鎖の果て 中篇
すべてが一瞬だった。
街灯の陰から黒い影が飛び出したのも、ぼんやりとしていた橙華の右手首に痛みが走ったのも、目の前の鬼の爪が尋常でないほど伸び影を一閃したのも。
瞬きする間に行われた処刑は、叫び声もなく化け物を灰燼に帰した。
「ごめん、痛かったか?」
衣服だけを留める残骸に目をやることもなく、橙華の手を取った男はもう塞がりかけている傷口に唇を寄せ、滲んだ血を真っ赤な舌で舐めとっていく。
「んっ」
痛覚が刺激されむず痒さが這い上がるのにこらえきれず、声が漏れる。それが微妙に艶を含んでいることを恥じて、彼女はきつく唇を噛んだ。
「人鬼を殺すには混鬼の血がいる。人として流したものじゃ意味がなかったとはいえ、番に自分で傷をつけるっていうのは…」
説明しながらすっかり綺麗になった手首から顔を上げた鬼は、口角を上げて赤く染まった橙華の顔を堪能したあと耳元に唇を寄せた。
「ぞくぞくする。最高だ」
そのまま耳殻に舌を這わせ、暴れる少女を押さえつけてたっぷり舐って顔を上げた鬼は、額の左右から伸びていた角も、鋭い犬歯も、鮮やかな緑の髪も消して、すっかりと人間の姿で橙華を見下ろしていた。もっともその人離れした美貌は少しも隠せていなかったのだが、手品のように一瞬で行われたそれは十分すぎるほど彼女を驚かせた。
「え?な、なんで…」
「目立つからな。車とはいえ、あの恰好のまま帰るのは都合が悪い」
お前も隠せと言われても自分の髪がオレンジに染まった過程さえ思い出せない橙華には無理な注文で、結局あきらめた男は車になにかあったかなと首を捻りながら、公園の外れの駐車場まで裸足の彼女を気遣って抱き上げて歩いた。
濃緑のワゴン車の助手席に押し込められ、どこかから引っ張り出したニット帽を目深に被せられた橙華に、緑矢と名乗った男は車を走らせながらいくつもの事を教えていった。
彼は人間を糧として生きる鬼で、ここから少し離れた鬼の里にいる仲間に届け物をした帰り、人鬼の気配に惹かれて足を向けたアパートで虫の息の男を見つけたのだという。彼は自分には鬼との間に生まれた娘がいて、人鬼に襲われながらもなんとかここから逃がした、どうかあの子を助けてくれと言い残してこと切れた。
あの様子から助からないとは思っていたが、改めて聞かされた父の死はじんわりと橙華の中に沁みて、幾筋もの涙を零させた。けれど男の説明は彼女の涙が止まるまで待ってくれなかった。早く全てを知らなければ、無知がお前を殺してしまうと矢継ぎ早に事実を教え込んでいく。
人鬼とは人間が鬼に変じた理性が薄い化け物で、本来なら人間を害する駆除対象であるはずなのに、鬼狩りの人間は奴らの血が鬼を殺す猛毒だと知ってから彼等を利用するようになった。見つけ出し人肉を与え飼育し、時に不足すれば自分たちで生み出すほど非人道的なことまでして、鬼を殺そうと血眼になる。
これに対抗する術なく数を減らしていた鬼だが、ある日鬼と人間の混血である仲間、即ち混鬼の血が人鬼を屠ることができる毒なのだと知ってそれを利用しなんとか生き延びたと。
「それからあんたのような混血は鬼の里では大切に保護され、鬼殺しの人間どもには命を狙われるようになったんだ。まあ大抵は事情を知ってる親や番が子供のうちに混鬼にして人間に対抗できるようにするんだけど、あんたの母親は?」
夜の道路をひた走りながら問う緑矢は、わかっている答えを静かに待った。
人間の父親が鬼にも鬼狩りにも知られずここまで娘を育て上げるのは、命がけであったことだろう。どのように隠し通したのかはわからないが、橙華の無知も無防備も知識を与えるべき存在の欠如に起因することはわかりきっていた。
ただ緑矢は知っておかねばならなかったのだ。どうしてこのように不幸な親子が見過ごされてしまったのか。なぜ鬼達は彼女の存在を知らなかったのか。
街灯に浮かぶ横顔を窺うと、俯いた少女は何度か躊躇いを見せながら、記憶を辿るようにゆっくりと言葉を零した。
