・」

 母の小言を背に、バッグを背負うと玄関へ走って行った。

「行ってきまーす!」

 日向の自宅はマンションの5階にある。玄関を出てエレベーターホールまで来ると、日曜ということもあって誰もいなかった。いつもなら学校へ行く子どもや、仕事に出かける大人たちがいたりするのだ。下へ行くボタンを押して少し待つとエレベーターが止まり、扉が開いても誰も乗ってはいなかった。日向の乗ったエレベーターは、途中の階で止まることなく1階まで下りてきた。

「はあぁ」とだるそうに溜息をつき降りると、目の前には類が立っていた。

「おおっ、おはよ。びっくりしたぁ、もしかしてスゴク待たせた??」

「おはよう。おまえ、休むかもって思ったから、早めに来ただけだよ」

「そっか、ありがとな。迷惑かけちゃって」

 マンションの自転車置き場に行くまでの短い間、日向は陽日が帰ってくることを類に話した。

「へえー。夏休中、バイトで忙しくて帰って来なかったから、今日から本当の夏休みとか?」

「でもないらしいけどね、親に甘えに来るんじゃない?」

「ふーん、ハルちゃんも忙しいんだな」

 自転車に乗りながら、類は関心していた。少なからず、類は陽日に淡い恋心を抱いているようだ。

「じゃねぇ日向!もう7時半過ぎてっぞ」

 学校まで自転車で20分はかかる。ほんわかムードを断ち切って、二人はスピードを上げて走っていった。


「おはよー!」

「オッス!早く準備しろよ」

「グラウンド整備は何班だった?」

「3班だよ」

「先に行くぞ」

 部室は、グラウンドに出て行く部員たちで混雑していた。素早く着替えを終え、二人が走って行くと、既に練習開始を待つだけの状態になっていた。

「おはよう。やっぱりサッカー部がいないと、このグラウンドも広いな」

 榊原は清々しそうに言った。今日はサッカー部が練習試合でいない。狭い校庭で両方の部活がある日は、お互いのボールが転がり込んで来るのも常である。

「そうだな。お互い、そう思っているんだろな」

 篠原が応えると日向が頷いて言った。

「ウンウン、おれなんか、ヒット打たれたら困るって思って投げたりしてるし」

「えーっ?」

 榊原と篠原がハモった。

「だって、打球が仕切りのフェンス越えて、あっちの誰かをケガさせたら困るじゃん?ハラハラコンビはそう思わない?」

 マジメに日向が言っていると、変顔をした類がツンツンと背中を突いた。

「あのー、日向君?おれ様?」

「だあーーーっ!」

 叫んだ日向は類を追いかけ回して走っている。そんな2年生たちを取り巻いていた1年生たちは、ちょっとしたコントを見ているような感じで、面白がって笑ている。

「はい、コント終了!」

 パンパンと手を打って、監督が準備運動を始めるように言った。それからは、黙々と午前中のメニューをこなしていった。春の選抜をかけた秋季大会は、始まっているが、日向たちの光陽高校は、次の日曜日に試合がある。じっくりと練習が出来るのは、今日と試合前日の土曜だけとなった。昼休憩を終えた午後からは、ポジション別の練習で、日向を含めた3人の投手陣は投球練習に入った。

「いいぞ!小堺、ストレートはしっかり伸びてるし、カーブのコースも決まってるぞ」

 キャッチャーを座らせての練習には熱が入る。新しい相棒の杉下は積極的に声を掛けてくれる上、監督もそんな杉下のリードと、強肩を信用している。シビアなコースを攻めさせたり、球種の投げ分けの工夫などもしている。杉下の少し大胆なリードも、日向のコントロールの良さと相まって冴えているようだ。

「よーしッ小堺、シュートをここに投げてみろ!」

 杉下は右打者に対しての、内角低めに構えている。コクリと頷いた日向は、ボールの握りを今一度確かめて投げた。しかし、構えたミットよりも高めに、そして少し内側に入った。

「はい、ホームラン!打たれていい所なんか要求してないよぉ。もう1回いってみよーかぁ」

 ボールが要求通りに来なかったり、真ん中に入った時に杉下は言う。

(へ!?そういうトコがムカつくんですけど、す・ぎ・し・た・あ!!)いつもより指先に少し力が入ったが、ボールは小気味良い音でミットに吸い込まれた。

「ナイス!!グッと来たぜ。小堺、コレコレ!あの場面でコレを使ってたらなぁ・・・」

(って、声が大きい!オマケに心の傷に塩塗るなって!)

 日向は苦笑するしなかった。投球練習が終わり、クールダウンに入ると杉下は、日向に小声で言ってきた。

「なあ、小堺。夏のあの試合の時、もっと強気で攻めようと思わなかったのか?」

「何で今頃?それは思ったさ。でも、要求された所と球種が、というよりも杉下!おまえってヤツは、デリカシーの欠片ってものが無いのかよ?おれだって、心のキズってもんがあるんだよッ」

 周囲に聞き取れないくらいに、声を潜めていた日向が、杉下を羽交い絞めにして、ゲンコツで杉下の頭をグリグリした。

「ああ~っ、やめれ~ぇ、オマエも一応傷つくことが分かったからぁ」

 そう言いながら、杉下は体をくねらせると、日向から上手く逃れた。

「当たり前だろ。おれだって、悔しいし情けなくて、自分が許せなかったんだよ。思い出させるなよぉー」

 低めの声で、ムスっとした日向に、杉下は笑顔を向けた。

「おまえ、やっぱりスゲーやつだな。糸川!おい糸川っ」

 何に関心したのか急に大声で、離れた場所でストレッチをしている類を呼んだ。

「何だよ、ストレッチくらいマジメにやれよ。まったく、オマエたちはいいコンビだな!」

「ちょ、マジメにやってんですけど?糸川のその言葉、褒め言葉としておいてあげるからね」

 何か下心アリアリな杉下がニャついている。

「ほら、監督が見てんぞ!」

「ヤベっ」

 杉下は監督に向かって、ペコリと頭を下げた。監督はたまたま、杉下の方を見ただけだったのか、何も言わなかった。一日のメニューの全て終わり、帰りのミーティングで、監督が全体的な仕上がりを褒め、そして今度の試合では、1年の木村を先発で出すと言った。部員たちはざわついたが、日向はなんとなくであるが納得していた。日向と同じく、ジュニア上がりのサウスポーで、2種類のカーブを投げる技巧派でもある。監督も経験値を積ませる為に、実戦での使い所を探っていたようだ。

「気持ちを一つに!」

 キャプテン篠原の掛け声に、全員でオー!と応えて解散になった。戻り際、杉下は日向の肩をポンポンと、軽く叩いた。彼なりの優しさなのか、気を落とすなという意味だろう。特に気にもしていなかった日向は、ちょっと照れくさく感じた。去年の夏、先輩の投手が、ケガで投げられなくなってから、公式戦では、日向が毎試合一人で投げてきた。しかし、春に新入部員が入った時、これからは誰かと一緒に投げるのだろう、と漠然と思うようになっていたのだ。そして、その思いが現実になるのだ。

(おれは、一人でよりも皆で戦いたかったから、これでいいんだよね)

 自分自身の思いを確かめる日向だった。


「日向、君はそれで良かったの?」

 突然、日向の頭の中に声が響いた。

「えっ?」と思わず口から出た声が大きく、着替えをしていた周囲の部員たちは驚いた。

「どうした?何かしたのか?」

 田中が日向の顔を覗き込んだ。

「ゴメン、何でもない、何でもないから」

 慌てた様子の日向に、分かったように心配するな、と杉下が言うと、それを見ていた太田が「杉下偉い」と囃したてた。また、いつものバカ騒ぎが起こるのかと思った時、マネージャーの飯田彩乃が、日向と木村の二人を呼びに来た。

「監督が呼んでますよ、監督室まで来て欲しいそうです」

 監督室とは通称で、渡り廊下で繋がった部室棟の、校舎側にある準備室をそう呼んでいる。日向は、部室を出て10メートルにも満たない距離を、初めて木村と二人だけで歩いた。木村は緊張しているのか、表情が強張っているようにも見えた。

「緊張してる?ゼンゼン大丈夫だよ、っておれが言っても余計に緊張したり?」

 冗談めかして言ってみた日向だが、本当は彼自身も少し緊張している。ノックをして「小堺と木村来ました」とドアを開けて入って行くと、監督は奥にあるパイプ椅子に腰掛けていた。監督はゆっくりと立ち上がると、二人を前に次の対戦相手の打線について、攻略ポイントを細かくホワイトボードに書き込みながら解説した。

「・・・という訳だが、相手が強豪校とあっては、こちらもそれなりの戦い方で、オーダーも変えなくてはならんからな。以上だ」

「はい!分かりました」

 意外にも、素直に返事をしたのは日向であった。木村は返事をしそびれ、頷いただけだった。二人は挨拶をして部屋を出ると、木村が不安そうに言った。

「先輩はいいんですか?」

「え?いいも何も、だって監督の方針っしょ。木村、もしかしてヘンに気を遣ってるんじゃないだろね?おれ怒るよ?」

「そ、そんなぁ。先輩に迷惑掛けたら、って思うと・・・」

「いいじゃん、そんなの。別に迷惑だなんて思わないし」

 心の内を正直に言えた自分が、少しは進歩したかなと思う日向だった。

「お疲れしたぁーーー!」

 解散となり、部員がそれぞれ自宅の方向へと帰って行く。

「おーい日向ぁ、長野とお好み焼き食いに行くけど一緒に行くか?多胡屋だけど」

 少し離れた所から類が大声で呼んだ。日向は両手でバツをして、手を振って帰ることを示した。

「何だアイツ、今日は一人反省会か?友樹はどう思う?」

 同意を求めるような視線を長野に送ると、口数の少ない長野は「それはないだろ」とひとこと言った。一方の日向は、自転車に乗ると一路自宅へと急いだ。今夜は焼肉というフレーズよりも、頭の中に響いたあの声が気になっていたのだ。いつもは耳にしない、だけど温かみのある優しい声が。


「ただいまぁ」玄関に入ると姉の靴が揃えてあり、家の中にもどこか華やいだ雰囲気が漂っている。陽日が帰宅している時の、花が咲いたような明るい感じが日向は好きだ。

「姉ちゃん帰って来てるっしょ?お帰りぃ」

 玄関で声を張り上げた。しかし、どの部屋からも姉の声が返ってこない。それどころか、両親の声もしない。日向はバッグを廊下に投げ出すとリビングに行き、丁度ソファに腰掛けた時に玄関が騒がしくなった。

「あら、日向帰ってる!」

 姉の声に、それはそうでしょうよ、自宅なんだからと、ちょっとやさぐれ気味の感情が、こみ上げてくるのを感じた日向だった。

「ただいま、お帰り」と口々に言いながら姉と両親が賑やかに戻って来た。

「お帰り、三人ともどこ行ってた?」

「スーパーよ」

「ほーら日向、お肉よ」

「つーたく!おれは獣か?」

 その晩は家族で焼肉パーティーとなった。日向にとって姉に甘い父のおかげで、大好物にありつけるのはありがたかった。

「ところで日向、勉強してるの?中間試験のシーズンになるでしょ」

 不意打ち的に姉が言う。

「再来週からだよ。だけど、その前に秋季大会の試合があるからね」

「へぇ、どことやるの?」

「夏に甲子園に行った、東高だよな?あそこは凄い投手がいるんだよ。おまけに打線も強力だし、絶対に東高が勝つな」

 ニヤニヤ顔の陽一が言った。

「ちょっと、お父さんはどっちの味方なの?」

 母の泉が文句を言うと、父は日向の光陽高が弱すぎるから、応援のし甲斐がないと言ってのけた。

「あーーーっ、ショック!!ひでぇ、父さん」

 日向が非難すると、更に「打たれても仕方がないから諦めろ」と言った。

「まったく酷いよね?息子がピッチャーだというのに」

 母と姉は口々に抗議した。

「だけど元はと言えば、日向が類君と同じ高校にするって、言ったからだぞ?」

 確かにそうかも知れない。実は、中学時代の日向の所には、東校のスカウトが何回か来ていたのだ。両者は良い関係だったので、周囲は日向が東校へ進学するものだと思っていた。だが、日向が光陽高校を進学先に選んだので、もう一人の速球派で知られた種田浩次が東高へと進学した。丁度その頃、光陽高校では社会人野球で知られた現監督、兵頭啓太が着任したばかりであった。歴史的には浅い学校だが、伸び代は計り知れないと言われている。

「まあ、確かに強豪校だと応援し甲斐があるかもしれないけど、部員数多いし、埋もれてしまう可能性大だよね。特に日向なんかズブズブに埋もれ込んで、芽なんか出ないで、手も足も出なかったかも知れないじゃない?」

「姉ちゃんヒデェー、でも本当にそーだったかも」

「日向は光陽で良かった、ってこと?」

「だろ?でなけりゃとっくに野球部辞めてる筈だよ。なっ、日向」

「うーん、部員数少ないから、自由って言えば自由にやらせてもらってるから不満はないよ。強豪校でなくて、かえって良かったのかもね」

「ふぅん、アグレッシブさがちょっと足りない気もするけど。きっと、良いチームなんでしょね」

 陽日は、いつまでも小学生みたいな弟の日向が、精神的にちょっとだけに大人に近づいたのかなと思った。

「あっ、そうそう。いつも言ってるけど、バッグは脱衣所に持って行く!分かってるでしょ日向?」

 母の小言を聴くと、以前と変わらない日向がいるのも、好ましく思えてしまう陽日であった。


 夜の11時を過ぎて、中間試験範囲の復習と、明日の予習を終えた日向は、風呂から上がるとリビングで牛乳を飲んでいた。

「何だかそんな格好って、オッサンよね」

 リビングを覗き込んだ陽日が言った。

「姉ちゃん、風呂は?」

「入ったわよ。汚くなる前にね」

「おれって汚物扱い?」

「でしょ!?綺麗な訳がない」

「そっか・・・じゃない。姉ちゃん手相診れるって言ってたよね?」

「うん、先輩に教えてもらったからね。診て欲しい?鑑定料高いよぉ」

「出世払いで!」

「いやー、それはないから」

 姉は手をパタパタ振った。大学のサークルの先輩の実家が、鑑定を生業としているとかで、親しい仲の陽日は少し教えてもらったという。ソファに座った陽日は、日向を隣に座らせると両手を出させた。

「無骨な手ね」

「むむっ、仕方ないだろ、ボールを投げたりバットで打ったりしてるんだから」

 線をなぞるように見て、フンフンと頷いた陽日は、特別に問題はないから言うことはない、と簡単に言った。

「えーっ、無いって?ちゃんと鑑定したの?見た?てか、マジ出来る?」

「うん。試合の勝ち負けは占えないからね」

「って、それかよ」

「本当に、特にはないわよ?だって今、全体的に充実しているようだし。そうね、強いて言えば」

「強いて言えば?」

「うん、私もビックリ新発見!」

 日向はまた、姉が変なことでも言い出すのかと思ったが違った。

「ここね、コレ、ちょっと指を曲げてみて」

 姉が言うように、日向は指をちょっと曲げた。

「ほら、アーモンド型の島が出来るでしょ?これって一部の人が言ってるけど、仏眼ぶつがんっていうらしいの」

「仏眼?」

「うん。ちょっとオカルトチックだけどね、見える人がそれを持っている割合が高いらしいのよね。私は信じていないけどね」

「え~~~っ!!」

「シーツ!お母さんたち起きちゃうじゃない、静かに!」

「おれ、見えちゃったり?どうしようホントに・・・おれ」

 余りにも突飛な指摘だったので驚いた。しかし、あの出来事といい不思議なことが、自分の身に起こったのは確かだ。

「どうしようって?ちょっと日向、アンタ本当に見たとか?」

 姉に尋ねられた日向は首を縦に振った。多分、あの子はこの世に生きている子ではない。

「どんな?・・・」

「あのね、父さんや母さん、他の人には内緒にしてあるんだ。おれと類だけが知ってることだけど」

 それから日向は、昨日あった出来事と、今朝の夢の話と部活終わりの話を全部姉に話した。

「話を聞いてくれてありがとう、もしかして全部が夢だったりするかも。やっぱり、おれって変?」

 心配そうに上目づかいで姉を見つめる弟に、陽日は掛ける言葉が、しばし見つからなかった。

「・・・・・う、ううん。かも知れないけど・・・分からない。でも・・・私も見たい、見てみたい」

 姉の反応は、日向の予想の範囲内だった。好奇心溢れる姉が、そう言い出すだろうと感じていたのだ。

「姉ちゃん、見たいって言っても、姉ちゃんが見えるか分からないだろ?」

「それはそうだけど・・・。うん、でも見たいから明日教えてくれる?子どものいる公園」

「いいよ。もちろん、学校が終わってからだけど」

 日向は学校帰りに、姉と一緒に公園へ行く約束をして自分の部屋に戻って行った。陽日は改めて、弟の立位置を考えるに至った。何の努力もしないで行ける高校を志願しないで、無名に近い学校へ親友と進み、この夏に初のベスト4へと導いた。もちろん、それはチームの力量と支えがあってのことだ。プレッシャーとストレスまみれで、精神的におかしくなったとも考えられないこともない。

