映画『エクス・マキナ(Ex_Machina)』(2015)は面白かったのか?
「オラオラオラぁっ! 無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄ぁ! ふっはははは、人間ごときが……我々に──ルービック・キューブを0.38秒で完成させることのできる我々A.I.に、勝てるとでも思ったのかぁ?!」
トートツにそんな台詞を書いてみたくなっただけのペイザンヌでございます。
そのルービックキューブの動画もまあ凄かったです。YouTubeなんかで見れますがホンマに一瞬で完成させやがりますんで一度ご覧になってみては?
──先日、朝起きて久しぶりに『おぅっふ!』と妙な奇声を本気で発してしまったのはホーキング博士の訃報(このエッセイはそんな時期に書いております)。そして僕はトホウにくれながらトホホと唸ったのでした。て……違うし。そうですね、訃報は『ふほう』と読みますね。誰ですか? 『トホウ』だと思ってた人は? ちなみに私は何故かいまだに訃報=『キホウ』と頭の中でパッと出ちゃうんですよね。なんでなんだろ?
他にも『わかっちゃいるんだけど──もうええわい、他は知らん! わしゃの中ではもうこうヨム!』
ι(`ロ´)ノ
と、そんな漢字はきっと誰もがあるもの。たとえばエヴァなんかでも使われる『汎用人型兵器』の『ハンヨウ』なんかも。もうね『ぼんよう』でいいんすよ自分の中では、うんうん。
んで、ホーキング博士ですが──ああ、とうとうアインシュタインのごとく星となり、歴史となってしまったのだな~なんて思うとつい感傷的になってしまいます。合掌。
時は昭和のある日、片田舎の古い書店にまで“ベストセラー!”と謳われつつ突如現れた『ホーキング宇宙を語る』という一冊の本。
「なんかようわからんけどめっちゃ天才らしいやんけワレ。知っとるけ?」てことで、飲み屋のカウンターで一人安酒をあおっているおっちゃんまでもが知っている存在となったS.ホーキング博士。
ホーキング博士といえば昨今では近代科学の発展過剰に警鐘を鳴らし続けていたイメージがありますね。
そんな物理学界における“叱ってくれるお父さん”みたいな存在がいなくなり「うっし! うるさいのいなくなったからもっと自由にやろうぜぃ!」なんてことになってしまうんじゃなかろーか……そんなことを考えると、戦争を知るご年配たちが亡くなっていく様でもあり、寂しいとゆーか、何だかちと怖いとゆーか。
そんな中で、彼が何度も口を酸っぱくして言い続けていたのが〈人工知能、A.Iの驚異〉における問題。
今回取り上げた映画『エクス・マキナ』はまさにそれをそのまま描いたような問題作、そして非常に美しい映画でした。
この映画、観る前に自ら勝手に自ら描いていたイメージとは(良い意味で)全然違っていて、かっなり満足。てか、なんなのんコレ……めちゃめちゃおもろいやないですか……と。
思わず夜中に一人スタンディング・オベーション、いや、むしろ今回は『将太の寿司』に登場する──あまりに旨い寿司に遭遇するとつい手を鳴らしてしまう“柏手の安”のごとく「うまい!」と思わず両手を打ち鳴らしたほどであります。
うん。こりゃ『買いの一本』ですわ。てかホントに買いたいですね。ポスターにもあります主演の女優さんがまた透明感溢れる可愛いらしさというかそれこそまさに神がかり的に美しいというか。
先日公開された『トゥームレイダー』のリメイク版でも主人公ララ・クラフトを演じております。頑張ってほしい俳優さんの一人です。
また『スター・ウォーズ』新三部作でポー・ダメロンを演じたオスカー・アイザック兄さんも社長役で出てまして、こちらもぶっちゃけ『S.W.』よりカッコよかった。へー、こんな感じの演技もできるんだ~と少し見直しちゃいました。役者って凄い。
そして何より基礎工事──物語の構成と展開が僕的にめっちゃツボ。ちゃんと(ちゃんと?)嫉妬できたことが何より嬉しい。
『鑑定士と顔のない依頼人』の回の時にも書きましたが、三人、ないし四人だけの少ない登場人物だけで回すのでとにかくわかりやすいったらありゃしない。なので当然スタートも早い。
しかもこんな材料なのにアガサ・クリスティなんかによくある“閉ざされた孤島(限られた空間)”によるワクテカな密室劇、さらにはちょっとした謎解き要素もあるわけで、
「はや~、こういう短編というか掌編なんぞが一生に一本でも書けたら感無量だろーなー、ぢ、ぢっぎじょー、ぐっぞー!」
──てな、いい感じの嫉妬しい気持ちがムクムクと。ま、もちろんその直後にはフト自分の才能の無さに改めて気付かされ、キホウに暮れる、じゃなかった、トホウに暮れるわけですが…………。
