映画『アバター/3Dリマスター版(Avatar)』(2022)は面白かったのか?
さて、今日は筆が滑ってくれたのでこのエッセイをまるっと一本書けたのである。
箇条書きから屋台骨ができ、さてあとは頭のマクラと、なんかちょこちょこ面白い感じの言い回しを付け足すか……という順序で書いているわけだが……よくよく冷静になって考えると映画の感想で「そこ」っていらなくね?──と毎回思ってる気がするな。なんだよ面白い言い回しって……
(-_-;)
──と、この文章を先程Twitterで呟いたわけですが、ええ~い面倒だ! そのまんまコレをマクラ張り付けちまえ!という強行〈手抜き〉作戦を決行。
いや、このエッセイにおいて大事なのはむしろ「映画の感想」じゃねーから!
そう、【ストーリー説明】や【キャスト紹介】から入る映画ブログで面白かったためしはねぇ! わしゃなんてもうそれ見ただけで回れ右して離脱するぜっ!
このエッセイはパンフレットのようなものにはしたくないと誓ったじゃないかぁぁぁぁ!
……でも今回はかなり感想メインになっちゃってます。てか「もうおちゃらけれる文字数ねーよ!」くらい書いちゃってるし。
( ̄▽ ̄;)
さて、
頭のおかしいおまえらー!『映画館』でちゃんと映画観てっかぁーー?
今回は『アバター(2009)』の話をするぜぇーーー!
……ペイちゃんです♪(ちゃんと元ネタわかってくれるのかしら…)
今年の冬には続編の『アバター/ウェイ・オブ・ウォーター』が公開されます。しかも続編は『5』まで作り、すでに『4』の撮影に入っているとのことだからさあ大変。
わしゃなんぞ一作目すらまだ観てないってことで、今回9/23より再公開されている『3Ⅾリマスター版』、ここらでさすがに観ておかねばなと足をのばしてまいりました。まあよくぞ12年も観ずに、避けて通ってきたもんだなと。
わしゃの中では「全人類の8割がた観てる超有名な映画なのに観てないの?」っていう作品を少し残しておきたかったってのがありまして、例えば飲み屋なので人と会話するときなど「そーなんよ、アレ観てないんよ、面白いの? 何が面白かったの? 教えてよ」な~んて話のとっかかりにもなるじゃないすか?
さらにあわよくば「ふ~ん、そうなんだ。じゃあ今夜、ボクのうちで一緒に観ない?(キリっ)」な~んて展開などあったりなかったり、ムヒヒ……ねーよ! そんなことサラッと言える猫なら苦労しねえんだよ! ……オホン、てな感じで「あえて観てないストック」ってのが『もののけ姫』『アナと雪の女王』『シン・ゴジラ』などあったわけですがこれらもすべて昨年観ちゃったわけで『アバター』がいよいよ最後の砦だったわけですがw
今回超ひっさびさ3Dを観ましたね。はてこのタイプの3Dを初めて観たのはなんだったか……と思い起こすとあれは確か『トイ・ストーリー3(2010)』だった気がしますな。そう思うと『アバター』の翌年やね。「あ~いよいよ自分も3Dに対する意識を変えていかなきゃかも……」なんて焦りがあったのかもしれませんやね。まあ当時は「3Dテレビ」なんかも流行っちゃ廃れ、現在においても定着してんだかどうなんだかみたいなところは疑問ですが。
まあそれはアニメだったわけですが、次に久々3Dメガネをかけたのは『スターウォーズ/フォースの覚醒(2015)』でしたね。なので5年に1回くらいでしょうか、思い出したように3D観てるペースw いやね、飛び出る実写「おおーすげぇ~、ここまできてるのか~」とは確かに思いましたよ。ただ、あのグラスかけると、ちょっと暗くなるじゃないすか? あれがね~どうにも嫌で。しかもわしゃ乱視なんすよね、たぶん。少し右と左の視力が違う感じ? そういう人って明るいところだと気にならないんだけど暗いところだと右だけ失明したように、片方だけがすげ~暗くなんのよ。だからうっとうしくなってきちゃってw この『スターウォーズ』の時なんてせっかくの3Dなのに途中からメガネ外しちゃった記憶ありますねw
確かその時代くらいまではあのトンチキ眼鏡、劇場出るときに返却してた覚えがあるやね。今回は100円で買い取りの持ち帰り、さらには次回から使えるってことで「へ~そうなのかぁ、コロナ辺りから世間ではこうなっていたのだなあ」と改めて。
ちなみに皆さんは『アバター』、観られてるんでしょうかね?
