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  作者: 他紀ゆずる
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幸福の虜囚  中編

 今日は臨時休業にしたらしい店は静かで、当然隣接している居住空間もしんと静まりかえっている。

 零紫の支配から逃れられないまま自室へと促された水波は、ゆっくり階段を上りきると見慣れた扉の前で足を止めた。


「さ、どうぞ?」


 零紫が水波の部屋のドアを開けるのと、彼女が自由を取り戻したのは、同時だった。

 それは彼が意図してやったことで、悟るのは至極簡単なことだ。


「っ!!!!」

「しぃ、静かに。お隣りに聞こえちゃうよ」


 クスクスと笑いながら大きな手で水波の悲鳴を閉じ込め、零紫は暴れる彼女を易々と押さえつける。

 しかし、楽しそうな口調と、目の前の現状は、決して相容れないものだった。

 さして多くもない水波の持ち物は破壊され散乱し、部屋は嵐が過ぎ去った後のように滅茶苦茶になっている。ある意味、出て行く際に感じた嫌な予感がピタリと的中したようだ。

 ただ1つ違うのは、暴虐の限りを尽くされた部屋の真ん中に、惨めな姿で転がっている男がいることだろうか。

 長いエメラルド色の髪を床一面に広げて、店の制服はあちこち派手に破れた状態で、うつぶせに倒れている。相手が緑矢・・でなければ、うっかり死んでいるのかと勘違いしそうな状態だ。


「っ!なっ、なんでこんなことにっ」


 口を覆っていた零紫の手をはね除け、数歩の距離を倒れ込むように詰めると、恐る恐るぼろ雑巾のような男の様子を確かめる。

 その時、不用意に彼に触らなかったのは、1年かけて培った自衛行為に他ならない。折角心配してやって、イヤミを言われたのでは割に合わないことこの上ないとの判断だ。

 案の定、身じろぎした緑矢は髪の隙間から鋭い視線を水波に投げ、血だらけの頬を歪めて言葉のつぶてを放ってくる。


「なんで、戻ってくる、んだ。…せっかく、出て行ったのに」

「好きで帰ってきたんじゃありません」


 自分の怪我の心配より、水波をこの家から追い出す事の方が重要なのかと、吐き捨てて横を向くと小さな舌打ちが鼓膜を振るわせた。


「そういう、意味じゃ、ないっ」


 力が入らない体を必死に起こしながら、緑矢が絞り出した声は険がなく、共に暮らした1年で初めて向けられる悪意以外の感情に、水波の方が戸惑って眉間に皺を寄せる。


「…じゃあ、どういう意味なんですか」

「零紫さん、から、逃がしてやってくれと、頼まれてたんだ。あんたが、思った通り、生きられる、よう、この家から解放、してやってほしい、と」

「え…?」


 予想もしなかった返答に、言葉が喉の奥で止まってしまった。

 ずっと嫌われていると思っていた相手から自分のために行動していたのだと言われて、驚かないはずがない。それが本当なのであれば、見るも無残なこの姿は、違った意味で水波のせいということになるではないか。


「だ、れに?」


 半信半疑で、それでもその人が頼んでくれたのならどれほど嬉しいかと緑矢に問えば、痛みに顔をしかめた男は、短く『おさ』とだけ教えてくれた。

 里の長は1人だけ、彼女を育ててくれた老いた男ただ1人。この人であったらいいと願った通りの相手だ。

 一族を統べ護る彼の立場であれば、なんとしても利用したいのが水波であろうに、彼はそれらを差し置いても自分を助けようとしてくれたのだ。

 まるで身内にそうするように。


「戻らなければ…俺だって、やられ損には、ならなかったんだ、ぞ」

「ご、ごめん」


 睨まれて、嬉しいと思ったのは緑矢に出会ってから初めてのことだと、水波は場違いにも緩む頬を押さえられなかった。

 嫌われていたのではなかったと、わかっただけでも嬉しいのに、思わぬ味方の存在に自分の未来が開けたような気さえする。

 けれど、そんな希望は一瞬で闇に覆われれ、掻き消えるのだ。


「どうしてみんな、僕から水波を奪おうとする?彼女は僕のものだ。初めて会ったあの日から、ねえ、そう言ったよね?」

「お兄ちゃん、痛い」

「思い出して、水波」


 骨がきしむほどの力で二の腕を掴まれ、引き寄せられた彼女が首を振るのを許さずに零紫は、古く曖昧な記憶を呼び起こせと強請る。

 その切羽詰まった視線と表情に、静かだった水波の内に波が立つ。小さな波紋が幾重にも広がって水面をざわつかせるように、紫の双眸が彼女の封じられた過去をこじ開ける。


「あ…な、に…?」


 決して覗いてはいけない箱の奥、残っていたのは絶望か、希望か。



 寒い、冬の朝。

 いつもは子供の声に溢れているここ・・も、この時期になると一気に人の数が減り、季節と相まって余計に寂しさを感じさせるようになる。普段は事情があって親と離れ暮らしている子供たちが、それぞれの自宅へ戻る数少ない機会なのだ。

