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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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死穢の浜で

作者: 化野模型


 潮のにおいがした。

 暗闇でふと気づくそのにおいは、決して不快なものではなかった。目を閉じてその濃密な気配を嗅ぐと幼いころの海水浴の記憶が蘇る。磯で覗いた不思議な生き物たち、サンダルを脱いで踏んだ砂の熱さ、古ぼけた海の家の日陰の涼しさ、何の変哲もないソース焼きそばのうまさ。今でもありありと思い出すことができる。でも、十四年しか生きていないぼくがいくら物心ついて間もない頃だったからといって、その記憶を懐かしむのはやはり妙な感じだ。近いとも遠いともつかない微妙な距離感を保って、潮の匂いはぼくの中にある。



 列車がレールの継ぎ目を越えるときの振動で、会堂アオイは目を覚ました。

窓から見える山は高く昇った夏の日を遮ることはなく、列車の中は薄明るい。二両編成のローカル線には両手の指で足りる程度の乗客しかおらず、皆束の間冷房で涼める時間をだらだらと過ごしていた。ぼんやりと列車内に目線を向けつつも、アオイの目は何も見てはいなかった。アオイがもといた街の電車はいつも混んでいて、朝晩ともなれば乗客同士が体を押し付け合い、互いが互いの体をモノと見做してただただその時間が耐えるのを待っていた。

 このすかすかの列車とは大違いだ。人はいないし速度もなんだか遅いし【一時間に一本しか電車はない】、何より二両編成なんて見たこともない。そもそもパンタグラフがなくて、どうやらこの列車は気動車だ。ずいぶん遠くに来た、とアオイは思う。列車はトンネルに入る。車内は急に薄暗くなり、視界がじんわり順応する。少し長いトンネルのようで、明るく見える出口は小さい。夏の日差しとトンネルは、アオイの視界の中で明・暗・明・暗を繰り返す。この辺りの地形は山と海が近く、海岸沿いは入り組んでいると習ったのは確かふた月前くらいだ。そのふた月前の時点では、今こうしていることは全く予想も出来なかった。

 アオイがクラスの周囲にある不穏な空気に気づいたのは四週間前くらいで、アオイが気づいたことが相手にもわかり、いじめが本格化したのがその一週間後。あれよという間にエスカレートして直接的な暴力に発展するまでそこから一週間。原因がなんだったか、今から思えば少しは分かった。アオイはもともとクラスから浮き気味ではあったが、学年が上る前は放置されていた。特に邪魔にもならず、そこそこの会話はできていた。単純に、年度が変わったことでクラス全体にストレスがかかって、そのはけ口にされたのだろう。おとなしいほうだったアオイも最後は反撃し、相手に怪我を負わせた。それがまずかった。アオイの反撃は、誰よりもアオイの母にとってショックだったようだ。息子が他人の子供に怪我を負わせたという事実が彼女を逆上させ、息子の話を聞き入れようとはしなかった。彼女にとっては、息子がどんなにつらい目にあったとしても、反撃した時点でアオイもいじめた子どもたちも同罪であった。トラブルがあってからすぐ夏休みに入ったのをいいことに、アオイは一度も行ったことのない母方の親戚の家に放り出されることになったのだ。

 

 「次は……駅……駅……」

 ボソボソと聞き取りづらいアナウンスが電車内に流れる。出発駅から数えて次が到着駅のはずだった。荷物をまとめているのはアオイだけで、どうやらこの駅で降りるのは彼だけのようだった。ドアが開くと、強烈な直射日光を伴った熱気とともに、濃密な潮の匂いが流れこんできた。都会とは桁が違うほどのセミの鳴き声に、全く違う場所に来たという実感がひしひしと湧く。もうこの地域では夏本番のようだ。降り立った駅のホームはじりじりと焼け、うっすらと陽炎すら揺れている。無人駅には「塞ヶ浜」とやっと読める程度のぼろぼろの看板以外には屋根すらなく、草むした線路脇の木陰にぶち猫が一匹いるだけで何も動くものがいない。アオイはリュックサックを肩に担いで駅前の広場に行こうとした。そこに親戚が迎えに来ているはずだ。木陰で涼しそうにしているぶち猫と目があった。猫は白地に茶のぶちが少し、まるで泣いているかのように顔に入っている。珍しい毛並みだな、とアオイは思う。

 「お前は、ナキネコだな」

 涼しそうだな。そんなことを考えながら眺めていると、すっとぶち猫は何かを追いかけるようにして目線を動かした。まるで何かが現れた、とでも言うように。アオイは思わず目線を追ってホームの端を振り返る、そこに、先ほどまで誰もいなかったはずのそこには少女が一人立っていた。ふわりとした白い薄手のスカートの女の子で、背は遠目にも小柄だとわかる。そんなに遠くに立っているわけではないのに、不思議と彼女のディテールはピンボケ写真のように認識できない。蝉の声が止んでいること、駅への入り口は少女からアオイを挟んで反対にしか無いことに、アオイは気づいていない。揺れる空気越しに見る人影は、現実感が薄く、彼はただぼうっと突っ立っているだけだった。

 「なぁお」

 間延びした猫の鳴き声でアオイが我に返ると、白い服の少女はもうそこにはいない。蝉の声が残響のように戻って来る。やはりアオイはそれにも気がつかない。

 「……暑いな。」

 幻覚をみた気恥ずかしさから、アオイは思わず独り言ちる。なんということだ。白いワンピースの少女だなんてそんな格好めったに見ない。……顔はよくわからなかったが、なんとなく可愛かったような気がする。しょうもない妄想をしたものだ、と顔が赤くなる。これ以上頭に血が上ったら熱中症になりそうだった。

 駅のホームから降り、駅前の広場に着いたがそこはどうにも「広場」としか言いようのない場所であった。コンビニはもちろん、商店の一つもない。ロータリーがあり、バス停が一つ。脇の小屋はどうやら雨宿りでもするためのものか。小屋の横には自動販売機が一台。ロータリーの中にはキリンとも犬ともつかないブロンズ像が一体。それだけだ。迎えはまだ来ていなかった。

 頭がおかしくなるくらい暑い。夏にしては空気が乾燥しているのがまだ救いだが、これではのどが渇いてしょうがなかった。自販機で何か炭酸飲料でも、と思ったが碌な品揃えではない。2段になった商品の内訳は、一段がお茶やコーヒーなどで二段目に炭酸飲料がアオイの嫌いなコーラ、ファンタ、ドクターペッパー、そして初めて見る黄色いパッケージのメローイエローという炭酸ジュースがなぜかずらり。硬貨は入れたものの、どれも飲みたいとは言えない。アオイの気分では三ツ矢サイダーが最高だったのだが

 「えい」と掛け声とともに決定を下したのはアオイではなかった。がたん、と落ちたのは黄色い缶だ。

 「何してるんですか……?」

アオイの横に立っていたのは、同い年くらいの女の子だった。やってやったぜ、と言わんばかりににやにやとした表情で黄色い缶を取り出している。

 「いやぁー迷ってるみたいだったからさぁー。かわりに英断を下してあげたわけよ!やはりメローイエロー一択でしょ?」

ほい、とメローイエローをこっちに差し出してきた。さっきまで屈んでいたからわからなかったが少女は意外と背が高い。アオイは男としては背が高い方では無いとはいえ、彼と同じか少し高いくらいだろう。すらっと長い足がひざ上くらいのデニムパンツから伸びている。全体の印象としてはひょろ長いがしなやか、という感じだ。悪気など全くない、という笑顔で渡されてしまっては何も言わず受け取るしか無い。

