幸福の虜囚 前篇
水波には、親がない。
2才の自分を施設に預けた母親は、必ず迎えに来るという言葉を残したまま、彼女が小学校に入学する日にも行方が知れず、父親に至っては戸籍に名前すらない。
生まれてこの方ずっとそんな生活だった彼女は、酷く大人しい我が儘すら言わない子供であった。
周囲が浮き足立つ面会日にも淡々と予定をこなし、人影まばらな施設内で暗闇に怯えることもなく、1人眠りにつく。
この手のかからない娘を、職員達は常に気にかけ心配していた。このままではいつか、彼女が破綻すると。ため込んだものが爆発する前に、助けてやらなくてはと。
けれど、子供は1人だけではない。
日々問題を抱える子らに振り回されていた彼等は、水波を気にかけながらも積極的に関わる時間を取れず、忙殺されて。
冬の日だった。
その冬1番の寒さに、軽い雪がうっすらと景色を白く染めた、年始め。
9才になった水波は、施設から忽然と姿を消した。
身の回りのものを全て残して、少女だけが忽然と、消えた。
街に出たいと言ったのはこんなことのためではないと、混み始めた店内を見て水波は溜息をつく。手元では洗いかけのカップが滑って、ガチャリと耳障りな音を立てた。
大学から戻った彼女がずっと閉じ込められているのは、英国風喫茶のバックヤードである。
手頃な値段の紅茶とタワーに盛られた軽食が女性に人気で、度々雑誌取材も受けるほどの人気店だが、水波が望んでここでバイトを始めた、わけではない。
単なる利害関係で、働かされているに過ぎなかった。
「これも洗って」
ぶっきらぼうなウエイターが、申し訳程度についているカウンターから山のような食器を押し込んでくる。
それらはやっと空にしたシンクを瞬く間に一杯にして、水波に更なる溜息をつかせた。
「あの、わたしこれからコンパあるから上がりたいんですけど」
「零紫さんから何も聞いてない。それより早く食器出して」
「………」
「早く」
彼女の言葉など聞く気もないのがありありなウエイターは、自分の要求だけを突きつけると冷めた視線で不満げな水波を睨んでいた。
この男はいつもそうだと、苦い思いを飲み込みながら乾燥機から食器を出していく。
養ってくれた老夫婦は彼女が街の大学へ行きたいと願い出ると、1つだけ条件を出した。それがために、お互いあからさまに嫌いあっている水波とウエイターの緑矢は、始終顔を突き合わせていなければならなくなったのだが、今はそんな過去などどうでもいい。それより目先のコンパである。
「お兄ちゃんは?ホールですか?」
ただの同居人である緑矢など眼中にないのは、水波も一緒だ。許可を取るなら家主であり保護者でもある零紫に直接言わなければならないと、狭い隙間から店内を覗けば明らかな意思を持って緑矢が目の前に立ちふさがった。
「軽々しく零紫さんを『お兄ちゃん』と呼ぶなって、何度言えばわかる。あんたは黙って言われたことやってればいいんだよ」
高飛車な態度と言葉に、何かが切れる音を聞いた。
共に暮らし始めてから1年、ずっとこの男の理不尽な物言いに我慢してきたが、もう限界だった。
確かに、今の水波は役立たずで、彼らの迷惑にしかなっていないだろう。だがそれならば、無理に共にいてもらう必要はない。さっさと放り出してくれて、一向に構わないのだ。もとよりそのつもりで、街に出たいと願ったのだから。
黙っていろというのなら、いちいち行動の説明は不要だろう。
そう判断した水波は、踵を返しエプロンを外すと、居住区へと続くドアを無言でくぐった。
「おい、どこ行くんだよ。おい!」
背後の騒音など、無視だ。この家での暮らしの何もかもが、彼女にとって苦痛だったのだ。縁が切れるのならさぞすっきりすることだろう。
今晩は泊めてくれると言っていた、友人のアパートに転がり込もう。
与えられていた2階の個室で、数日分の衣服を小さなカバンに詰め込みながら、自分の引越しなら段ボール数個で足りそうだと算段をつける。
老夫婦の為にと我慢してきたが、限界を超えたことで幾分水波の心は軽かった。その勢いのまま弾むように階段を降り、玄関の引き戸をからりと開く。
「と、そうそう。このブーツも持って出ないと」
