映画『ヒアアフター(Hereafter)』(2010)は面白かったのか?
ペイザンヌです。
2011年3月11日、東日本大震災。
あの日、どこで何をしていたか?──というのを覚えてる人は本当に多いといいます。
ボクといえば東京、日本橋の地下にいたのをやはり覚えてます。「あ、いま死ぬかもな」と一瞬本能的に感じたことも。
それよりも遙かに恐ろしい体験をしたであろう当時被災地にいた方、そして被災者の方々のご冥福を祈りつつ──
あの震災から14年。ちょうど時同じくして、新作にも関わらず日本ではわずか3日で上映中止となってしまった不遇の映画がありました。それがクリント・イーストウッド監督の『ヒア・アフター』。
理由としては巨大津波のシーンが含まれていたからです。
ボクはこの映画好きです。個人的にはイーストウッド監督がこの作品以前に撮った『チェンジリング(2008)』の姉妹作のような形とも思えます。題材は違えど「愛する者の死と、残された者」というテーマ性は似ており、どちらにも「少年の死」という重い描写があるものの、この頃イーストウッドはそういったテーマに目を向けていたのかもしれません。もっと前になるとショーン・ペンやケビン・ベーコンが出てた『ミスティック・リバー(2003)』にもそういう趣がありますね。
ストーリーはパリ、ロンドン、そしてサンフランシスコと三つの異なる場所から始まりまり、次第に絡み合っていきます。
まずはパリの女性ジャーナリスト、マリーのパートからスタート。突然襲ってくる津波の描写はこの冒頭部分にありますが改めて見返してみると自分が飲み込まれてる錯覚に陥るほど迫力があり、上映中止になったのも頷けるほどです。
次にイギリス、ロンドンのパートの主人公はジェイソンとマーカスという双子の少年。自分の代わりに使いに行った兄ジェイソンが車にはねられ事故死します。母親が薬物常習者であったことからマーカスは母親とも別れ、里子に出されることとなりますが……
一方、マット・デイモン演ずる主人公ジョージは霊と交信する力があり霊感商法まがいのことをやってます。それを続けてれば収入には困らないのに、嫌気がさして今は工場勤めをしてます。
彼は「愛する者の“死”にこだわり続け、そのことに取り憑かれてしまった人たち」を相手にするのが耐えられなくなったのか、どこか疲れてしまってるように見えます。
そこに、双子の兄ジェイスンの死にずっと罪悪感を持ち続けているマーカスという少年が登場します。少年は死んでしまった兄の言葉を聞きたいと主人公に哀願します。その望みを叶えてやりたいと引き受けるマット・ディモン。
そうすることによって救われる人間が確かにいます。そうでなければ先に進めない人もいます。
ジョージを通じ兄が弟に話した言葉は“おまえは僕を頼ってばかりだったけど、もう頼っちゃ駄目だ。自分の足で歩くんだ。いつだってそばにいる”といった言葉でした。
震災から14年。その少年と同じように、どこか心にわだかまりを抱き続けながら生きてる人がいるかもしれません。一生、忘れられなかったり、中には「ああしてれば」と後悔するような体験をした人もいるに違いないと思います。
ボクはこの映画でマット・ディモンが料理教室に通う場面がとても好きですね。料理なんかこれっぽっちも興味ないくせに「死者」ではなく「生きている者」と、普通に、なんとか関わろうとする前向きなあの場面が好きなのです。
生きている者が死者に対する思い、または、死者が生きている者に対する思いだってひょっとしたら存在するかもしれません。それは「羨望」かもしれないし「願い」かもしれない。「大丈夫だから、わかってるから、自分のことはもう気にせず生きろ」という眼差しかもしれない。
おそらく何らかの「目に見えないコミュニケーション」というものは肉体が滅んだ後も存在するはずだと信じたいものです。
震災の頃、生まれた子供たちももう14歳。
この映画の少年、マーカスのように前向きに導いてくれる人に出会い、たくましく生きていることを願います。彼らこそ「人の苦しみ」をわかる未来の宝のような気がします。
ではまた、次回に。