 「……まぁいいけど。」

 なんとなく釈然としないアオイであったが、自分の口調がもう変わっているのに、少し驚いた。

 「さぁさ飲んで飲んで。」

そう言って自分の分もメローイエローを買う少女。……さっきから気づいていたものの、この少女、細いわりにTシャツの上からはっきりわかるくらい胸が大きくて、いけないと思いながらもつい目で追ってしまう。雑念を振り払うようにしてアオイは缶をあけ、一気に一口飲む、と

 「……あっま!甘い!甘すぎるよこれ!」

パッケージには柑橘と書いてこそあったので、CCレモンあたりを想像して飲んだのだがだだ甘い。ただひたすらに甘い。炭酸も強くないしこんな暑い日には若干つらい飲み物だった。

 「えぇっ!メローイエローが嫌いな人とかいるのっ!」

心底驚いたようにごくごくと喉をならしてメローイエローを飲む少女。よく見れば、来ているTシャツまでメローイエローの柄が付いている。

 「この村では挨拶がわりにメローイエローをともに飲む習慣があるというのに……。」どうやら挨拶のつもりだったらしい。

 「そうなんだ……いや嫌いというほどではないよ……。……えっと、よろしく……。」

 「よろしくぅ!わたし、山室ミズキ!もしかして、転校生とか?」

元気よく上がったミズキの腕と一緒にポニーテールがふわりとゆれる。揺れる髪の間から、潮の香りがした。

 「ぼくは会堂アオイ。転校ではないけど夏休みの間はこっちにいるつもり。親戚がこっちにいて、迎えに来るはずなんだけど……。」

 「そっかぁー、転校生じゃないのかぁ、ちょっと残念。遊びに来るにしても、ここじゃめったにないけどね。」

 ミズキはメローイエローを飲み干して、ゴミ箱に缶を放り込んで言った。

 「それじゃあ、ちょっとそこまで行こうよ。まだ海、見てないでしょ。近くだし迎えが来てもすぐに分かるからさ。」

 浜はすぐそこだった。広場や駅からはちょうど見えなかったが、防波堤を越えれば海が見える。靴を脱いで浜に降りていく。

 「あちっち、熱い!」

 「わはは、覚悟が足りなぁい!」

 カンカン照りの午後の日光に熱された砂は正直覚悟ではどうにもならないくらい熱く、アオイはあわてて海まで走って足をつけた。途端にひんやりとした水の感触が足を包んだ。波はゆったりとしていて、まるで湖のようだ。ミズキは、足元を見ろ、と指さしている。目を向けたアオイは息を呑んだ。

 「ね、綺麗でしょ。ここって本当に何もなくって、あるのは海だけ。でもそれだけは綺麗なの。……まぁ、他所の海なんて、テレビでしか見たことないけどね。」

 水が光を透過し、足にかかる砂粒が光を反射していた。目線を泳がした先に小さな魚影が見える。

 「塞ヶ浜って名前は、ほら、ここって湾の奥まったところにあるからなんだ。外海は見えないの。でもそのおかげでこんなに穏やかな海なんだよ。」

 ミズキの説明の通り、浜は半島に囲まれており見える範囲では湾の中は崖や山が多く浜はここだけのようだ。

 「こんなに綺麗で静かな海、見たことない。」

 まるで時間が止まっているようだった。ミズキは、にっ、と白い歯を見せて笑った。【少し離れた駅から、列車の発車する音が聞こえた。】

 「なにもないところだけど、ゆっくりしていきなよ。わたし暇だし、見かけたら声かけるからさ。他の子も紹介したいし。だいたいみんなこの近くの学校に集まってるからさ。」


 ミズキと別れ、駅に戻ると親戚が迎えに来ていた。母の叔父、つまりアオイにとっては大叔父にあたるらしい。祖父は他界していたし、アオイの家はあまり親戚づきあいをしてこなかったからアオイは若干緊張していた。

 「お前がアオイか。」

 「はい。……正三大叔父さん。お世話になります。」

 大叔父は控えめに言って迫力のある人だった。真っ黒く日焼けした膚には深い皺が刻まれており、細く垂れた眼尻から覗く眼光は鋭い。老人とは思えないほど背筋はピンと伸びており、まくったシャツからはアオイの倍はありそうな太い腕が見える。

 「よく来たな。」

 大叔父はそれだけ言って、助手席に乗れと顎で指図した。今ではもうめったに見ない型のトヨタ製セダンだったが、よく手入れされているのかピカピカだった。内装も特別なものはないが、座席カバーがかけてあり清潔だった。

 「電車には乗りそこねたのか。」

 「えっ?予定通りに来たんですけど……」

 「俺は十五分ほどは待っていた。」

 連絡ミスかなにかでどうやら待たせてしまったようだと思ってアオイは少し焦る。正三の顔が全く読めないので怒っているのかどうかすらわからない。

 「……すみません」

 大叔父は黙って車を走らせた。アオイにとっては沈黙が辛く、景色に集中しているふりをした。駅の広場を出て海沿いの集落の間を走って行く。木造の古い家が多く、道具置き場のような建物もあちこちに見える。全体にくすんでいて人影はごく少ない。窓の外に目線を泳がしているアオイを横目で見、正三は口を開いた。

 「その辺りの家は皆漁師だ。俺もそうだし、兄貴、お前の爺さんもそうだった。」

 「若い奴らにはたいがい、ここはどうしようもない場所だ。ろくな仕事はないし、娯楽もない。だからお前の母親もここを出た。」

 確かに漁師町はくすんで見えたし、娯楽もなければ仕事もなさそうだ、とアオイは思う。

 「でも、海は綺麗でしたよ。」

 何気ないアオイの言葉に正三はそうか、とだけ言った。

 正三が独りで暮らす家は駅から5分もかからない、漁師町の反対側だった。彼の家も周りと同じく、みすぼらしい木造平屋だったが車の中と同じくこざっぱりとしていて静かだ。正三は家に着くなり、冷蔵庫からメローイエローを出してちゃぶ台の上において、

 「よく来た。」と言った。

 その晩の食事は出前寿司だった。アオイはどうやら歓迎されているらしいと思った。



 塞ヶ浜に着いた翌日、アオイが目を覚ましてみるともう正三はいなかった。ちゃぶ台の上には、金釘流だが丁寧な字で朝食には戻る、と書いてある。間もなく正三が漁から帰ってきた。青魚の刺し身と大根の味噌汁、つけものと白米の朝食をゆっくりとした動作で、しかし手際よく準備する。

 「俺も大したものは用意できんが、独りで生きていけるように飯くらいは準備できるようにしておくのがいい。」

 二人は用意した朝食を黙々と食べた。食事は素朴だが、刺し身も味噌汁もアオイが今まで食べたものよりずっと美味かった。

 朝食を取ると正三はすぐに寝てしまった。漁から戻って朝食を済ませて寝るのが普段の生活だという。鍵をかしてくれ、と言ったらそんなものは必要ないと言われて少し驚く。今までのアオイの生活とはあまりにも違っていた。夏休みだというのに塾の夏期講習もない。正直何をしていいのかすらよくわからなかったが、ミズキに会えるかもしれないと思ってアオイは散歩に出ることにした。


 まだ涼しい朝のうちだが、午後の暑い時間を避けているのかそれとも老人は朝が早いのか昨日よりも少しは人が多い。歩いて十五分ほどで駅前の広場に着いたが、しかし特に何もない場所なので誰もいない。昨日車から眺めた町並みは、歩いて近くで見てみるとより薄汚れている。潮風にさらされて劣化しているのかやたらと錆びている看板が多かった。その中に文字のかすれた一枚の立て看板があった。かろうじて「神社」という文字が読み取れた。看板の指すほうは村から離れる方角に細いみちが伸びていて山へと続いている。少しずつ気温も上がり始めていたから、何となく涼しそうだとアオイは山道を登り始めた。


