一家の引っ越し
――時は4月。
陽の当たらない場所には雪が残り、傍らには春の草花が生い茂る。桜の枝には多くの蕾がつき、その花を咲かせようと準備を始めていた。
車が一台、走っている。国道から少しだけ外れた路地を、他の車を避けるように。
その車には4人が乗っている。
運転手の男性、助手席の女性。後部座席には、男の子と女の子。ふたりは中学生くらいだろうか。
男の子は座った姿勢で、ドア横に身を任せ眠っている。女の子は横になり、男の子の膝を枕替わりにして眠っていた。
―――
――
―
[母]
「絆、雪奈、そろそろ起きなさい」
声を掛けられ、俺はすぐに目を覚ます。
前方の運転席にいるのが父
助手席に座っているのが母
その母が後ろを向き、こちらを見ていた。俺は母へ問いかける。
[絆]
「お母さん、もうすぐ着くの?」
[母]
「あと少しよ」
俺は窓の外に、目を向けた。
周りには家々が立ち並んでおり、すでに市街地へ入っていることが分かる。
向かう先は、市内にある母の実家だ。
ここは本州の最北端に位置する青森県。津軽(西部)地方の弘前市である。
[母]
「雪奈も、そろそろ起きなさい」
俺の膝を枕にして、女の子が気持ちよさそうに熟睡している。彼女の名前は雪奈。ひとつ年下で実の妹だ。
母の代わりに、雪奈の肩をユサユサとゆする。
[絆]
「おーい、起きろっ」
[雪奈]
「う~ん?」
ようやく目を覚ますと、眠たそうに顔を上げた。
[雪奈]
「ふぁ……」
軽くあくびをする。目を手でこすりながら口を開いた。
[雪奈]
「……おはよ~ございますぅ」
[母]
「なに寝ぼけてるのよ。もうすぐ着くわよ」
雪奈は母の言葉にハッとした様子で、窓の外を確認する。
[雪奈]
「……あれ? あたし、どの位、寝てたの?」
[母]
「岩手にいる辺りからだったし、3時間くらいよ」
[雪奈]
「え~! なんでもうちょっと早く、起こしてくれなかったのさ~? 外の景色、見るの楽しみにしてたのに~!」
雪奈の言葉を聞き、呆れた気持ちになる。
だって、水田とリンゴ畑と山しかないから。
初めて、この地を踏むわけでない。何度か、家族で訪れた事がある。
幼かった俺にとって、自然の広がる景色は、普段と異なり、新鮮に感じたものだ。だけど中3にもなって、初めて見るわけでもない景色に、感動なんてするものかっ。
[母]
「起こそうとしたんだけど、あんまし気持ち良さそ~に寝てるもんだからさ。よだれまで垂らしてたしねぇ」
[雪奈]
「よだれなんか、垂らしてないよっ!」
怒ったように、反論する雪奈。
俺は自身の膝を見たが、特に濡れてはいない。ははん、なるほど。すぐに母の冗談と察知し、便乗して追い打ちをかける。
[絆]
「いや、垂らしてた。俺の膝が濡れてるし」
[雪奈]
「えぇ~、うそぉっ!?」
[絆]
「それにほらお前、寝癖たってるぞ」
[雪奈]
「……!?」
反射的に自分の髪へ手をあてて確認する。そんな慌てっぷりを見るのが、実に愉快だ。
[雪奈]
「ハン兄、あたしの髪、直った?」
[絆]
「直ったんじゃね?」
雪奈は、俺の事をハン兄と呼ぶ。俺はいかにもどうでもいい、という感じで返事をしてやった。
雪奈は不満そうに、ぷいっと母の方を振り向く。
[雪奈]
「お母さ~ん、どうかな~?」
[母]
「大丈夫よ。それに気になるんだったら、その鏡で確認すればいいべさ?」
そう言って、母はバックミラーを指さす。雪奈は、あ~そっか、という感じで、自分の状態を確認しはじめた。
そんな事をしているうちに、目的地へと到着したようだ。母の実家は一軒家の二階建てだが、木造建築である。
