暁に揺蕩う幻 4
「さて、約束だよ白夜君。なぜ君が…いや、東の里全体で紫乃さんの番を偽ったのか、説明してください」
おおよそにこやかとは言えない様子の零紫に説明を求められた白夜は、憎々しげに紫乃を睨んだ後これまで彼女が知りえなかった事実を淡々と語りだした。
里で一番能力が高い黄滋が人間の娘を番だと連れ戻った時、里の誰もが彼女に不快感を示した。人間など餌としての価値しかないと言い切る鬼が多い里だったからそれは仕方がないことだったが、より一層彼等の憎悪を娘が受けることになった理由は、彼女が鬼狩りを生業とする一族の生まれであったことだ。
それでも黄慈が里にいる時間は表面上おだやかで、女たちだけが集う席でも表だって彼女が危害を加えられることはなかったのだが、双子の娘が誕生した頃から状況が変わった。
生まれてすぐに鬼の双子の番だと判明した藤乃は里の宝だと歓迎され、里のどこにも番のいなかった紫乃は逃がすものかと長が張った罠に落とされることになったのだ。
里の鬼たちに紫乃を孤立させるよう指示し、唯一番だと偽る白夜だけに依存させる。誰だって孤独に耐えかねれば差し出される手に縋るものだと、長は笑っていた。
ただしこれには父親である黄慈を家族から引き離す必要があった。彼は強い。その絶対の存在が娘に安心を与えてしまっては何の意味もなくなってしまう。常に里の外での仕事を依頼し、家族から引き離したのだが、それは思わぬ弊害も生んだ。
監視の目がなくなったことで母親を迫害する鬼が爆発的に増えたのだ。何より白夜自身が、自分の感情を隠せなくなり紫乃を疎むようになってしまった。そうしたことで孤立した母親と娘は、自分たちの殻に閉じこもり、ついには里から逃げ出してしまったのだが。
「全てお前のせいだ。僕は厄介者のせいで本当の番を探しに出ることもできず、里に閉じ込められて、挙げ句に責任を取れとお前を連れ戻す任まで押し付けられた。何故僕だけがこんな目に合う?!」
怒鳴り声に身を竦めた紫乃を銀灰は優しく宥めると、憐れみを込めた眼差しを激昂する白夜へ向けた。
「お前の苦しみは長く番に会えなかった俺には、よくわかる。だがイヤなら里を捨てればよかっただけのことを、何も知らないこいつに当たってどうする?本来責められるべきは、誰だ?」
「それ、は…っ」
誰もがわかることなのに、矮小な世界に支配され続けた彼は言葉に窮するほど、己の正義が曲がっていたことに気付けない。どこかで長に、里に疑問を抱きながら、ぶつけることもできず被害者であるはずの紫乃にそれを肩代わりさせる。
静かに銀灰に叱責されながら、己を顧みていた白夜は強く唇を噛んだ。
「ゆっくり考えてみるといいよ。少なくとも彼女を連れていなければ、君は里に帰れないんだろう?それなら時間はたくさんある」
紫乃に二度と戻る気がないのだから、白夜が里に帰ることができる可能性は皆無だ。なにしろ彼女一人なら力づくでという方法もとれようが、彼女を庇護する鬼は各里で一、二を争う実力者ばかりなのだ。白夜一人では傷一つつけることもできない。
「それは…無理です。僕が戻らなければ、兄と藤乃に害が及ぶと言い含められていますから」
自分一人の身の振り方ならどうにでもなると、悔しそうに俯いた白夜の肩を叩く者があった。
見上げればそこには、己と同じ顔がある。
「黒…っ」
「藤乃!」
そこに並ぶ半身に驚きの声を上げたのは白夜だけではなかった。向かいで銀灰に抱きこまれていた紫乃も勢いよく立ちあがると、もう会うことを諦めていた姉に駆け寄ってしがみつく。
「もう、もう絶対、会えないって…っ」
「お父さんと西の長が、里から連れ出してくれたのっ」
姉妹はしばらく離れていた時間を埋めるよう、短い言葉で近況を伝え合った後きつく互いを抱きしめ合う。
「あー…なんだ。大人げないと言われようと、狭量だと非難されようと構わないから、あれを引きはがしたい俺ってダメな奴?」
「いえ、少しも。僕はいつもそう思ってましたし、未だにそう思っています。けれどその独占欲が、紫ちゃんを苦しめる要因になってしまった」