邪魔だ、嵩張ると、緑矢によって三和土の隅に追いやられた買ったばかりのこれなど、一晩主のいない家に置き去りにしたら確実にゴミとして消えることだろう。
そこまで考えて自室に置き去りにしてきた衣類が、2日後まであそこにあるのかが最大の問題であると、水波は気付いたのだった。
「頭、いたい…」
楽しいコンパの翌日、楽しくない二日酔いに苦しめられていた水波は、校門で起こっているちょっとした騒ぎなど気にすることもなくそこを通り過ぎようとして、柔らかな声に呼び止められた。
空耳かとも思いつつ、それでも振り返ってしまったのは長年の習慣によるものだ。幼く、迷惑しかかけない自分を、疎むことなく面倒見てくれた相手が不快にならないよう、常に細心の注意を払っていた癖は、既に体に染みついてしまっている。
「…お兄ちゃん」
果たして、数人の女生徒に囲まれていたのは、彼女にとっての大家兼保護者の零紫であった。
長く伸ばした髪を女性のようなポニーテイルに括った彼は、柔和で優美な風貌に反して、180を優に超える長身と引き締まった肉体の持ち主である。
平均的な女性より頭1つ分大きなせいで、周囲を包囲されても視界を遮られることなく水波に優しげな微笑みを送ってきていた。
「昨夜は帰ってこないから心配したんだよ?」
「…あの人にはコンパに行くって言っておいたけど」
待ち人が現れたことを告げ、丁寧に道を空けて貰った零紫は、2歩で不機嫌な彼女の前まで来ると僅かに首を傾げた。
「うん、聞いた。でも戻らないとは聞いてないから」
「言ってないもん」
滑らかだが、どこか冷たい響きを宿している声に怯えながらも、水波はきちんと視線を合わせると今日一日、痛む頭で考えていたセリフを口にする。
「明日にでも残してきた荷物を取りに行きます。その後は1人で暮らすので、どうかもうわたしのことは放っておいて下さい」
「それはだめだよ」
即答は、予想の範囲だった。
自分の特殊な出自を鑑みれば当然だし、なにより過去の経験から零紫がこの手のことで水波の意見をきいてくれたためしはないのだ。
それでも、今度ばかりは譲れないと、困り顔の保護者に視線を据える。
「…選んだんです。里でも、両親でもなく、街と友人をわたしは選択しました。もうこれ以上、猶予期間はいりません。1人で生活しなくちゃいけないんです」
「それこそ、許すわけにはいかない」
零紫の雰囲気が、瞬き1つの間に変わった。
これまでの柔らかな物腰が一変、硬質で冷たい本来の顔が、目の前の男をよく知る人物から他人に変えて、水波がせっかく奮い立たせた自立心を凍りつかせる。
「ねえ、君は…誰のもの?」
全身の血が、音を立てて引くようだった。
目の前で妖艶な笑みを刷く零紫が、本性を覗かせて瞳を深い紫に変えたから。
聞いたこともない、低く心を震わせる声で独占欲を吐いたから。
ぞくりと走った悪寒に、逃げたい本能を押さえつけるのが精一杯で、とても口など開けない。
「水波?答えて」
抗えない本能と、抗いたい心と。これまでなら簡単に振れていた天秤は、今日ばかりは譲れないと彼女に首を振らせている。
「わ、たしは、わたしのもの…」
「違うよね?何度も教えているのに、困った子だね、君は」
柔らかな口調とは裏腹に、ぎゅっと両肩を掴んだ零紫の力は強かった。思わず眉根を寄せ、抗議の視線をぶつけた彼女は、強い瞳に捕まって、軽率な己の行動を痛く後悔することとなる。
「水波は、僕のものだ。血肉全て、呼気1つに至るまで、僕のもの」
囁きは、甘やかな毒だった。
低く心地よい声に、赤く弧を描く唇に、捕らわれて動けなくなった体を縛り上げる最後の細工。
しまったと、歯がみしても遅い。彼女が人間である限り、決して逃れられないその罠は、易々と獲物を絡めて巣穴へと引き寄せる。
「さ、帰ろう」
どれほど叫びたくとも、声は出なかった。抱かれた肩を押されて、促されるままに歩みを進めるだけだ。
通りの向こうに止められた零紫の車へと、乗り込む間際に声が聞こえた。
『羨ましい』と水波を妬んだ誰か。
利用され、捕食されるだけが自分の価値だとしても、彼女はまだそう言ってくれるのだろうか。
今度こそ通えなくなるかも知れない大学を横目に見ながら、水波はやるせなさに小さく溜息をついた。