6.新作と埋もれた時計
庚陽介こと俺が、ノートパソコンのキーボードをカタカタと叩く音だけがリビングとダイニングとキッチンが一体になっている部屋に響いていた――かと言えばそんなことはない。
俺が無言で脳ミソをフル回転させている間に、現在唯一空間を共有している謎の女子高生――花宮栞が、俺が過去にグダグダと書いてきた物語の扉を片っ端から開いてはダイブして行き、その度に泣いたり笑ったりとしている様を、聴覚だけで感じ取っていた。
その時その時の表情が気になるくらいには、俺は花宮の容姿を可愛らしく思ってはいるが、それ以上にその感情を表面に出して花宮に悟られたくない為に、一心不乱にディスプレイと向き合っていた。
どれくらいの時間を費やしたのか分からない程に集中していたわけだが、病体をさらに追い詰めながらようやく一作品書き終わり冷静に考えてみると、花宮のお粥を二度食べたので(こいつはお粥しか作れないのか、と一瞬呆れ掛けたが、よくよく考えてこの家には他の食材が無いことを思い出し少し反省した)恐らく昼は過ぎている。
というかこの時点で、俺は昨日の夕方目覚めてから一睡もしてない。
もう風邪が悪化することは覚悟していたが実際は何故かそんなこともなく、不思議なことにむしろ体調が良くなったようにさえ感じる。
アドレナリンが分泌されているのかもしれない。
まあともかく、花宮に要求された作品は出来上がった訳なので、その新たに産み出された紙束を持って、歴史的紙束達に埋もれる花宮の方へ近付いていく。
と、俺に気付いた花宮が驚くべきことを口にする。
「あ、陽介さん。出来上がりましたか? 調度今、この物語達を読み終えたところです」
そう言ってテーブルに積み上げられた紙束達を一瞥する。
「え、読み終えたって……全部?」
「はい、全部です。思いの外楽しんでしまいました。その影響で、1ミクロンくらいは変わってしまったかもしれませんね、私の人格」
ミクロンて。
微動だにしねえな。
それにしてもこいつ、俺が数年掛けて書いてきた短編長編含んで52作品を、この数時間で読破してしまったというのか……。
驚異的な速読だ。
「何か驚いた顔をしていますけれど、もう大分時間経ってるんですよ? あ、夕飯作るのを忘れて――」
そこで、花宮がフリーズした。
「あの、陽介さん……今何時ですか?」
部屋に壁掛けの時計はない。ダイニングのテーブルの上に大きめのデジタル時計があるのが唯一の時間を知る術だが、今は紙の山に埋もれてしまっている。
花宮が来る前には姿が見えていたので、恐らく花宮が読書に夢中で気付かずに埋めてしまったのだろう。
「その辺の紙の下に時計がないか?」
そう俺が示唆すると、花宮は目の前の紙の山を掻き分け始めた。
なんだか、やたら慌てている。
その表情に余裕がないのを見て、俺も手伝ってやることにした。
「多分この辺だろ」
勝手知ったる自分の部屋である。
見えなくとも、時計の大体の位置は把握している。
俺が紙を退かすと、時計は直ぐに姿を表した。
「うわ」
そのデジタル時計のディスプレイには、『21:05』と表示されていた。
俺も、花宮も、時間の感覚がおかしくなっていたらしい。
まあ、本の世界に入っている時にはままあることなのだが。
「もうこんな――」
「帰ります」
時間なんだな、と言おうと思ったのだが、花宮の言葉に遮断された。
真顔で帰宅の意思を示した花宮はおもむろに立上がり、俺に軽く会釈をすると足早に玄関へと向かった。
「あ、ちょっと待て!」
「すみません! 門限過ぎてるんです!」
花宮の物言いには何か鬼気迫るものがあったが、俺としては手に持っているこれだけは渡しておきたかった。
花宮の後を追い、彼女が座って手早くローファーを履き玄関を出ようした時、俺はその華奢な手首を掴んだ。
「待てって」
「ごめんなさい、今は陽介さんに構ってる余裕は無いんです!」
「勝手なこと言うなよ!」
俺が怒鳴ると、花宮はビクッと身体を震わせ、動きを止めた。
「あ……悪い、大きな声出して……」
花宮の背中に、謝罪する。
「でも、ほら、これ」
そう言って、俺は花宮の肩に、先程出来上がったばかりの原稿を乗せる。
「お前の為に書いたんだ。読んで、感想聞かせてくれよ」
少しの間を置いて、花宮は肩に乗ったそれを、振り向くことなく掴んだ。
「分かりました……読みます、必ず。今日は、これで失礼します」
そして花宮は。
静かにドアを開けて、宵闇の中に溶け消えていった。