(アイツ、やっぱり変?だったり・・・あーっ、考えるのやーめたっ!眠れなくなっちゃうわ)

 陽日も休むために、リビングの照明を消して部屋に戻った。その晩は、日向も陽日も何事もなくぐっすりと眠れた。


 朝になり、普段と変わりない時間が始まった。陽一は会社へ、泉はパート、日向は学校へと出かけて行った。ひとり残った陽日は、ぼんやりと朝のテレビ番組を眺めていた。顔はテレビに向いていても、頭の中では昨晩の日向の話でいっぱいになっている。今まで他人事だと思っていたことが、本当にあることだと少し実感出来たけれど、どうして弟が不思議体験をすることになったのか、そのヒントが掴めないでいた。そんな時、テレビの画面にある神社の映像が流れた。それは、杉林に囲まれた荘厳な社殿からカメラが引くと、その上空へと画面が移っていった。神々しさを感じさせるシーンだが、陽日には日向が堕ちた場所が再現されたように思えた。

(神社!そうよ、神社だわ。つまり、恐れ多くも神様の領域に入り込んじゃったのよね)

 陽日はその考えに辿り着いた。そうなると、少しでも早く日向に知らせたくてウズウズしだした。

「はぁーっ、まだ時間ありありじゃない」と、ひとりごとを言ってハッとした。それは、今は存在しない神社はどこに移されたのか。陽日は早速パソコンを開き、光輪山周辺の神社を検索してみたところ1件だけヒットした。

「うそーっ。ここ知ってる・・・」

 意外にも、その神社は陽日の親友の実家だった。陽日はスマホを手に取ると直ぐに電話を掛けた。

「もしもし、カガミン?今、大丈夫?・・・うん、分かった。後でね」

 電話の相手は松下神社しょうかじんじゃの子で、名前を松下鏡子まつした きょうこといい、ニックネームがカガミンという。彼女の父は神社の神主で、彼女は実家で巫女をやっている。小さな神社ながら、この地域の氏神様を祀り参詣者もそれなりにある。丁度この時期は七五三に向けて、氏子さんたちと千歳飴の袋詰め作業があり、今日の午前中がその日だと言った。神社のある場所は例の公園から程近い住宅街にある。鏡子からの連絡を待つ間、陽日は家中の部屋に掃除機を掛けたり、母が洗濯するつもりで置いてあったシーツを洗ったりしていた。やがて昼になる頃になって、鏡子から連絡があった。

「ごめんね、やっと終わったの」

「いえいえこちらこそ、忙しい時に電話しちゃってごめんね」

 それから陽日は、松下神社が昔から今の場所にあったのかと尋ねてみた。鏡子は分からないので、神主である父に聴いてくれると約束してくれた。

「どうしたの急に?ウチの神社に興味持ってくれて」

「うーん、ちょっと知りたくなった、って変かな?お稲荷さんだったよね?お願いに行っちゃおうかしら」

 本当のことが言えない陽日は、適当に言葉を濁してしまった。

「そうよ、神様の御遣いがお狐様よ、是非おいでになって。でも何か、差し迫ってお願いすることなんてあるの?」

「もちろんあるわよ。弟の学校の初戦突破とかだけど」

「ああ、弟さんは野球をやっているのよね?いいと思うわ」

 鏡子は日向に頑張るように伝えて欲しい、と言って電話を切った。

(お狐さんなのね・・・!?それって、日向が化かされたってこと?まさか、この科学が進んだ世界でそんなのあり得ないよ)

 考えると、余計に何がなんだか分からない状況だ。陽日は非科学的な、呪いや祟りなども考えないといけないかも知れない、とその時は思った。陽日は洗濯物を畳み、細かな家事をしてから家を出た。ゆっくりと自転車を漕いで行くけば、約束の時間くらいには着く予定だが、急がないつもりでも、はやる気持ちがスピードを上げてしまうようだ。光陽高校の校舎が見えてきたあたりで、反対側から一台の自転車が近づいて来ると、乗っている人物が大声を上げた。

「おーい、姉ちゃんそこ曲がって!」

(ちょっとぉ、人前で恥ずかしいってば!んもーっ、だからあの子って、彼女いない歴17年なのよね!)

 恥ずかしいと思いながら、陽日は角を曲がると、直ぐに日向が並走してきた。

「やっぱり姉ちゃん、勘がいいね!」

 何事もなかったように日向は言う。

「何がよ、まったく恥ずかしいと思わないの?大声出して」

「べーつに?だっていつも大声出してるし」

(あー、ダメだこりゃ)

 陽日は、弟に期待していた何かが壊れた気がした。

「本当にタイミング良くて助かったよ。でないと、ここまで戻らなくっちゃならなかったし」

「そう?もっと学校よりの所を、曲がっても大丈夫じゃない?」

「行けないことはないけど、道は狭いし何回も曲がらないと」

 この辺りの土地に疎い陽日は、頷くしかなかった。

「ほら、あそこ!大きな木が見えるしょ?あそこが公園」

 山を背に、ランドマークのような大きな楠の木が見える。

「立派な楠の木ね」

 段々と近づくにつれて、その大きさが分かる。もう、ずっと昔からこの地に根ざし、人々の営みを見てきた木だろう。公園に着くと、自転車に鍵を掛け楠に近づいて行った。その幹は3,4人の大人が手を繋いで伸ばしたくらいの太さがある立派な木だ。初めて来た公園の、楠の大木に気を取られていたことから我に返ると、陽日は弟に例の子がいるのか尋ねた。

「ううん、居ない。ほら、今日はもう小さい子たちが家に帰ってる時間だから、かな?」

「うーん残念ね。小さな子たちとしか遊ばないのね」

 そう言いながら陽日が大楠の幹を触った瞬間、彼女の手のひらに強い痺れがあり、思わず手を引っ込め見つめた。

「どうした?」

「ビリってした」

「もしかして、電気虫を潰しちゃったとか?」

 日向の問いに姉は首を振った。無意識で触ろうとしても、毛虫が視界に入れば触ることはない。その上、天気はいいので落雷での感電も考え難い状況だ。

「ねえ、日向も触ってみたら?」

 姉から言われ、男として手を出さない訳にはいかない。本当はちょっと怖くて、触りたくないと思っていた日向は、勇気を出して思い切ってその幹を触ってみた。しかし、日向が触っても、ゴツゴツとした樹皮の感触の他は、何の刺激もなかった。

「何だったの?私が触ったらいけなかったとか?」

 陽日はそう言ったものの、また触るという行動に出た。日向は止めようとしたが、咄嗟に声が出なかった。陽日は楠の幹に手を触れながら、てっぺんまでゆっくりと仰ぎ見ると、にこりと微笑んで、独り言のようにブツブツと言い出した。

「ああ、そうなんだ私・・・そう、知ってる?うん・・・だね」

「姉ちゃん?」

 もしかして大変なことが、姉の身の上に起こっているのかも知れない。そう思うと日向は、気が気でならなかった。

「ねえ、姉ちゃん大丈夫?」

 心配する日向の声に、振り向いた陽日は笑った。

「うん、ぜーんぜん大丈夫だよ。私ね、知ってたよ」

「はあ?」

 ここで話すと不審者極まりないから、と陽日は言った。何だかしっくり来ない日向だったが、二人は揃って自転車に乗り、自宅に帰ることにした。途中、陽日は松下神社のことと、友人がその神社の子で、成り立ちなどを調べてくれることを日向に伝えた。

「神社にはいつ行くの?おれ、明日からは練習ビッチリで行けないから」

 コップを持った日向は、冷蔵庫から牛乳パックを出すと足で冷蔵庫のドアを閉めるた。

「私一人で行ってくるわ」

「ふーん。で、公園での話は?」

 日向は姉の横に座ると、コップをテーブルに置き、牛乳パックを開けた。

「あー、それはね、思い出したのよ」

「思い出したって、何を?」

 日向はコップの存在を忘れてしまったのか、パックに口をつけるとゴクゴクとそのまま飲んでしまっている。

「ちょ、日向!何それ。コップを使いなさいよ」

 姉の非難を他所に、とうとう1リットルの牛乳は飲み干されてしまった。

「ただいまー」

 泉がスーパーの袋を手に、仕事から帰って来た。

「おかえりなさい。お母さん、日向が牛乳全部飲んじゃったよ」

「まあっ、あるからと思って買ってこなかったじゃない。明日、日向が牛乳買ってきてね!」

「そうだ、そうだ!」

 母の帰宅もあり、囃したてる姉からは、聞きたいことが聞けなかった。仕方ないので、日向は夕食前に少し勉強でもしようと、自分の部屋に退散した。制服をハンガーに掛け、ジャージに着替えると、教科書とノートを出して机に向かった。ところが、今積み置いた教科書の一番上に、一枚の葉が載っていたのに気がついた。

(あれ?カバンの中に入り込んでたのかな)

 その時はただ、そう思うだけで別に不思議だとは思わなかった。教科書とノートを開き、中間試験に出題されそうな箇所をピックアップして見直す作業をした。教師によっては「重要」と言って試験に出すアピールをしてくれたりするが、意地悪?な教師の場合、ざわついたりして授業に集中出来なかった日の、授業内容を試験に出したということがあるらしい。でもそれは、本当かどうかは分からないが、ただ本当に重要な内容だったのかもしれない。日向の場合は理数系は得意なので、苦手な文系に力を入れなくてはならなかった。それから2時間ほど経った時に、母が夕食の仕度が出来たから、と呼びに来てくれた。日向の家庭も家族全員が揃うと、食卓も賑やかになる。陽日が全部食べきれないから、と自分の皿からエビフライを1本、父の皿へと移した。満足げな父は、美味しそうにビールを喉に流し込んだ。

(姉ちゃんは、父さんの扱いのああいうトコがウマイんだな。おれ、ムリだし)

 日向の心の声が聞こえたのか、姉が日向を見てニャリとしたのでびっくりした。

「ごちそうさまでした」

「ウマかったぁ、ごちそうさま」


 今夜は、家族が盛り上がる話も特になかったので、食後はそれぞれテレビを観たりしていた。もちろん日向は、試験勉強をしなくてはならなかったので自室に戻った。学校が創設されてから続いている、決まりごとでもあるが、運動部員でも一定の成績を取っていないと、部員資格を失うことになってしまうのだ。

(さて、次は大嫌いな古文だな)

 地味な色の教科書は、重ねた教科書の3番目にあった。それを引き抜いて、今日の授業でのページを開いた時に、あたかも栞のように一枚の葉が挟まっていたので、日向は一瞬凍りついた。

(うわっ・・・何だろ、この趣味の悪い驚かせ方。ビックリしちゃったじゃないか)

 その葉を手に取ると、微かに楠の匂いがした。姉が仕組んだとしたら、ずいぶんと手の込んだことだ。しかし、帰宅してから姉はこの部屋には入ってはいないはずだ。では、誰が?

「驚いた?驚いたならごめんね」

 あの声が頭に響いてきた。日向は、勉強をするどころではなくなってしまった。部屋中を見回すとベッドの脇がポッと柔らかく光り、おかっぱ頭の男の子が現れた。

「おーっと、ビックリ!」

 男の子はにっこりすると、今度は言葉を発した。

「日向って、鈍感だよね?」

「ちょっと、それどういう意味?」

 色々と他人からは、鈍感扱いされたことはあるけれど、こんな子どもから言われたくないと思った。

「僕ね、君よりも年上なんだけど」

(心を読まれた?)

 男の子はコクリと頷いた。

「ひえぇぇぇぇ、勘弁してよぉ」

 思わず手を合わせてお願いした。

「うむ、そちの願い聴いてつかわす」

「えっ?えーーーっ、なにぃ、何?」

 男の子の姿は洋服から、古式ゆかしい水干姿に変わっていた。

「われ、永らくこの地を守うておる。おぬしたちが申すところの神じゃ。苦しゅうない、いつものようにいたせ」

「ゴメンなさい、スミマセン、すみません。・・・あっ、あのー、神様?神様って全員が子どもの姿してるの?じゃない、していらっしゃるのでしょうか」

「否、好みで童の姿をしておるが、おかしいか?わが名は・・・・命と申す」

 日向は慌てて首を振り、焦った挙句に神様の名前を聞き漏らしてしまった。しまったと思っても、訊き直すのは失礼だと思い、せめてキチンとしようと床に正座をした。

「日向、入るわよ」

 ちょうどその時、姉がノックして部屋に入って来た。陽日は、日向が床に正座しているのを見て、不思議そうな顔をした。

「アンタ何やってるの?」

「何って、ほら」

 慌てて、ベッド脇に立っている、何とかの命という神様を指さした。しかし、陽日には見えていないようだ。

「だから何?何かいるの?」

 陽日は神様に近づくと、一生懸命に見ようとしたが、どうにも見えないようだ。腕組みをして口を尖らせ、完全に疑いの表情をしている。

「神様!何とかの命さま、姉ちゃんにも見えるように、じゃない、お姿を現し下さい!」

 すると神様は、童の姿で陽日の目の前に現れた。「うわっ」と声を上げた陽日は後ろにひっくり返ると、慌てて正座をして神様に深々と頭を下げた。

「苦しゅうない、面を上げよ」

 優しい声が頭上から降り注ぐと、彼女の心臓は高鳴り、それが静まるまで顔を上げられなかった。そして顔を上げた陽日に、神様はその頭に手をやり「大きくなったものじゃ」と微笑んだ。

「はい、お陰さまでこんなに大きくなりました」

「ってか、知り合いかい?」

 頭の周りに「?」マークを沢山つけているような日向に、姉は静かに言った。

「だから言ったでしょ?知ってたって。私が幼稚園の年中組の頃まで、あの近くに住んでいたのよ」

 日向にとっては、初めて聞くことだった。自分たちが小さかった頃、あの辺りのアパートに住んでいたこと。そして、母が日向をベビーカーに乗せ、その散歩の途中には、必ずあの公園に寄っていたことなど。

「思い出させて頂いたのよ、神様に・・・。引越しが決まった時、それがイヤで、私ひとりで公園に行って泣いたのよ。あの楠の所で」

 その時に、見知らぬおかっぱ頭の男の子が現れ、泣きじゃくっている陽日を、優しくなぐめてくれたという。

「そうなのか、ってことはだよ、でも何でおれが?って、もしかしておれ、神様が助けてくれたとか?」

 神さまは、ちょっと困った顔で頷いた。

「えーー、やっぱりぃ?なぜなぜ、どうして?うぉっ、イテっ」

 口の利き方が悪い、と陽日の肘鉄が日向のわき腹にクリーンヒットした。

「よいよい、争うことなかれ」

 童姿の神様は、戸惑いを見せながらも、日向の件は偶然の出来事だったと話した。かなり昔、光輪山は、山岳修験者の道場として開けた。当時はまだ、神社は創建されていなかったが、中腹には小さな祠が祀られるようになっていたようだ。修験者の厚い信仰と伴に、地元の人々の信仰心も集め、祠の傍らには楠も植えられ、時代と伴に成長していった。

 ところが、時代が進むと修験者の姿は消えて行き、祠の周辺は寂れるにまかせている状態になっていたようだ。地元の人々は、朽ち果てさせるのも惜しいと祠は麓に下ろし、神社の別社としてその境内に移すことにしたが、楠はそのまま山に残された。それからまもなく、地元有志たちにより、楠も山から現在の場所に移され、今に至ったという。

