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  作者: 他紀ゆずる
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鎖の果て  前篇

 橙華の世界は、小さく古びたアパートの一室だけだった。

 外に出ることを禁じられている彼女は、働きに出る父がいなくなれば本を読むかテレビを見るしかない。自分がいることを誰にも悟られてはいけないとしつこいくらいに言い含められているので、家事をこなすにも極力音を立てないよう、息を潜めて生活していた。


 なぜそうしなければならないのか、橙華にはわからない。わからないけれど彼女の絶対は父親で、彼の人が否といえば否なのだと呑み込んで生きてきた。

 買い与えられる書物や情報を垂れ流すテレビの中に、自分の現状は不当で不遇だと教える何かがあったとしても、それを口にしようとは思わない。

 だって、彼は橙華に優しかった。学校へ行けない分の知識を娘に与えながら、すまないと何度も謝っていた。外へ出れば守ってやることができないから、我慢してくれといつでも言っていた。


 だから15歳を迎えた日、アパートのドアを開けた父が血まみれで部屋に転がり込み「逃げろ」と橙華の背を押したのに、一も二もなく従った。

 あのままの父を残してくることに心が痛まなかったわけではいが、全力で自分を守ってくれていた人が安全だと言っていた部屋から彼女を出したのだ。

 それだけ緊迫した事態なのだろうと、橙華は夜の街を裸足で駆けた。誰ともわからぬ追手から逃れるため、胸が痛くなるまで走った。


「みーつけた」


 しかし、現実は無情だ。

 公園へ足を踏み入れた瞬間、後ろから髪を鷲掴んだ手に強く引かれてバランスを崩した橙華は、後ろ向きに派手に転がった。

 背中を強く打ったことで呼吸が一瞬止まり、大きく見開いた目が原因となった存在を涙で歪んだ視界に逆さまに写す。


 闇夜に赤く光る眼と、耳まで裂けた口から覗く長い犬歯、ザンパラに伸びた白髪からは醜く捻じれた土色の一本角が爪月の淡い光に浮き上がっている。


「お前を殺して、エサにしていいんだ」


 醜悪な見かけは性別さえぼんやりとさせていたのに、すぅすぅ耳障りな呼吸音と一緒に吐き出された声はひび割れていても甲高い女のものでだからこそ、橙華は恐怖に顔を引きつらせた。

 物語や液晶を通して知る女性は皆、綺麗だった。化粧をしてカラフルな衣服を纏って、顔形の美醜だけではなく知性までも含めて自分を美しく見せることに心を砕く、そんな人たちばかりだったのに。

 目の前の者は、化け物だ。襤褸を着て醜い己を隠しもせず、茶色に変色した長い爪を橙華の頬に突き立てる、こんな女性などいるはずがない。


「い、やっ、やめて…っ!」


 ちりりと焼け付く痛みに暴れても、爪は食い込むだけではずれない。そればかりか腹を力任せに踏みつけられ、乾いた音が内臓を貫いた。


「もっと暴れろ。獲物が哀れに蠢く様は、食欲をそそるんだ」


 喉元を上がってきた鉄錆の味で自分が血を吐くのだと知った橙華は、僅か前に別れた血だらけの父親を思い出した。

 今死ねば、父と同じところに行けるのだろうか。

 それならば、今度は広い世界をと願う。写真や画面でしか感じることのできなかった季節を、景色を、子供のころまで時を戻して感じ直したい。外に食事に出たり、声を殺さず大声で笑い合ってみたい。


 体を苛む痛みに悲鳴を上げながら、もしも願いがかなうなら死を恐れることはないと、絶望の先の光に縋ろうとした時だ。


「…俺、零紫さんや銀灰さんの仲間にだけは、絶対なりたくなかったんだけどなぁ。なんだよこれ、理性でどうにかできるもんじゃ、ないじゃん」


 湿り気を帯びた破壊音に続いて、体にかかっていた重みが消えたことに気付いた橙華は、ゆらゆらと落ち着きのなかった焦点を男の声がした方に合せてゆく。

 背にかかるのは、先ほどの化け物と同じ爪月だ。額から伸びる一本の角が男が人外であることを示していて、涙で歪んだ視界ではまた自分を食べる者が増えたのか、その程度に思えたのに。


「…呼吸、できるか?」


 そっと抱き起されて間近で対峙することになった男は、人ではないが化け物でもなかった。

 つるりとした飴色の角は鋭いけれど美しく輝き、整った容貌に言葉を忘れるほど美しい新緑の瞳が輝いている。血塗れた橙華の頬を撫でる長い髪も、つやつや輝く木々の葉と同じ色をしていた。

 息をのむほど美しい、人。

 朦朧とする意識の下で、橙華は美貌に息を飲んだ。


「肋が内臓を突き破ってんな。このままじゃ死ぬし、どの道あんたは俺のモノだ。外に道はないんだから、諦めな」


 綺麗なのにどこか恐ろしい微笑みを湛えた男は、少女が言葉の意味を理解する前に荒い呼吸を繰り返す唇に己のそれを押し付ける。

 薄く開いていた隙間から舌を差し込んだ男は、橙華が事態に気付いて暴れるより先にとろりと甘い液体を流し込んできた。

 味覚を刺激し一呼吸で脳を痺れさせるほど甘美なものの正体はわからない。わからないが本能がそれを欲するのに橙華は抗うこともできず、欲望のままに蜜を啜った。


 喉を滑った甘露がジワリと体に沁みるのを、薄ら少女は感じていた。それは比喩などではなく、実際に細胞の一つ一つにまでいきわたった何かが、本人すら気づかなかった奥底の力を引きずり起こす、そんな感覚なのだ。

 二度喉を鳴らしたところで、顔を離した男が真っ赤な唇を歪めた。


「へぇ…綺麗な夕日色だ」


 何を言われているのか全く分からなかったが、さっきまで霞の向こうで聞いているようだった男の声がやけに鮮明なことに気付いて橙華は首を傾げる。

 その時視界を掠めた自分の髪に、違和感を感じて指を伸ばした。

 微かな月明かりが、やけに明るいオレンジを夜闇に浮かび上がらせていた。長く細いその髪は、間違いなく自分の頭皮についていて強く引っ張ると当たり前のように攣れて痛い。


「え…?い、ろ」


 染めた覚えなどない。アパートを出るまでは日本人らしい漆黒の髪をしていたはずなのに、鮮やかに輝く橙は一体いつから自分を彩っていたというのか。


「色付きは鬼の証。…その様子じゃ、自分が何者か知らないんだろ」


 触ってみろと導かれた掌は自分の額から伸びる短い角を往復してやっと、己が人間の理から外れたのだと理解した。

 突然色づいた髪も、知らぬ間に消えていた痛みも、急に利くようになった夜目も、人間であればおかしなことばかりだ。

 けれど目の前の男と同じならば、おかしなことはない。


「わたし、鬼、なの…?」


 昔好きだった絵本には、色とりどりの鬼が描かれていた。どこかコミカルなあの絵とこの男が同じものには到底思えないけれど、橙華より世界を知る彼が鬼だというのならそれは。


「ああ。俺たちは、鬼。そして幸か不幸か、あんたは俺の番でもある」


 また一つ意味の解らないことを言われたようだが、彼女に理解できたこともある。

 この男は、橙華を父から引き離すつもりだということだ。


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