暁に揺蕩う幻 1
頬を切る寒風に乗って届いたのは、香りだ。
下手をすれば己の吐き出す紫煙に紛れてしまいそうな、微かなそれが妙に気にかかり、男はつっと路地に足を向ける。
冬でも雪の残らない都会とはいえ、この季節のまだ日も昇らない時間に漂う花の芳香は、異様だ。それも温室を漂う人工的な甘い匂いではなく、草木に紛れて薫る爽やかな自然のものに酷似しているとあっては、気紛れな男も原因を確かめずにおくのは無理だった。
だんだんと強くなるそれを追いかけて、ビルに添うように伸びた裏通りへ視線を巡らせる。
舞台裏のご多分に漏れず、排気ダクトとゴミがすえた臭いをまき散らす中、黒い塊がもそりと動いた。
乱雑に積み上げられた段ボールの隙間に潜り込んだらしい生き物は、僅かな暖を求めるようにできるだけ壁際へと体を押し込んでいく。
───犬か、猫か、もしくは人か───
いつもの男ならばちらりと意識を向けた後、何事もなかったように通り過ぎただろう。ここはそういったものの多い場所だ。道端の石ころにいちいち気を払う人間が少ないように、彼もそれらを気にしない。
だが、今日は無視するわけにはいかなかった。黒い塊が動くたび、花の匂いが強くなる。ジワリと胸を焦燥と安堵が焼いていく。
───あれは、まさか──
三歩で原因にたどり着いた男は、乱暴に黒い塊を掴みあげると容赦なく宙へ釣り上げた。
ぶかぶかのジャンパーの中から、薄汚れた少女が目を丸しくして男を見ている。汚れてべたりと頬に張り付いた長い髪と、あちこちにこびり付いた泥に彩られた姿は、顔を顰めるには十分な要因だが、異臭に交じる芳香は変わらず男の本能を炙っていた。
───幸運で、不運だ───
諦めかけていた探し物が見つかったラッキーと、なけなしの倫理観がタブーを叫ぶアンラッキーと。
どちらにせよ、もう手放せない。
溜息代わりの紫煙を吐いた男はそのまま娘を抱き上げて、すぐそこのねぐらまで短い距離をゆっくり戻った。
そして。
「あの…」
「おう、温まったか?」
繁華街の裏通りでは珍しくもない、古いマンションの四階に戻るなり、男は拾った少女をバスルームに放り込んだ。
綺麗だとはお世辞にも言えない部屋だが、ゴミが散乱しているわけでも汚物で溢れているわけでもない。一応生活空間としての体裁は整えてある場所に、あの状態の娘を置くわけにはいかず、汚れを落とすまで出てくるなと言い置くと自分は着替えを取りに寝室に入った。
着られそうな物がスエット上下しかなかったので下着のことは諦めて、水音を確認してからドアの隙間からそれを押し込み自分はリビングでタバコを吸いつつ彼女を待っていたのだが。
「ま、座れ」
「は、はい…」
案の定、袖も裾も長すぎる紺のスエットを引きずって、少女は風呂場から出てきた。
泥を落とした顔は幼く、困惑と遠慮で歪んでいたが、男に促されると素直に示された隣に座ってうつむいている。
眇めた瞳でそれを見ていた男は、短くなった煙草を灰皿に押し付けると、徐に核心に触れた。
「お前、鬼だろ?」
弾かれたように上げた顔が、驚愕で染まっていた。
大きな瞳はこぼれんばかりに見開かれ、小さな唇は言葉を紡ぐことも忘れてぽかんと開いている。
その表情で確信が持てた男は、ふと微笑むとまだ濡れている少女の髪を乱暴にかき混ぜた。
「俺も鬼だ。聞いたことあるだろ?同族はいつどこにいても助けてくれるって。だから気を抜いてもいいぞ」
彼女がなぜあそこにいたのか、男は知らない。だが、女子供が里から出ることはめったにないのが鬼の常識である以上、寒空の下で震える同族の娘を保護するのは彼らの中では当然の行動だった。
だが小さな子供でも知っているこの掟に、少女は微かに首をかしげる。まるで初めて聞いたかのようなその仕草に、男は顔を顰めた。
「…まさか、知らないのか?」
冗談だろうと言外に問うと、彼女はびくりと体をすくめる。
「すみません…」
小声で謝る姿はどこか怯えを滲ませていて、男は口の中で毒づいた。
誰が彼女をこれほど卑屈にさせたのか。ひどく虐げ、自分に価値がないのだと思い込まなければ、強者である鬼がこれほど己を卑下するはずがないのだ。