「なるほど・・・、でも神様はどうして神社じゃなくて、公園にいたの?」

「いたの、じゃなくて、おいでになられたでしょ?」

 再び陽日の肘鉄が襲うかと、身構えた日向だったが、その必要はなかった。陽日は神様の話に感激したのか、両手を合わせて聞き入っていた。

「それは、われが宿ることが出来る木なのだ」

「一緒に祀られていたからですね?」

「うむ、元居た所にも行ける。日向を助けることが出来た」

「あっ、ありがとうございます!お陰様でケガもなく、この通りです。ケガしてたら、試合には出られないもんね」

 日向の言葉に陽日も神様も頷いた。神様によると、山で寛いでいた時に、日向が落ちてきたので、木の枝や草でその体を受け止めたという。しかし、着地させた瞬間に、日向の魂が飛び出してしまった、と語った。

「おれ、ちょっとの間死んでたとか?」

「否、彷徨ったというのが正しい」

 つまり、完全に魂が抜けてしまえば、それは「死」である。しかし、一時的に抜け掛かった魂を、再び肉体に戻せば生き返る。日向の場合は後者であるが、祖父は既に死んであの世に居る。あの世とこの世は繋がっているので、たまに日向のように行く人間がいるというのだ。行って、そのまま逝きっぱなしになってしまう、という人間もいるらしい。日向がこの世に戻れたのは、祖父の深い愛情が日向の魂を包み、時間と空間を超え、その肉体に戻してくれたという。それを神様が、少し手伝ってくれたようだ。神域という特殊な場所での出来事で、運が良かったと言えよう。

「お爺ちゃんが・・・」

 陽日は、日向がお爺ちゃん子だったから助けてくれた、と涙をこぼした。

「われは、治むる地の不幸は好まん。さて、一つ約束して欲しいのだが」

「はい、なんなりと」

 わくわくする気持ちを抑えて、日向は言った。

「他言無用。そちたちも、たまには会いに来て欲しい。それに・・・」

「それに?」

「・・・狐ではないぞ」

「狐?」

 日向には、何のことか分からなかったが、陽日は顔を真っ赤にして、神様に謝った。

「ははは、善きに」

 神様は、再び現代の子どもの姿に戻ったかと思うと、フッとその姿を消した。日向の机の上にあった楠の葉も、手に取ることを拒むかのように消えてしまった。全てが、夢か幻だったように感じられたひと時だった。

「素敵な神様だったわね」

「うん、ちゃんとお参りしなくちゃいけないね」

「私、明日神社へ行って来るね。ちゃんと日向の分もお礼してくるから」

「うん、よろしく!」

 そして、その夜は姉弟に何事も無かったように更けていった。


 翌日、約束通り陽日は松下神社しょうか じんじゃへ向かった。石造りの鳥居をくぐり、参道を進んで行くと、錦鯉が優雅に泳ぐ池がある。池の括れた所には、朱色の太鼓橋が掛けられ、橋の真ん中辺りで、小さな子どもが母親と鯉に餌をくれていた。

(日向が見たら、おれもやる、って言うかもね)

 などと思いながら、先に進むと欅の鳥居があり、正面には本殿と拝殿がある。拝殿手前、左側に社務所があるので、鳥居をくぐり社務所を覗くと、巫女姿の鏡子が座っていた。陽日は鏡子に向かって手を振ると、気づいてにこりとした。拝殿を指差し、先にお参りすることをジェスチャーで伝えると、鏡子は頷いてどうぞという仕草をした。二礼二拍手、お願いをして一礼する参拝を終え、再び社務所に向かった。

「こんにちはハルちゃん。よくいらっしゃいました」

 社務所の窓から鏡子が声を掛けてきた。

「こんにちは、カガミン。今いいかな?」

「ええ、いいわ。今日は特別な事はないから、こちらにどうぞ」

 鏡子は陽日を招き入れてくれた。その丁寧な所作に関心しながら、陽日は思い切って訊くことにした。

「ねえカガミン、この神社って最初からここにあったの?」

「いえ、違うらしいわ。ほら、山の近くの公園あるでしょ?」

「大きな楠の木がある公園?」

 神様の話しを思い出して尋ねてみたが、その通りで安堵した。

「そうよ、もしかして知ってたとか?」

 反対に鏡子が訊いてきたので、陽日は少し驚いたが、神様の話と辻褄が合うので真実だと確信した。

「カンよ。この周辺で土地が空いているといえば、あの公園だけじゃない?だからそうかなって思ったのよ。でも、あの大木って御神木じゃなかったの?」

 陽日が確かめたかった核心的な所だ。

「詳しくは分からないけど、元々は大きな松があったらしいの。でも、火事か落雷で燃えちゃったみたい。それで、神社には御神木が必要だ、ということで、山にあった楠の木を移したようなの」

「松の代わりだったのね。ここにお社を移した時に、なぜ一緒に移さなかったの?」

「確かに、御神木としてずっとお祀りしていたらしいわ。だけど、その当時の偉い人が、松下は松でなくてはならない、って言い出して楠の木を置いて移った、ということらしいわ」

 鏡子にもその辺りの事情には、理解しかねるといった雰囲気だった。

「置き去りにされちゃったのね」

 ポツリと呟いた陽日に、不思議そうな顔をした鏡子だった。そして、この辺りの氏神様も引き取って、別社として境内に祀ってあると言った。

「えっ、そんなお社ってあったの?全然知らなかった」

 わざと、全く知らないふりをした陽日であった。実際、氏神様がどこに祀られているのか、その場所さえも知らなかった。それなら、ということで、鏡子は案内してくれると言ってくれ、二人で外に出た。綺麗に掃き清められた玉砂利を踏みながら、本殿の裏手に行くと、こじんまりとした社がポツンとあった。初めて見る社に、あの神様が祀られていると思うと、胸が熱くなるのを覚えた。

「思ったよりも、居心地がよさそうね」

 つい口をついて出た言葉だったが、陽日のそんな言葉に鏡子は同意してくれた。

「ねえカガミン、神社で雑に扱われている神様って、ないわよね?」

「ふふふっ、面白いこと言うのねハルちゃんは。もちろん、そんなことしたらバチが当たるわ」

 鏡子の言葉からも、どの神様も大切に扱われているようで、とても嬉しく思った。

「ハルちゃん、社務所でお茶しましょうよ」

「うん。私、お参りするから、カガミン先に行っててくれる?」

「ええ、先に行ってるわ」

 鏡子を先に行かせ、陽日は社の前に進み出ると、そっと声を出して神様に呼びかけてみた。

「神様、来ましたよ。昨日はどうもありがとうございました。日向は今度の試合、ガチ頑張るので応援して下さいと言ってました。応援宜しくお願いします」

「・・・・・・」

 さらさらと、風が木立を通り過ぎた音だけがした。

「ん?いらっしゃらないのかしら。ま、いいわ、頼みごとはしたから・・・」

 そして、陽日が帰ろうとした時にあの声が頭の中に響いた。

(あい分かった。われは、バチを与えることはせぬぞ)

「あっ、ありがとうございます!」

 やっぱり、聞いていてくれたと思うと嬉しかった。 陽日は社に向かって最敬礼をした。姿は見えなかったが、神様がにっこりと微笑んでいるような気がした。


 3.俄然


 日曜日、日向たち光陽高校が、県営球技場で秋季大会に臨む。顧問の内藤先生が運転するマイクロバスで、会場入りした部員たちの表情は明るかった。意外とも思えるが、移動するバスの中で、内藤先生が緊張を解す意味で「巨人に立ち向かうアリ」の例え話をしたのが、どういう訳か大いにウケてしまったからだ。バスから降りる時には「アリ軍団、心をひとつに!」の掛け声になり、気持ち的にリラックスできたようであった。バスから降りた日向は空を仰ぎ見た。

「良い天気だなあ」

 それを聞いていた2年生たちは「ジジ臭いこと言ってんな」「くつろぎ過ぎっしょ?」「お爺ちゃん、トイレはあっちだよ」などと言ったが、長野だけはひとこと「お互いに頑張ろうぜ」と言った。

「うん、みんな!頑張ろう」

 大きな声で言った日向に、類は「仮キャプテンの小堺でした」と付け加えたので全員で大笑いした。

「急いで用具運んじゃって下さい!」

 飯田マネージャーの声が掛かると、働きアリのように手際良く、部員たちは動き出した。そんな時に今日の対戦相手、東高の野球部員たちを乗せた大型バスが到着し、選手たちがゾロゾロと降りてきた。

「スゲエなぁ。みんな貫禄あって、誰が1軍か2軍か分かんないな」

 光陽の1年部員たちが驚いている。その中に、日向は見知った顔、種田を見つけた。懐かしさのあまり日向は手を振ると、種田は直ぐに気がついてくれた。

(今日、あいつ投げるのかな?対戦すんの楽しみだな)

 日向が思っていると、種田が近づいてきた。

「オッス!小堺。元気でやってるみたいだな」

 種田と直接話すのは中学を卒業して以来だ。

「チワっ。うーん、ホドホド?」

「相変わらずトボケたヤツだな、オマエは」

 種田は愉快そうに笑った。中学時代もよく笑いあった仲だ。

「おう、種田。1軍入りしたんだよな?」

 類が意地悪く、割って入って来た。

「うん、糸川も変わらんな」

「はははっ、そんな変わったら困るっしょ。ところで今日は、オマエが投げるんか?」

 類は意味ありげにニヤついた。すると種田は表情を固くして、分からないと言った。先発が誰か、ということを言いたくないのか、種田が先発なのを言えないのか、実際にその場で言われるまで分からないのか。

「ふーん、いいじゃん別に。おれ、投げるよ?」

 日向はいつもの顔で言っている。

「いいなあ、日向んとこは」

 種田の表情が少し曇った。

「大きいトコは、大きいトコの苦労、ってあんだよね?後から話できたらしよーよ」

 種田は頷いて、試合後に時間があったら話そう、と約束して自分のチームに戻っていった。スタンドの客席は、同じ地区同士の試合とあって一般客が多かった。生徒と応援団、後援会保護者、OBが殆どである光陽に対して、東高の応援席は伝統校らしく、多くの一般客が観戦に来ていた。そして、その一般客で埋まる客席の一画に部員が陣取っていることを知り、光陽の一年生たちは驚いたようだった。そして、先発の木村も、対戦相手が伝統校であり、強豪校でもあることを肌身で感じたようであった。

「気張らず行こうぜ!」

 篠原が全員に声を掛けて回る。自分自身が一番緊張しているのだろう、キャプテンとして出来ることをやっている。練習時間が終わり、試合前にベンチ前に集合した。初めて試合に臨む1年生は硬くなっているようだ。そんな中、日向は片手を挙げた。監督は驚いた顔をしたが、日向を指名して発言を許した。

「監督、おれ、緊張してます!」

「えっ?・・・」

「あーははははは」

 チーム全員が笑った。突然起こった笑い声に、対戦チームは驚いたようだった。緊張してガチガチだった1年生は、笑ったせいか堅さが少し解れたようだ。

「チェッ、美味しいトコもってかれたぜ」

 悔しそうに杉下が言った。

「さあ、気負うことなく、チャレンジャーとして堂々と戦おう!自分を信じて、チームを信じて立ち向かおう!」

 監督の言葉に「おう!」と応え、先攻で打席に向かう太田は、元気よく「お願いします」と打席に入っていった。東高の先発は種田だ。日向はワクワクした心持で、ベンチから食い入るようにマウンドを見つめた。中学時代、種田が投げる姿をあんなにも見ていたのに、今は初めて対戦する投手を見ているような感じがする。主審が手を挙げ、試合開始を宣言しサイレンがそれを高らかに示した。大きく振りかぶった種田の初球が、キャッチャー目掛けて投げられる。彼の放った剛速球が、気持ち良い音でミットに収まった。

「ひえーーーっ、速っ」

 光陽ナインが口々に、その速さに驚いた。種田はきっと、してやったりと思っているだろう。

「こんな剛速球見せられて、燃えないヤツなんていないよな?」

 杉下がベンチを見回す。全員が無言で頷いた。

「アイツ、速いだけじゃないぜ。コントロールもイイからね」

 類が、冷静さを失わないようにと発言をした。

「だよね!よーく球を見て、コンパクトに振りぬくようにしたらいいかも」

 簡単に、楽観論に近いことを言ったのは日向だった。日向は中学時代の紅白戦で、彼からホームランを含め、長打を打ったことが何度もあった。173cmの日向に比べ、182cmという長身から繰り出す剛速球は、落差がありなかなか打ち崩せない。日向はたまたまホームランを打ったのではなく、打者としてのセンスも良く得点も出来る。高校に進学しても、そのセンスは衰えていない。

「同じ学校だったから、言えることだな。しかし、その相手も成長しているだろう。違う点は分かるか?」

 兵頭監督が訊いてきた。

「リズム!リズムが違うと思います。アイツ、前はグイグイ押してくるタイプだったけど、今こうして見ていると上手く誘ったり、気を削いだりイヤらしくなってます。キャッチャーのリードがいいのかも知れませんが」

 監督は「なるほど」とひとこと発すると、顎をつまんで何かを考えている様子だった。打席に入っている太田は、早打ちすることなくボールを選ぶタイプなのでピッチャーに嫌がられるタイプだ。その太田は、足を使った攻撃も出来るので、今日はそれもポイントになる。しかし、堅さが取れなく1回表の攻撃は三者凡退に終わってしまった。

「よしっ木村!肩の力抜いて行こうぜ」

 杉下に励まされ、先発の木村がマウンドに上がった。日向はまた、胸がぎゅっとする感じがした。高校に入学して以来、公式試合全てで、自分があの場所に立っていたのだ。今、それをベンチ側から見ている自分に、違和感と焦燥感が襲ってきた。しかし、その時の日向は、祖父と神様の言葉を思い出し、深呼吸を繰り返して冷静さを取り戻すことが出来た。

(神様、おれ、チームのために頑張ります!見守って居て下さいね)

 心の中で神様に祈り、監督に呼ばれる時を待った。


 3点ビハインドで迎えた3回表の攻撃の時、日向は監督に呼ばれた。東高のバッターのタイミングが、木村の変化球に合ってきてしまい、ストレート中心では凌げない。予定よりも早い3回裏から、登板させてしまうが頼む、というような話しだった。光陽の攻撃が0点で終わり、守りに入る前に、選手交代のアナウンスで日向の名前が呼ばれた。日向がグローブを抱えてマウンドに向かうと、キャッチャーの杉下がやってきた。

「おう、一丁かましてやってくれ。遠慮はいらねーぞ」

 杉下の意味不明なひとことが、日向にはすぐ理解できた。日向はくるりと向きを変え、すぅーっと息を長く吸うと大声で宣言した。

「おれ、打たせちゃいますが、守備のみなさん、しっかり守って下さいねっ、よろしく!」

 この宣言に内外野手は驚いた様子だったが、すぐに外野手の小林が「任せろ!」と反応した。そして全員が頷いた。観客の一部からはどよめきが上がったが、それは直ぐに笑いに変わった。それから日向は、杉下の要求する所に、正確に投げ込んでいった。まずはタイミングを崩し、打者の得意とするコースの裏をかく。的を得たように、簡単に三者三振に切って取った。4回表光陽の攻撃。やっと種田のリズムに合ってきたのか、ヒットが出るようになったが、得点には結びつかないでいた。その後の5、6、7回も得点できずに0を並べている。守りでは、打たれても内外野手が、点に繋がらないように上手く捌いてくれたので、東高のスコアボードにも0が並んだ。

「オレ、絶対塁に出るから!」

 8回表、「類が塁に出る宣言」をして打席に向かうと、ベンチ内には俄かに活気が戻ってきた。

「原田!おまえもヒット打ってこいっ」

 メチャクチャなことを榊原が言い出したが、キャプテンの篠原も、本当はその台詞を言いたかった。サークルに入って、素振りをしていた原田が頷いた。そして、チームの全員が、この回の攻撃で何かが起こる!と信じる切っ掛けが本当に起こった。種田の5球目を、糸川類がラインすれすれのヒットを放ち、2塁へと達したのだ。

「ヤッタぜ、糸川!」

 スタンドも久しぶりに沸きあがった。打席に入った原田にも、大きな声援は届いている。嫌でもテンションは上がるが、舞い上がってしまうと、せっかくのチャンスを潰してしまう。原田は口の中で「ワンイズオール、オールイズワン」と唱えた。原田も太田と同じく、しぶとく球を選び、ギリギリの球はファウルにしていった。神経の消耗戦かと誰もが思った時、意表をついて原田はバントを成功させてしまった。ノーアウトの1、2塁だ。スタンドの声援も更にヒートアップする。

「三枝!オマエも続けー!」

 1年の三枝は、センスと度胸の良いバッターだ。思いっきり踏み込んで打つスタイルで、今日も2本のヒットを放っている。そんな三枝に打順が回る度に、相手バッテリーは警戒を余儀なくされる。ところがこの回、三枝の後がヒットの無い日向、という打順なので、東高は満塁策を取った。三枝は勝負できなくて不満だろうが、光陽にとってはチャンスだ。日向はワクワクが止まらない。

「落ち着いていけよッ小堺!」

 ベンチからの声を背に、日向は自分を信じて打席に入った。バットを握り直して、その先を種田に向けた。種田に向けての挑発行為だ。

(覚えてるか?種田。あん時みたいにホームランしてやっからな!)