こういった投稿サイトでもすごくよくできた短編を見かけたりしますやね。こんなんが、あーなってそーなってこーなりましたって部分はハハァなるほど!と思うんだけど、なんとなーく、いまひとつ、じわりと浸透してこないものもやはりあったりして、う~ん、ならばさて、その境界、魔法のエキス、味の素、っていったいなんじゃらほい、と常々思ったりもするわけですが……。
自分も含めビシッとキマッた短編や脚本を書きたいと思ってる方はとてもお勉強になる一本ではないかと思います。はい。
簡単にあらすじだけ書きますと、巨大IT企業で働く若き主人公が社内の懸賞抽選により人里離れた社長の別荘へと招待されます。
主人公はそこで社長が研究中のA.I.の『チューリング・テスト』ってやつに参加させられるわけですね。
壁の向こうにいる人物と会話(または文字でやりとり)して、今あなたが対話してるのが本物の人間であるかコンピュータであるのか見極めることができるのか否や? っていう「こち亀」の198巻でも取り上げられているあのテストです。
テストの名の由来となったのは、そう映画『イミテーション・ゲーム(2014)』の主役、ナチスの暗号解読を破った数学者アラン・チューリングであります。この映画のラストで主人公が「教えてくれ、今きみが話しをしているこの私はコンピューターなのかい? それとも人間なのかい?」と言っていた姿が印象的でした。
私もこの『エクスマキナ』を見た後に『イミテーション・ゲーム』を、さらにはまったく見るつもりもなかった『スティーブ・ジョブス(2015)』まで続けて見ちゃいましてですね。するってぇと今度は『ザ・サークル(2017)』なんかも見たくなっちゃうわけで……( ̄▽ ̄;)
ま、こういう【枝分かれ】がまた映画を見るうえでの醍醐味でもあると思います。
映画では女性の姿をしたアンドロイド、てゆーかA.I.──彼女と面と向かい合い、会話をします。
主人公は彼女がどこまで自らの意思によって話しているのかをチェックするわけですが、A.I.である彼女に次第に恋心を抱いていき……
てな、ストーリー。
この映画、思わず、
【禁断の果実を口にし追放されたアダムとイヴが最初の人間となり、またその息子であるカインとアベルが人類初めての殺人の加害者、そして被害者となった】
──そんなことをイメージしちゃいます。
良きにしろ悪しきにしろ人類が人間として「目覚めて」しまった瞬間。
A.I.が本当の意味で「目覚めてしまう」ということは、つまるところその過程の繰り返しなのかもしれない──なんてことをじわりと感じさせる展開はどこか人間の根源的な部分への賛歌のようでもありました。
いずれA.I.たちは自らを創造した人間たちを崇めることになるかもしれない。
人間が『神は死んだ』と言ったように彼らもいつか『人間は死んだ』と口にする日が来るのかもしれない。
氷のように冷たい恐ろしさがある一方で──純粋かつ残酷さを備え持った幼い子供たちが醜い大人たちの元から自由を求めて次の時代に巣立っていく──そんな姿を見ているようでもあり、妙に複雑な心境にさせられる映画でもありました。
ちなみにこのタイトル、本来は“デウス・エクス・マキナ”ってラテン語で『時計仕掛けから出てきた神々』って意味らしいですね。かっくいいすね。
S.キューブリック閣下の名作『時計じかけのオレンジ』を思い出させます。の原題は『A Clockwork Orange』ですがこちらもカッコイイ。
似てるのはタイトルだけで一見関係のないように見えるこの二本ですが、人間から「悪や嘘、残虐性」をムリヤリ排除してしまうことで逆に「人間らしさ」というものはいったい何処へ向かうのか? ──
そんな『エクス・マキナ』とは逆の順序で語られてるように思えてくるから不思議です。
神とオレンジの差というものは紙一重でしかない──のかもしれません。
さほど遠くない未来、人間はA.I.に仕事を取って奪われるなんて言われてもおりますが、考えてみると近年の仕事の大半って、ミスをせず、遅刻もせず、サボらず、泣き言や文句も言わず、黙ってタダで残業もこなし、売り上げを伸ばすパーセンテージを最大限に上げ……って、求められてること自体が既にどことな~くロボット的なんですよね。「人間よりもロボットこそが最適な職場環境」にしてしまった、そのこと自体がそもそも問題なのではないか──な~んてそんなことを思いながら今日もわしゃは一匹うとうととひなたぼっこをするのでありました。
まあ、ガラの悪いお客だと「モタモタすんな! 気をつけろ! 責任者出せ!」な~んてストレスの発散口が無くなってしまい悲しがるかもね。んなこと機械に言っても空しくなるだけですからね。きっとクレームは減ることでしょう。うんうん。
まあ、どうせ奪われるんならせめて、
「よっ、今日もええ天気でんな」
なんて声をかけたら、
