9.エゴイストと少女の決意
「不思議、でした」
花宮の話は、まだ続いている。
「魘されている陽介さんを最初に見たときは、ただどうにかしなくちゃっていう気持ちしかなくて、それで看病したんですけど、ある程度陽介さんの容態が落ち着くと、そのときには私の気持ちも少し落ち着いていて、本を読みました」
「本を?」
「はい、陽介さんの寝室にある本棚から、適当に1冊取って、勝手に。すみません」
「いや、それはいいけど……」
今更な話でもある。
「その本は、特にそんな、心に響くような内容ではなくって、学園青春っていう感じで、ただいいなーって思っちゃっただけなんですけど」
でも、と言う。
「私は救われました、その本に。少しの間だったけど、私の心を、違うところに連れて行ってくれた。現実を、忘れさせてくれました。本の表紙は異世界への扉だって、どこかで聞いたことありますけど、それは本当でした。
だから昨日、陽介さんが小説で世界を変えると言ったときは、本当に驚きました。私は小説を逃げ道にしているだけのただの読者だったので、物語で何かを成すという発想はなかったんです。すごいと思いました、勿体ないと思いました、このまま陽介さんがただの会社員で終わってしまうのは。だから、けしかけたんですよ」
「ああ、まんまとしてやられたよ」
「ふふ、小説を書いてる時の陽介さんは本当に良い顔をしていますから、感謝して欲しいくらいです。まあ実際、してやられたのは私の方なんですけどね」
「へ?」
「本当にまんまと、してやられました。陽介さん、貴方の小説を読破してしまった私は、理不尽に耐えられなくなってしまったみたいです」
花宮は、どこか哀しそうな目で微笑んだ。
「いつものように暴力振るう父に、始めて反抗してしまいました。それで、この有り様です」
そう言って額のガーゼを示す。
「なんか、すまない……」
「謝らないでください。私が勝手に読ませてもらったんですし、反抗したのも私です。陽介さんは何も悪くない。悪いのは私と、父です。いつもは、顔までは殴られないんですが、流石に激昂してしまって……あはは」
笑い事ではない。
痕が残ったらどうするんだよ。
「そして父が寝静まった後に、陽介さんの新作を読みました。涙が止まりませんでした」
そう言って花宮はさっきからずっと持っていた、くしゃくしゃの紙の束を、昨日は散乱していたテーブルの上に置いた。
「何度も、何度も読みました、夜通し。陽介さん、聞いても良いですか?」
「ああ」
「どうしてグレアは、あんなに頑張れるんですか?」
グレア。グレア・ハーヴェスタというのが、俺が花宮に渡し新作の主人公――貧民街の義賊の名だった。
「他人の為に命を懸けて、それでも生きることを諦めないで。他人の為に死ぬのは簡単です。私も父の為に死のうと思いましたけど、それは心のどこかで、自分も楽になりたいという思いがあったんだと思います。でも人の為に生きるのは、途方もなく大変です。誰だって、自分が可愛いじゃないですか。だから思いました。この作品は私への当て付けなんだって」
花宮のその、誇大妄想にも近い物言いに、俺は少し呆れてしまったが、若者のそういうところを否定せずに導いてやるのが大人の役割だろう。
「買い被るな。当て付けであるはずがないだろう? 俺はお前の事情とか内情とか心情なんて何も知らないでそれを書いたんだ。だからお前が感じたことはお前の心がそうさせたんだよ。そして勘違いをするな 。これまで数々の本を読んで来たんだから、そこを見落とすなよ。グレア・ハーヴェスタは他人の為に生きてなんかいない」
自分の内心に反して、思いっきり花宮の考えを否定してしまった。ふう、人生ってのは思うように行かないものだ。それでもまあ、やりたいようにはやれなかったけれど、言いたいことは言えたのでよしとしよう。
「どうゆうことですか? グレアは自分じゃない人の為に盗みを働いて、自分を追う国民達の為に、命懸けで王の元へ行こうとしたじゃないですか。これが人の為でなかったら、なんだと言うんです?」
「自分の為だよ」
花宮は虚を突かれたような顔をする。本当に、そこには及びもしなかったようだ。