「死んだって、言ってた。わたしを産むときに死んじゃったって」
聞かされたままの事実を並べる橙華に、感情はない。だからこそ、緑矢はそれが事実であろうと確信した。
鬼は長命だ。身体も丈夫で滅多なことでは怪我もしないし、病にもならない。しかし何事にも例外はあるもので、生まれついて長くは生きられないであろうと宣告される赤ん坊がいる。大抵それは同じ母親が生む3人目の子供であるか、双子の片割れであることがほとんどで、滅多に生まれないが故に混鬼と同じくらい各里にその存在が知られていた。
橙華の言うように出産で命を落とすほど脆弱な鬼がいるとしたら、間違いなく彼等であろう。とすれば、心当たりが1人ある。決して発育がいいとは言えない娘の年恰好からおおよその当たりをつけた緑矢は、確信を得るためと己の好奇心も少し混ぜて少女に年を尋ねた。
「…15。今日で」
「は?もしかして今日誕生日なのか?」
探るような視線を寄越しながら小さく頷いた橙華を、運転していなければしっかり抱き込んだのにと鬼は顔を曇らせた。
彼女の表情は諦観に満ちていたのだ。
父親に対する嫌悪や恐怖はないようだし彼の命がけの行動から、これまで虐げられてきたとは決して思わないが、自分の生まれや境遇に橙華が生きる意味を見いだせなかったことは確かだろう。本来であれば誕生を祝われるはずの日が無為な日々を数えるための区切りの1つでしかなかったと、諦めに彩られた顔が言っている。この先もまた同じ日が続くのかと、無感情に光る橙の瞳がくすんでいる。
「ケーキ、好きか?」
高速へと分岐するためハンドルを切りながら、緑矢は世話好きで陽気な中の里長を思い出していた。ここから一番近いあそこへ橙華を連れていけば、さまざまな問題は一気に解決することだろう。何しろ彼は20年と少し前に消えてしまった女の子を、とても気にかけていたから。彼女の忘れ形見が見つかったとわかれば、頼まれずともさまざまに世話を焼いてくれるはずだ。
「…好き」
不意の質問に素直に答えた少女の頭を撫でてやりながら、緑矢は矢継ぎ早に他の好物も聞き出していく。
「えっと…アイスも好き。ハンバーガーや、お寿司、から揚げ君も好き」
「なんだ、統一感ないな」
指折り数えていくのは確かに美味くはあろうが手軽で、最後の一品など商品名だ。若い娘が好むものとしてもどうなんだと言えるものが多くて、緑矢は顔を顰めつつもある仮定を立てていた。
「なあ、コンビニに買い物行ったことあるか?スーパーでもショッピングセンターでもいいけど、自分で買い物したことある?」
もしや、と思っていた。細すぎる手足や、日に当たっているとは思い難い青白い肌。なんだか嫌な予感しかしないと思っていれば案の定。
「…家からは、出たことない。お父さんが、危ないからダメだって」
疑問さえ捻じ伏せる真っ直ぐさで首を振る彼女は、父親を爪の先ほども疑っても恨んでもいなかった。理不尽すぎる要求であるのに素直に受け止め従ったと、それは自分の意思でもあったのだと緑矢に告げてくる。
「うっわぁ…厄介、あの人ら並みに厄介」
思わず頭を抱えたくなったが運転中であると堪えつつ、なんだって混鬼とその周囲は面倒な連中ばかりなのだろうと男は低く唸った。
期せずしてこの特殊な鬼達とばかり最近付き合っている緑矢は、最近気づいたことがある。混鬼と呼ばれる娘たちがあきれるくらい純粋で身近な異性に依存する傾向にあるということだ。彼女たちの隣に立つのは伴侶ばかりだから、癖もアクも強い彼等がどのように相手をコントロールしていようが眺めている分には害がなく楽しかったが、それが自分の番となれば話しは別だ。
「出たことないって、学校は?」
「行ってない」
「外で遊んだりは?」
「しない」
「…もしかし、靴はいてないのは持ってないから、じゃないよな?」
「持ってないよ?」
必要なかったからと、真顔で言った橙華に本気で脱力した緑矢は、一体何から手をつければいいのかと本気で悩んだ。悩んでしたことは。
ただ只管に中の里を目指すことだった。