 日向は心の中で誓った。だが、それを見ていた篠原が大声でひとこと「小堺、バカやってんなよ」と言った。そこでまたベンチがドッと沸き、スタンドでも、また笑いが起こった。応援団も一つになって、声援を送ってくれている。

(おれ、みんなのために頑張るから!)

 日向への1球目。種田の放った剛速球はド真ん中に決まった。日向の挑発に対しての、意趣返しのつもりだろう。しかし、日向は気にも掛けずにボールに集中した。カウントは2ボール2ストライクの平行カウントになった。次は勝負か様子見か、と誰もが思った5球目。日向は、見送ればボールになったであろう球を予告通りに、スタンドに運んでしまったのだ。

「やったーーーー!!」

 日向自ら叫んだ。ベンチもスタンドも大騒ぎだ。ダイヤモンドを1周する日向を、全てが羨ましく思った種田だった。一挙4点をあげ逆転した光陽は、残念ながらその後の打線が繋がらず、攻撃を終了してしまった。

「さあ、気を引き締めて行くぞ!!」

 キャプテンの声に全員が、オー!と応え守備に散った。

 この回、東高の打順はピッチャーの種田からだったが、交代になり成田というピッチャーが打席に入った。

「集中、集中!」

 杉下が大声を張り上げ、日向に肩の力を抜くように肩を上下させた。ピリピリするような雰囲気の中、成田への初球はボール球だったが、運良く振ってくれたのでストライクを一つ取れた。杉下は、日向に返球する時に首を傾げる仕草をした。

(杉下のヤツ、何か文句あんのか?)

 日向も首を傾げたので、杉下は慌ててピョンピョンと小さく跳ねた。

(ん~何のサインだ?あんなの決めたっけ??ま、いいや)

 アバウトな日向は、次の投球も杉下の指示通りに投げ、ストライクを取り、遂には3球三振に仕留めた。次のバッターからはクリーンアップトリオになる。この試合での一番の見所となるはずだ。打席に入る前に、軽くバットを振り回し、強打者ぶりをアピールしているのだろうか。そんな様子を見ても、日向は少しも動じず、返ってまた、対戦することの喜びを大きくしているようだ。

(さっきはヒット打たれてコンチクショウだけど、ワクワクが止まんねぇ。おれ、対戦歓迎症候群とか?)

 少し落ち着かない自分を認め、日向は軽くピョンピョンとその場で跳ねた。キャッチャーがサインを送ってきた。日向は頷いてから、ゆっくり振りかぶって投げた。ブンと鋭い音をたて、バットが宙を切った。

(空振り!ラッキー)

 甘い球なら見逃す筈がないスラッガーだ。上手くタイミングを外せばいけるか、と思った次の球は打たれた。しかし、その打球は真上に上がりキャッチャーミットに収まった。2アウトになりスタンドが騒ぎ始めた。よく分からないが、光陽高には良い兆しである。3人目のトリオの一人は、凡退を殆どしたことがないと言われている強打者だ。ここで塁に出すと、夏の二の舞になってしまう。杉下がタイムを取ってマウンドに来た。

「さっきはスローボ-ルで釣られてくれたけど、今度は使えないな。どうする?」

 日向が作戦を訊いた。

「あん?そりゃ、分かってるだろ?」

「シュート?」

「いや、あのヘンテコボール!あれで行こうぜ。三人目でも使えるし、もちろん混ぜて」

 杉下の言った意味が、今度はさっぱり分からなかった。

「は?意味分からん。何それおいしいの?」

「ってバカ!ミット目掛けて投げろっつーの」

 それだけ言うと杉下は戻ってしまったので、日向には消化不良の会話だった。とにかく、杉下の指示に忠実に投げるだけだ、と思いサインを待った。

(えっ、普通じゃん?)

 ごく普通のサインで、試合で使うパターンの一つだ。日向は頷くと素直に投げた。ところがどういう訳か、その打者も簡単にアウトになった。残すはあと1回だけだ、落ち着いて投げよう、と改めて思う日向だった。9回表、光陽の攻撃は残念ながら「打って得点したい」という気持ちが強すぎたのだろう、三人で攻撃が終わってしまった。

「クソッ、1点でも欲しかったな」

 一番残念がったのは、1年の藤川だ。試合前には調子が良いので、大きいのが打てそうだと豪語していた。しかし、釣り球に手を出してアウトになったりして、この日のヒットは1本だけで、特にこの回は特大の外野フライだった。

「さあ、後悔しないように締まっていこう!」

 監督の言葉に、全員はいと応え守備に散った。・・・・・そして、試合は終わった。4対3の逆転勝利で強豪校に初めて勝った。試合後、日向は取材に来ていた地元新聞記者に、強豪校と対戦する前の気持ち、交代してから得点させなかったこと、試合後の気持ちなど、いくつか質問された。その答えは、簡単に言うと嬉しいです、と一括りに出来そうなシンプルなものだった。用具をマイクロバスに積み込み、出入りしていると約束通りに種田が来た。

「おめでとう、お疲れ」

「ありがとう、浩次もお疲れ。スピード上げたな、切れもあるし」

「オレ、日向はやっぱり良いピッチャーだと改めて思ったよ。本当はオレ、先発じゃないんだけど、監督に頼み込んで投げさせてもらったんだ」

 種田はそう言うとうつむいた。また、中学時代のように投げ合いたかったのだろうし、日向もまた、それを望んでいた。敵同士として戦い、再びお互いを認め合った。

「どうだった?おれのピッチング」

 日向は素直に感想を聞きたいと思った。

「うん、サイコーの出来じゃね?進化してるし」

「進化?おれが?」

 日向自身には進化した自覚がない。どんな点を進化、というのだろうと思った。

「それより、浩次。おれが言うのも変だけど、おまえ変なクセが付いたな」

 日向のひとことに心当たりがあるのか、種田は大げさにうな垂れた。

「やっぱり?監督に指摘されてから、直しているんだけどなぁ」

「だから打たれてしまった、ってトコかな。初めは気がつかなかったけど」

 クスっと日向が笑うと、バツが悪そうに種田も笑った。

「とにかくおめでとう!今度、対戦する時はボコボコにしてやっからなっ」

「はははは、望むところだ!またな、ケガすんなよ」

 お互いを讃え合い、ガッチリと握手をして別れた。遠巻きに見ていた木村が近づいてきた。

「先輩、今日はすみませんでした。先輩と同じ中学だった人でしょ?今の人」

「済まなくはなかったぜ。お疲れさん」

「凄いですよね、敵なのにアドバイスするとか」

「アイツがおれ以外のヤツに、打たれるのを見たくないからな。なーんちゃって」

 正直な気持ちの一つだ。しかし、本当は強豪校にあって、潰されて欲しくはなかったからだ。「代わりはいくらでもいる」「勝つための部品」に成り下がってまで、野球する意味あるのかな?そう思うようになったのは、日向が中学2年の終わり頃だった。「楽しくプレイできないなんて、本当に野球している意味はない」祖父の海藤勇の言葉も影響していたのだ。プロなら職業として、それなりの研鑽を積み、才能を伸ばしていくだけだ。だが、アマチュアはそうではない、他にやることがある。日向の場合、野球は部活だけで、あとは学生生活を楽しむというのが理想だと思っている。

「おーい!出発するぞ。早く乗れ」

「はい、今行く!さあ、帰ろう」

 木村の背を押しバスに乗り込んだ。バスの中で大騒ぎ、ではなかった。緊張が解れたことと、疲れが一気に出たことで、殆どの部員が学校に着くまで眠ってしまった。学校に到着しても、いつもの遠征から帰ってきたような感じだった。もちろん、野球部が強豪に勝利した、ということは知られていなかったこともある。その日の夜の小堺家では、父だけが祝杯を上げていた。勝てないと言い張っていた父が、勝利に便乗して美酒を味わっていたのだ。日向は東京に戻った姉に、試合に勝ったことをメールした。姉からは「お礼をしなさい」と返信してきたので、寝る前に神社の方向に向いて、二礼二拍手をして神様に報告と感謝をし、深く一礼をしてからベッドに入った。その晩は深い眠りに落ちたのか、夢も何も見ることはなかった。


 月曜日の朝、地元新聞のスポーツ面に「光陽高、逆転で強豪東高を破る」という見出しが踊っていた。それを読んだ陽一は、すこぶる機嫌が良かった。昨晩からの、泉のブーイングは全く気にもしないようで、日向のインタビュー記事には「気の利いたことを喋れなかったのか」とダメ出しまで言った。

「適当に差し障りなく言ったから、いいじゃん。それより、父さん仕事に行く時間でしょ?行ってらっしゃーい!」

 朝は、父の出勤時間の方が早いので、いつものように先に送り出した。そして、キッチンで片付けをしている母に、父には言わなかったこと話した。

「ねえ、母さん。昨日、新聞記者さんが、プロになるの?って聞いてきたよ。この話、父さんの前で言うと、舞い上がっちゃうから・・・もちろん父さんがね」

 日向は父を心配して、あえて母に言った。

「そうなの?日向はもちろん、NOって答えたでしょ?」

 泉は困惑したようであった。最初からプロにさせる気はないが、周りが騒いでしまい、収拾がつかなくなるのを恐れている。

「うん、考えていませんって言っておいた。本当だし、おれ、大学行きたいから」

「大学?日向、大学に入るって、沢山勉強しなくちゃダメでしょ。分かってるの?」

 意地悪な笑みを浮かべて泉は日向を見ている。残念ながら日向は言い返せなかった。

「むむむ。とにかく、行ってきまーす」

 スニーカーを履くと勢いよく家を出た。エレベーターが1階に着くと、丁度居合わせた顔馴染みのおばさんが「おめでとう」と言ってくれ、日向は素直に「ありがとうございます」と応えた。朝から何だか少し、くすぐったい感じがした。そして、急いで自転車置き場に行くと類が待っていた。

「おはよう!お待たせ」

「おはよう、有名人」

「何だよ、からかわないでくれ。おれだけが活躍したんじゃないし、おまえだって新聞載っただろ?」

 困り顔して言う日向に、類はケラケラと笑って「お互いに切り抜きしとこーな」と軽口を叩いた。小さな子どものように、膨れっ面をした日向を見て類はまた笑った。そして二人はいつものように、自転車に乗り、学校へと急いだ。当然ながらその日、学校では野球部があの東高に勝った、ということで賑やかになっていた。普段、話しかけてこない女子たちが、この日ばかりは声をかけてくるので、いつもと違う雰囲気に圧倒される二人だった。同じクラスの日向と類は、後方の自分の席に着くと更に騒がしくなり、隣のクラスの女子までその輪に加わり、始業チャイムが鳴る前まで大騒ぎになっていた。しかし、チャイムが鳴ると、流石に水を打ったように静まり返り、担任の菅野先生を迎えた。ホームルームで担任からは、テスト週間なので他に気を取られず、落ち着いて勉強して欲しい、とだけ話をするに留まった。野球部の活躍のことには、ひとことも触れられなかったので、類も日向も内心ホッとした。類は、話を振られたらどうしようか、と真剣に悩んでいたところで、日向は進路について聞かれたら困る、と思っていたのだ。その日、少し浮かれ加減の2年B組は、終業チャイムと共に再び賑やかになった。夏の大会のことは忘れ去られてしまったのか、新聞に載った「小堺日向」が、どんな形相なのかを確かめに来る生徒たちでごった返した。そんな中二人に、帰り支度をして職員室に来るように、と野球部顧問の内藤先生から伝言が入った。何だろう?と二人はおっかなビックリで職員室に入って行くと、居合わせた先生方はにっこりとして二人を手招きしたのだ。

「呼び出されてビックリしただろ?悪いな」

 悪戯っぽく笑う内藤先生は、何か含む所があるのか、彼らの担任を呼んだ。

「菅野先生!呼んじゃいましたからっ」

 何が何だか分からない、という表情をしている日向と類に、担任の菅野先生が走り寄ると、手を合わせてひとこと「スマン!」と言った。

「え?何です??」

 日向も類も訳が分からない。つまり、テスト前で平静を保つために、あえて強豪校を破った野球部のことをスルーしたこと。そして、二人の取材に対してのコメントが、簡素で良かったと褒めた。

「はっ?・・・そんな事?・・・・」

 二人は緊張がいっぺんに解けた。

「本当に、君たち二人には悪いことしたな、と思ったから呼んでもらったけど、もしかして女子たちからもっと騒がれたかったのか?」

「いやいやいや・・・」

 類も日向も手を激しく振った。

「だろ?今日はもう騒がれないで、帰れる策を考えてくれたんだよ。内藤先生が気を遣ってくれたってワケだけど」

 内藤先生は、してやったりという顔で彼らを眺めていた。

「しかし、小堺がホームラン打つなんて思ってもいなかったなぁ」

 菅野先生は感心しきっているようだった。

「あれ、菅野先生知らなかったですか?小堺は中学の時、投げて良し、打ってもよしって言われていた好投手なんです。それで、本当は東高に進学の予定だったらしいですよ。でも、それを蹴って我が校へ来てくれたんだから感謝しなくちゃ、ですよ!おかげでこっちは、レベルの底上げも出来てきていますからねッ」

 内藤先生は少し自慢げに語った。

「先生、勝手に盛らないで下さいよぉ、困るんだから」

 日向が不満を漏らすと、本当は類が誘ってくれたたからと話した。

「おぉ、糸川そうなのか?初めて聞く話だな」

 二人は初めて他人に話すことだった。

「日向が野球をやっていく上で、一番大切にしている事は、勝つための野球でなく、楽しむための野球なんです。だからオレ、楽しみたかったら光陽にしようよ、って誘ったんです」

 類の言葉に、日向はウンウンと頷いた。

「楽しみたい、か・・・確かに理想だな。ね、内藤先生」

「ですね。糸川のおかげでピッチャーの補強ができて、内外野も充実したし、あとは・・・」

「あとは?」

「運かな?」

 内藤先生は照れ笑いをしたが、菅野先生は運も実力の内だと笑った。

「それでは、失礼します」

 類と日向は、挨拶をして職員室をあとにすると、靴を履き替え自転車置き場に向かった。校舎から出てしまうと、特に女子に騒がれることもなかったので、二人はそんなものなのかと思った。

「運も実力の内か、つまり引き寄せるんだな」

 類は運について、何やら考えていたようだ。日向は首を竦めて言った。

「しっかりやろう、という気持ちで、本当にしっかりやればいいんだよ。ただそれだけ」

「ほぅ、そうなんだ。オレはいつもしっかりやろう、と思ってるけど、どうにもならない方が多い気がするけどな」

「うん、そっちの方が多いと思う。いいことって、ずっとは続かないし、どっちかと言うと悪いことが多いよね。でも直向ひたむきに努力していれば、神様は見捨てないよ。必ずご褒美をくれると思うけど」

「ご褒美、ね。コツコツやれば、その分、身になるってことだな?」

 日向は何度も頷いた。普段から努力しているから、類は今の類でいられる、と日向は思っている。

「やっぱりカッコイイな、類は」

 日向の言葉に、充分に照れているのが分かってしまう類だ。類が日向を眩しく思うように、日向も類を尊敬している。

「さあ、日向帰るぞ。勉強しなくちゃ」

 二人は家電量販店の前で別れ、それぞれの家に帰った。それからの数日、真面目に勉強に励んでテストに挑み、来週中にその結果が分かる。そしてそんな土曜日の朝、電話が鳴った。


「あら、みのりさん、おはようございます。え?・・・」

 リビングのソファでゴロゴロしていた日向は、耳をそばだてた。類の母からの電話だ。急にボソボソと声を潜めて話しているが、何だか重そうな内容のようだ。

「ええ、分かりました。早速、今からでも・・・・・ありがとうございました」

 泉は電話を切った。さっきまでの朗らかな表情とは打って変わり、沈うつな表情になっている。日向は起き上がると母に聞いた。

「どうしたの?類の家で何かあった?」

「ううん、糸川さんじゃないのよ。ほら、少年野球の時に一緒だった鷺山君、覚えているでしょ?中学1年の夏だったかな、引っ越した・・・」

 その名を聞いて、日向は直ぐにあの鷺山だ、と思い出すことができた。鷺山忍しのぶ通称ぎいちゃん。

「ああ、ぎいちゃんだね。ぎいちゃん、どうした?」

 母は一瞬躊躇ったが、彼が数日前に亡くなったことを伝えた。

「ウソ、ぎいちゃんが?何で?・・・」

 日向は、鷺山の笑顔しか思い出せない。元気者でいつもニコニコした、穏やかなやつだった。母が言うことには、部活からの帰りに交通事故にあい、一週間ほど意識不明だったが、とうとう力尽きて逝ってしまったという。無意識に日向の両目からは、大粒の涙がこぼれ落ちた。引っ越して、距離が遠くなった友だちが、本当に遠い存在になってしまったのだ。

(あんなイイやつが、あんなイイやつがどうして?神様、酷いよ)

「引越してご無沙汰していたから、ご家族が連絡するのを、躊躇っていらっしゃったみたい。ご迷惑をお掛けするって言われたみたいだけど、そんなの迷惑じゃないよね・・・」

 泉の声が震えている。同じ年の子どもを失った、母親の気持ちが痛いほど分かる。溢れてくる涙を見せまいと、後ろを向き、手のひらで拭っている。日向はTシャツの袖で涙を拭うと、天井を見上げて深呼吸を繰り返した。

(ヒナも悲しくなったら、上を見て深呼吸してごらん。ほら、こうやって・・・オレ、悲しくなったらやるんだ)

 あれは試合に負けた日、悔しくて泣いた日向に、鷺山が教えてくれた。

(ぎいちゃん、上を向くって、涙がこぼれないようにだろ?深呼吸するって、気持ちを落ち着かせるためだよね?ぎいちゃん、おれ、上見てるけど涙が止まんねぇよ!)

