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  作者: 他紀ゆずる
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目覚めの時 後編

 何故、今頃になって気付いたのだろう。

 傷や変色した血に塗れた亡骸に、動かないはずの指先が揺れた。潰れて空気を押し出すしかなかった喉が、僅かに言葉を紡ごうとする。


『お母さん…』


 コンクリートの壁に反響している男達の声が、不快だった。

 小突かれる爪先に消えていたはずの感情が戻ってくる。

 数々の理不尽には耐えられたのに、この光景を許せるだけの何かが、もう桜里の中にない。

 どくりと、耳元で血が滾る音を聞いた。

 諦めに折れていた心が、殺意の黒に猛烈な勢いで塗りつぶされていく。


『死…死…殺す、殺すっ』


 墜ちるのはとても楽で、理性を消してしまうのは呼吸をするより容易かった。

 無力な自分を捨てればいいのだと、狂気が叫ぶ。殺してしまえば、全てを屠ってしまえば、これ以上の苦しみはなくなるのだと、どこかで誰かが囁いていた。


「お、おい…?」


 赤く染まった視界で、先ほどまで桜里を蔑んでいた男が怯えを覗かせる。

 何故?と、自分を見下ろせば、折れた両足のままで立ちあがったせいで爪先が人体としてはあらぬ方に向いていた。ゆっくり持ち上げた手も、指が何本か根元から手の甲の方へ曲がっている。

 確かにこれでは、死体が立ちあがりでもしたような不気味さがあるだろうと、納得して笑えた。本人が見ても気味が悪いのだから、端で見ればもっと衝撃的だろう。

 どうやら心が軽くなれば、体も軽くなるらしい。

 身動きできなかったのが嘘のように、彼女の体は今、軽いのだ。


「ふざけるな!あんな体で立てるわけねぇだろう!!」

「鬼…?冗談。ありゃあそんな上等なもんじゃねえ、ただの化け物だ!」


 怒声も罵りも、さっきより鮮明に聞こえる。どうやら耳の機能も回復したのだろう。

 自由を取り戻した喜びに傷だらけの口角を引き上げた桜里は、口の端から流れ込む血をぺろりと舐めて、新しい答えを手に入れた。


『血が、いる。人間の、血。あれを飲めば、強く、なる』


 母を殺し、自分をこんな目にあわせた連中を許すという選択は、最早、桜里の中にはない。

 臆病で気が弱くいつも静かに微笑んでいた彼女は駆逐され、幽鬼の如き姿で狂気の笑みを浮かべた人外でしかあり得ない姿に変容いたのだ。

 掌に穿たれた傷から、ぽたりぽたりと血が落ちる。

 踏み出すたびに増えていく染みは、彼女から一滴ずつ消えてゆく人間だ。


「く、来るな!!」


 間の抜けた音をさせて、放たれた銃弾が桜里の頬を掠めていく。

 動揺した勢いで放たれたものが当たる確率は低かったであろうが、至近距離から放たれた弾を避けようともせず歩き続けた光景は、男たちにさらなる恐怖を与えた。

 これまで一方的な暴力の対象でしかなかった存在が、明らかな殺気を放って、己らを害するために近づいてくるのだ。いくらその方面・・・・の関係者といえど、映画の中のモンスターでも見ているような現実感のない光景に、荒事に馴れているはずの彼等でさえここから、いや、この化け物から逃れようと出口へ後ずさっていく。


『人間…食べる…血…』


 一方で桜里の思考は既に力を得ること以外に使われることはなく、痛みさえなくした彼女は後数歩で手の届く獲物えものに全身が喜びに沸き立つのを感じていた。


 あと少し、あと少しでこの体が自由を取り戻す!


