目覚めの時 前編
ああ、綺麗だな。
小さな小窓いっぱいに見える満月に、桜里はぼんやり見入っていた。
さっきまで絶え間なく襲っていた激痛が薄れ、衝撃も消え、今や音さえ遠くなっている。
だが、自分の置かれている状況が変わったわけではない。
四方を囲む鋼鉄の壁と、力なく横たわった冷たいコンクリート。無機質で車が数台止まれそうな倉庫の一室で、彼女は3人の男達に絶えず苦痛を与えられていた。
蹴られ、頭を踏み躙られ、髪を掴んで引き上げられては頬を拳で殴られる。気を失えば強制的に覚醒させられ、それを幾度も幾度も繰り返して。
放課後、帰宅途中に訳もわからずにワゴン車に押し込まれてから、この理不尽はずっと続いていた。
もう3度夜を数える間、男達は入れ替わりながら、桜里にずっと暴行を受け続けている。
よくも死なないものだと、己ですら思うのだ、作業するように彼女を苛んでいる男が『化け物』と、時折漏らすのも当然のことだろう。
『ゴキッ』
その時、腹にめり込んだ爪先が鈍い音を上げて、骨が折れたことを伝えてくる。
「っ!」
ほんの僅かの間、息が詰まったが、枯れ果てた桜里の喉が声を発することはなかった。
最初の数時間は悲鳴を上げた。
痛みに泣き叫び、やめてくれと懇願した。
だが、血を吐くまで叫んでも、理由なく与えられる苦痛は止まない。どころか下卑た笑いを響かせて、男達は更なる激痛を彼女に与えただけだ。
骨の折れる音など何度聞いたか知れない。
頬、鼻、腕、肋、足。
ありとあらゆる場所で鈍い音をさせて、桜里の体を支える物が1つずつ壊されていく。
どこが痛いのかすらわからない激痛の中、彼女はもう指1本動かすことすらできなかった。
「おい、いい加減こっちがおかしくなりそうだ。あれはまだか?」
「あーもうすぐ着くはずなんすけどね」
ずっと話すことのなかった男達が、不意に会話らしき物を始める。何度も頭に衝撃を受けたせいか、桜里には遠く霞んで聞こえるその声は、うんざりしている響きが多分に含まれていた。
「ここまでしても死なねぇような化け物、これ以上相手にしてられっかよ」
吐き捨てる言葉と共に圧縮した空気が抜けるような音がして、彼女の手のひらに焼ける熱さが穿たれる。
「っっ!!っ!」
これまでに感じたことのない衝撃に視線だけを巡らせると、自分を傷つけたのものの正体は直ぐに知れた。
ドラマや映画の世界でしか見ない拳銃が、銃身の先に不格好に膨れた物をつけて男の手の中にある。
「厄介な物出すんじゃねぇよ。目玉や腕が飛んだらどうする。あちらさんは五体満足でってのが、ご希望なんだぜ」
「こんな状態で、満足もくそもねえでしょうよ。だいたい3日3晩、大の男が殴ろうが蹴ろうが死なねえ化け物だ。弾かれたくらいでどうにかなりゃしませんや」
「ちがいねえっ!」
げらげらと響く笑い声に、桜里は死にたいと、切に願った。
これ以上訳も分からず苦痛を味わい続けなければならないことに、もう心がついていけない。たった1人、残していくことになる母には申し訳ないが、この地獄から抜け出す術は死以外に見出すことができない。
ごめんね、お母さん…。
ぎりぎりのラインで生への執着を捨てきれずにいたが、限界だった。
解放されたい。
1度考えてしまえば、他に助けなど見出すこともできず、僅かに残っていた力をかき集めて、舌を強く噛みしめる。できるだけ下の根元を噛み切らなければ死ねないと、読んだのはどの本だったろうか?
ジワリと滲んだ鉄の味に、新たな血が流れ出たのを知った。すでに慣れ親しんでしまっていたはずのその味が、別の意味を持って口内に広がっていく。
痛みを感じないのをいいことに、死への道を上がり始めた彼女だったのに、無粋な音にその願いは邪魔された。
『ギィ』
『ガッシャン!!』
麻痺した鼓膜でさえ不快感を感じる大きさのそれは、唯一あったはずの鉄の扉を開けて閉める音だったはずだ。続いた数人の足音に、ゆるゆると視線だけを巡らせると何かを肩に担いだ男が、広い歩幅でこちらに向かってくるところだった。
「そんなもんまで出したんですか?」
「殴る蹴るも体力使うからな。この方が楽だろ?」
「違いない」
「バカ言ってじゃねぇよ。足でも着いたらどうすんだ」
「うまくやりますよ、その辺は」
笑いながら会話していた男たちが、床に持ってきたらしい何かを落としてしゃがみ込むと、乱暴に桜里の髪を掴んで顔、とういうより体を引きずりそれの前で無造作に放り出した。
「ほーら、よく見な。これでもまだ俺たちの手を煩わそうってんなら、お前が本当の鬼だって認めてやるよ」
言われた意味など回らない頭では半分も理解できなかったが、霞んだ目が捕らえたモノには本能が反応する。
赤い、深紅の髪はこれまで桜里が知っていた黒髪とは違う。
長く、鋭い爪はいつも仕事のために切りそろえられていたことを考えると不自然だ。
短い、鼈甲に似たつるりとした角が頭に2本あるなんて筈がない。
でも、でも。
いつも白磁のようだと思った美しい肌と、口紅をひいたわけでもないのに鮮やかな彩りの唇と、整い美しかった顔の造作と、光を失いぼんやり見開かれた濃茶の…いや、あれは赤だ。血よりも濃い、赤色の瞳だったのだ。