 しかし、帰る家がある子ばかりではない。半分は施設以外に行き場のない者なのだから、当然ここが無人なることはなかった。

 水波もそんな中の一人で、休みだというのに妙に早く目が覚めてしまった彼女は、年明けの浮かれた雰囲気にそぐわない無表情で、人気のない廊下を中庭に向かって歩いていく。


 他人が身を寄せ合って生活するここは、いつでもどこか空々しい。

 職員はどれだけ心を寄せても所詮他人で、学校の友人たちが何かと話題に上らせる肉親には到底及ばないし、兄弟のように濃密な時間を過ごす子供達も、決して心の内にまで他人を入り込ませないよう見えないラインをハッキリと引いている。


 それが顕著になる今日のような日が、昔は水波も嫌いだった。

 1年、又1年と年を経るごとに心が凍って、そんな感情さえもどこかに押し込めてしまったけれど、不意に孤独に襲われるこんな日は、柵の外を眺めに行くのだ。

 温かい物で溢れたあちらの住人には、決してなれないことを噛みしめるために。生きていくのに邪魔にしかならない弱さを、また凍らせてしまうために。


 鍵を回して、アルミフレームのガラス戸をそっと開く。

 昨夜のうちに積もったのか雪がうっすらと庭を覆って、履こうと思っていた外用のサンダルの中も白く染めていた。

 外へ出るか否か。一瞬の逡巡を経て、水波は諦めることを選んだ。

 わざわざ柵まで行く必要もなく、こんな場所で足止めされたことに答えを見いだしたから。汚れない色をした雪さえ、自分がそれを汚すことを許していない証のように見えたから。


 帰ろうと、踵を返しかけたときだった。


 鳥よりも大きい雪に映える仄かな紫を纏った何かが、視界を過ぎった。

 早すぎる残像に正体を見極めることができず、振り返りかけた半身のままじっと園庭に目をこらすと、中央に人間の姿が見える。

 背が高い男性のようだ。遠目で確認した暗色のロングコートやズボンはごく一般的なのに、腰を覆うほどに長い薄紫の髪が異質で、何より前触れもなく突然現れたことが不審で、水波は目を細めた。


「…誰?」


 呟きに似た声は、普通なら10メートル近く離れている相手に聞こえるものではない。

 しかし彼女の小さな誰何を捉えた男は、ゆっくり音の発生源に首を巡らせた。


「血が、香る…」


 遠目にも赤い唇を釣り上げて、が笑う。

 白皙の美貌はおおよそ人間が持ちうるものではなく、何より額を破る琥珀の短い角が、男が人外である証。

 誰に正体を聞かずとも、まだまだ物を知らぬ水波にとて、彼が鬼であることは知れた。本能が異形の美しさに魅了されることで、むしろ危険を訴えてくるのだ。


 殺される。


 足音もなく雪の上を近づいてくる鬼に、己の行く末を悟った彼女は微笑んだ。

 物心ついてからずっと一緒だった孤独に、何度も望んだ終焉がやっと降り立ったのだ。これ以上の僥倖があるだろうか。


「僕が、怖くないの?」


 嬉しそうに鬼の到来を待つ少女に、鬼は首をかしげた。もう指先が降れる距離に立ち止まり、諦観した光を宿す瞳を興味深げに探っている。


「怖く、ない。生きていくことの方が、怖い」


 偽善に満ちた同情と、憐れみを装った嘲笑が、幼い水波の魂を疲弊させていた。諦めることでしか自分と折り合いをつけられなかった強い輝きが、弱者を演じすぎたことにより頼りなく消えかかっている。

 どうか解放してほしい。

 視線で訴える小さき者に、鬼は甘い笑みを零す。


「絶望に塗れた心は、すばらしい芳香を放つ。僕はね、私利私欲に熟成された魂の次に、そんなものが好きなんだ」


 とろりと毒でも含んでいるかのような声は、水波に心地よい満足を与えた。

 死を運ぶ異形に喰らわれると理解しながら、それでも自分を好きだと言ってくれた言葉の真実に充足する。

 無条件で寄せられる好意の、なんと暖かいことか。寒々しい偽善に彩られたこの場所で、こうも満たされることがあるとは、想像したこともなかった。

 この上ない幸せに漂いながら、老成した水波はこの時と、願いを綴る。


「食べてください…今、殺して」


 

なにやら登場人物が病んできた…

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