「彼は、客観的にはどうあれ彼の主観では、義賊であった時も指名手配された時も、自分の為にしか動いていない」
「でも、グレアは貧しい人達が普通に生活出来るように、盗みを働いていたんじゃないんですか?」
「だから、それが自分の為なんだよ。他の人から見れば、お前が思ったように他人の為に頑張る良い奴かもしれない。でも彼は、別に他人の為に頑張ったことなんて一度もないんだ。彼は、他の人が苦しんでいるのが嫌だっただけなんだ。自分が嫌だから、自分が不快にならない為に、そういう行いをしたんだよ。だからつまり、客観的でも主観的でもない第3の視点から見てみれば、事実はこういうことだ。『彼が自分の為にしたことが偶然他人の為になった』」
花宮は何も言わずに硬直していた。恐らく、頭の中で認識を切り替えているのだろう。
そんな花宮に、俺はまだ話を続ける。
「だから彼は、指名手配されて今まで盗品を配ってた連中が自分を捕まえようとしても、別に恨まなかった。恩を仇で返されたなんて思わなかったんだ。当たり前だ。だって、そもそも盗みを働いてたのは自分の為で、恩を与えてるなんて、彼は一切思ってなかったんだから」
「そんなのって……」
花宮が、ある種のショックを受けたように俯く。
「良い人過ぎるじゃないですか」
だからまあ。
「客観的にはな」
そして俺は結論を言う。
「つまり彼は、お前が思ったように他人の為に死のうとも、他人の為に生きようともしてない。グレアは、自分の為に生きてるんだ、世の中に溢れてるすべての人間と一緒でな。花宮、お前が言った通り、誰だって自分が可愛い。それはグレアだって同じなんだよ」
花宮は少しの間考えるように黙っていたが、やがて顔を上げると、気丈に口を開いた。
「 分かりました………陽介さん」
「ん?」
「あなたはひねくれています」
「いきなり失礼だなっ!?」
そうかもしれないけれどもっ。
「すみません、でも、そうだと思います。陽介さんの物言いではつまり、他人の為に何かしたい、困ってる人助けたいという気持ちでさえ、自分がそうしたいと思ってるだけにすぎない、つまりはただの自己満足だとそう言いたいんですよね?」
「それは、そう言いたいんじゃなくてそう言ってる。善行なんて自己満足でいいんだ。自分がしたいと思ったことが偶然誰かの役に立つ、それがWin-Winてやつだろ? 自分は誰かの為に何かを出来る尊い人間だと思い込むことだって自己満足だし、今助けておけばいつかお返しがあるなんて腹の中で思ってる奴はただの偽善者だ。人間は結局、自分の為にしか生きれないんだよ、どう足掻いてもな。他人の為に生きてるなんて奴は、とどのつまり、エゴイストなんだよ」
「なるほど。うん。はい。分かりました。やっぱりひねくれてますね、陽介さん」
「ひねくれてて悪いか」
「いえ、悪くありません。ひねくれていて、正しく思いました。私は、そう、エゴイストでした。父の為に死のうとしていた私もエゴイストで、本当は、自分が辛くて、嫌で、苦しくて悲しくて淋しくて、嫌で嫌で嫌で、死にたくて死にたくて、ただ死にたかっただけなんでした。父の為ではなく、私は私の為に死のうと思っていました」
そう。
「そうだな。それで、どうする?」
「やめます、死ぬの。私は私の為に生きようと思います。なので……陽介さんにちょっとお願いがあるんですけど……」
お願い?
なんだ?
まあ、花宮の生き方に影響を与えてしまった責任はあるのかもしれないし、俺だって花宮が辛いのは“俺が”嫌なので、出来る限り叶えてやりたいところだけれど。
「俺に出来ることなら、聞いてやるよ」
「出来ることですし、絶対不快な思いはさせません……ので、その……」
事ここに及んでも、花宮は何故か言いづらそうにもごもごしている。
「なんだ、さっさと言えよ」
「う、わ、分かりました……」
一拍を置いて――。
「あの、私をここに置いてくれませんか?」
「……はい?」
今の俺の顔は、史上最高に間抜け面だろう。
「ですから、ここで匿って欲しいんです。私、家出します」
その少女の決意に、俺も決意を強いられることになった。




