砂塵は覆う指を滑る 1
『人間には天敵がいないと思ったのか?』
鮮やかな翠が薄水色の空に浮き上がり、男はより一層、倫子に現実を疑わせた。
『腐った魂ほど甘い生気を零す。果物の様じゃないか』
赤すぎる唇から覗く牙は鋭く、長く伸びた爪も額を割る角も人外であると暗に主張しているというのに、蠱惑的な美貌はどこまでも人の本能を揺さぶって。
『正義とは勝者が振りかざす大義名分でしかないのだよ、勉強不足のお嬢さん』
男の言葉が理解できるようになるころには、少女は老婆と言われるほどに年を重ねていた。
鬼狩りを生業とする家は、東と西に1つずつある。
桃園は東の狩り人で現在実働する祝部は5人。その中で最高齢の倫子は、18年前の事件を機に事実上本家に監禁の扱いとなっていた。
体面を重んじる当主はそのことを決して外部に漏らさぬよう箝口令を敷いたようだが、彼女が表舞台に姿を現さなくなって長い。いい加減周囲も事実に気付き始めている。
「さても愚かな…これではあの男に謗られようと、なんの言い訳もできぬ」
くつりと喉を震わせながら、脳裏を占める翠の鬼に思いを馳せていると、ぎしりと廊下の踏板が鳴った。随分小さくなった目を巡らせ格子の向こうを見やれば、幾分老けた甥っ子が変わらぬ厳めしさで倫子を睨みつけていた。
「変わらず鬼に心を寄せているとは…桃園の恥さらしがっ」
唾棄された程度で揺れるほど、軟な心でもない。常と変らぬ平らかな気持ちで、穏やかとは対極にある男の顔に笑いかけた倫子は、口を噤んだまま訪いの理由を尋ねた。
「…混鬼を消せと送る人鬼が、次々と消されて戻る。鬼どもが、何故我らの先手を打って混鬼を手にできるんだ。奴らに独自の能力でもあるのか」
つまり自分から情報を引き出しに来たということか。変わらぬ笑顔の下でため息を零した倫子は、知らぬと首を振った。勿論それで納得する程度ならば、蛇蝎の如く嫌っている伯母の元へこの男がわざわざやっては来るまい。
予想通り怒りで顔を赤黒く染めた甥は、座敷牢を蹴破らん勢いで格子にしがみ付くと、倫子に激しく詰め寄った。
「そんなわけはなかろう!貴様が鬼に通じたせいで多くの同朋が命を落としたんだ!僅かでも良心が残っているのなら、知っていることくらい吐け!」
命を落としたのは朋輩ばかりではあるまい。そんな言葉を飲み込んで、彼女は毅然と首を振る。
「なんと言われようと、知らぬものは知らぬ」
老いてなお衰えぬ眼光に貫かれた男は、言葉に詰まった末に踵を返すと、足音荒く倫子の視界から消えていった。
「…そうか。混鬼が鬼と共にあるのなら…鬼狩りもじきに消えようぞ」
その後姿を見送りながら、倫子は再び翠の鬼を思い起こす。
人を喰らうと笑った鬼が、人を操り利用する人間を醒めた瞳で見ていたあの日。いつか鬼狩りが滅ぶのだと漠然と理解したものだ。
来るべき日の近さに、倫子の皺を刻んだ口元がふわりと綻んだ。
待ちに待った客人を迎えに出ていた藍里は、家族使いにしている和室に人影を見つけると、大仰に声を上げた。
「いや、どちらさん?勝手に入ってこられたら、困るわぁ」
その心底困ったと言わんばかりの口ぶりに、長の家に押し入る命知らずがいるのかと番を庇いながら前に出た男たちは。
「…冗談きついな、藍里様」
「ええ、本当に。他の誰が忘れても、貴女だけは忘れないでしょうに」
「そうかぁ?忘れられてもしゃぁないやろ。こんな本能欠落したような男」
鼻白む銀灰も、呆れる零紫も、鼻で嗤った碧炎が放った言葉にそれもそうかと妙に納得してしまった。
「…ひどいな、寄ってたかって。久しぶりに戻った主に随分だ」
「主はおかんや」
拗ねた美貌の中年に誰もがため息を押し殺す中、正確な情報を叩きつけた碧炎が桜里を抱きかかえるように縁側を進んでいく。
「そうだね。行こう水波」
「え、ちょっとっ」
「紫、黄慈さんたちいつ着くって?」
「午後だけど、でも、あの」
倣うように奥の客間へ消えていく昔馴染みを見送りながら、縋る瞳で藍里を見やった男は、