いかにも古臭くて、昭和の雰囲気を漂わせていた。しかしスペースは広く、車2・3台分のガレージや裏庭まである。
俺達が先日まで住んでいたのは、3LDKのマンションだ。そんな俺達にとって、この家は豪邸と言えるだろう。
一泊や二泊くらいなら、旅行気分で、それなりに楽しめたのだが……。
[絆]
「はぁ~」
自然とため息がもれる。
父の転勤が決まったせいで、天津家は埼玉から青森への引っ越しを、余儀なくされた。
父は通信会社に勤めている。全国に支店を構える大企業らしい。母の実家がある青森へと、赴任先が決まったことは、会社側による配慮であったようだ。
しかし俺には不満が渦巻いている。まったく新しい環境での生活を強いられるのだから。
これまで慣れ親しんできた友達とも、離れなければならない。せっかく苦労して築き上げた友人関係が、いとも簡単にリセットされるのだ。
そんなこちらの身にも、なってほしい。まぁ、そのことは両親も謝っていたし。話し合った結果なのだから、今更どうしようもない。だから一応は納得していた。
そんなわけで、ここが今日から我が家となる。
[雪奈]
「とうちゃ~く♪ やっと着いたね~!」
雪奈はそう言うなり、真っ先に車のドアを開けて飛び出す。
<< わんっ! わんっ! >>
玄関先にある犬小屋から、甲高く吠える犬がいる。この家で飼われている、白い毛色をした小型犬だ。
人懐こそうで愛嬌がある。俺達を歓迎するように、シッポを振りながら吠えていた。
[雪奈]
「久しぶりじゃ~ん! 元気そうだね♪」
雪奈が犬の元へ駆け寄る。友達と話すように、ジャレあい始めた。
[雪奈]
「きゃあ、くすぐったいよぉ~。あはは♪」
俺も犬の下へと近づき、頭を撫でてやる。すると犬も嬉しそうに尻尾をふった。
[絆]
「……♪」
う~ん、癒される。
そうして犬とジャレていると、玄関の戸がカラカラと開き、ひとりの人が姿を見せた。俺の祖母だ。一家を出迎えてくれたらしい。
[雪奈]
「お祖母ちゃん。久しぶり~♪」
[絆]
「こんにちは」
いち早く雪奈と俺が声をかける。祖母は、にこりと笑い、口を開いた。
[祖母]
「まんず、よぐ来たなぁ~、遠かったべ? ご苦労さんだったね。早ぐ入んなさい」
あぁ、訛っている。津軽弁だ。これでも気を遣っている方だろう。
[父]
「お義母さん。今日からお世話になります。しばらくご迷惑おかけしますが、よろしくお願いします」
父が祖母の姿を確認するなり、丁寧にお辞儀をして、挨拶した。祖母は、にこりとした表情を崩さずに、言葉を返す。
[祖母]
「いいからいいから、早ぐ入んなさい。ほらほら、絆ちゃんも、雪奈ちゃんも。疲れたべさ?」
[母]
「御母さん、わたし達の荷物、届いてるよね? どこさ置いた?」
母も祖母と話す時は、故郷の口調に、少しだけ戻るようだ。
[祖母]
「あぁ、届いでる。二階さ、まとめて置いで、もらったはんで。後で片付ければいいよ。二階はあんた達で、自由に使えばいいから」
[母]
「分かった。絆! お父さんの荷物運ぶの、手伝ってあげて。雪奈は中に入っていいよ」
母からの呼びかけ。せっかく犬とジャレてたのに、と少し不満げに返事をする。
[絆]
「あーい」
[雪奈]
「あ、あたしも手伝うよぉ」
俺と雪奈は荷物運びの手伝いへ。車にも積んであった荷物を、家の二階へと運んだ。
しばらく作業を続け、全てを運び終える。ようやく家の中へと入り、一階にあるリビングで、腰を落ち着けた。
しかし、この家で生活を始めるには、もう一つ大きな作業を、しなければならない。引っ越しをする際に、あらかじめ届けておいた荷物を、片付けることだ。