 怯えた男たちの視線に歪な歓喜を噛みしめながら、桜里が飛びついた時だった。視界の隅を横切った深い碧が、彼女を後ろから抱きとめてその動きを封じてしまう。力を得られる、絶好の機会を。

 当然その行動に憤った桜里だが、同時に気付いたこともある。

 この腕を。己の胸元を戒めているこの腕に牙をたてれば、欲していたものは手に入る。自分が力を手に入れるための贄は、何も目前の男たちである必要はないのだから。

 絶たれていなかった望みに嬉々として口を開いた瞬間、背後から回ったもう1本の腕に易々と顎を捉えられ、桜里の行動はまたも邪魔されてしまった。


「オレの血がほしいいうなら止めへんよ。けどなぁ…後戻り、できなくなんで?」


 鼓膜を揺らす警告は、彼女の本能にひどく優しかった。

 言葉とは裏腹に行為そのものを全く止める意思のうかがえないその声は、楽しげに、そして見せつけるよう筋肉の乗った腕を桜里の前に突きつける。


「ここに、あんたの欲しいもんがある。どないする?」


 聞かれるまでもなかった。

 解放された口を再び大きく開け、桜里は迷うことなくそこに牙を突き刺し、ゆるく湧き出てくる血を夢中で貪る。

 記憶の隅にある鉄錆の味はしなかった。とろりと舌触りのいいそれは、ほんのり甘くフルーツのフレッシュジュースを飲んでいるかのような気さえする。

 なにより、一口飲む度に体中を見えない力が巡り、折れたはずの腕、切れたはずの皮膚をものすごいスピードで体が修復しているのがわかった。


「ちゃーんとオレは警告したて、お母んに言うてや?なんも知らんあんたを勝手に仲間にしたんとちゃうて、な」


 頼むというより、桜里のせいだと言わんばかりの口調だと、眉をしかめて彼女は自分の変化に気付く。

 それまで本能に押し込められ、ほとんど消えかけていた自我が戻っていることに。背後の男の声をきちんと理解して、それについて考えている自分がいることに。


「わ、たし…?」

 

 気づいてしまえば人間の腕に噛りつき血を啜っている状態の異常性に、慌てて口を離した。背後から抱きしめられていた体は身を引いてもさして動きはしなかったが、代わりに正面に向けた視線の先には、不思議な物が写っている。

 上半身と下半身が離れた男、首と胴が離れた男、どうやったのか胸に拳大の穴を開け転がる男に、腕と首が切断された男。

 どれもさっきまで生命体だったのに、今では物言わぬ肉塊になっている。ほんの少し、桜里が他人の血に夢中になっている間に何があったのか。いやもしかしたらその前、碧が横切ったその時が、彼等が死んだ瞬間だったのか。


 理解できない状況に目を見開き黙り込んでいた桜里の耳元で、心を読んだように男が笑った。


「すまんな、ほんまは自分にやらしたらなあかんかったんやろうけど、どうにも我慢がきかんでみーんな殺してしもた」


 惨状を作り出した張本人は、実に楽しそうに言ったくせに、不意にひそめた声には抑える気のない殺気がこもる。


紅花こうかさんをあないな殺し方しよって、揚句に桜里は狂うほどの目ぇに合わされた。もっともっといたぶってやらなあかんかったのに…しくじったわ」


 ぞわりと背を駆け上がる恐怖と、歓喜する心と、なぜ自分の心が相反する2つの反応をするのか、首を傾げた桜里はさらりと肩を流れた己の髪を見て、その身に起こった変化を理解した。