 涼しそうだ、などと思って登り始めたことを、アオイはすぐに後悔していた。確かに山道は直射日光も当たらずに涼しくはあったが、こうも険しくては例え冬でも汗をかく。階段らしきものが整備されてこそいるものの、角度は急でところどころ細い木に手をかけて体を引き上げねばならないほどだった。運動部でもないアオイはすぐに息が上がるが休めそうな場所もなく、かと言ってここで引き返すのは少し悔しい。ひとまず上まで登って、一休みしてから別の道を探して帰ろうと思っていた。アオイは今はただ無心に登る。時折道に現れるひだまりを踏むとその熱量に驚かされる。今日もまた暑くなりそうだった。一匹また一匹と遅く起きだしてきた蝉が山の音を賑やかしていく。アオイはぐっと膝に力を込めて、やっと最後の一段を登り切り、その場にへたりこんだ。Tシャツがじっとりと濡れて体に張り付いている。

 そこは神社の裏手のようだった。アオイは今、神社の裏の小道をずっと登ってきたことになる。小さな社と、その前に供え物がある。社の中にはねずみのような小さな石像があった。なんの変哲もない神社、しかしアオイは何となく違和感を感じていた。ようやく息も整って神社の敷地を回ってみる。こぢんまりとして掃除が行き届いている、それなのにどことなく嫌な感じがしていた。下り階段から鳥居を通して全体を眺めて、ようやくアオイにはその理由がわかった。

 「なんで黒いんだ……?」

 その神社はすべて、社から鳥居まで、真っ黒く塗られた木で造られていた。白木というように神社では清浄なイメージの伴う白っぽい色の木がよく使われる。塗木であっても赤い色などの鮮やかな色が使われることが多い。それほど詳しいわけでないアオイにもわかるほどの異様な存在感を、その神社は放っていた。真っ黒な社の格子戸の奥を見つめていると、薄暗いそこから何かが見つめているような気さえした。アオイは不気味さを感じながらも、ついそこを覗きこむ。「それ」と目があった。

 それは黒く塗られた猿の面であった。デフォルメされた顔は黒一色で塗られ、目や鼻は細かい彫刻で表現されている。その表情は苦悶に歪み、今にも叫び声をあげそうなほどであった。日が陰り、すうっと体温が下がる。

 「ここは黒辺野神社」

 「……!」

 急に話しかけられて心臓が止まりそうになったアオイが振り向くと、そこにはモノトーンの少女がいた。薄い笑みをたたえたその少女は周りの黒から浮き上がるような白さだった。夏だというのに青白いとすら言える膚が白いブラウスと紺色の吊りスカートから伸び真っ黒な空間の中にコントラストを作る。小さな躰から、その場全体を支配する雰囲気を発している。

 「参拝に来る人はめったにいない。珍しい」

 不思議な断定口調で喋る少女は、アオイと目を合わせたまま、身動ぎもしない。アオイは目を離せず一言も発せず、たださらさらと流れる少女のショートカットに目を奪われていた。

 「あなたの名前は知ってる。あなたは会堂アオイ。」

 少女は目鼻立ちのくっきりしたすこし日本人離れした顔をしていた。歳は多分、アオイより下だろう。

 「私は黒辺野シオミ、汐、満ると書く、海辺の村らしい名前」

 「アオイ、あなた外から来た人ね。どこから来たの?」

 今までお構いなく勝手に喋っていた少女から会話の順番が回されたらしいとアオイが気づくまでに一瞬の間があった。

 「……あ、えっと東京からだけど。……なんで名前を知ってたの?」

 「東京。東京ね。でも、実際場所はどうだっていい。あの山の向こうと、大して違わない」

 シオミはアオイの質問には答える気がないらしかった。

 「どうだっていいならなんで聞いたのさ。それに、あの山の向こうと東京とは、ずいぶんな差だと思うけどね」

 アオイは少しずつ現実感を取り戻していた。ここに来てからおかしな気分になることが多い。さっきまで少女の雰囲気に飲まれていた気恥ずかしさから、すこし腹立たしい気持ちになっていた。

 「1と2ならば大きな違い、1000と1001は少しの違い。……何故聞いたのか。それは簡単。私は『外』に興味があるから」

 「外?今もそとにいるけど……」

 「そういう意味じゃない。塞ヶ浜の、外」

 「もしかして、一度も塞ヶ浜からでたことがないの?」

 「今までもないし……きっとこれからもない。」

 「よくわからないけど……自分のいるここじゃない場所に行きたいって、気持ちなら分かる気がする。……他の場所の話しなら出来るよ」

 それからシオミはぱぁっと表情を明るくしてここではない場所の話を聞いた。黒塗りの神社にも、木漏れ日が落ちていた。


 昼飯を食べに家に帰る、と言った時シオミは見るからに不満気だったが、朝から慣れない山登りなどしたせいでアオイはもう限界だった。渋るシオミを夏休みはまだ長いから、となんとか説得してアオイは急いで家に戻った。神社からの帰り道は参道の階段を使えば来る時と比べて随分と楽だった。

 帰ると正三がそばを茹でてくれた。

 「友達が出来たみたいだな」

 「分かるの?」

 「そうでもなければ、遊ぶ場所なんてないこの田舎だ。すぐ帰ってくるだろうと思ってな」

 そうかもしれなかった。実際今までは外に遊びに行くことなんて無かった。夏休みは夏期講習で忙しかったし、暇な時間はだらだらとゲームやインターネットで時間を潰していた。それが今まで楽しい時間だと思っていたけれど、思い返せば他にやることも無かったからしていたのかもしれなかった。

 「ここにはそう同年代の子供は多くはないが、居られる間は楽しく過ごすといい」それだけ言うと正三は無言でそばをすすった。

 

 無理もないことだったが、アオイにとって学校という場所はあまり好きな場所ではない。いじめを受ける前から、彼にとっては学校という場所はただ日々のルーチンをこなす場所でしかなく楽しみと言えるようなものは一片もなかった。それでも行くと決まっているから足を運び、授業を受けた。もちろん、行く必要のないときにそこに寄ろうという気はいままで全くなかった。すなわち、彼にとってはもしかするとこれが初めて、自発的に学校という場所に行ったということになったのかもしれない。


 「お、噂をすればだね。よーっすアオイ君!」

 校庭には数人が集まり、ミズキがこちらを向いて手を振っていた。その中にはシオミもいる。

 「来ると思っていた。私の予感は当たる」ぼそぼそと、しかし不思議と良く通る声でシオミは喋った。

 「他に行く場所もないでしょ」

 「当たったことには違いない」

 どうやらミズキとシオミは仲がいいらしい。アオイのことをシオミが知っていたのも、ミズキに聞いたためだろう。田舎ネットワークはあっという間に広がる、ということだろうか。

 「アオイ、シオちゃんにはもうあったんでしょ。あとこいつらはサトルとジュンイチね。サトとジュンでいいよ。」

 「ミズ姉ちゃん、紹介が雑なんだけど……」

 「文句言うなら、サト、自己紹介しな」

 サトと呼ばれた少年は少し逡巡した後、山室覚です、とだけ言った。

 「山室さんの弟さん?」

 「ミズキでいいって。山室って苗字はここらにはいっぱいあるんだから、誰が誰だかわかんなくなっちゃうよ?サトは私の弟じゃなくて従兄弟だけど、まぁ弟みたいなもんかなー。」