 しばらくの間、日向の目は滲んだままだった。日向が鷺山と仲良くなったのは、類がいたからだ。類は少年野球のチームに入った時から、上級生からも一目置かれるほど、仲間をまとめるのが上手かった。同じ学年で一番遅く入団した日向が、少し気後れしていた時、類が気を遣って人懐こい鷺山を紹介してくれたのだ。運動神経が抜群に良かった彼はショートを任され、素早い捕球と正確な送球で、滅多にミスをしなかった。練習や試合で日向がミスした時には「失敗しない人間なんていないから心配するな」と大人が言うような科白を言ったことを今でも覚えている。あの時代は、本当に楽しい思い出が多い。野球以外でも、チームメイトとの川遊びやバーベキュー、クリスマス会には必ず笑いを取った鷺山だった。試合では物凄い集中を見せるのに、遊びとなると全力で遊ぶ、切り替えの上手いやつだった。そんな思い出に耽っていると「キンコーン」と日向の携帯が、メールの着信を知らせた。類からだ、気持ちは落ち着いたけれど、まだぼんやりする頭でメールを開く。

「ショックMax落ち込むMax葬式行かない!」

 それは類らしくない文面だった。

(アイツも相当ショックだったんだな。おれよりも仲良かったから、無理ないか・・・)

 感情が激しく揺れたのは皆同じだろう、と思っていると再びメールが来た。

「やっぱり葬式出る。今日の通夜も行く」

(だろうな、類が行かない訳ないもん。きっと大泣きするか、罵声を浴びせるか?って、アイツが切れると抑えるの大変だよなぁ)

 日向は中学時代の「あの試合」を思い出していた。デッドボールを受けた類が、対戦相手のピッチャーに向かっていったことがあった。「ぶつけられた」からではなく、その後のピッチャーの態度が、謝る訳でもなく「ヘラヘラ笑っていた」のに腹を立てたのだった。大柄の類が、掴み掛かろうとする勢いで、マウンドに行ったので、双方のチームは慌てた。

「何だその態度は!ぶつけてヘラヘラすんじゃねえ!」

 激しい口調で迫る類に、相手ピッチャーはビビって逃げ出す始末だった。お互いの選手たちが口々に「まあ、落ち着いて」と取り囲み事なきを得た。口は出しても手を出さない類は、特に咎められることもなく、一塁へ押し出された。そしてこの後、対戦校の監督が直接謝りに来たりしたのだ。その試合は日向たちの中学校が勝利して終わり、少ししょっぱい思い出となり記憶に残った。


 4.憮然


「日向、支度は出来たの?みのりさんたち、もう下で待っているかもよ?」

 その日の夕近く、通夜に行くために、類の母が運転する車で通夜の会場へ向うことになっていた。二人が一階まで降り、ロビーから出るとタイミング良く車が来た。

「すみません、よろしくお願いします」

 泉と日向は後部座席に座った。助手席には類が乗っていたが、その瞼は泣いたせいで、少し腫れているようだ。疲れたような表情をして、口を開こうとはしなかったので、お互い気まずいような雰囲気の、重い空気が流れる中、通夜会場の葬祭会館までの道のりは遠く感じた。しばらく走ると葬儀会場を示す看板があり、もう少しで着くと思われたその交差点手前で、道端にうずくまる見覚えのある人影を日向は見た。それが誰かは、日向は判っていた。

「ウソ!?あれって」

 突然の日向の声に、他の三人は驚いたようだ。泉は首を傾げて不思議そうに日向を見た。

「ううん、ゴメン見間違いだった、みたい・・・うん」

 日向が打ち消す言葉を言うと、類は部室でのことを思い出したようだ。それとなく日向に「降りたら、ちょっと話ある」と言った。それから間もなく葬祭会館に到着し、駐車場に車を止めると、周囲には馴染みの顔があった。少年野球時代の連絡網が役立ったようだ。日向たちが車から降りると、それを見つけた岡田が走り寄って来た。

「久しぶり・・・。オレ、本当に冗談だと思ったよ。あの鷺山が・・・残念に思う。こんな時でなんだけど、お前たち、あの東高に勝ったんだな。きっと、鷺山も喜んでくれてるよな」

 岡田の目も薄っすらと充血していた。

「うん、オレもアイツが喜んでくれていると思うよ」

 類はうつむきながら言った。

「ぎいちゃん、喜んでくれてるよ。だってぎいちゃん、優しいから」

 日向も精一杯、声を絞り出した。でないと、声よりも涙が出てしまうからだ。誰かが岡田を呼ぶ声がした。

「じゃあ、また後から」

 岡田は直ぐに、元居た所へ走って戻って行った。日向と類の母親は、保護者会のグループに加わったようだ。ふいに、類が聞いてきた。

「日向、さっきのあれ、何だった?もしかして、見たとかいうたぐいか?」

 日向がゆっくりと頷くと、類は「そうか」と言った。そして、日向の腕をグイと掴んで引っ張ると、その場所へ行くと言い出し、早足で歩き出した。

「ちょっと!時間、時間ってば」

 慌てて日向が言うと「まだ時間はあると言い」小走りになった。

「どの辺りだ?どこに居る?まだ居るのかな」

 類の矢継ぎ早の質問に、頷くだけの日向だった。5分ほど行くと先ほどの交差点に着いた。時間的に交通量が増えてくる時間だ。しかし、その周辺だけは時間が止まってしまっているように感じられた。白いガードレールを支える支柱の一本には、まだ手向けられて間もない花束が括り付けられていた。

「ここか?この場所で事故に?」

 類は日向の腕を放そうとしなかった。

「ううん、違う。向こう側だよ、多分ここは・・・」

 日向の言わんとすることは、類には充分伝わった。鷺山が居る場所は、横断歩道を渡った向こう側だと言った。信号が赤から青に変わり、二人は渡ってその場に着いた。

「ねえ、類。ちょっといいかな?」

「え?何かする?」

「おれ、ぎいちゃんと話をしてみる。類は、おれと話してるフリしてくれないかな?」

 類は一瞬驚いたような表情をしたが、直ぐに合点がいったようで頷いた。

「ねえ、ぎいちゃん?おれ、分かるだろ?」

 日向は、彼にしか見えない友に向かって語り掛けた。

「うんそうだよ。ほら、類もいるだろ?そそ、おれ?うん、どういう訳か・・・。うんうん、そっか・・・怖かったよな。あん?ああ、瞬間的に分かったよ・・・だって友だちじゃん?」

 鷺山は、その場には誰も訪れてくれない、と思っていたようだった。そして、旧友が来てくれた喜びの反面、自分の死が酷く醜いものだと捕らえているようだ。そして暫くの間、日向は頷きながら、一方的に鷺山の話を聞いている様子だった。

「日向、そろそろ戻らないと、時間だ」

 類は少し困惑しているようだ。

「あぁ、そうだよ。うん、一緒に行こう!昔の仲間が来てるから。うん、分かった。おれと類と一緒に、三人で行こうよ、ね?」

 日向は鷺山を連れて、通夜の会場へ行くことにしたようだ。話の細かい内容は分からないけれど、類には鷺山がどんなことを言ったのか、何となく分かった。なぜならば、類の湿った心に、ポッと温かな花が咲いたような気持ちがしたからだ。

「オレ、鷺山を恨むかもよ。だってさ、あの約束、果たせないで終わるだろ?」

 戻る道すがら、鷺山と電話で交わした約束を、類は思い出していた「対戦する時は遠慮なく、力一杯ぶつかろう。どっちが上か見せてやる」

「うん、オレも残念って、ぎいちゃんが言ってるし、おれも思う」

 日向が微妙な表情でいる。なぜなら、来週にその約束が果たされる筈だったからだ。

「でもさ、なぜあんな所に居たわけ?」

 目に見えない友だちに、類は問いかけた。

「うーん・・・無いんだって。見つからなくって探していたって」

「見つからない?」

「携帯・・・スマホが無いって言ってる」

 それを聞いて類は一瞬、殴られたような感じがした。今は肉体を失った存在であっても、その魂は愛着のある物に対して執着心が残っていることを知り、驚くと同時に哀れみも感じられたのだ。

「スマホって、おれたちにとって大事な物だよな?」

「うん、そうだ」

 日向の言葉に思いを重ねた類だった。類も自分のスマホが無くなったら、たぶん必死に探すだろう。理由はもちろん、繋がりが切れてしまうことへの恐怖だろう。

「さあ、着いたよ。ほら、顔なじみがいるだろ?」

 日向がすぐ脇を見ながら言った。会場の外では待ち合わせの為に、まだ仲間を待っている先輩、同級生、後輩がいた。類は、鷺山と話をしながら歩く日向に、咳払いをして視線を交わらせた。日向はハッと息を飲み込み、急いで周りの反応を伺った。しかし、誰も日向の言動を不審には思わなかったようで安心した。でないと普通に、独りごとを言う変人に成り下がってしまうのだから。そして、三人はその通夜の会場に入って行った。沢山の綺麗な花を背に、黒いリボンが掛かった写真の鷺山が、参列者たちに微笑んでいる。その祭壇を目にするとなぜか日向の足は竦み、歩けなくなってしまった。日向の耳元で類と鷺山が「日向どうかした?」と訊いている。

「ぎいちゃんは死んじゃった!?本当は、本当に死んじゃったんだ」

 当たり前とも思えるその場での日向の呟きは、彼の頭の中での現実と、目に見える現実ではあり得ない現実とが、意識下でせめぎあっていた。鷺山は既にこの世の人ではなく、自分には見えるけど、他の人には見えない存在であること。それは日向自身が、尤も理解している筈であった。しかし実際にその場に立会い、同じ空間に居るとなると、普通の感覚との違いが露になる。日向のその感覚と自覚は、まだ未熟であった。直ぐ横には日向を心配している類と鷺山がいる。類は黙って写真の鷺山と日向を交互に見つめ、そして意を決したのか、日向に言った。

「これが現実だよ?」

 類の言葉が鋭く耳に刺さると、魔法が解けたかのように、日向は再び歩き出すことが出来た。ちょうどその時、彼らに気が付いた昔のチームメイトが、二人を呼んで中ほどの席に座るように勧めてくれた。

「ありがとう、類。おれ、未熟だ。本当はまだ、全然分かっていなかったんだな」

 類には日向が何を言いたいのか、大体の察しがついた。

「ゆっくり知ればいいだろ?この世界が他の世界と、何重にも重なっているかも知れないし」

 ヒントになるような類の言葉に、日向は考えてみた。

(そうかも知れない。今、おれたちが生きて生活している世界と、死んでしまった人たちが生活している世界、死んでこの世とあの世の間で生活している人の世界。これだけでも三つの世界があるんだな)

 日向は次第に、心が落ち着いてくるのを感じた。さっきまで横にいたと思った鷺山は、遺族席に座っている両親の後ろにいる。彼は両親に何かを伝えたくて仕方ないのに、伝わらないもどかしさがあるのが見てとれる。

「なあ、日向にははっきり見えるんだろ?生きている人との違いってあるのか?」

 類は、ぼんやりとした想像をして訊ねた。

「うん、生きている人はクッキリ、でない人は輪郭が滲んで見える」

「そっかって、日向!他の人のアレも見えるってことか?」

「えっ?」

 日向は意識しなかったが、今日は漠然と見ていたらしい。

「おれ、今分かったけど、見てたみたいだ」

「へっ?何で意識しなかったのさ」

「分かんないよ。どうしてだろ・・・今までこんなこと無かったのに、急に見えたり意識出来たり、出来なかったり」

 日向の混乱具合が、眉間の皺で分かる類は、それ以上混乱させまいと、軽い気持ちで言ってみた。

「ん、じゃあ、この際だから鷺山の両親に、オレ、アイツ見えますが?って言ってみるとか・・・」

「あー、それいいアイディアだね。うん、言おう!信じてもらえたらいいな」

「えっウソ・・・」

 冗談のつもりで言った筈なのに、どうやらこの流れは本気らしいと類は感じた。それから通夜式が始まり、僧侶の読経が続くなか焼香になったが、その焼香の列に鷺山本人が居たのを、日向以外の誰一人としてそれに気づく者はいなかった。棺には遺体が納められているが、窓の部分はしっかりと閉じられているので、参列者の誰もが彼の顔を見て、別れを告げることが出来なかった。やがて通夜式が終わり、帰る参列者に遺族が見送ってくれた。日向と類は、ドキドキしながら参列者の列の一番最後に並び、鷺山の両親に声を掛けた。気の利かない科白だったけれど、彼の両親は喜んで受け入れてくれた。

「ルー君も、ヒナ君も、一生いっせいのためにありがとう」

 鷺山の母、桐子とうこは小学生時代からの呼び名で呼んでくれた。

「彼らも高校生なんだから、類君、日向君って呼んだら?」

 鷺山の父の肇が、指して咎めるでもなく言うと、類と日向は首を振った。

「いいですよ、おじさん。オレたちその方がいいし、きっと今でも、一生君もそう呼んでくれてると思うから」

「おじさん、おばさん、呆れないでおれの話、聞いてくれますか?信じて欲しいです」

 類に続き、決心した日向が口を開いた。

「なあに?ヒナ君・・・」

 昔から変わらない、優しい雰囲気で桐子が訊くと、日向が自分には一生の姿が見える、と言ったので鷺山夫妻は驚きを隠せなかった。

「日向君、何かの真似とかじゃなくて・・・」

 少し疑うような肇の言葉を遮るように、類が「本当です」とほぼ叫ぶように声を上げた。

「本当です。コイツ、どういう訳か見えるようになっちゃって・・・それで、さっき道端にいたアイツ、一生をここに連れて来たんです」

 明らかに動揺した桐子は大粒の涙を流した。

「おばさん、ごめんなさい。泣かせるつもりで言ったんじゃないから、本当に・・・ぎいちゃん、あそこで、あの交差点で探し物をしてました」

 肇は、何かあったのかと近づいて来た近親者を制すると、少し向こうで待っていてくれるように頼んだ。

「君たちは、事故現場を知らない筈だよね?」

「はい、知りません。だけど、日向には分かったんです」

「おじさん、ぎいちゃんは、あのお花の所じゃなくて、その向こう側の角の所でトラックに追突されたんですよね?スマホが鳴って、それをポケットから出したその時、自転車と一緒に跳ね飛ばされた」