しばらく休んだ後で、俺達は二階へと上がった。
[父]
「さて、やるか」
[絆]
「あれ、部屋割りはどうするの?」
二階にある部屋は全部で3つ。階段を上がり、すぐ右側に和室。左側に洋室。
その洋室の奥に、もうひとつ部屋がある。荷物は洋室の一カ所に、どっさりと置かれていた。
4人家族分の荷物だ。それは結構な量である。
[母]
「和室はお父さんとお母さんで使うから、残りはあんたと雪奈で1部屋ずつ使いなさい」
[絆]
「うん。わかった!」
[雪奈]
「やったぁ♪」
元のマンションでは、俺と雪奈は共同部屋だった。だから自分の部屋を持てるのは、とりわけ嬉しい。
だが、ここで重大な問題があることに気付く。手前と奥、どちらの部屋を取るかだ。
[絆]
「んじゃ、俺が奥の部屋ってことで」
[雪奈]
「何言ってんの、ハン兄! あたしが奥の部屋に決まってるでしょっ!」
[絆]
「何でだよ! 俺の方が1つ年上なんだぞ!?」
[雪奈]
「関係ないし! それにあたし、女の子だよ!? ハン兄なんかに、着替えとか、見られたくないもん!」
[絆]
「ちっ」
そう、奥の部屋へ行くには手前の部屋を通る必要がある。つまり、手前の部屋で何かをしている時に、見られてしまう可能性があった。
雪奈も、その危険性を、いち早く察知したわけである。いや別に、雪奈の着替えを見たいわけじゃ、ないから。
男の俺だって、見られたくない物があるってことだ。あんなのとか、こんなのとか……。
しかし不利を悟った俺は、苦し紛れの憎まれ口を叩く。
[絆]
「はぁ? お前、女だったのか?」
……ガツッ!
[絆]
「いっ!?」
雪奈の蹴りが一発。弁慶の泣き所を正確にとらえた。足に激痛が走る。かなりのキック力だ。
あまりの痛さに、俺はしゃがみ込んでしまった。
……こ、こいつ。本当に女なのか!?
その様子を見た父が、あきれた表情で言う。
[父]
「雪奈、やめなさい」
[雪奈]
「は~い。ごめんなさぁ~い♪」
こいつ、絶対に反省してねぇー!
[雪奈]
「ねぇ、お母さ~ん。あたしが奥の部屋、使っても良いよね?」
[母]
「そうねぇ。絆、ここはお兄ちゃんが折れてあげなさい」
[絆]
「……分かったよ」
関係ないんじゃ、なかったのかよ……と思ったけれど、しぶしぶ了承する。まあとりあえず、念願の部屋を持てるわけだし。
[父]
「よし。じゃあ、まずは自分の荷物を、部屋に運んでしまおう。大きな物から、みんなで運ぶぞ」
そうして、各自の荷物を、それぞれの部屋へ配置していった。家具を包んでいる梱包資材をはがしたり、段ボールの中身を取り出して、片付けていく。
小休止を交えつつ、そんな作業が数時間ほど続いた。ようやく片付け作業が一段落する。
気付けば、すっかり日も落ちていた。
[雪奈]
「疲れたぁ~、おフロ入りた~い!」
[母]
「ほんとね。お祖母ちゃんが、沸かしてくれてるわよ」
[雪奈]
「うん! おっフロ、おっフロ~♪」
引っ越し作業は思いのほか重労働である。
風呂もいいが、とりあえず腹が減った。先に晩御飯が食べたい。
……そんな俺の願いは叶わず、まずは風呂に入ることに。一家は順番にお風呂に入り、ようやく夕飯の食卓に。
そこには家庭料理が所狭しと並んでいた。やはり初日ということもあってか、豪勢な食事を用意してくれたようだ。
香ばしい匂いが空腹を刺激する。あぁ、もう耐えきれない。それは隣にいる雪奈も同じようだった。
[絆・雪奈]
「いっただっきまーす!」
そうして食卓に並ぶ料理を、次々と口の中へと放り込んでいく。空腹も手伝って、その料理は一段と美味しく感じた。