今回の公開に先立ち、監督のジェームス・キャメロンがズバリ言っております。
「『あたおか』のおめぇら! 劇場で観なければこの映画を観たとは言えないぜぇ~! …………キャメちゃんです♪」と。
それでも「観た」と言える人はどれくらいいるのか?(クワッ!)
おかげで12年スルーしてたにも関わらず「へへ~ん、わしゃ観たもんね~観たって言えるもんね~」と大手を振ってヘンなマウントがとれるってもんですw
押井守監督などもこの映画に「当時、キャメちゃんに完全敗北を感じた」と最近またインタビュー記事が出てたのを見かけました。押井監督のレベルまでいくと「技術的に」という意味合いが大きいように思えますね。もちろんその中では「おまけに内容までしっかりしてやがんだよあのヤローめこんちきしょい」とも答えておられましたが。
わしゃは「技術的」よりもストーリーにほとんど重きを置いてるタイプなので、今回初めて映画を観たところ、なんというのか……ストーリー的にはまあ思ってた通りというとアレなんすが、予測の範疇内、それ以上でも以下でもないまんまのストーリーだったというか。ただ。ただですよ。それは表面上のことであって、特にこの映画においては、それだけじゃ説明のつかない「何か」があるんすよね。「ストーリーに奥行きがある」というとなんか語弊があるけど、映像だけでなくストーリーも「3D化」してる部分があるといったらいいのか。
ぶっちゃけこれはヴァーチャル・リアリティである──そう思いましたね。
映画を観てる途中、わしゃが頻繁に頭に思い浮かべたのは何気に「ジェームス・キャメロンが机に向かい、またはソファに腰かけ、この映画の最初も最初、初期設定以前の段階、構想を練ってる姿がぶわーっと出てくるんすよ。言ってみればこの映画の根本、「なぜこれを作るのか」がとにかくしっかりしてると言ったらいいのか「3Dで映画を作るということはハタシテどういうことなのか」ってのをめちゃめちゃ真剣に検討されたんじゃないかなってのが作品の合間に滲み出てるのを感じたのね。
わしゃコレを見た直後ツイッターで「この映画はもう3D以外では観たくない」って呟きました。「3Dでないと観る意味がないし、観る理由もない」と結構本気で思ったんよね。さらには監督の言う「劇場の大きなスクリーンで観なければこの映画を観たことにならない」の言葉。
先ほど「ストーリー自体も3D」と書いたのはそういうところ。観ている人があって初めて映画が完成するというか。いや、そんなのどんな映画でもあたりまえなんだけどw 観客である自分が「行きて戻りし」する要素がものすごく強い。観客自身が主人公と同じく惑星パンドラのナヴィという種族にアバターとなって没入しなきゃ意味がないという作り。
例えばスマホとかで『アバター』観ようとすると小っちゃいじゃないすか。画面はもちろん、出てくる人物だって「小っちゃいおっさん」なわけじゃないすか。もし目の前にいたら握って捻りつぶせそうなくらいに。でも……それじゃダメなのね。だってヴァーチャルなんだもん。少なくとも自分と同じ身長かそれ以上のものでないと「コレ、ツクリモノデスネ」とあなたの脳が決定を下す。ゴーストになれない。「自分がその惑星にいて、そいつの前に立っているんだ」──と脳が錯覚しない。デカい怪獣とか出てきたらなおさらですわ。本当にデカくないと全く意味をなさない。だってヴァーチャルなんだもん(大事なことなので二度言った)。