 自然な流れでジュンイチに自己紹介が回ってきたがジュンイチはミズキの後ろに隠れて、なにも言わなかった。この場ではミズキとアオイとシオミが大体同年代で、少しはなれてサトルがさらに下がジュンイチといったところだろう。ミズキはこの学校に通う子供はもう少しいるが、このあたりの集落に住んでいるのは自分たちで全員だと言った。ミズキはお姉さん役といったところだろうか。シオミは我が道を行くタイプのようだが、このくらいの人数だと上手くやっていけるのかもしれない。アオイは自分のいたクラスのことを思い出して少し胸が痛かった。

 「ミズ姉、猿移ししよう」

 昨日は浮世離れした雰囲気に見えたシオミも、明るい校庭では普通の女の子に見えた。

 「いいよー。じゃあ、じゃんけんで猿決めね」

 「猿移しって、なに?」

 「えっ?知らないの、猿移し」

 アオイの知らない遊びだが、どうやらここでは普通らしい。ミズキが説明するところによると、猿移しというのは一種の鬼ごっこでつぎつぎ鬼が増えていく遊びのようだった。アオイのいたあたりでは、増え鬼と言っていたような気がする。

 「あ、ミズ姉が猿だ」

 「よーし、一分待つからね!」

 他の四人が散り散りに、学校のあちこちへと逃げていく。アオイは校舎の裏手に回る。地の利の無いアオイは、ひとまず隠れて逃げる場所を探すことにした。


 校舎は木造の平屋建てで、今にも崩れそうなほど古びていた。ガラス窓もなんだかアオイが知っているガラスとは少し違うようだ。校庭側とは違い薄暗くジメッとした裏手には、飼育小屋と焼却炉がある。飼育小屋には、今は何も飼われていないようだった。とりあえず焼却炉の後ろに隠れることにすると、先にシオミが隠れていた。

 「アオイ、ここに気づくとはなかなか」

 「ここなら右から来ても、左から来ても逆側に逃げられるからね。」

 「それに、後ろにも」そう言ってシオミが指さした先には校舎の裏門があって山手に向かう道が続いていた。

 「校舎の外にでるのはダメじゃない?」

 「そんなルール、説明してない。」

 シオミはじっとアオイの眼を覗きこんだ。大丈夫、ここから出よう、とささやいて、シオミはアオイの手をとった。


シオミの手は小さかった。けれどその小さな手にぎゅっと握られて少し色の薄い瞳に見つめられると、もうアオイにはどうすることも出来ないようだった。

「あの小屋の影に二人いる!挟み撃ちにしろ!」と、ミズキの声。サトルとジュンイチはすでにミズキに捕まって鬼側に加わっていたようで、ミズキとは反対側から二人を捕まえようと迫ってきていた。アオイがミズキの声で我に返った時には、シオミはもうアオイの手をとって走りだしていて、彼女は脇目もふらず後者の裏門へとアオイを引っ張っていった。

 アオイには、おーい、学校の中だけだよ、と声が聞こえたような気がしたがシオミには聞こえていないのか、無視しているのかぐいぐいとアオイの手を引き続けた。

 「ねぇ、ミズキは戻れって行ってるよ」

 「もう猿に移られた奴らの言うことなんて、聞いたらダメ」

 学校の裏門から伸びる道は、山の手へと続いている。海の直ぐ側にある学校から、山を越えるたった一本の国道の途中には、まるで浜へと入る門のように、津波災害対策のための水門があった。普段はただのトンネルでしか無いが、いざというときには閉まる仕掛けなのだろう、物々しい扉が付いている。シオミはその門をくぐり、山の方に逃げるつもりのようだった。山へと続くその上り坂には、水門を境に一軒の家も商店もなく、ただ緩やかな坂が続いているだけだった。

 「はぁ、どこ、はぁ、まで、逃げるの」インドア派のアオイはここまで走ると息が切れ、シオミの手を握ったまま立ち止まってしまった。

 「どこまでも」シオミは道の先をひたと見据えたまま、静かにつぶやいた。

 「そん、なこと、できない」

 おおーい、とミズキの呼ぶ声が聞こえた。ミズキたちはみな、水門のところでアオイたちに手を降っている。

 「ほら、もう戻ろう」

 「戻る?なんで?ミズ姉たちがこっちまで捕まえに来ればいい。なんで来ない?……ミズ姉!捕まえにきなよ!こっちまでさ!」

 ミズキは手を振るのを止め、何も言わずただこちらを眺めるだけだった。あまりに突然彼女たちが動きを止めたから、いきなり時間がとまってしまったように錯覚する。薄暗い水門の影の下で、ミズキもサトルもジュンイチもぴくりともせず、ただ直立不動のままこちらを眺めている。自分たちの影すらも、水門から出してはいけないとでもいうように、それ以上こちらに一歩でも近づくつもりは無いようだった。ミズキたちの落ち着きようとは裏腹に、シオミはますます様子がおかしく、興奮していくようだった。

 「ほら!来られない!あの水門からは一歩だってこっちには出られない!」

 「どういうこと……?」アオイにはどうやら彼女たちはこちらには来られないルールらしい、ということくらいしかわからない。だがシオミはそのルールを破ることが出来るということ、そして――

 「シオミ。戻ってきな」ミズキが声を荒らげず、だが確実に通る声量でシオミに呼びかける。シオミはびくり、と身体を震わせて、私も、これ以上は外に近づけない、とつぶやいた。彼女は坂の上を名残惜しげに振り返り、ミズキたちの方へと戻っていった。

 ――そして、もう一つアオイに理解できたのはシオミが破れるルールは、ほんの少しの範囲だけらしい、ということだった。



 塞ヶ浜来てから数日が過ぎ、田舎での生活にもアオイは少し慣れてきていた。田舎での生活は色々と自分でやらなければならないことが多く大変そうだ、と初め思っていたのだがそれはどうやら違うらしい。不便故に自分でやらねばならない、と言うよりもやることがないから自分でやっているという面が大きそうだと観察していた。アオイが正三の仕事を手伝ったりするうちに顔見知りになった近所のおばさん達はあれやこれやと食べ物や生活用品を手作りし、その作り方をアオイに教えてくれようとした。別に彼女たちがそれを手作りしなければどうしても手に入らない、ということはなさそうだった。浜には行商人というか買い物を頼める外から来る人が、週に二度ほどやって来ていて、大抵のものは彼に頼めば手に入るらしかった。

 「アオイ、要るものが有るなら頼んでいいぞ。あまり面倒なものは時間が掛かるが。小遣いもたくさんはやれないが何か買うといい。」正三はアオイが都会から田舎にやってきて、退屈しているだろうと気を使っているようだったが、アオイにとってはここでの生活は今はまだ新鮮だったしむしろ面白いことが多いくらいだった。

 「ありがとう。正三おじさん。欲しいものは無いけどどんなものなのか見てみたいかな」

 「それなら水門のところに午後行ってみるといい。人が集まっているからすぐに分かるだろう。」

 

 その日の午後、アオイが水門の前に行くと荷台を改造した軽トラックに疎らに人が集まっていた。暑いからだろうか、トラックは水門のトンネル内に停車している。車が他に通っているのを見たことがないとは言えちょっとありえない止め方ではあった。

 「あ、アオイ兄ちゃんも買い物?」

 「サトル君か。なにか買いに来たわけじゃなくて、見に来ただけ」アオイは近頃サトルにすっかりなつかれていた。年の比較的近い男が今まで年下のジュンイチだけだったからだろう。一人っ子のアオイにも見かけるとパタパタと走り寄って来るサトルはまるで弟ができたようでうれしかった。