 背の半ばまであった黒髪が、薄紅色に変色している。

 染めるにしても1度脱色しなければこうも見事な色にはならないほど鮮やかに色を変えた髪は、所々自分の血でどす黒く固まってはいるがとても綺麗だった。

 もしやと手や腕など、肌が晒された部分に目をやると、黄色人種特有だった黄味が消え血管が透けるほど白く浮き立つ皮膚が見える。


「わたし…もう、人間じゃないんだ」


 男の血を飲んでから──いや、母の無残な姿を目の当たりにした瞬間から、桜里は人であることをやめたのだ。力を望み、手に入れるために手放したのは人間だった自分。

 だからこそ、背後の男の凶暴さを心が理解した。人としての理性は否定しようとするのに、新しく産まれた自我が正しいと認めているのだ。


「せやな。厳密には人であり鬼である混鬼やけど、オレの血、飲んでしもたからなぁ。桜里が泣いて叫んでも、人に戻してあげることはできんのや」


 事は結構深刻なはずなのに、背後の男は間延びした声であっさり彼女の退路を断つと、腕の戒めを解いて回り込んだ正面から桜里の瞳を覗き込んできた。

 小さな窓から差し込む月明かりに、浮かんだ色は鮮やかな碧。

 夏の木の葉を思わせる深い碧の髪を肩口で遊ばせて、同色の瞳を優しい三日月型に変えた男は、彼女の予想通り人外だ。

 人工で作るには美しすぎる色合いと容姿、なにより額からつきだした飴色の角がはっきりそれを肯定していて、突きつけられた現実だった。


「だから、聞いたの?」


 結果を教えない酷く怠慢な忠告だったが、男の声は薄れた理性が聞き止めている。戻れなくなると言った、ことを。

 ぼんやり問うと、彼はニヤリと不敵に笑った。


「ん。一応、な。ここ来る前、お母んに『絶対、桜里を無理に混鬼にしたらあかん』て言われとったし、けどむちゃやろ?オレはあんたに一目惚れしてしもて、仲間にする以外の選択肢なんぞ考えもせんかったし、あんたはあんたでおあつらえ向きに意識飛んで、血ぃ欲しがってる。せやからどうせ断らんのわかってて、聞いてん。ついでに挑発もして、うまいことやったと思わへん?」


 得意げにそんなことを被害者の桜里に聞いて、彼はどう応えて欲しかったのだろう。

 確かにこうも綺麗な異性から、一目惚れしたと言われれば大抵の女性は喜ぶだろう。きっと、彼女だって数日前までの日常で告げられればうっかりのぼせ上がっていたに違いない。

 けれど、自分の身に起こった変化と相手が人外であることを考えると何とも複雑な心持ちだとしか言いようがなかった。


「ともかく。こんなとこにいつまでもおるもんやない。紅花さん連れて里に戻ろ」

「え?あ…」


 返事をしない桜里の頬をひと撫でして立ちあがった男は、冷たいコンクリートの上に無造作に転がされていた母の遺骸を肩に担ぐと、座り込んだままだった彼女に手を差し伸べる。


「1人で歩けるやろ?傷は癒えてんのやし、脆弱な人間とちごて鬼は体力もあるしな」

「は、はい」


 促されて立ちあがれば、萎えていた足にも十分すぎる力が戻っていて、これまでのどんな時より手足が軽く動く。歩くどころかどこまでも走って行けそうなほど、桜里の体は軽かった。


「ほな行こか」

「あ、待って!」


 状態を確認して出発しようとした男を、桜里は慌てて呼び止める。


「ん?」

「な、まえ。教えて、下さい」


 突然現れた人物のことを、桜里は何も知らない。話す内容からどうやら相手は自分や母の情報を持っているようだが、彼女にとっては命の恩人といえどお赤の他人に過ぎないのだ。

 どれほど優しくされたとしても、理不尽な暴力に耐えるしかなかった数日が、桜里を酷く臆病にしていた。

 不安を宿した瞳を向けられた男は今更そのことに気付いたようで、ばつが悪そうに顔を顰めると頭をかきながらそっと頭を下げる。


「堪忍。先走って桜里のこと思いやらんで、すまんかったな。オレは碧炎へきえん、人間等が言うところの鬼や。紅花さんとオレのお母んがおんなし里のもんでな、桜里は半分だけ人の血が混じった混鬼いうねん。詳しいことは追々話すけど、あんたがこない酷い目ぇに逢うたんも、紅花さんが殺されたんも鬼であったせいや」

「はい」


 一息にされた返答に、不信はなかった。

 意味もなく殴り続け、母を殺した男達より、碧炎の方が何倍も信用に足る。そんなことはとっくにわかっていた。

 本当に知りたかったのは名前だけだったが、補足された説明で一層深く納得ができた桜里は、微笑んで掴まれたままだった手を少々強めに握り返すと、何やら呆然としている碧炎を引っ張って細く開いていた鉄の扉に向かい歩き始める。


「…あんなん、反則やろ。笑顔、可愛すぎや…」


 背後でそんな呟き声が聞こえたが、知らぬふりで桜里は足を進めていた。



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