「私は歓迎されていないのかな?」
問いかけて、
「あの子らはわかりませんけど、少なくともうちは喜んでおりません」
笑顔の返事にいたく傷ついたという。
「自業自得のくせして、あほらし」
そうした不満をわざわざ客間に集う若者たちに訴えに来た男は、あっさり碧炎に一蹴されさすがに柳眉を逆立てる。
「息子なんだから、少しは父親を立てたらどうだ」
「おかん、俺に父親なんておったんか?」
「種もうた男はんは居った気ぃするけど、父親いわれたらどうやろ。あんたも紺花もうち1人の子で、ええように思うわ」
まったく相手にされなかったが。
そうして座敷に腰を落ち着けてから藍里一家の事情を聞かされた水波たちも、どことなく冷たい視線でこのやり取りを見ているのだから一層居心地が悪い。
「お兄ちゃん見てるせいか、番を放置して放浪の旅に出るとかちょっと信じらんないよね」
「そう、だね。碧もいつも傍にいないと、暴走しちゃうし」
「銀灰さんも同じだよ。1人で買い物出ようとしただけで、大騒ぎになるの」
娘たちの囁きも、殺傷能力が高かった。
互いを番だと認識した直後から、藍里の夫である翠嵐は彼女を置いて一年のほとんどを旅空で過ごした。里で問題が起こればどこかからかぎつけて戻ることもあったそうだが、ほとんど揉め事などない平和なここでは翠嵐が必要になることもなく、結果藍里は子供産むときも、里長に押し上げられた時もほぼ一人で困難に立ち向かう羽目になったというのは、どこの里でも有名な話である。
それでも健気に夫を待ち続けた彼女も、さすがに二人目の出産で命を落としかけた時、諦めたのだそうだ。自分の番は死んだ、この世にはいないと死に物狂いで自己暗示をかけ、結果。
「里の外れに空家が一軒ありますし、そこでしたら好きなように使てもうて構いませんけど?」
にこやかに自分の番を家から追い出せるまでになったのだそうな。本当なら全部、名前や顔すら忘れてしまいたかったが、そこまではさすがに生涯を唯一無二と定める番のこと、心に異常をきたすのでできなかったと悔しそうに舌打ちしていた。
上品な彼女がするには違和感を覚えるその仕草に、皆が藍里の怒りの深さを知った一瞬だった。
「そう膨れないでくれ、藍。もう旅には出ずここにいるから、隣りに来てくれないか」
ぽつんと1人、机の一角に座っている翠嵐が隣りを示しても藍里の返事はない。表情さえ変えずに首を傾げて、困ったことと吐息をつくばかりである。
「今から少し込み合った話をしますの。部外者に聞かせるわけにもいきませんし出てもらえんやろか」
そう翠嵐に頼んでから男たちを見回した彼女は、長の威厳を覗かせていた。
もともと桜里の望みを叶えようと里に呼び集めた混鬼の娘たちだが、それを大義名分として各里でも相応の力を持つ番たちと交わしたい情報もあるのだ。特に今回は新しく見つかった混鬼も来るとのこと、些末に関わっている暇は本当にない。自分と元番の破綻しきった関係の確認など二の次なのだと翠嵐に言外に諭せば、表情を引き締めた男はならば尚の事ここにいると言い張るではないか。
「狩り人についてわかったことがある。混鬼に関係が深いし、私の話しを聞いてくれ」
こう言われれば誰にも否はない。それに関してはすぐに許可は出たのだが、やはり藍里の反応は変わらなかった。
「番であるのに触れられないとは。頼むから、ここへ」
「お断りいたします。それと勘違いされてるようやから言うときますけど、うちに番はおりません」
「馬鹿なことをいわないでくれ」
哀願する調子で言い募る翠嵐に、耐え切れなくなった碧炎が口を開きかけた時、桜里と同じ年頃の娘が息を切らせて障子から飛び込んできた。
「みんなもうつかはったんやて?!」
切ないかな、翠嵐によく似た姿の娘はくるりと室内を見回して、
「紺花」
極まったように父親の口から零れた己の名に、にこりと頬を緩ませた。
「知らないおじさんに名前呼び捨てられんのは、いややわぁ」
笑顔で毒を吐く術は、母親直伝の武器であるらしい。