 「なにか買ったの?」

 「うん、欲しかったやつ!」そう言ってサトルが見せてくれたのは、彼くらいの年代で流行っていると聞いているキャラクターのグッズだった。

 「へえ、これ手に入りにくいんじゃなかった?今すごく流行ってるんだよね」

 「うん。でもおっさんにたのめば買ってきてくれるよ。お小遣いはあんまりないからたくさんは買えないけど、集めてるんだ。」

 他のお客さんの相手をしていた行商人らしき中年が、サトルの方を睨む。サトルは慌ててアオイの後ろに隠れた。

 「……おっさんはなんでも頼めば買ってきてくれるけど、すっごく怖いんだ。いつもはおばさんもいるんだけど、おばさんの方はぼくらのおもちゃはわからないみたい。……じゃあ、アオイ兄ちゃん、またねー。」

 もうひと通り用事が済んだのか、トラックの前にいた人たちは少し離れた場所で立ち話をしている。トラックに並んでいるのは野菜や米、肉などの生鮮食品が主で、雑貨などは頼まれて仕入れてくる仕組みのようだった。主らしき中年は終始仏頂面で売上を計算している。

 「あんた、見ない顔だな。塞ヶ浜の人間じゃねえだろ」怪訝そうな顔で店主はアオイに尋ねた。

 「東京から親戚の家に遊びに来ました」

 「遊びに?……そうかい。そんなこともあるもんかね。塞ヶ浜に?」

 「ええ……。そんなにおかしいですか?ここには綺麗な海だってあるし、とてもいい場所だと思いますが」そう言ったアオイ自身、少し驚いていた。まだごく僅かな時間しかここで過ごしていないのに、いつの間にか塞ヶ浜に愛着をもっていたのだ。しかし、中年は声を潜めて続ける。

 「そうじゃない。そういうことじゃねえよ。……あんた、あんた以外に外から来た人間を見たことがあるかい。ここから出た人間は、見たことがあるかよ。俺は一人もしらねえよ。一人もだ……それってちょっと、おかしいってことじゃねえか、この場所が」

 「ちょっと、変なこと吹きこむのやめてくれない?」

 「……山室さんとこの娘か」ミズキが店主に向けて胡散臭そうな目線を向けて立っていた。

 「山室ってどこの山室よ。ここらは山室だらけだっての。豚肉ちょうだい。……アオイ、石端のおっちゃんは時々変なこと言うんだから、聞いたらダメだよ。」

 「そうかね。俺はなんにも言ってないよ。はい豚肉。」

 店主はミズキに豚肉を売って、今日は店じまいとするらしく軽トラックの臨時店舗をたたんで早々に帰っていった。塞ヶ浜から外へと続く道は一本だけなので、水門から続く山道をトラックは登って行き、程なくして見えなくなった。

 「ねぇアオイ、シオミ見なかった?」

 「今日は見てないけど、どうかしたの?」

 「約束があったんだけど、来なかったから。家に行ってみてもいなかったし。家の人は、朝早く家を出て戻ってきてないって」

 「そっか、ちょっと心配だね……。そういえば、シオミの家ってどこなの?」

 「あれ?知らなかった?シオミは山の上の神社に住んでるの。今はお爺さんと二人で暮らしてるよ。私一旦帰るけど、シオミのこと心当たりあったらちょっと探してみて」

 「わかった。」

 ミズキに言われ、シオミを探すことにしたアオイだったがあまり見当はつかない。初めてシオミと会った神社も、彼女が家にいないということならいないということになる。後の心当たりとしては、

 「この道の先、かな。」

 水門から塞ヶ浜の外へと一本の坂道が伸びていた。


 アスファルト脇の雑草すら焦がしそうな午後の日差しに焼かれて、アオイは緩やかな坂を登っていた。水門から観ていたよりも距離はあるようで、早くも少し腿がだるい。シオミが何故この道にこだわったのかといえば、それはこの道が唯一、塞ヶ浜から外へと繋がる道であるからだ。とは言え、それ以外にももちろんアオイが乗ってきた電車に乗っていけば外には出られるのだから、シオミが言っていたのは象徴的なことなのだろう。登っているうちにようやく坂の上が見えてきた。

 「なんだ、これ」

 坂の上にあったのは、道を塞ぐようにして張られた、何本かの綱だった。綱のそれぞれには等間隔に折りたたまれた紙が垂れ下がっている。

 「注連縄……?」

 それは確かにしめ縄のようではあったが、アオイがどこか違うと感じたのは、なんとなくそれが神域を区切るものではないような感じがしたからだった。綱は工事現場に使われているような黄色と黒の模様もあったし、垂らされた紙は通常のものとは違ってギザギザしておらず、まっすぐ垂れ下がっている。それに普通よりも感覚が狭いような感じもした。神域を区切り、外部の者の侵入を防ぐと言うよりもむしろ、それらは中にいる「モノ」を外に出さないためのような、そのような印象があった。綱は道路脇の支柱に引っ掛けられており、ここに人が来るときはこれを外せるようにはなっていた。しかし縦横に張り巡らされたこれを越えようという気にはならなかった。あたりを見回してもシオミの姿はなかった。ミズキは神社にはいないと言っていたが、この浜の人間でもないアオイにとっては、こうなっては他に思い当たる場所もなく。神社に行ってシオミが戻ってきていないか確認することにした。

 

 黒辺野神社は相変わらず、ひんやりと異様な空気をたたえていた。アオイが以前来た時と反対側に社務所があり、どうやらそこがシオミとその祖父が暮らしている場所のようだった。神社の敷地内に建っていることを除けば古い平屋建ての家である。玄関の引き戸の横についたチャイムを鳴らすと少し間の抜けた音がなり、続いて老人が一人現れた。

 「こんにちは、僕は会堂アオイと言います。シオミさんの友達なのですが、シオミさんはいますか?」老人はアオイの質問から一拍置いて、喉の奥から絞り出すような嗄声で答えた。

 「あぁ、まだ帰ってない。山室の娘が朝にも来たがね。シオミは時々ふらっといなくなる。どこに行っとるのか知らんがね、そんなに気にすることでもない。」老人の話し方は少しシオミと似ていた。

 「あんた、会堂と言ったね。最近外から来た」

 「そうです。夏休みの間だけです」

 「……ふん、これは変なことを言うものだね。」

 「……?どういうことですか?」

 老人は質問には答えず、玄関から出て神社の境内へと回った。

 「もう神社は見たかね」

 「……えぇ。」

 「どう思った」

 「……何故、黒く塗られているのか、疑問に思いました。」

 老人は背を尺取り虫のように折り曲げて、ぐっぐっ、と奇妙な音を立てた。それが老人の笑い声のようだった。

 「お前はなかなか賢い。東京の子供はみんなそうかね……そう、それを疑問に思うべきだ。……それで、何故だと思った」

 「黒辺野神社だからだと」

 「……ふん、それは理由にはならんだろう。まぁ、いい……これは何だと思う。」

 そうして老人は格子戸の中を指した。

 「お面です、猿のお面。」

 「そうだ。これはな、これは疫病神よ。」

 「疫病、神……?」

 「そうよ。お前らくらいの歳だと、伝染る病気なんぞ大したことないと思っとる。せいぜいがインフルエンザで、何日か寝込んだら直る、学校が休めて良い、位に思っとるもんだ。だがな、昔は大層死んだ。……それもそんなに昔のことでもない。伝染る病が恐ろしく無くなったのはここ数十年、戦争が終わってからのことだ。それまでは病気が流行ると人が死ぬことも、珍しいことではなかった。これはそういう病の神だ。昔々の浜の人間が、流行り病でたくさん死んだんだろう。治す方法も知らんから、こうやって神として祀ることで、たたりを鎮めようとしたんだろう……猿と言うのはな、そういう流行り病の神だそうだ。」