ヴァーチャル・リアリティって「凄く精巧でまるで自分が本当にそこにいるような感じ、触ってる感じ」──それだけで本当にいいのか? なんて考えるとそうではないんじゃないか、と疑問が残ったりするんすよね。そりゃ最初はすごいでしょう、面白いでしょう。映画の最初がリュミエールの『列車の到着』だったことを考えてもわかりますやな。動いてるだけで満足。でも冷静に考えるとそんなんで面白いか? 心を揺さぶられるか?──ともなってくるわけで。
視点が自分──つまりこれを読んでる「あなた」のように目の前にパソコン、もしくはスマホがあってその左右に自分の両手が見えて……鏡でもなけりゃ自分の顔や姿は見えない──そういうのがヴァーチャルリアリティだろ? とも思われるかもしれませんが、実際そのパターンで実験してみた映画も過去にはあるんですよね。R・チャンドラーの『湖中の女(1947)』を映画化した映画だったと思いますが、その映画は「あなたが主役」、つまり主人公の顔がいっさい見えないわけです。でもこれがまた大大大失敗だったみたいね。その証拠にそのタイプの映画ってほぼ観たことないはず。つまりヴァーチャル映画としては「完全なる失敗例」なわけですよ。その手法では観客は「ゴーストになれない」ってことが歴史で証明されてるわけです。
その点、この映画を大画面3Dで見た場合、その塩梅がすげ~絶妙にできてるんすよ。もしペラペラのスクリーンの上で二次元の登場人物が動いてるだけでこのストーリーだったら単なるどこにでもありがちなSF、急激にそこまで退化しちゃうといっても過言じゃないくらい。
かといって逆にこれ以上話をややこしくするといろんな面で脳が追っつかなくなってくるんじゃないかなって、その辺も考慮されてそうw ただでさえ3D観てると結構それだけで脳が混乱して疲れるじゃないすか。いくらゲーム脳の人が増えてきているとはいえ、ヴァーチャル進化論の中においてはある意味まだまだ猿人じゃないすか? ウホウホなわけですやん、ボクらって。
大丈夫でしょうか? いや、もう今回はね、離脱されても仕方ない覚悟で書いてますんでw 疲れたらいつでも離脱してくださいね。で、またここから読んでいただけると嬉しいです。なんだったら、ここに「しおり」挟んどきますんでそれを目印にしてください。
「し お り」
う~、今「わざと打ち間違えた」とか言って「しおり」を「おしり」にしたかったぁ~
(´Д`)
(だーかーらー、そういのが余計だっつってんじゃん!)
では第二部の始まり始まり~。
「I See You」
とても大事な言葉です。これ抜きに『アバター』はあり得にゃいです。
例えばプーチン。
プーチンをアバターマシンに入れてウクライナ人の中にゴーストとしてつっこみます。もちろん姿かたちもプーチンではなくどこにでもいるウクライナ人です。彼は次第にウクライナ人たちの苦しさがわかっていきます。ロシアはなんとひどいんだ! 戦おう! ロシアを倒そう──そんな心境の変化になったとします。でも……
それって「見えて」るんでしょうか?
「I see You」なのでしょうか?