「ソウデオマスナァ、イヤ~、サイキンアツクナッテキマシタナァ」
そんなことを返してくれるくらい汎用な、いや、どっちかっていうと凡庸な人型A.I.に仕事を奪われたいものでありますのにゃ。なんとなく次回もサービスしてくれそうだし……ね。
(^^;)
【本作からの枝分かれ映画、勝手に三選】
★『博士と彼女のセオリー』(2015)
……せっかくなので本編にも取り上げましたS.ホーキング博士の若かりし青春時代を描いた作品を一本。私も未見でしたのでこちらを書くうえで本日見ようと思ってたのですが……レンタル中でした。
(ー_ー;)
代わりに借りてきたのは何故か『死刑執行人もまた死す』。↓の『メトロポリス』のフリッツ・ラング監督による1943年のモノクロ作品でございます。この記事書いてたらなんか無性に見たくなっちゃいまいましてね(笑)
★『メトロポリス』(1926)
……故手塚治虫センセの初期の漫画にも同タイトルのものがございますが、もちろんこの映画からの影響でしょう。
ディストピア、いや、全てのSF作品の祖と謂われておりますが、いや~凄いですね~……日本時間にして大正15年の映画ですよ、コレ(笑)
(ちなみに大正15年の年末7日間だけが昭和元年となります。平成の直前、昭和64年が7日間しかなかったのと同じ──というのは何とも不思議な偶然ですね……すんません、いらぬ豆知識でしたね)
C-3POのような風貌の女性の姿のロボットが有名ですが、本作『エクスマキナ』の女性アンドロイドを見ているとどうしても思い出さずにいられないというか。
無声映画ですが、1984年に音楽家のジョルジオ・モロダーが自ら音楽をつけ再編集して公開したバージョンがあるのを覚えている方も多いと思います。無声映画に馴れてない方はこちらがとっつきやすいでしょう。先程のぞいたらこの84年版、ニコ動にもあげられてましたので今度の休みあたりに私も見てみようかなと。随分前にオリジナル版を見たっきりですがなかなかどうして、見入ってしまったのを覚えております。『ブレードランナー』などでやたらと使われる水蒸気なんかもこの映画の影響なのかもしれませんね。
★『ウエスト・ワールド』(1973)
……この頃からすると“ロボット”の扱い方って本当に近年では変わっちゃったもんだな~と思うわけで。
ちなみにこのエッセイ、もともとはアメブロで始めたものだったのですがその第一回目に取り上げた映画がこの『ウエスト・ワールド』でした。せっかくA.I.繋がりなんで、ここ「なろう」では結局発表する機会を見失った──
“映画『ウエスト・ワールド(West world)』は面白かったのか?”
の文を載せておきます。最初はこんな感じでした(笑)お暇な時にでもどうぞ♪
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昔から見よう見ようと思っては機を逃していた『ウエスト・ワールド』をようやく観た。
レンタル店の貸し出しがビデオからDVDへと移行し始めた頃、多くの古い映画が姿を消してしまい『ああ、もっと早くアレ見てりゃよかったな~ 』ってのが何十本もあったんだけど、ここ最近パッケージも新たに往年の名作らが甦りつつあるのは嬉しいところ♪
こういう安っぽいSFを深夜から早朝にかけて見るのは実にノスタルジックな気分に浸れるから好きなのである。
本作は未来のアミューズメントパークのロボットがバグを起こして観客に襲いかかってくるって映画だけど、まさに『ジュラシック・パーク』の原型みたいな感じで原作も同じくマイケル・クライトン。
ガンベルトに両手を突っ込み無表情で執拗に追いかけてくるガンマン型アンドロイドを演じるのはユル・ブリンナー。『ターミネーター2』の警官ロボットよりなんだか恐いぞ……。
てゆーか、今見るとユル・ブリンナーってツンツルテンのせいか渡辺謙みたいな妙に日本人的な顔してるのね。眉太くてなんか九州男児みたいである(笑)
その昔、インディアンが西部劇から消えて、ソ連が悪役から降板したハリウッド映画。んで、ここ最近新たな脅威としてよく選ばれるのが人工知能A.I……。
まさに現実問題として各メディアや知名人が警鐘を鳴らしているのも事実。
近年ではジョニデの『トランセンデンス(2014)』や、ニールカンプの『チャッピー(2015)』といった映画も公開されましたが、完全な敵というよりはすでに人間とA.I.は共存できるのか? といった、よりいっそう深いテーマに進化し、事前に投げ掛けてきているような気もしますね。
ひょっとしたらあと十数年後には人工知能を悪役にするのは『人権(?)侵害だ』などと言われるハメになってしまわないとも限らないわけで、次の時代の敵役にはハタシテ何が選ばれていくのやら……? (・・;)