 そう言われて改めて猿の面を眺めてみると、その歪んだ表情も、病に苦しむ人々の表情を投影したものに見えた。老人は語って満足したのか猿の面を覗きこんでいるアオイを放って、社務所に戻っていった。結局何故神社が黒く塗られているのか、それはわからなかったので疑問は残るままだったが、別にそんな話を聞くために神社に来たわけでもない。しかし老人の語った内容はアオイのなかにわだかまって残った。意識しだしたからなのだろう、祭殿の中に祀られた黒い猿の面の他にも、黒い猿のモチーフは探してみると神社のあちこちにあった。梁にある寝転がったような格好の浮き彫り、うずくまったような格好の木彫の像、そして直立不動で周囲を睨みつける石像。石像は峠に張られた注連縄に似た綱とおなじもので、ぐるりと囲われ、木で作られた祠に安置されていた。面のデザインが抽象的だったのと対照に、石像は写実的で顔の皺まで作りこまれていた。歯を食いしばり唇をむき出しにしたその面相は、苦しみに歪むというより、怒りと呪いに満ちていた。虚空を睨みつける石像と目があったように錯覚する。いや確かに今、眼が動いたような……

 「なーに見てんのっ!」

 不意に背中を叩かれ、アオイはバランスを崩して倒れこんでしまう。

 「うわ、わわ」

 周りにあるものを掴んだが結局転び肩を強か地面に打ってしまった。

 「ごめん、かるく叩いただけのつもりだったんだけど……大丈夫?」

 ミズキが心配そうに片手を差し出していた。彼女の手を掴んで引き起こしてもらおうとする。ぬるり、と彼女の手が滑りかけて慌てて掴んだが、その勢いでミズキまで倒れこんでしまった。

 「いてて……。」

 「えっ……なにこれ……」

 ミズキとアオイの手には、べったりと黒い泥状の粘液がねばりついていた。指で確かめると糸を引き、魚の腐ったような強烈な匂いがした。

 「なんだろう、泥かな……」

 「ねえアオイ、この像……」

 ミズキが指差す先をみて、アオイは言葉を失った。そこは先程アオイが転んで手をついたところであり、祠と猿の石像が綱に囲まれて安置されていたはずであった。今はアオイが激突したせいで綱は切れ、祠が倒れ、そして猿の石像があったところには、

 「この像って、泥で出来てた……?」

 ぐずぐずに崩れた異臭を放つ泥状の塊が、だらしなく広がっていた。

 「確かに石像だったと思うけど……」

 

 そう言って立ち上がろうと手をついたミズキは、また手を滑らせてアオイの方に倒れこんでしまった。ミズキの意外に大きな胸がアオイの顔に押し当てられる格好だった。

 

 「むぐ」

 「うわ、ちょっと、アオイ、こら、暴れないで」

 「ふがふが」

 「む、胸に息が」

 やっとミズキの胸から脱出し目があって、ふたりとも気恥ずかしさからなんとなく笑い出してしまった。息が切れるほど笑って、不意にアオイは尋ねる。

 「ミズキはさ、ここから出たい、って、思ったこと無いの」

 「シオちゃんに、何か言われた?」

 シオミは外に出たがっていた。ではミズキはどうなのか。アオイにはそれがどうしても聞きたかった。

 「……アオイが来た時に、私は浜を見せたでしょ。どう思った?」

 「どうって……綺麗だったよ。僕は今までもっと汚い海しか見たことがなかった。僕にとってはここでないと見られない海だった。」

 ミズキは少し眼を細める。

 「そう。多分それなんだよね。私は他に海を見たことがないから、本当はここの海が綺麗だなんて、比べてみることは出来ないの。でも、私はそれでいいんだ。ここからは出られないし、私はこの場所に、それなりに満足してるから。」

 そう言ってミズキは、今までで一番寂しそうな笑顔をアオイに見せた。


 「ふたりともいつまでそうしてる?」

 気づくと、地べたに抱きあうような格好で座り込んだままの二人の横に、シオミが立っていた。顔を真赤にしながら慌ててふたりは離れる。

 「シオちゃんっ!探してたんだよ!」

 「ふーん、二人で仲良く私を探していた、の」

 「それはたまたま、シオミが戻ってきていないか確認に来ただけで……」


 ポツリ、と鼻の頭に冷たいしずくが落ちた。たちまちあたりの木々の葉が、雨粒で揺れる。地面を叩く雨粒の音が、うるさく感じるほどの、夕立だった。シオミの家で雨宿りをさせてもらい、程なくして雨は上がった。

 崩れてしまった猿の像は、激しい雨によって、跡形もなく流されてしまっていた。


 その日の夜。アオイは寝付きが悪く、浅い眠りと覚醒を繰り返していた。湿度が高く、寝苦しさにいくども寝返りをうつような、そんな夜だった。塞ヶ浜では昼間は確かに蒸し暑いのだが夜は今まで気持ちの良い天気が続いていた。海の近くで涼しい風が吹いていたし、あたりには遮る建物もなかった。それが今晩は風が止まり、妙に凪いだような空気が、浜全体を覆っている。時刻は午前二時を回ったところだった。正三が起きだすのは四時前だから、まだ二時間ばかりある。耐えきれず布団から身体を起こした。体中じっとりと汗をかき、布団も湿気ていて不快だった。水を飲もうと台所に向かう。蛇口をひねるときゅ、と動物の鳴くような音がする。コップに一杯汲んで、一気に飲み干した。この辺りは山から水を引いているためか、水だけは冷えていて気持ちが良かった。

 浜は静まり返っていた。波の音が聞こえるかと、耳を済ましてみる。波が砂を運ぶ微かな音がした。寄せては返すそのリズムに、しばらく耳を傾ける。そこでアオイは僅かな異変に気がついた。その波のリズムとは違う、ズレた音の周期があった。初め微かだったその音は少しずつ少しずつ大きくなっている。音は柔らかな波音とは違う種類のものだと、漸く理解された。何かを地面に引きずるような音だ。音はわずかに湿気を帯びている。水に濡らした砂袋を引きずるような、腐った落ち葉をかき回すような擦過音。そして、それらの音に加えて、さらに

 「ゥヴぉぁァ……ゥゥ……」それは、唸り声だった。時折咳き込むような、細い息を吐く音に混じって堪えられず漏れる唸り。それらの音は一旦近づいた後再び遠ざかり、少し離れた場所でぐしゃり、と卵をまとめて叩きつけたような音がして、それきり聞こえなくなった。

 アオイは水の入っていないコップを掴んだまま、一歩たりとも動くことが出来なかった。コップを掴む手は震えていた。暑くて仕方なかったはずなのに、寒気で身体が震えていた。


 明くる日、アオイが眼を覚ました時には太陽が高く上がっていた。寝汗はかいていたものの、不快ではない。もうすっかり気温は上がりきっていたが、天井の高い部屋には海風が通っていて心地良い。

 昨晩の音は、一体何だったんだろう。寝ぼけて悪い夢でも見たのだろうか。確かめる方法ならある。最後に潰れたような音がしたところは、ここからそう離れていなかった。見に行ってみればいいのだ。しかし、嫌な予感がしてアオイにはなかなか決心がつかなかった。