俺と雪奈が懸命に食べている間、母と祖母が会話を始める。
[母]
「そういえば、こっち、桜はどうなの?」
[祖母]
「ニュース見れば、今年は例年通りだってさ」
[母]
「なら、ゴールデンウィークに満開かぁ。いいね♪」
[祖母]
「久々だべ、行ってみなが?」
[母]
「そうねぇ。みんなで行きましょうよ。あなた、仕事は?」
[父]
「あぁ、大丈夫だ」
[母]
「じゃあ、予定は決まりね」
どうやら何かが決まったらしい。
[雪奈]
「お母さ~ん。それ何の話?」
俺が問いかける前に、雪奈が先に聞いてくれた。さすがは雪奈。積極的に首を突っ込みたがる。
[母]
「ゴールデンウィークに、弘前公園の桜祭りを観に行こうって話よ」
[雪奈]
「あー、知ってる! あたし、前に行ったことあるよね?」
[母]
「よく覚えてるわねぇ……」
[雪奈]
「行きたい、行きたい♪ ハン兄も行くよね?」
[絆]
「ま、いいけど……」
断る理由が見当たらない。どうせ暇だろうし。ゴールデンウィークは、約1ヶ月後だ。それまでに友達を作れる自信はない。
しばらくの間、俺の遊び相手は雪奈と犬だろう。そう考えたら、何か憂鬱な気分になってきた。クゥ~ン……
――
-
夕食を済ませ、テレビを見ながらくつろぐ。
[絆]
「ふぁ……」
大きくあくびが出て、自然に眠気が襲ってきた。早朝から車に揺られてきたこと、そして引っ越し作業の疲れからか。
それを見た母が、寝るように促す。
[母]
「絆、雪奈、そろそろ寝なさい」
[絆]
「ん……」
[雪奈]
「は~い」
素直に従い、二階へと上る。その後で雪奈も付いてきた。
俺は左手前の部屋、雪奈はその奥の部屋に、それぞれ入る。そこで手早く布団をしいて横になった。
戸の向こうにある奥の部屋から、雪奈の声が聞こえる。
[雪奈]
「ねぇ、ハン兄」
[絆]
「ん~?」
互いの部屋は、戸1枚で隔てられているだけ。なので普通に会話することが可能だ。
[雪奈]
「これからの生活、楽しみだね♪」
[絆]
「はぁ?」
[雪奈]
「きっと、色んな、楽しいこと、たくさんあるよ。こっちにも友達、たくさん作るんだ♪」
[絆]
「あぁ、ま~お前なら、そうだろな」
[雪奈]
「ハン兄は違うの?」
[絆]
「……」
雪奈はどこでも、何でも、楽しみに変えてしまう。超ポジティブ思考の持ち主だ。
いつでも明るく、故に誰からも愛される。そんな雪奈の思考回路が、俺はうらやましい。
[絆]
「お前はさ、不安とかね~の?」
[雪奈]
「何が?」
[絆]
「向こうの友達とも離れて、全然知らない所で、溶け込まなくちゃいけないんだぜ?」
[雪奈]
「ん~、そりゃ、向こうの友達と離れちゃったのは、寂しいよ。だけど新しい出会いも、きっとあると思うし♪」
[絆]
「言葉の壁とかも、ありそうじゃね?」
[雪奈]
「津軽弁かぁ~、時々解らないこともあるけど、何とかなるよぉ♪」
[絆]
「何とかなるかなぁ?」
[雪奈]
「うんっ、お姉ちゃんに任せなさい♪」
いや、おまえ妹だろ。ていうか意味不明だし。
[絆]
「寝る。おやすみ」
[雪奈]
「えぇ!? 分かったよぉ。おやすみ~、ハン兄」
会話が途切れ、眠りへと落ちる。
こうして長い1日は終わり、新しい生活が始まった。
先の視えない、不安だらけの門出。
彼らは未だ知る由もない。
やがて彼らには、ひとつの大きな出会いが訪れることを。
――津軽の夜はまだ冷える。
この日は澄んだ夜空に、月が映えていた。
その光は、どこか悲しく、兄妹の未来を照らすように……