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  作者: 他紀ゆずる
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人を喰らふ者  後編

 悪夢のような時間だった。


 変異した加藤…いや、鬼に追い回され、あちらへこちらへと逃げ回る。滑る床に転び、疲労にもつれた足を叱咤しながらでき得る限りの早さで加奈子と美佐は走った。


 だが、鬼を振り切ることはできない。


 当然だ。男と女と言うだけでも体力的ハンデがあるというのに、化け物に変じた者は見合った能力が備わっていたのだ。

 悲鳴を上げる肺を追い立てながら走り回る彼女達を、獲物を嬲るいやらしさで鬼は追っていた。近づいては腕を、足を、薄皮1枚切り裂いて離れていく。

 暗がりに隠れれば2人の名を楽しげに呼びながらわざと前を素通りし、安堵したところに気味の悪い笑みを浮かべて顔を覗かせる。


 命がけの『鬼ごっこ』を楽しんでいるのは、敵だけだ。加奈子も美佐も、もう限界だった。

 過ぎた恐怖、限界を超えた体力、折れた心が足を止めさせる。

「も…む、り…っ」

 流れる涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、美佐が座り込んだ。崩れ落ちる友の姿に、張り詰めていた加奈子の緊張の糸も、ぷつりと音を立てて切れた。

「う、ん…も、やだ…っ」

 同じく涙に濡れた顔を拭うこともできず、彼女も冷たい廊下にくずおれる。


 わざと立てているような大きな足音が、背後に迫っていた。

 だが、2人はもう、精も根も尽き果てていた。


 どんなに悲鳴を上げても、奥まった場所にあるこの別館で起きている騒ぎに気付いてくれる者はいない。ましてや今は不気味な殺人事件があったばかりで、出入りが禁止になっているのだから尚更だ。

 それでも『助けて』と何度も叫んだ。

 『やめて』と声が枯れるほど、命乞いをした。

 なのに現状はどうだ?いたぶられ追い回され、ただ死ぬ時間を引き延ばしているだけではないか。


「なーんだ。もう逃げないのか。つまらないな」

 捕食者は不機嫌な声を上げながら加奈子達に近づいてくる。

「汚いなぁ。やっぱり人間は、女は汚い」

 原型を留めない顔を歪めて、泣き濡れた彼女達に侮蔑の目を向ける。


「仕方がない。それじゃあ殺して、肉を食べ血でも啜って、終わりにしよう」

 そうして無造作に加奈子と美佐の腕を取った。

 逃げる暇もなく強い力で引き上げられた2人は、関節が外れそうな痛みに悲鳴を上げながら、自分の腕に長く茶色に変色した爪が深々と突き刺さっているのを涙に滲む視界に捕らえていた。


 むくむくと血が沸いてくるのは、手首の動脈でも傷つけられたからだろうか?痛みにぼんやりとしてきた頭の隅で、加奈子はそんなことを考えていた。

 みるみる流れ落ち袖を染めていく血を、鬼が赤くざらりとした舌で舐めている。

「おかしなものだと思わない?お前達みたいに汚い連中でも、血肉だけは美味いんだ。どんな高級料理さえ敵わないほど芳醇で、コクがあるんだよ」

 視線を加奈子に据えたまま美佐の腕に牙を突き立てた鬼は、心底不思議そうに言いながら食いちぎった肉を食んでいる。


 殺された女子生徒の肉を、鬼は喰らっていた。血を飲んで、料理評論家にでもなったようにその味を被害者に語っていたのだろう。

 今度は加奈子の肉を食いちぎった鬼が、意識が消えかけている美佐に同じ事を語っているのを聞いて、彼女は口の中に胃液が上がってくるのを感じていた。


 人間の、それもさっきまで言葉を交わしていた相手を食料と見なすことが出来ることが信じられない。ましてやそれを味わうなどと、吐き気がする。

 くちゃくちゃと耳障りな音を立てて自分達を食べている異形を、嫌悪した。だが逃げることもできず、美佐のように気を失うこともできない加奈子は、度々襲う激痛に声にならない悲鳴を上げながら夢であってほしい現を眺めていることしかできない。


(死にたくない、こんなモノに食べられながら死んでいきたくないっ。助けて、誰か、助けて!!)


 使い物にならない喉に唇を噛みながら、加奈子は祈っていた。必死に助けを請うていた。

 じわじわと削られていく腕の痛みに耐えながら、それでも一縷の望みに賭けていた。

 まだ、希望はあるかも知れないと。


「相変わらず、醜いわね。貴方達は」

 静かな声が、した。

 いつの間にか薄闇が迫っていた廊下に、妙に響く女の声だ。


 苦しい体勢の中で、なんとか首を巡らせた加奈子は、真っ先に視界に飛び込んできた色にまず目を奪われた。

 清廉な水を思わせる、水色の髪。

 小作りな美しい顔を覆うように流れるそれは膝裏に届くほど長く、人が持ち得ないはずの色であるというのに不思議なほど自然に彼女の容姿に馴染んでいた。


 そして、次に加奈子の注意を引いたのは、両の側頭部から短くまっすぐに伸びた20センチほどの角だ。

 自分を捕らえている鬼に生えている醜悪なモノとは違って飴色のそれは、磨き込まれたように美しく輝き、触れてみたいとさえ思わせる。


 彼女は、何者なのだろう?