「里はどこだ?」
「…東、です」
「そうか」
もしや里の生まれではないのかという疑いは、すぐに打ち消された。
彼女が使った表現は、鬼たち独特のものだ。七つしかない彼らの里は特有の名がなく、大まかに分けられた方角が大別するために付けられている。
少女の特殊な生まれを鑑みれば、もしや人間に紛れて育ったのかと思ったのだが、告げられた里の長を思い出した男はある程度の事情を察して思い切り顔を顰めた。
「嫌な奴だと思ってはいたが、まさか混鬼にまでこんな扱いをするとは…いや、だからこそか」
「あ…あの、里に連絡…」
小さく毒づいていた男にかけられた遠慮がちな声に視線を巡らせれば、少女がたいそう不安げにこちらを窺っていた。
声にならなかった言葉は『連絡をしないで欲しい』という懇願だろう。迷ったり、手立てがなくて帰れなかったのなら、男が仲間だとわかった時点で安堵し、それを請うたであろうに、彼女から漂うのは悲壮感ばかりだ。
その小さな姿に、昔聞いた事のある話を思い出して、男は唇を緩めた。
「残念ながら、泣いて頼まれてもお前を手放すわけにいかないんで、諦めてくれ。東にも一生帰れない。親がいるなら知らせてやらんこともないがな」
「え…?」
全く理解できないと見上げてくる仕草に、零れたのは失笑だ。驚くほど無垢で、呆れるほど無知なこの娘が、待ち望んだ存在だと言うことに、悲しくなるやら嬉しくなるやらどうにもむず痒くて困る。
「里に、お前の番はいなかったか?」
さも善人面をして幾度も仲間を騙していた鬼が、男の脳裏に浮かんでいた。
奴ならばまだ幼いこの娘を意のままに操るため、鬼達が最も尊ぶ関係を利用しようと真っ先に考えるはずだ。
男の推理はピタリと的を射たようで、困惑顔の少女はコクリと大きく頷いた。
「残念ながら、そいつは偽物だ」
「…どうして、わかるんですか?」
初対面の鬼と幼い頃から自分を守っていた里と、彼女がどちらを信じれば良いのか迷うのは道理だ。
だが本来であれば無条件に後者を選ぶであろうものを、躊躇する方が異常だと彼女はいつ気付くのだろう。
沸き上がる怒りに、男の中が昏い感情で満ちていく。
「鬼の本能を知っているか?どういう理屈か知らないが、俺たちは番を一目で見抜く。赤ん坊の内から互いを唯一と決める者もいれば、遠くの里の者と沿う連中もいる。だからこそ適齢になっても番に出会えない者達は七つの里を順に巡る習慣があるんだが…話が逸れたな。ともかく、鬼が番を間違えることはない」
わかるかと確認すると、娘は再び頷いた。
「俺は三十年以上番を探しているが、見つけられなくてな。常に欠落感と焦燥感に付きまとわれて、これ、結構きついんだ。知ってるだけに周囲も余計な気を使ってくれて煩わしいし、数年前から色々面倒になって人間の社会で暮らし始めたんだが…捜し物ってのは、諦めると出てくるんだから、おもしろいよな」
意味ありげに笑んだ男は、桜色に色づいている娘の頬を指の背でさらりと撫でる。
視線が合ったのは一瞬だった。
見開かれた黒の双眸が見る見るうちに濃紫に変わっていき、背を覆う濡れた髪も同色に変色している。
鬼がそれぞれに纏う色は、彼等が本来の姿をとれば鮮やかに浮かび上がる。少女が男の呼びかけに応え、人への擬態を解いたことで、彼女を彩ったのは濃い紫だった。
「混鬼が番を見つけられないってのはお伽噺だと思ってたんだが…確かにお前はこの充足を全く理解できていないようだ」
満足した猫が舌なめずりをした。
眇めた瞳は鈍く光る灰色で、流れ落ちる髪は銀の滝を思わせる。
鬼へと変化したのは娘だけではなかったのだ。男も共に本性を晒し、銀を思わせる灰色を纏って彼女をゆるりと捕えている。目に見えぬ糸で、体を視線を呼気を、全てを絡めた銀の鬼は、にぃっと唇を吊り上げた。
「名を。俺の、番」
鼓膜を震わす声までも、娘を縛る鎖に変えて、鬼が嗤う。
指先一つ動かすことができずにいる娘は、それほどに目の前の美しい男に囚われてしまっている身を何故か喜んでいる己に驚きながら、最後の砦をあっさりと崩して、消した。