ウクライナ人からしてみれば「なんか違うくね? いやおめえが始めたんだろ、ふざけんなよ」となりますやね。しかも相手はマシンから出てウクライナ人からいつでもプーチンに戻れるとしたらなおさらですよ。
そのままでは彼はいつまでたっても「本当の意味でのウクライナ人」にはなれない。愛国者にも英雄にも一般人にすらなれないのね。
プーチンを「ボランティア」に変えてもその図式は成り立つでしょう。本当の本当にその人たちの目線に立てているのか?──という疑問はそうそうぬぐえません。日本人を「黒人の姿」に変えたからと言ってすぐ黒人にはなれるかというと「そうじゃねえんだよ」ってのと一緒。
言語、歴史、風土、信仰……徐々に学んでいきそれでも完全には「見えない」いや、自分ではいくら「見えてる」と言ってみても、相手からは「そう見てもらえない(かもしれない)」という部分がより大きい。これが『アバター』のマクロ。
表のテーマは「郷に入っては郷に従え──ただし本当の意味でキミが郷に入ることはできないかもしれないよ」って含みもある感じがしますね。
余談ですがわしゃがこれまで『アバター』を見なかったのはあの「造形」がぶっちゃけあまり好みではなかったってのもあるんすよね。そこまでカッコよくもない、可愛いかというとそこまででもない──と。まあ架空のキャラなので許されるとは思うんですが、3Dの等身大で観てるとだんだん「韓国人の姿かたちが嫌いなんだよな~」とか「ユダヤ人の鼻が気に食わないんだよな~」とか容姿で避けていたような感じと一緒じゃん?──なんて思えてきて。「なんか自分が凄い偏見や差別意識を持ってたんじゃないか」と罪悪感すら覚えるんすよ。ナヴィという種族が地球上に、現実にいるような、そんな錯覚になってきて「なんか今までごめんなさい」みたいなw
そういう12年避けてきた年月も相まって「な、なんだ、付き合ってみたらいいヤツらじゃん。おまえら凄いじゃん。すげーリスペクトだよ」といった共感といいますか反転作用といいますか、その働きも大きかったかもねとw
もうひとつのテーマは単純に「僕はあなたでなく、あなたは僕ではない」これもまた『アバター』という映画の一面。これは先ほどのマクロに対して──全体から個人の問題へ──ミクロの部分といいますか。映画館から出たら映画はおしまい。さっきまで餓死寸前の子供の映画を観てたのに、終わったら「あ~何食おうかな」ってのにも似てる。さっきまでヒーローだったのに劇場を出たらただの「なんでもない人」に戻る。カイジの兵藤会長の名台詞「おまえは痛いが、わしは痛くない」にも通ずる部分すら見えたりと。
そしてさらにその深層にある一番大事なポイント。裏テーマ。
「私は私になれるし、また、なれない──」
これが映画の究極の部分なんでしょね。
『アバター』に登場するナヴィという種族。あれがもし「統一教会」だったらこの話は成立するでしょうか? 統一教会の中に偽信者として潜入──ではこのストーリーは成立しない。別に「統一教会」でなく「北朝鮮」でも、いってみりゃ「日本」だって成立しない。なぜなら地球上なんてどこに行っても「俗世間」でしかないから。
あの種族というのは自分の、個人ひとりひとりの最も純粋たる部分、「イド」といってもいい世界のような気がしますな。一切穢れのない世界。
それを体感的に感じたのは映画のクライマックス前。それはそれは巨大な樹が──彼らを象徴するシンボルである巨木が──地球の侵略軍によって折られるシーン。この場面はホント「3D効果」というのか何とも言えぬ気持になりましてね。わしゃがこれまで生きてきた中にも何度かあった、文字通り「心が折れる」──あの感覚を見事に再現していたというか。
なんてんですか「これまで育んできた、信じてきた、自分の中で一番大切な部分」が他からの力によって、巨大で立ち向かえない何かによって「ボッキリ」折られてしまった時の虚無感というか「もう無理」感にも似てるというか。