 台所の食卓には一人分の朝食が並べてあり、ハエよけのネットがかぶせてあった。今朝も正三が準備してくれたのだろう、煮魚と味噌汁、それに青菜のお浸しの朝食だった。今頃はまだ正三は寝ているはずだ。煮魚をレンジで温めていると、正三が起き出してきた。

 「起きたか」

 「おはようございます、正三おじさん。今朝は遅くてごめんなさい」

 「いや、別にいい。若い頃は眠いものだ」

 「おじさんはまだ寝ていなくていいんですか」

 「水を飲んだら、もう少し寝る」

 「あの、おじさん……」

 「なんだ」

 「昨日の夜、なにか変な音が聞こえましたか。」

 「……いや、何も気づかなかったが……何かあったのか?」

 「いや、何も聞こえなかったならいいんです。あさごはん、頂きます。おやすみなさい。」


 やはり気のせいだったのだろうか。寝付けずに起きたと思っていたが、頭はまだはっきりとは覚醒していなかったのかもしれない。あるいはここに来て見た幻は、ただ単にホームシックになっているだけなのかもしれなかった。そう思うと急にバカバカしく思えてくる。そう、ただ単に変な夢を見ただけだ。夢ならば現実で確かめてみればいい。そうすれば夢の記憶など、すぐに消えてしまうものだ。

 

 異常に気がついたのは、家を出てすぐのことだった。墨のように黒く、なめくじが這ったような軌跡が家の前の道路に残っている。あぁ、ただの夢などではなかった。ここには少なくとも、「何か」がいたのだ。「何か」は山から来ている。軌跡は山に通じる道から伸び、家の前を横切り、その先の角を曲っている。確かめる必要がある。「何か」、がどこに向かったのか。音が消えた先ならば、それはすぐそこのはずなのだ。自分がつばを飲み込む音が、やけに大きく感じられる。確かめなければ。角を曲がったその先に、なにがそこにあるのか。

 跡を辿った先にいたのは、猫であった。軌跡は道端のガードレールまで伸び、猫はガードレールの上に座っている。

 あれは塞ヶ浜に来た日に見た猫だ。まるで涙のように、茶色い毛並みが顔に入っている……

 「お前、ナキネコか……?」

 そうだ、あの猫は、黒猫ではなかったはずだった。

 なぁお、と間延びした鳴き声でアオイはその猫がナキネコであると確信する。黒い色は、毛並みが黒くなっていたのではない。妙に艶のあるその毛並みは、黒い粘液が猫の毛並みを覆った結果だ。あの神社でミズキとアオイの手にこびりついていた、そして猿の像が崩れて出てきた液体。黒い粘液に覆われている他は、猫には異常がないようにアオイには見えていた。

 ナキネコはもう一度泣いた後、ぴょこりと飛び跳ね、地面にぶつかって、まるで地面にたたきつけられたトマトのように弾けて飛び散った。後にはただ黒い粘液と、骨と肉の残り滓のようになった猫。そしてその猫は、いやその液体は、黒いなぁお、と鳴いた。アオイの全身が総毛立つ。しかし、アオイは一歩も動けずにそれを眺めている。一見すると惨たらしくみえる、膠のようなその塊に、わずかに白い毛と茶色い涙滴型のぶちを認める。ぼうとして、彼は、ああ、ナキネコが泣いている、と思った。

 

 アオイは虚脱したようになって、そのまま浜沿いの道をふらふらと歩く。道には誰も、人がいない。浜を一周りするこの緩やかに湾曲した道のあちらこちらに、黒く変色した「死体」が落ちている。これは一体何だろう。内蔵が変色し腹からはみ出ているダックスフンド。首がちぎれかけ、信号機から垂れ下がっているかもめ。浜に降りると、大量の魚がぶすぶすと腐敗ガスを吹き出しながら打ち上げられている。そしてそのどれもが黒く変わり果て、「生きていた」。ダックスフンドとは目があった。かもめはちぎれかけた首を動かし、獲物を探していた。魚は海に戻ろうと飛び跳ねた拍子に、たまったガスで腹がはじけた。みんな生きているなら、これでいいのか。

 浜の一角に、彼岸花が咲いている。インクを垂らしたような、はじけたざくろのような鮮やかな紅。彼岸花が風に揺れている。ゆら、ゆら、ゆら、ふと気づく。今、風は吹いていたか?ゆら、ゆら、また揺れている。アオイは目を凝らす。それは彼岸花ではなく、みみずのような深い海に生きる細長い貝のような、赤い肉が大きな「死体」に群がっている。ゆら、ゆらと揺れながらそれは貪っている。大きな「死体」は一体何だ?そんなに大きな生き物が?あぁ、そうだ。あれは人間だ。黒い斑紋に覆われたその足が、びくり、と動いた。


 

 アオイが眼を覚ました時、彼は家の布団の上にいた。そばにはシオミがいて不思議そうにこちらを覗きこんでいる。

 「アオイ、起きた」

 「あぁ、うん……」

 ひどく悪い夢を観ていたような気がした。身体がぐったりと重たかった。寝汗が冷えたのだろうか、少し寒い。時刻は三時過ぎだった。

 「アオイ、よく寝てた」

 昼寝をした記憶はなかったが、昨晩眠りが浅かったせいだろうか。シオミはいつからここにいたのだろう。寝顔を見られたのだろうか、少し恥ずかしい。

 「うん……昨日寝付きが悪くて……どうかしたの?」

 「アオイに、少し手伝って欲しいことがある」

 シオミが語るところによると、黒辺野神社に祀られていた黒い猿の面が失くなったらしい。神社の周りを見てみたが見つからないので、一緒に探して欲しいということだった。

 「あのお面はもうすぐ必要になる。今度夏祭りがあって、そこで儀式に使う」

 「手伝って、アオイ」

 

 猿の面はなかなか見つからなかった。そもそもあの格子戸の奥に祀られている面が自然になくなるわけはなかったし、もし盗まれていたのならば、そう簡単に見つかるはずはなかった。しかし、シオミに面と向かって頼まれてアオイに断れるわけはなかった。一緒に探しているものかと思ったが、ミズキはいなかった。シオミとミズキはしばらく前から少し距離をとっていて、アオイにはその理由を尋ねることはなんとなく気が引けていた。

 二人は道端に眼をやりつつぼんやりと川端を歩いていた。シオミは背の高いヤマユリを途中で見つけて手折ったり、あまり真剣に探している様子でもなかった。川は山手から浜へと注いでいる。そのろくに整備もされていない川沿いの道を、二人は上流から降りてきた。もう慣れてきたな、とアオイは思う。

 「ねぇ、アオイ」

 「なに、シオミ」

 「前にアオイは、ここじゃない場所に行きたいって、そういう気持ちは理解できるって言った」

 「うん」

 「じゃあ、ここについてはどうなの。この、塞ヶ浜には、アオイはずっと居たいの」

 わからなかった。確かにアオイにとっては東京よりも居心地の良い場所ではあった。ミズキはこの場所が、好きだとも言っていた。だがずっとこの場所に居られるのだろうか。よそ者としてではなく、この土地の人間として。