 日向の言う具体的な事故の様子は、警察の説明と一致していた。肇は桐子の肩を抱き、息子の最後のようすを思った。

「あっ、そうだ。ぎいちゃんがスマホどこ?って聞いてます」

「今ここに居る?」

「はい、ここに居ます」

 日向は夫妻の前を指差した。肇はその場所に向かって、寂しくないかと訊いた。

「大丈夫、って言ってます。それに・・・」

「それに?」

「泣かないでって。また生まれ変わっても、お父さんお母さんの子でいたいから。先に死んじゃったのは本当にごめんね、親孝行できなくって・・・親不孝しちゃってごめんね」

 一生が言った言葉を伝えた日向を、肇は抱き寄せると感謝の言葉を口にした。

「ありがとう日向君。君がいて本当に良かった、感謝しているよ」

 死んでしまった息子の言葉を聴けた鷺山夫妻は、喜んではくれたけれど本当はどうなんだろう、残酷だったかもしれない、と日向は思った。

「ヒナ君、一生の携帯、壊れちゃって・・・」

 涙を拭いながら桐子は、会場の一角にた遺品を展示してある長机を指した。机の上には、鷺山の写真や彼が使っていたバットやグローブ、ユニホームなどに混じって警察の茶封筒が置かれていた。慌てて机に向かって行った日向に「開けてもいいよ」と肇が息子に言うように言った。大きな茶封筒を手に取ると、日向は鷺山に急かされてその中身を出した。鷺山のスマートフォンは、完全に壊れて使い物にはならない状態だった。そして、携帯の他にイヤホンセットだったものが出てきた。それを見て、日向と鷺山は絶句した。日向には鷺山の思いが濁流のように、いっぺんに流れ込んで来た。日向は思わずその長机に両手をついた。でないと、その場に立っていられないくらいの激しい感情だった。「ちくしょう!チクショウ!!」と呟いた日向に、一生の姿を重ね合わせた鷺山夫妻だった。

「さあ日向、母さんたちの所へ行こう、もうおいとましなくっちゃ」

 そんな様子を見かねた類が日向の手を引いた。

「うん、アイツ凄く悔しがってる。死んだ自分がバカだって・・・」

「分かったから、今日はもう帰ろうな」

「おばさん!」

 鷺山の母に向かうと、日向は彼が母に伝えたかったことを言った。

「机の上にある三段の小さい引き出し、その一番下引き出しの奥に、銀色の小さい箱があるから、それをもらって欲しいってぎいちゃんが言ってる」

 桐子は黙って頷くと、日向に向かって頭を下げた。

「失礼します」

 類と日向の二人も、揃って鷺山夫妻に頭を下げ、その場を後にした。会場の外には、親戚の人たちがまだ多く残っていたが、学生服を着て残っていたのは彼ら二人だけだった。周りの人たちに会釈をしながら葬儀会館から出ると、元少年野球保護者会のメンバーたちが、丁度打ち合わせを終わらせたところだった。外は夜の闇が濃くなってくる時間になっていた。

「真っ直ぐ帰る?」

 ちょっと不機嫌そうに類が母に言うと、お腹がすいてるから不機嫌でしょと笑われた。そして泉の提案で、ファミリーレストランに寄ってから帰ることになった。みのりが運転席に乗り込むと、類は泉に助手席を譲った。後部座席に収まった息子たちは雑談をするでもなく、口を開かずにSNSを使って話をしていた。日向はあれで良かったのかと不安を訴えると、類は日向の勇気を讃え、役立ったのだからとねぎらった。何分か経った時、日向からの返事が来ないと思った類が横を見ると、スマホを握ったまま眠ってしまった日向の姿があった。

(コイツ、馴れないことして疲れたんだな。見ることができても、それはそれで大変なんだよなきっと・・・)

 そう思った類だった。日向を起こさないように気を遣い、母たちに日向が眠ってしまったことを告げた。

「あら、あの子ったら楽しみにしてたのに、寝ちゃうなんて。今日は残念だけど、糸川家もコンビニのお弁当でガマンしてもらえるかしら?日向が起きて文句言ったら、誰かさんが寝てたから悪いって、きつく言っておくから。ごめんね、類君」

 泉の提案に賛成だった類は「牛丼弁当が食べられるから大丈夫だ」と嫌良く言った。帰り道は思ったより渋滞もなく、スムーズにマンション前まで戻って来ることが出来た。すると、ぐっすり眠っていた筈の日向が目を覚ますし「ファミレスは?」と聞いたので三人は思わず笑ってしまった。

「みのりさん、ありがとう。また、明日もよろしくお願いします。お疲れさまでした」

「おばさん、すいませんでした。類、また明日な」

 二人は挨拶をして車を降りた。日向はさっさと自宅に帰ろうとしたので、泉が罰としてコンビニで弁当を家族分買ってくるように言いつけた。


「ただいまーぁ」

 日向がレジ袋を提げて自宅に戻ると、父の陽一が先に帰っていた。

「父さんお帰り、腹減ったぁ?」

 ダイニングのテーブルの上に、日向は弁当を4個並べ、更に炭酸飲料と菓子まで並べた。それは男子高校生の支持が厚そうな物ばかりだった。

「大盛りカツ弁当に大盛り焼肉弁当、カツ丼とお好み弁当ね。私、お好みにするけど、日向は大盛り二つ食べるの?」

 お茶を入れながら泉が訊くと、日向は焼き肉弁当とカツ丼でカツ弁当は父の分だと言った。

「練習日じゃないのに、食欲旺盛だな。まっいいか、いただきます」

 そう言って笑った陽一は、今日のことには触れないようにしているようだった。普段と変わりない態度で弁当を開けると、カツをつまみに大好きなビールを飲み始めた。日向も、鷺山の話は湿っぽくなってしまうと思い、あえて話題にはしないで弁当を食べ始めた。そしてコンビニに入る前までは、弁当は3個だけ買うつもりだったな、と思い出した。弁当売り場に行くと、手が勝手に4個選んでカゴに入れてしまった感じだった。意識しなかったけれど、買わないといけないように思え、さらに炭酸飲料や菓子類も買ってしまった。特に、普段なら絶対に買わないグミまで買った。食後はテレビを観ながらゆっくりと過ごし、特に何も変わらない時間を過ごした。入浴後はテレビを観ることなく、日向は自分の部屋に戻った。そして部屋に入り、ベッドに腰掛けようとした時、自分の体がふわりとする感覚がして、頭の芯がジンジンと痺れた。

(何だこの浮遊感、今まで無かった感じ・・・)

 ハンガーに掛けた制服が歪んで見えると、急に酷い眩暈がしてそのままベッドに倒れ込んでしまった。

「あーっ、さっぱりしたぁ。風呂はいいねぇ、弁当もうまかったし」

 直ぐ近くで聞き覚えのある声がした。

(えーーーーーーっちょっと!!この声ってぎいちゃんだよね?)

 目を見開くと思った通り、鷺山が立っていた。

「憑いて来ちゃったのかよ!?」

 ベッドに突っ伏したまま日向が言うと、その通りだと鷺山はケラケラと笑った。

(笑えるトコ?おれ、体調悪くて仕方なかったんだけど)

 日向は呆れてしまった。これが良いことであるのか、悪いことであるのか判断がつかない上に、鷺山が日向の体から離れると、不思議と体の変調は治っていた。日向は起き上がってベッドに座り直すと、なぜ憑いて来てしまったのかなど鷺山に問いただした。

「だってさ、寂しかったんだもん」

 鷺山はケロっとして言った。

「はあ?おじさんに聞かれた時、寂しくないって言ったじゃん!」

 幾分怒りを込めて日向が言うと、鷺山は素直に「ごめん」と謝り、あの時からのことを話してくれた。あの日、あの時、あの場所で電話の着信メロディが鳴った。鷺山は自転車に乗っていたので、電話に出るつもりはなかったけれど、片手でポケットからスマホ取り出そうとした時、スマホがポケットの縁に引っかかってバランスを崩してしまった。その反動で自転車が車道にはみ出てしまった所を、ちょうど後ろから走って来たトラックに、自転車もろ共跳ねられた。その時の記憶では、スローモ-ションのように体が浮き上がった瞬間、トラックの前面に激しくぶつかり、激痛以上の痛みが襲った。そして、自分は交差点に倒れていた筈だけど、体が向こう側のガードレールまで吹っ飛んで横たわっていた。何がなんだか分からなくてパニクったという。それも当然だろう、自分が瀕死の自分を見つけたのだから。

「オレ、自分が死んじゃう!って叫んだよ。だけど周りにいた人、誰も耳を貸してくれなかった。オレを無視して、息も絶え絶えなオレに声かけてるんだ。大丈夫か?って・・・オレ、自分の体に戻ろうと、必死で何回も何回もしたけどダメだった。救急車が来るまでの時間は、スゴク長かったように思えたよ。病院に運ばれて、色々と処置してもらったけれど、オレの体は治らないって直ぐに分かったよ。だって、お医者さんたち、脳がダメだって言ってたからね」

 とても辛い話を淡々とする鷺山に、日向はハグして慰めたかった。けれど、実体のない彼をハグできない。そっと、彼の両手を取るようにすると鷺山は苦笑した。

「ヒナ、おまえ天然だけど、やっぱり本当にイイやつだ。オレ、今日まであの場所で、ここにいるよって叫んでいても、誰も気づいてくれなくってさ、悔しかったし寂しかったぜ・・・」

「だったら、おれ、ぎいちゃんのためになったかな?」

 その言葉を耳にした鷺山は、両手で顔を覆うと、部屋の外まで聞こえそうな大声で泣き出した。日向も泣きしそうだったけれどガマンした。でないと、彼の心を安らかにすることが出来ないと感じたからだ。こんな場合、神様ならどうするのだろうかと思いながら、日向は鷺山が泣き止むまでそっと待っていた。やがて気持ちが落ち着いたのか、鷺山は泣くのを止めた。

「ありがとう。オレ、ヒナに甘えちゃった」

「いいさ、ぎいちゃんだから。おれ、こんな俄か霊能者みたいになっちゃったけど、それには訳があってさ、聞いてくれる?」

 日向は自分が体験してきた出来事を、簡単にまとめて鷺山に聞かせた。祖父も住んでいる「死後の世界」の存在。その世界に住んでいる人々は平和に暮らし、魂の浄化をして次に備えていることなど。

「ふぅん。おれも安心してそっちに逝けばいいのかな?」

「だと思う。おれは死にはしなかったから、ハッキリ言えないけどね。ああっ」

 日向は思い出したことがあった。祖父が語った話の中で「心残り、未練があると、すんなり移動できないらしい」ということを鷺山に伝えた。

「なるほど執着心か、ってオレってあり過ぎだし!諦めが悪いからずっと残ってるとかって、だからといってそれはしたくないし、あーっ!もうどうしようか、どうしたらいいんだろ」

 今度はジタバタし始めた。こんなにも豊かに感情を表す鷺山を見たのは久しぶりだった。でもそんな彼を、日向は友として大好きだった。日向自身、ネガティブ思考に陥りそうな時には、鷺山の言動を参考にしていたところもあった。

(おれって、ぎいちゃんをコピってたトコあるんだよな)

 そんなことを思っていると、鷺山が日向の前で突然膝まずいた。

「お願い!ヒナ。オレの代わりに告ってくれ」

「はあぁ?」

 代理告白を迫られた日向は、想像外の願い事にただ驚いた。日向にはまだ彼女がいない、それなのに代わりを頼むなんて、大逸れていると鷺山に抗議した。

「そっか・・・だよなぁ。オレ、もう普通に体が無いんだし、見知らぬオマエがすずちゃんに告ったら、ストーカーにされちゃうかもしれないんだよな?」

 すっかりしょげて、力なく床に座り込んだ。

「すずちゃんって言うんだ?彼女」

「うん」

「明日のお葬式に来てくれるのかな?」

「分かんない、ちゃんと告ってなかったから」

「ふーん、それが心残りだね?」

 鷺山は膝を抱えてコクリと頷いた。どうしたものだろう、と考えたけれど、結局日向にはどうにも出来そうにはなかった。最後にしてあげられることは何?と自問自答していると、鷺山が言った。

「やっぱり、ヒナの体を借りて告ればいいじゃん、なっ、決定!」

 鷺山の提案に日向は、全力で阻止するしかなかった。そして、一時的にも体に入られると大変な苦痛があること、一つの肉体に二つの魂は成立しないことなどを説明した。それから、日向から告白されるよりも、本人から告白された方が良いことも話した。しかし、彼女に好きだったことを告げても、存在しない人間からの好意は無に等しい。つまり、無駄ということになってしまう。それをどうしたら、実現することが出来るのか、再び二人は真剣に頭を悩ませ考えた。

「そういえば、ぎいちゃんの銀色の箱って何が入っている?」

 ふと日向は思った。両親に渡すものがあって、彼女には無かったのだろうか。

「ああ、あれ?お父さんにはタイピン。お母さんにはペンダントトップ」

「買ったの?」

「ううん、オレの手作り。美術部で作った七宝焼き。渡しそびれてた」

「ふぅん美術部・・・えっ美術部?ぎいちゃん野球部じゃなかったの?」

 日向の問いに、急にソワソワし出した。

「あっ、あのさ。オレ、実は肘をやっちゃってさ・・・」

 鷺山の事実を知ることになった。今年の春に肘を故障して、殆ど練習も出来ない状態になってしまい、その治療の間、野球部に籍を置いたまま、リハビリがてら美術部にも在籍していたという。彼の高校では必ず部活動に在籍し、活動をしなくてはならない決まりがあったからだ。そして、その美術部ですずちゃんと知り合ったという。すずちゃんこと、棚橋鈴たなはしれいはクラスは違うけれど、同じ商業科の2年生だという。美術部の部員の大多数が女子で、男子は元から在籍していた男子と含めてもたった3人だけだった。他の部活動からすればハーレム的に見えるが、その実態は片隅に追い払われた淋しい存在だったらしい。

「じゃあ、ぎいちゃんは今度の試合には出られなかった?」

 鷺山は首を横に振った。あの日、事故に遭う前に彼は病院に寄っていた。主治医から「完全に治癒したから、もう肘を気にしないで公式戦にも出られる」と太鼓判をもらったという。学校でも、公式戦への完全復活を期待されていたので、本当に残念な結末となってしまったのだ。

「そうなんだ・・・残念過ぎるよ。何て言ったらいいのか」

「公式戦完全復活記念だったのにな。あーあ、でももう仕方ない!けど、すずちゃんだけは・・・」

「その思いを伝えられたらいいのにね。ぎいちゃん、すずちゃんにはプレゼントとか無い?」

 唸った後、しばらく考え込んでいた鷺山の顔がパッと明るくなった。

「あーった!あった、あった。鈴があった」

「鈴?」

「ウンウン、鈴!チリンと鳴る鈴」

「それがどうした?」

 聞けば、彼女は名前に因んで、珍しい鈴を集めているという。そこで鷺山は、2年くらい前に旅行に行った時にお土産で買った「土鈴」が、箱に入ったまま置いてあると言いい、それをあげようと思っていたようだ。

「それを渡せばいいんだね?」

 鷺山はニッコリと、そしてホッとした表情を見せた。

「善は急げだ!類んとこ電話しなきゃ」

 日向は急いで電話をして、類に事の経緯をまとめて話した。

「なるほど、鷺山の家に電話して、日向がそう言ったから明日持って来てって、言えばいいんだな?」

「うん、そうそう。頼むよ類」

 電話を切ると、鷺山は嬉しそな笑顔で言った。

「ありがとヒナ。オレ、安心して明日を迎えられそうだよ。さて、帰るかな」

 言い終わった瞬間に、鷺山の姿は消えてしまった。明日は平穏に過ごせそうだな、と日向は思った。


 葬式当日。類が電話をしてくれたおかげで、鷺山夫妻は息子の部屋から見つけた「銀色の小箱」と「薄い水色の箱」を持って来てくれた。まだ葬式が始まる前だったので、夫妻は類と日向を手招きして箱の中身を見せてくれた。

「これが一生が作ったという物だけど・・・」

 類は「一生にそんな才能があったとは知らなかった」と驚いた。日向も、色の配色と繊細な線を施したペンダントトップとタイピンを見て「自分なら作れない」と言った。

「ありがとうねルー君、ヒナ君。それと、これは昨日の・・・」

 そして薄い水色の四角い箱を渡された。日向が軽く振ってみると「コロンコロン」と軽やかでかわいい音がした。

「いい音だね」

 類も日向も、その音色を褒めた。

「あの子ね、どこに行った時だったのか忘れちゃったけど、音がいいって買ったのよ。それだけは覚えているの。一生が形見としてあげたいって言うのなら、もらっていただきたいわ」