この映画のニクいところって、やっぱ戻ろうと思えばいつでも戻れるってとこなんすよねw ナヴィという種族をやめて地球人に戻ることもできる。ただし、その自分ってのは「半身不随」でもある。この設定がまた大きい。主人公はどちらに転ぼうと何かが欠けているわけです。
完全にナヴィという種族にもなることもできない。ナヴィになるためにはベッドより大きいマシン、これをその都度運び、科学の力を介入してアバター化しなければなれない。それには当然、電力だって必要になるわけで。
胡蝶の夢のように目が覚めた時、地球人であることがだんだんイヤになってくるというあの主人公の表情がなんともいえなかったすね。どちらの自分にもなれるし、また、なれない──ここは自分ともすごく照らし合わせられる部分。どこか共感を生む部分。
もうボッキリ折られたよ。疲れたよ。そう言ってネットやスマホをバッキバキに壊して、煩わしくも面倒くさい──情報化社会から自分を解き放つことなんて明日といわず今からだってできるわけですな。けれど「やっぱ不便だよね」って翌日またスマホも買いにいくことも、もとに戻ることもその気になればできちゃうのも確か。
そりゃそんな気持ちだったら「どっちなの?」と言われるでしょうな。ヒロインに「私にはあなたが見えないよ」──そう言われても当然の中途半端な覚悟。
なので観客はどちらも「体感」する。どちらにするのか覚悟を決めろよと、個人、または世界全体に突きつけてくるわけですよ。そのためにゴーストとなりどちらの世界も体感するヴァーチャル、3Dが必要だった作品。そう言えるような気もしますやね。
今回ばかりは日和らずに本作をDVDなんかで観なかった自分を褒めてあげたいくらい。テレビ画面だったらこの感動──というよりもこの辺りの「気づき」には至らなかった気します。
あとふわふわと宙を舞うケサランパサランみたいなクラゲのような「木の精」のシーン。あれを3Dで観た時のハッとするくらいの美しさったらない。まあそこはトトロでもジブリでもいいんだけど、やっぱ「コレハアニメデスネ」と脳が下しちゃう。その分、手を伸ばせば触れそうなこちらの『アバター』ってやっぱ騙されるんすよ、なんか。
この小汚い、薄汚いペイザンヌですら、それを見たとき純粋に「ああ、自然とはなんと美しいのだろう」──と教科書通りの、なんの面白味もない言葉しか出ねえやと。この感動を受け止めざるを得ないや──なんて思いましたからね。
で、その直後です。「──違うじゃん!」てw 騙されていた脳が覚醒するのね。
「これ自然じゃないし! CGだし!」と。
ただ、これもまた不思議なもんでね~。間違いなく、ついさっきまで「偽物」によって「本物」の美しさを改めて痛感させられたわけなのよ。しかもそれって「アバター(偽物の体)を通じて本物の自分に到達する」という作品のメッセージに直接触れてるわけなのよね。それに気付いた時のショックといったらなかったね。
妄想の中のキャメロンがしたり顔でニヤッと笑うわけさ。「本物の美しい自然なら映画館を出て外の世界にもまだいっぱいあんじゃん。どうすんの? どっちが見たいの?」ってw
なのでこれはやはり『体験』だったといえるでしょうね。限りなく『催眠』に近い『体験』ではありますが。
これは余談ですが、おそらく今回のリマスター版のみの特典で最後に続編『アバター/ウェイ・オブ・ウォーター』のワンシーンがおまけでついておりました。
これがまた! 今まで三時間メガネして3Dにもなんとなく目が馴染んでるわけじゃないですか?
にも関わらずですよ。思わず「うお!」と目を見張りましたね。今度は海。しかも海面すれすれに目を置いてるようなシーンの美しさといったら……。
本作、一作目も少し水のシーンがありましたやね。初っぱな川に落ちて仲間たちとはぐれるシーンといいますか。その時も「うわ、水、めっちゃ綺麗やな」と思ってたんですがその比じゃないというか明らかに進化しておりますね。次作はタイトルにあるよう「水」が主役なのかもしれません。
ゼッッッッッタイに、こればかりは3Dで観ます! 2Dなんて考えられないす、もう当然ながら!