 「わからないよ。まだ、ここに来たばっかりだし」

 「私は、ここから出たいの。」シオミは、はっきりと言い切る。

 「私は、もうここには居たくない。ここで生きるのは苦しいんだよ、アオイ。閉じ込められているんだ、私達は」

 閉じ込められている、とシオミは語った。ここからは出られないんだ、とミズキは話した。それは、

 「私は外の世界を知りたい。もう閉じ込められているのは嫌」

 「アオイ、私を連れて行って」

 シオミはその透けそうなほど白い手で、アオイの手をとった。シオミの瞳はうっすら緑がかって、吸い込まれそうなほど綺麗だった。

 「……わからないよ、僕に、なにが出来るのか」

 「そう……それなら、もういいの」そう言ってシオミの手は離れていった。


 二人は黙りこくったまま、もうすっかり日も暮れて、真っ暗になった浜沿いの通りを歩く。いつもと変わらない。静かな浜だった。

 「ここ、ミズキの家」そういってシオミが指さしたのは、他と変わらない小さな木造の一軒家だ。夕食時なのだろう、明かりのついた家からは、賑やかしい声が聞こえる。

 「あれ、これって……」

 そこにあったのは、まさにいま探していた猿の面だった。玄関の引き戸の上に猿の面は引っ掛けられていた。

 「なんでこんなところにあるんだ……?」

 「ねぇ、シオミ、」何でこんなところにあるのか不思議だ、と彼女に言いかけて、アオイは言葉を切った。その時のシオミの表情は初めてあった時のような、酷薄な笑みだった。


 それから数日、シオミにもミズキにも会っていない。

 「どうかしたのか、アオイ。最近遊びに行ってないようだが、喧嘩でもしたのか」

 「ううん、なんでもないよ。ただちょっと宿題がたまってたから、まとめて片付けておこうと思って」

 「そうか。それならいいが……」

 正三は納得していないような表情だったが、アオイもうまく説明できそうにないし、黙っているほかなかった。

 「今日は夏祭りだ。今日くらい、宿題なんかやめて遊びに行ってきたらいい。俺も屋台をやっているから、食べに来い。」


 祭り囃子が離れたところから響いている。夏祭りは黒辺野神社に続く参道で行われているらしく、そちらに人が集まっているせいか、浜にはいつも以上に人通りがない。アオイは一人で夜の浜にいた。浜は白くきめの細かい砂がふかふかと足に心地いい。スポーツサンダルの隙間からまとわりつく砂の粒子はひんやりとしている。ミズキはここに残ると言った。シオミは外に連れ出してくれといった。アオイには、自分がどうしたいのかすら分からない。ただ座って浜から真っ暗な海を眺めてみる。この浜から眺める海は、塞がれているのだ。少しも外につながっている感覚がない。ここは隔絶された世界なのだと、やっとアオイにも実感が持てる。彼女たちはこのことを言っていたのだ。毎日見るこの浜の光景が、彼女たちを閉じ込めていた。

 気がつくと、隣にシオミが座っている。

 「分かった?」

 「分かったよ」

 ただそれだけの会話だった。彼女は、でももう遅い、とだけつぶやいた。きっとそうだ。もう遅い。あの瞬間だけが、アオイとシオミが共に逃げられる瞬間だった。

 「私はここを出る。きっと、一人で」

 海が光っていた。光はぼんやりと青白く、波の動きに合わせて揺れる。夜光虫であった。シオミはサンダルを脱いで浅瀬で水を蹴った。彼女の青白い肌は、夜光虫の青白い光を映していた。彼女はアオイを振り返って言う。

 「だから、さよなら。アオイ」

 またあの笑みだ、とアオイは思った。ぐにゃり、と視界がゆがむ感覚があった。


 

 潮のにおいがした。

 濃密な気配を持った、生き物の腐る匂い。どろどろとした、死を煮詰めた匂いだ。

 間延びした猫の鳴き声が聞こえた。アオイのすぐ後ろに、元々ナキネコだったものがいた。もうほんの少ししか肉も皮も残っていない。アオイの足元に擦り寄ってこようとする。

 「ひっ」

 恐ろしい、と初めて感じた。今まで観ていた異常な光景はどこか眠っていたように観ていたのだろう。足元に猫の肉が触れたその時、ぶよぶよとしたそれが潰れ、腐った汁が指の間に絡まるその感触で初めて目が覚めた。足元の肉を蹴飛ばし、後退りして波間に尻もちをつく。猫だった何かは鳴き声をあげて逃げていく。アオイの指を夜光虫がすり抜ける。ぼうっと光る海水にそれは照らされている。波打ち際でゆっくり揺れていたのは「ミズキだったもの」だった。「彼女」は静かに眼を閉じて、まるで眠っているかのようだ。ポニーテールにしていた長い髪が、波に合わせて揺れている。ぼんやりと光る小魚や蝦が彼女の変色した肌をえぐり返している。アオイの手が「彼女」の手に触れようとする。触れた瞬間、手袋が脱げるように手の肉が滑り落ちた。アオイは訳の分からない叫びをあげながら、祭りの会場の方へ、灯りの方へと走りだした。

 

 小さな漁村に、こんなに人がいたのかと思うほど、祭りは人でごった返していた。発電装置の低い音と、人々の喧騒。焦げるソースの匂いと、綿菓子の匂い。参道脇の広場を囲むように屋台が並んでいる。広場の真ん中には櫓が立っていた。組まれた櫓の上には人形が無造作に並べてある。サトルが人形に走り寄って、火をつけていく。燃えやすい素材なのか、人形は勢い良く萌えて、櫓に燃え移る。正三おじさんを探さなくては。どうにかなってしまいそうだ。あるいはもう狂ってしまっているのか。浜焼きの屋台で、栄螺を焼いている正三を見つける。

 「正三、おじ、さん」息が上がって、うまく話せない。

 「なにか、変なんだ。なにが変なのか、うまく話せないけど、皆死んでいるみたいで、でも生きていて、とにかく変なんだ」

 正三は栄螺の蓋が開くのを眺めている。ほんの少しだけあいた栄螺の蓋から、熱い汁が溢れて赤く煌々と燃える炭に落ちる。正三は栄螺を火箸で摘んで、皿に取り、アオイに渡した。正三の顔の肉がずるり、と外れて炭に落ちた。腐肉の焼ける匂いが鼻をつき、じゅうじゅうと炭のはぜる音がした。アオイは皿を放り出し、参道を駆け上っていく。


 黒辺野神社の祭殿の裏、離の社にアオイは逃げ込んだ。ここは祭りの会場からは離れ、灯りは全く届かない。遠くから太鼓の音が響いてくるが、ここまで来る人はいない。人間の顔が溶け落ちても、祭りはなにもなかったように進んでいく。

 「どうして逃げるの」シオミが尋ねる。

 「どうせ逃げ切れないのに」

 「みんななにも変わらないよ」

 彼女は知っているのだ。

 「皆、僕を騙していたんだ。生きた人間のふりをして!」

 ぱっ、と鮮やかな光が視界にハイライトを入れる。遅れて響く発破音。打ち上げ花火が上がる。

 「シオミもそうなのか」

 シオミはなにも言わない。赤色、黄色、緑色、光を飲み込むような黒の社。シオミは顔に笑みを浮かべて、花火を背にして立っている。彼女の白いブラウスにも、一瞬ごとに違う色の光が映り込む。暗闇の森のなか、一瞬ごとに打ち上げられる花火の灯りを通してしか見えない彼女の姿。花火の輝きに眼を焼かれ、合間の暗闇は益々深まる。ストロボのような灯りを通してみた彼女は、黒い猿の面をつけていた。彼女の手がアオイに伸びる。

 シオミはアオイの手を引き、広場へと導いていった。もう花火は終わって、広場では盆踊りが始まったようだ。あたりの人々は楽しげに笑い、黒く腐り落ちながら、這いずるように燃える櫓を周る。

 

 ここは死者の楽園だ。皆が死にながら生きる。死穢の浜辺。


 シオミに引かれた彼の手は、黒く腐っていた。

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