「はい。絶対にもらってもらいましょうよ」

「まずは会場内から探さないとね」

 類と日向は鷺山夫妻と相談して、受付まで来てくれるようにと、案内放送を入れるようスタッフに申し入れた。その案内放送は間もなく入り、二人は受付で待つことにした。しかし、もうすぐ式が始まるという時間になっても、対象の人物は現れなかった。

「来ないな、告白しなかったから、やっぱり来ないのかな?」

「うーん、どういう訳かぎいちゃんも、居ないんだよなぁ」

「うそぉ、まさか二人で会ってるとか」

「分かんない。タイムアップか?仕切り直しだな、席に着こうぜ」

 開式の案内放送が入り、彼らが着席して間もなく式が始まった。丁度、僧侶の読経が始まろうとした時、後方の扉が少し開き、制服姿の少女二人がスタッフに導かれて入って来た。スタッフは彼女たちを一番後ろの席に座らせると、何事もなかったように退出していった。その様子を見ていた類が、日向を突いて目配せをした。どうやら対象者は、あの二人のうちどちらかのようだ。開式までの間どこにいたのだろう、と類も日向も思った。やがて葬式は終わり、火葬場に行かない参列者は席を立って帰って行った。その中に例の女子高生たちがいるのを認めた。

「あのぅ。お話があるんですけど、ちょっといいですか?」

 葬祭会館の外で、彼女たちに追いついた類と日向は声を掛けた。

「すみません。僕たち棚橋さん、棚橋鈴さんを探しているんです」

 二人のうち、小柄で髪が長い女子高生が「私ですが?」と怪訝そうに答えた。

「すみません、驚かせちゃって。僕たち鷺山君と友だちで、彼から渡して欲しいって預かった物があるんです。もらってくれますか?」

 類は両手で、例の箱を彼女に差し出した。しかし、彼女はそれを受け取ろうとはしなかった。そして、小さな声で「何?キモッ。困るし!ウザイから」と、もう一人の女子高生に助けを求めるような顔をした。助けを求められた背の高いショートカットの友だちは、苦笑すると二人に向かってはっきりと言った。

「この子と鷺山は、鷺山君とはつき合っていたワケじゃないんです。だから、ソレもらう権利はないと思うんですが?」

「えっ、でも同じ部活で彼とは友だちでしょ?」

 類が喰らい付くように言うと、背の高い友だちが言った。

「はあ?友だちでも何でもないんですが!この子には、ちゃんとつき合っているカレシがいるんですけどぉ?」

「はああっ・・・」

 類と日向は思わずハモった。初対面なのに、敵対心を前面に押し出した言い方に圧倒された。

「アナタたち、学校が違うから無理ないことだけど、迷惑な話だからヤメテちょうだい!」

 そして、彼女の友だちが言うのには、鷺山が一方的に好意を抱き、しつこく彼女にアタックしてきたという。それと言うのも、美術部に入った最初の頃に、彼女から親切にされたのを勘違いしたのだと言った。それを聞いて「あり得る話だ」と類と日向は思ってしまった。そして、葬儀への参列は考えていなかったが、彼女の「夢見の悪さ」から、もしかして鷺山に呪われたらヤバイと思い、急いで駆けつけた来たという。

「そうですか。結果、迷惑掛けちゃったんですね、ごめんなさい。アイツ、本当にイイ奴だったんですよ」

 日向は自分のことのようにがっかりしたが、丁寧にお辞儀をすると類と葬祭会館へと戻って行った。類は歩きながら手にした箱を振ると「コロロロン」と、土鈴は淋しい音色を聞かせた。

「おじさん、おばさんに何て言おうか?」

 心配する日向の声は、類の鼓膜まで達しなかったようだ。

「類っ、聞いてる?」

「・・・・・ん?ああ」

 気の無い返事をした類だった。類はこの時、失恋にはこんな形もあるんだなと思っていた。丁度、ロビーの椅子に腰掛けようとした時に、火葬場へと向かう鷺山夫妻がやって来た。

「おじさん、おばさん、ごめんなさい。お役に立てなかったです」

 類が手にした箱を返そうとすると、鷺山肇は首を振り「君たちが持っていて」と優しく言ってくれた。類と日向は深々とお辞儀をして遺族を見送ると、類は手元に残された遺品を、今あった苦い思いと共に胸に抱きしめた。日向も、彼女たちの態度や言い分が無作法だと思ったが、それ以上に鷺山が酷く傷つき、辛かったのだろうと感じた。後から人伝で彼らが耳にしたのは、鷺山が心を寄せたあの女子高生が、光陽高校のアイドル系モテ男子二人にナンパされた、と得意げに友人たちに語っていたということだった。日向が「悪魔は直ぐ近くにもいる」と確信した出来事でもある。その晩のことだった。ベッドに入った日向が、心に残るわだかまりを何とかしたいと考えていた時、窓は閉めてあるのにカーテンの端がふわりと動いた。

「居るんだろ?ぎいちゃん」

 咄嗟に鷺山の存在を感じた日向は、起き上がるともう一度言った。

「出ておいでよ。おれ、ぎいちゃんを責めたりしないよ?だって辛い、よね?」

 鷺山は後ろ向きで現れたが、その輪郭は滲むより、霞むようにぼんやりとして見えた。

「ごめんよヒナ。せっかく二人に動いてもらったのに、あんな結果になっちゃって、オレ情け無いよ」

「失恋って言うんだよね?痛いよ胸が・・・なぜだか知らないけど、失恋したのがぎいちゃんなのに、おれの胸痛い。あれ?変だな、涙が出てきた」

 日向は涙が頬を伝うのを感じていた。鷺山は、昨夜のその後のことを話し始めた。あの後彼女の所へ行き、気持ちを伝えようとしたという。しかしそこで、彼女に二股を掛けられていた事実を知ったのだ。彼女は元々、三年生の先輩とつき合っていたのだが、思うような進展が無かったらしく、手頃な同級生の鷺山を誘った。先輩が忙しい時には鷺山と遊び、鷺山と一緒に居るのが鬱陶しくなると先輩と居たようだ。それを知ることになったのが、彼女の親友との会話だったそうだ。

「もっとアタシに仕えてくれると思ったけど、アイツおっ死んじゃったからねぇ。イケメンの類に入るからキープしてやったんだけど。ウン、アタシにはまだ先輩がいるから関係ないし」

 と、そんな会話もしていたそうだ。一応、カレだった鷺山の死を悼む訳でもなく、勝手なことを並べていたようだ。そこで鷺山は、腹が立って仕方なかったので、少し意地悪をしてやろうと思い、彼女が眠ってからその夢に何も語らず、登場してやったという。

(なるほど、それで夢見が悪いと言っていたのか)

 日向は合点がいった。自分もそんな状況だったら、同じようなことをしたかも知れないと思った。そして二人は、今まで話せなかったことを沢山、夜遅くまで語り合った。


 それから、一週間後。鷺山と楽しみしていた、光陽高校対城山商業の試合が曇天の中始まった。城山商業の選手たちは、左肩に喪章を着けて試合に臨んだ。

(ぎいちゃんが生きてたら、あのショートを守っていたんだな)

 日向は、今は別人が守るポジションをベンチから眺めていた。今日の先発は日向だったが、普段よりも落ち着いて丁寧に投げることが出来、相手打線をノーヒットと抑えたこともあって、7回以降はベンチに下がっていた。2番手でマウンドに上がった木村も、思った以上に好投して先制点を守り切りった結果、1対0で光陽が勝って試合は終了した。

「何だ、小堺。勝ったのに嬉しくないんか?」

 杉下が日向の背中を突いた。

「いや、嬉しいよ。でも、私情を挟むとちょい複雑な心境かな」

「ふううん、そーなんだ。オレにはよく分かんないけど、きっとそいつも喜んでくれてると思うよ?」

 いつものように日向に、にこやかな笑顔を向けてくれる杉下だった。そして球場から帰る間際に、雨がパラパラと降り出してきた。

「降ってきたな、涙雨か」

 空を見上げて杉下が言う。

「オマエが言うか?」

 後ろにいた田中が、杉下の尻に軽く蹴りを入れた。

「イテッ。太田ぁ、便乗すんなよ!」

「えーっ、オレ何にもしてねーし。人のせいにすんなよぉ」

 相変わらす賑やかな2年生たちだ。

(おれ、本当に恵まれてるよな。感謝の気持ち、忘れないようにしないと)

 日向は思った。一方の類も、そんなやり取りを眺め、同じような思いを抱いたのだった。帰りのバスの中で、類は日向の隣に座ると訊いてきた。

「なあ、日向。今日アイツどうだった?」

 試合中、ずっと気になっていたのだろう。類のことだから、聞くのを我慢していたのだと日向は思った。

「そーだなぁ・・・」

 類の訊きたいであろう箇所を、日向は簡単にまとめた。鷺山が両校を応援してくれたこと、マウンドまで来て励ましてくれたり、類の横でファインプレーを褒めたり、城山のショートにダメ出しをしていたことなどだ。

「アイツらしいな。オレのことも、褒めてくれたんだ・・・」

「うん、お世辞抜きだと思うよ。あの打球取っちゃうなんてスゲー!って、おれも思ったよ。あれが抜けてたら2塁打じゃん?神ってたと思う。ありがとな類」

「あぁ」

 短く応えた類の横顔は、少し寂しそうに見えた。鷺山が生きていたら、もっと違う感動があったのだろう、と思ったのは日向だけではない。窓を叩く雨粒のように、彼らの心に何かを問うものがあった。

「おい小堺」

 前の席から突然声を掛けてきたのは榊原だった。

「杉下が言ってたんだけど、小堺のクセ球って何?」

 聞かれた日向が驚いた。

「上手く言えないけど、こんな風に変化するやつ」

 榊原の隣に座っていた長野が、手のひらをヒラヒラさせて見せた。日向には心あたりが無かったので、知らないと答えた。すると、後ろから杉下が「ムービングファスト」と言ったので、殆ど全員が声を併せて「ムービング?」と言った。

「あるのかよ、そんな変化球?」

「てか、投げてる本人知らないとか」

 車内はちょっとした騒ぎになった。日向自身もどんな球種なのかも分からないので、コメントすることが出来なかった。

「もしかして、前の試合で言ってたヘンテコボールのこと?」

「そそ、今日の試合じゃ、一球も投げなかったよな」

「はぁ?だってそんなサイン出さなかったじゃん」

「かと言って、それ専用のサイン出しようが無いだろ?」

 バスの中の全員が、少し理解しかねる状態のようだった。杉下が「分からない皆のために」と解説しだした。簡単に言うと、それは滅多に投げないと言うのか、投げられない。つまり、直球系の変化球ではあるが、握りを意識しなかった日向の指が、シームに掛かった時の掛かり具合による変化だろうという。多分「日向的、丁寧に投げたつもりの雑な投球」が引き起こすようだ。

「へー、そうなのか。それって、確立されればちゃんとした武器になるよね?」

 ニタニタした顔で横の席から榊原が言った。

「なるほど、小堺は新境地の開拓をしてもイイかもな」

 太田と田中が頷いた。

「小堺先輩スゴイじゃないですか!漫画みたい」

 木村もはしゃいだ。

「だが断る!」

 突然、類が声を上げた。誰もがポカンとしている。そして類は、ぐるりと見回して言った。

「オレ、心配症かも知れないけど、日向が変化球を覚えて、小技で凌ぐ投手になったらオレは嫌だ。コイツは他人から言われるほど器用じゃないし、今までみたいに気持ちイイくらいのストレートで、カウント取りに行ってもらいたいから」

「あーーーっ」

 車内のあちこちから、納得と惜しむ溜息が漏れた。確かに、ここぞと言う時の日向のストレートは、打者手前の伸びに定評がある。投手として日向は、何だか気恥ずかしかった。すると、それを聞いていた監督が言った。

「いや。それならシュートに替わる武器として、やる価値はあるんじゃないか?シュートは腕に負担を掛けてしまうこともあるし、小堺の最大の武器は、見せ球としても価値は充分に発揮できている。ということでどうだ?杉下、小堺がその変化球を投げるタイミングとか、分かるのか?」

「あっ、はい。大体ですが、続けてカーブを投げた後、真っ直ぐを要求した時にありました。東高との時には、それでアウトが取れてラッキーでした」

「なるほど、試してみる価値はありそうだな」

 監督の言葉に拍手が沸き起こった。

「藪ヘビだな」

 類は頭を掻いた。日向は杉下が話していた「ヘンテコボール」が、わりと凄い価値を発揮するものだと驚いた。意識的に投げなかったボールが、変化して打者を打ち取る材料となるのは、これから試合をしていく上で大切だと思った。そして、指導者として当たり前かもしれないが、シュートを切り札としている日向を、心配してくれていた監督には感謝するしかなかった。

「おまえが、ストレートを意識しないで投げてるって、初めて知ったぞ」

 類は満面の笑みで日向を小突き回した。少年野球時代からの、手荒い歓迎の仕方だ。

「イテテテッ。じゃないって、してる!してる!」

 こんな二人を眺め、微笑んでいた鷺山の姿は、日向でさえ気づことはかなかった。


 5.果然


「次は小堺の番だぞ!」

 日向はベンチから立ち上がると、バスケットコートに立った。体育の授業でのバスケットボールは、日向が得意とするものでもある。ボールを追いかけコート狭しと走り回るので、ファウルを取られることがある。その日もパスをもらい、ゴール手前までドリブルをしてパスをした時「ピーーッ」と鋭くホイッスルが吹かれた。

「うそーーっ、3歩も歩いてないよぉ?」

 日向の抗議に、主審のバスケット部の鈴木は笑った。

「小堺じゃなくって、井上だよ。井上のファウル!」

 どうやら対戦チームの井上が、日向がパスをした相手に妨害をしてファウルを取られた。それからは白熱したゲームが続き、先に試合が終わったチームがそれを見学していた。

「パス、パース!」「走れ!」「いいぞ、行けぇーっ!」

 騒々しい応援も始まり、体育館全体が熱を帯びてきた。

「ディフェーンス!」

 誰かが叫んだ時にアクシデントが起こり、水を打ったようにその場は静まり返った。オフェンスの日向にパスが渡る瞬間、ディフェンスの八木が、阻止しようとジャンプして衝突したのだ。日向は八木の下敷きになって倒れている。かなり激しく衝突した様子で、八木はそれでも起き上がることができたが、日向はなかなか起き上がれないでいた。

「すまん、小堺大丈夫か?」

 八木は心配そうに、横たわった日向を見守っている。鈴木と体育教師も慌てて起こしに来た。日向は脇腹を押さえ、苦痛に顔を歪めてうめき声を上げている。

「しっかりしろ小堺!どこが痛い?」

「肋骨が・・・イテテテテ・・・」

 体育教師の佐々木は、鈴木に試合の続行を頼むと、ヒョイと日向を抱えて保健室へと運んで行った。同じチームで試合をしていた類は、心配で仕方なかったが試合続行とあって、付いていてあげることはできなかった。バスケットの試合の結果は、日向と類のチームが1点という僅差で負けてしまった。やがてチャイムが鳴って、体育の授業は終わったが、教師の佐々木は体育館には戻って来なかった。生徒たちは各々、用具を片付け2年B組の教室へと戻って行った。男子生徒が教室に戻ると、耳の早い女子たちは、授業中に日向が倒れたことを知っていた。

「佐々木先生が、小堺君を病院へ連れて行ったんだって」

「先生戻って来なかったもんな」

「アイツ大丈夫かなぁ。次の試合も投げる予定なんだろ?糸川」

「うん、予定ではな。投げられたらいいけど」

「俺、悪いことしちゃった。小堺が投げられなかったらどうしよう」

 当事者の八木はしょげ返っている。類は「日向の他にも、ピッチャーはいるから安心しろ」と言ってはみたものの、やはり心配で仕方なかった。次の授業も、その次の授業も日向は戻って来なかった。とうとうその日の最終の授業前になって、ようやく教室に姿を現した。

「お騒がせして、すみませんでした」

 わりと元気そうに戻ってきたので、クラスの仲間はホッっとした。担任の菅野も一安心した様子だったが、類だけはその動作から「異変」を感じ、授業が終わるとそっと日向に聞いてみた。