 目の前の鬼とは似て非なる者だとはわかるが、絵本や物語で得た僅かな知識は、あれも鬼だと言っている。

 だが、違う。彼女は美しい。

 容姿にも雰囲気にも禍々しいものはなく、むしろこの場では聖母にさえ見える光を放っているではないか。


 加奈子の混乱を見透かしたのか、ふと彼女に視線を据えた女は、申し訳なさそうに整った柳眉を下げて「遅くなってごめんなさい」と小声で謝罪した。

 何故謝るのかと、考えて思い当たる。忘れていたはずの記憶が蘇る。

 カフェで自分達を見下ろしていた、女だ。

 印象の薄い、声さえ思い出せない相手だと思ったことが信じられない。そうだ、彼女は美しかったではないか。整った顔立ちをして、澄んだ柔らかな声をしていた。


「そこの人鬼じんきがあまりに巧妙に気配を隠してたものだから、中々見つけられなかったの。さっきやっと揺らいだ妖気を見つけて慌てて来たんだけれど…間に合わなくて」

 そういって寄越された視線は、噛みちぎられた傷口を痛ましげに見ている。

 だが加奈子はなんとも場違いなことをぼんやり考えていた。


(目も、水色なんだ…綺麗…まるで大きな氷山みたいな色…)


 どこもかしこも美しい、この世のものとは思えないほどの彼女に目を奪われていた加奈子は、不意に床に乱暴に落とされて我に返った。

 何事かと今し方まで己を捕らえていた鬼を見上げると、これまでの余裕はどこへ消えたのか、強ばった表情で水色の麗人にじっと視線を据えている。


「お前…何者だ?どうしてそれほどの妖気を放っているんだ」

「…無知なんだ。そう。人鬼になって日が浅いって事ね」

 怯えているようにも見える異形に侮蔑の笑みを浮かべた彼女は、赤い唇を開いて己の正体を明かした。


「わたしは、鬼。貴方のように人が変じた紛い物なんかじゃない、正真正銘生まれついての鬼よ。ああ、でも正確には違うわね。この身の内に流れる半分は、人間の血だから」

 挑むような瞳はそのままに、心臓の上に手のひらを置いた彼女は一歩下がった鬼に音もなく詰め寄ると、低く甘い声で囁く。


混鬼こんきというの。鬼と人、どちらの血も持ちながら鬼を選んだ者をね、そう呼ぶの。鬼とわざわざ区別して呼ぶのはね…人鬼を屠れるのが、わたし達だけだから、よ」

 閃いた爪は、夕日に反射したせいなのか紅い輝きを纏っていた。

 小さな動作で長く鋭いそれを鬼の首に深々と突き刺した彼女は、耳障りなはずの断末魔にうっとりと表情を緩ませる。


 鬼は、じわりと輪郭をなくし始めた。首に刺さった爪を起点に、ぐずぐずと崩れ落ちて肉塊となり、更には大きな水たまりにまでほんの数秒で姿を変える。

 後には加藤であった時に身につけていた衣服と、装飾品が残っているだけだ。


(映画でも、見てるみたい…)

 現実感に乏しいその光景に、加奈子の思考は現実逃避を始めた。いや、痛みと失血のせいでただはっきりと物が考えられなかっただけか。

 どちらにせよ自分達は助かって、異形は消えた。

 ここにあるのはその事実と、この世の物とは思えない美貌と力を持った『鬼』だけだ。


 既に思考することさえ難しくなってきた加奈子に、彼女は優しい微笑みを向ける。

 異形であるはずなのに、少しも怖くない『鬼』は、細く白い指で加奈子の涙で汚れた頬を拭うと、柔らかな声で囁いた。

「眠ってしまって。大丈夫、目が覚めたら、全部終わっているから」

 魔法のような言葉に、抗う術はなかった。




 連続猟奇殺人は、あの日からぷつりと起こっていない。

 2人の女生徒を殺した犯人は捕まっていないが、3月も経てば構内も落ち着き、日常が戻ってきていた。

 衣服を奇妙な状態で残し姿を消した加藤についても、しばらくは彼が犯人であったのではないかとの憶測が飛び交ったりもしたが、全ては闇の中。

 なにしろ同じ日に中庭の隅で、大けがをした状態で発見された目撃者とおぼしき2人が何も覚えていないのだから、真実など知る由もない。


 けれど事実は少しだけ違う。

 美佐は恐怖からの逃避で本当に加藤の一件を忘れてしまっていたが、加奈子は全てを覚えていた。ただそれを誰かに言うつもりになれなかっただけだ。

 あの日のことは胸の中に。自分の胸の中だけにあればいい。

 理由はわからないがそう思ってしまった彼女は、何もかもを忘れたことにして口を噤んだ。


 美しかった『鬼』はどうしたのだろう。

 その後、姿を見つけることはできなかったが、彼女はきっとどこかで生きている。

 だから、加奈子は語るのだ。



  『本当の鬼はね、怖くないのよ。綺麗で、優しいの』



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