「やっちゃっただろ?」

 言われた日向は、嘘はつけないと思い頷いた。日向によると、八木と衝突して床に叩きつけられた時、運悪く彼の肘が当たり、肋骨にダメージを与えてしまったという。検査の結果、折れてはいないがヒビが入っているという。痛みは鎮痛薬で抑えているので、今は何とか動けるらしい。しかし、しばらく運動は禁止されてしまったので、次の試合では投げることも、守ることも出来ない。いや、それ以前に練習することも出来ない状態だと説明した。

「ここまできて悔しいな。ホント悔しいよ・・・おれ、調子に乗ってたかな。調子に乗りすぎてたかな?」

 自問自答する日向の姿に、類は鷺山を重ねて、胸が苦しく感じられた。その日の放課後、野球部の練習前ミーティングで顧問の内藤先生が、日向の負傷を伝え、選手登録から外れたことを伝えた。

「と言う訳で小堺からは、皆に迷惑を掛けてしまい申し訳ないということでした。以上です」

 あちらこちらから溜息が漏れ、シュンと静まり返えってしまった。しかし、キャプテンの篠原は、こんな時だからこそ力を併せ、結束しなくてはいけないと檄を飛ばした。次の対戦相手は、県西部の勇と言われている浜央高校だ。過去に何回かの全国優勝を経験し、プロ野球の選手を輩出している名門校でもある。

「君たちは、今までやってきたことを試合で発揮すればいい!ただそれだけのことだ」

 監督の兵頭は口をきつく結んだ。いつ、どんなアクシデントがあるのかは分からない。それは、参加するどの学校も同じ条件だ。しかし、それを想定内としてチームをまとめ、対応しなくてはならないが、今回はいささか時間もなく、じっくりと考えることができない。今まで日向が好調だったこともあり、木村とは余裕で交代が出来ていた。今回は再び強豪と戦うにあったって、木村一人に任せるのは任が重過ぎる。投手は木村の他にあと一人、同じ1年の高橋がいる。しかし、高橋は実績と経験値が圧倒的に不足している。中学生時代の途中から投手に抜擢されたといい、主に控えに回っていたようだ。なかなか器用でコントロールも良いのだが、スケール的には日向をダウンサイズした感じだ。兵頭監督は短期間ながら、二人の投手に貼り付いて指導することになった。


 その日、日向は学校帰りに、松下神社に立ち寄ることを決心した。最近身辺が忙しく、あの神様にお礼の一つも言えてなかったことを、今更ながら悔やんだ。自転車に乗ることには痛みはなかったので、部活休止中、一人の時間にやっておこうと思ったのだ。鳥居の手前で自転車を降り、駐車場脇に自転車を置くと、参道を何も考えないで歩いて行った。境内は参拝や散歩する人影はまばらで、池の鯉さえもいつもよりゆっくりと泳いでいるように見えた。拝殿近くまで来ると、巫女さんが掃除をしている姿を見つけ、日向は思わずその反対側を進み、本殿裏手の別社へと急いだ。こんな行動を取ったのは、どこか卑屈な思いがあったからだろう、と日向は後から思った。

「神様、お久しぶりです。おれ・・・」

 そこまで言うと言葉に詰まった。言葉で伝えようとすると、胸が締め付けられる感じがした。

(おれが何をどう言っても、神様には全部お見通しだよね?おれって、どうしようもなく、どうしようもなく・・・ゴメン神様っ、ああ、無理、やっぱりダメだ。ダメだ)

 日向はその場から駆け出すと、逃げるようにして自宅に帰って来てしまった。自宅には既に母が帰宅していた。学校からの連絡を受け、早めに仕事を切り上げてきたという。

「お帰りなさい、本当にビックリよ。折れてなくて良かったわ」

「う、うん。ゴメン迷惑かけちゃったね」

「謝ることはないわ日向、あなた自分を責めちゃだめよ?」

 母は日向の心を見透かすように言った。「責めてはいけない」という母の言葉が、強い印象を持って日向の心に焼きついた。色々なことを考え過ぎて、ぐちゃぐちゃになった心に、一筋の光が差したような感じだった。父は「取り返しのつかないケガでなくて良かった」と、そして「しっかり治せば、残り1年弱頑張れるだろ」と励ましの言葉をくれた。

(そうだ、まだあと半年以上あるじゃないか!)

父が励ましてくれた言葉は、最初はただの励ましの言葉でしかなく、日向の頭の中を行ったり来たりしていた。しかし、何度か繰り返されていくうちに、下しか向けなくなってしまいそうな気持ちを、前を向いていこうと思う気持ちに変えていってくれた。今の自分はしばらく野球が出来ないけれど、皆を応援することなら出来る。

(そうだ、そうなんだ!治ったらまた頑張って、甲子園目指すんだから)

ケガをしてからのあの、情け無い気持ちは何だったのか?と思ったら苦笑してしまった。

「その気持ち、大切にいたせ」

突然、あの懐かしくも優しい声が頭に響いたのは、休もうとベッドに入った時だった。日向の胸には、温かいものが湧き出し、満たされてくるのを感じた。ほっこりとした気持ちになれた日向は、鎮痛薬の作用もあってか、いつの間にか眠ってしまった。それに、最近は夢を見なくなっていた筈なのに、その夜は「古代史小説」のような不思議な夢を見た。なぜそんな夢を見たのか分からないけれど、それは多分、あの神様が人だった時代の記憶ではないか、と思った。断片的で、はっきりとは思い出せないが、とても優しくて、温かで奇特な人だったと感じられた。一般的にいわれる神様とは、創造神に代表されるが、自然界の山や木々に宿る精霊が殆どである、しかし、稀に人間界からも気高い魂を持ち、神として迎えられる者がいる。その夢は、夢を見たというよりは、ドラマを観たような感覚が残った。そして、日向の記憶に強く刻み付けられた言葉があった。「汝の役目を果たせ」というものだ。これは、あの神様自身の命題ではなく、神様から日向へ送られたメッセージではないかと感じられた。随分抽象的で、難解な宿題を出されたな、と日向は思った。

「おれの役目って何だろ」それからの日々、日に一回は考えることになった。


三日後。浜央高校戦は善戦むなしく、光陽高校の完敗に終わった。試合には負けてしまったけれど、選手たちは強豪相手にやるだけやったという、充実感に満ちているようにも思えた。

「皆、お疲れさま!」

日向はスタンドから声を張り上げた。

「応援ありがとな!」

篠原が応え、他の部員たちは手を振って応えた。スタンドでは応援団をはじめ、チアの部員や吹奏楽部の部員たちが帰り支度を始めた。そして、生徒会の役員たちは、ゴミ拾い用のビニール袋を手にスタンドに散って行った。そんな中、日向は一人の女生徒が気になった。彼女の全身に、薄いもやがまとわり付いているように見える。目の錯覚かと思い、目を擦ってももやが見えた。

「あれぇ?小堺も、生徒会のアイドルみやこちゃんが眩しく見えるんか?」

同じクラスの委員、谷口充たにぐちみつるが声を掛けてきた。

「ん?あっ谷口じゃん。京ちゃんとかって、気安く呼んでるけど谷口だって眩しい対象だろ」

「ははは」

「怪しいな、谷口も本当は恋愛感情アリアリだろ?隅に置けないぜ」

「そんなことないけど、小堺は本当に眩しかったのか?」

「ううん。もやって見えたから目を擦ったんだ」

「えっ・・・」

谷口は絶句したような様子を見せた。

「どうかした?」

「あのさ、オレも時々あの子がもやって見える」

「はあ?」

「・・・・・・」

二人は顔を見合わせたまま、しばらく動けないでいた。

「集めたゴミを持って来て下さぁい!」

ゴミ拾いの責任者が、スタンド中央出入り口で大声を響かせた。「アッ」と小さく叫んだ谷口は、急いでゴミを捨てに行ってしまったので、残された日向は野球部の部員として学校へ帰って行った。バスの中では、日向がスコアブックと併せて、試合で気が付いた事を報告した。

「参考にならないかも知れないけど、おれなりに見た感じだから、余り気にしないでもいいよ」

「いやいや先輩、オレは参考になりましたよ。オレにはもっとタメが必要なんだってね」

藤川が喜んで頷いた。三枝も同じくウンウンと頷いている。試合に出なかった他の1年生も、口々に参考になったと言ってくれたので日向は嬉しかった。学校に到着してからは、皆と同じように用具運びをしようとして「大人しくしていなさい」と内藤先生に叱られてしまった。

「そうだぞ、先生の言うとおりだ。悪化させて、もっと休みたいなら話は別だけどな」

「わー、榊原ってしょっぱいヤツなんだぁ」

「バーカ!大人しくしてないと早く治らんだろ」

「だけどさ・・・」

「いいから、何にもしないでおけ」

「・・・うん」

何だか手持ち無沙汰で落ち着かなかった。しかし、それから行われた反省会も加えてもらい、日向的に仲間意識を満足させてもらった。解散になり、いつものように類と自転車置き場へ行くと、谷口とばったり会った。

「お疲れ!谷口」

「おっお疲れ小堺、糸川・・・小堺、ちょっと時間あるか?」

「うん。別にいいよ今から?」

谷口は黙って頷いた。

「ふーん、類も一緒でいい?三人で」

「あっいや、四人で」

「ああ、なるほどね。谷口、類は知ってるから大丈夫だよ」

「え?」

谷口と類は殆ど同時に驚いた。

「同じ力あるみたいなんだ。谷口は」

類は日向と同じ力のある人が、どこかに必ず居るはずだといつも思っていたのだ。それがこんなに近くにいたのには驚いた。そして、類の好奇心は大いにくすぐられた。

「なあ谷口、オマエどの程度見える?」

「見えるって何が?」

「そりゃあ、アレだよ。向こう側の人とかだよ」

「向こう側の人?あぁ、ううっ・・・。よく分からないけど」

「あっ、京さん来たよ。どこか行く?多胡屋でもいいよ」

日向の弾んだ声で、類と谷口の会話は途切れた。

「お好み焼き?ちょっと遅いおやつだけど賛成!」

という流れで、学校に近いお好み焼き屋に行くことに決めた。

「おれ、多胡屋スペシャル!」

お店の人が、注文を取りに来る前に日向は決めていた。

「オレはいつもの和風にしょっと。谷口と彼女は?」

類の言葉に谷口とみやこは顔を見合わせて笑った。

「え?オレ、何か変なこと言った?」

きょとんとした顔の類に、谷口は二人の間柄を説明した。

「へー、いとこ同士なんだぁ」

類と日向は口を揃えて言った。谷口の母方のいとこで、普通科の1年生だという。

「あんまり似てないよね?」

納得がいかない風の日向が、二人を見比べている。

「外見は似ていないけど、ふとした仕草とか表情とか似てるらしいよ?」

「いやだー。ミッ君、全然似てないよお」

京は愉快そうに笑った。それぞれお好み焼きを焼きを焼き始め、美味しそうに焼きあがると、四人は無言で食べ進めていった。

「そういえば谷口、何の話するんだった?」

半分を食べた頃、静けさに耐えかねた日向が、谷口に話を振った。

「ああ、そうだったな・・・」

谷口は、自分たちがまだ小さかった頃、京の家に遊びに行った時のことを話始めた。どちらかと言うと体が丈夫でなかった京は、深窓の令嬢という古い表現が合う、ビスクドールのように色の白過ぎる少女だった。両親の他に、そんな彼女を心配している一人に祖母の紀子のりこがいた。京は紀子の膝にちょこんと座わるのが好きで、時に祖母を交えて充と遊んだりしていたようだ。そして、祖母が他界した後から、その異変が起こったという。京の体調が優れない時には、必ずと言っていい程、彼女の体にもやがまとわり付いたという。それは、京の両親を含め、周りの人には見えないけれど、当時から充だけが見えたという。早くからそれに気づいていた充は、京の健康状態が手に取るよに分かったようだ。

「ここ数年、もやが着くなんて殆ど無くて安心していたのに、ぶり返して心配してたんだ」

「ミッ君はそう言うけど、体調悪くないのにおかしいでしょ?」

「オレが言うのも変だけど、変じゃね?何か別の理由でとか」

類の言葉に二人が敏感に反応した。

「だからぁ、それが何か分かれば、って話だよな?日向」

「うん。京さんにもやが見える、って谷口にいつ言われたの?」

「さん付けじゃなくてもいいですよ。先輩」

「んじゃ、おれはミヤちゃんって呼ぶよ」

京は微笑んだ。それは小学生になった位の頃、体がだるくて仕方がなかった日、遊びに来た充が開口一番に「モヤモヤ付いてる」と言ったそうだ。一緒に居た母親たちは、学校で流行っている「ふざけた遊び」を始めようとしたのだと思い充を叱った。それ以来、充は京と二人でいる時以外は、人前ではもやが付いていることは言わなくなったようだ。

「私が調子の悪い時には、もやもやが付いているって、ミッ君が教えてくれたけど・・・」

京が困ったような顔をした。

「もやの正体が分からないってことだよな」

四人は揃って頷き、少しの沈黙があった。それから谷口に、もやもやの色について聞いてみた。

「色?うーん。最初は黒っぽい灰色に青が混ざった色かな。それから段々と薄くなったって言うのか・・・」

「青っぽい灰色?その頃の病気は何だった?」

「肺炎とか、気管支炎だったかな。早目に病院へ行ってたから、わりと軽くて済んだよな?入院しなくて良かった、って記憶あるから」

その通りだった、と京は頷いた。

「最近は?」

「中学1年の時のインフルかな?タミフルやリレンザ飲まなくていいほど軽かったの」

京の話を聞きながら、日向は類の皿から一切れ盗み食いをして、類から小突かれた。

「先輩たち、本当に仲良しなんですね。兄弟みたい」

クスクス笑う京に、優しい眼差しを向ける谷口は、まるで妹を心配する兄のように見える。ふと何か思いついたのか、日向は谷口に今はどんな風に見えているのか訊ねた。

「今?うーん、白っぽいのにピンクがちょっとで、緑も見えるな」

「はぁ!?それって、おれの見えると違うじゃん!!」

日向はてっきり、自分と同じようなモノが見えるのだ、と思い込んでいたのだ。そして類も同じく思っていたので驚いたが、谷口のそれがオーラだと思い当たり興奮した。

「ねねっ、それってオーラだよ!絶対にオーラ。貴重じゃね?オレ、オレにも出てる?」

谷口は、自分に見えるものがオーラだと聞かされ、信じられないような表情をした。しかし、一呼吸を置いて、ゆっくりと類を見つめると頷いて言った。

「見えるよ、糸川のは緑と赤と白が殆ど。小堺は白、緑、金、赤、紫で凄く輝いてる」

「スゲー!ホントにスゲーぞ谷口!」

日向も手放しで喜んだ。歯にかんだような笑みを浮かべ、それを褒められたのは初めてだ、と谷口は言った。京も自分のことのように喜んだ。

「良い力だね。見えない人に見えるから、って言っても信じてもらえないのが殆どだし。自信持っていいんじゃない?」

「うん、ありがとう。でもこれをオープンにはしないし、する気もない。ところで小堺が見えるって、どんなもの?」

「信じられないかも知れないけど」

そう前置きをして、日向は鷺山の一件を谷口と京に訊かせた。

「何だかちょっと怖い。先輩は怖いと感じたこと無いですか?」

「無いね。亡くなった人は怖くはないよ?だって、心配する余りに・・・」

そこまで言うと、日向は京のもやの正体が分かった。

「あっ、そうなんだ。おれに見えるミヤちゃんのもやは、おばあちゃんだよ!ミヤちゃんが心配で心配で仕方なかったんだ。だから守ってくれていたんだよ」

「おばあちゃんが!?先輩ありがとう・・・」

京は祖母に思いを馳せ、涙をこぼし、谷口もまた祖母との思い出に涙した。日向は、病弱な孫を守るという役目を務めたその人に、感謝の意を心の中で唱えた。そして自らも人の為になりたいと強く誓った。

(還る場所に行くまでは、頑張って生きなきゃ、だね)

「さあ、家に帰ろう!」



















































































 

今まで生きてきて、嫌なことばかり?でもそれは、嫌なことばかりが記憶に強く焼きついているからだといいます。残念ながら、楽しかった大好きな記憶は、そんな嫌な記憶に埋もれてしまう。この話を書いている間に、個人的ですが母が亡くなり、嫌な記憶の一つになりました。大好きな記憶を拾い集め、身の丈で生活し、身の丈の幸せに浸り、それ以上は羨ましく思わない。本人的にはそれでいいと思いますが、人間欲が深いので満足しないですね。この話の主人公たちはよく笑い、よく話し、よく努力をしています。彼らに負けないように努力し、頑張って生きたいと考えます。

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