「うん、そうだよなぁ。じゃあ俺に殺されても文句ないよな?」
そうして背後では、物騒な会話と本気で膨れあがった妖気に黒嶺と白夜が震え上がっていた。
番を蔑ろにされた怒りはどの鬼にも理解はできるが、それが紫乃の場合生まれてすぐから里を出なくてはならないほど続けられたとあって、銀灰はこれに過剰反応する。
身に覚えがある分だけ逃げられない恐怖に戦いた双子は、数日動けないほどの折檻を覚悟したのだが。
「その辺にしてやれよ。お前が本気出したら、さすがにこいつら持たないだろう」
「せやねぇ。うちの馬鹿息子かて、あんたの相手はきつい言うてたくらいや。30にも届かん子ぉらには、荷が勝ちすぎえ」
銀灰に少し年をとらせたような白髪交じりの男と、年齢が読めない妖艶な美女が今にも暴走しそうな鬼の襟首を易々と捕らえ、風前の灯火だった黒嶺と白夜の命を救った。
人外がひしめく室内で、突然現れた2人の放つ妖気は圧倒的だった。それまで銀灰と零紫が支配していた場を一瞬で制圧し、彼等を跪かせるほどにこの男女は桁外れに強い。
だが冷笑を浮かべていた2人は驚きに目を見開く紫乃を認めると、高めた力を霧散させ陽気に顔を綻ばせた。
「遅くなって、悪かったな」
すまないと歪んだ微笑みに、紫乃はこれまで我慢していたものが堰を切ったようにあふれ出す。
「お、父さんっ」
さんざんな彼女の記憶の中で、唯一恐ろしくなかった鬼だ。温かく、優しい記憶だけをくれた父。
飛びつこうと伸ばした腕は、しかし無情に阻まれた。
「黄慈さんは、男だろ」
「で、でも、お父さん、だからっ」
「絶対ダメ」
「おま…ちっさい男だなぁ」
「好きにほざけ。あんただって同じだろうが」
しっかりと紫乃を抱き込んだ銀灰は、襟首を掴んでいた手を払い落とすと一歩彼等から距離をとる。
納得できないのは、久しぶりに会う肉親から引き離された少女だ。銀灰は好きだし唯一無二の存在だが、親や姉妹は彼とは全く違う感情で愛している。切っても切れない縁で繋がる家族だというのに、どうして異性だというだけでここまで銀灰は過剰反応するのだろう。
「やっぱし紫ちゃんは混鬼なんやねぇ。碧も桜里が男と話す言うて、目くじら立ててたもん」
「ああ、無理ないです。藤乃ちゃんみたいに小さい頃から番が張り付いてたらまた別ですけど、混鬼は基本的に異性に対する警戒が緩いので」
「んー、わたしもあんまり良くはわかってないですよ?黒ちゃんが嫌がるから男の子と話さないだけですから」
「びっくりしちゃうわよね、男の人と目が合っただけで相手を殺そうとするから」
1度きちんと抗議してやろうと思った紫乃は、女性達が語る番のあり方に自分が全くの無知であったことを悟るのだが、何気ないふりで会話に入り込んでいた女性に気付いて本日何度目かの叫びを上げた。
「お母さんまでっ」
30半ばのはずなのに、少女のように若々しい外見の母が、里から自分を逃がしてくれた日の姿のままそこにいた。
『わたしは黄慈を意のままに操る為の駒だから、手を出されたりしないわ。鬼と違って傷の治りも遅いから、いろいろするとバレちゃうのよ』
そういって紫乃に少なくない現金と鬼から姿を隠すための香を持たせてくれた彼女は、何があっても決してここに戻ってはいけないとしつこいほど娘に言い聞かせた。誰に助けられても、それが例え番であっても母を助けて欲しいと願うことだけはするなと、約束させた意味が今ならわかる。
あの里は紫乃の大切な人達に様々な頸木をつけて、意のままにしていたのだ。甘言を弄し、策を巡らせ、苦悩を呼ぶ。1人でも叫べば届いたかも知れない助けは、互いが互いを思いやるため口にできなかった。
だからこそ、紫乃はあそこを逃げ出さなくてはいけなかった。全ての片がつくまで、隠れていなければならなかったのだ。
抱きしめたい、抱きしめて欲しいと母を求めた少女は、だかその本人によって銀灰の傍に留められた。
「だめよ、ゆかちゃん。鬼は番に他の人が触れるのを嫌がるの。だから里ではわたし、極力ふじちゃんに触らなかったでしょ?」
「俺、そんなに心狭くないけど?」
言いながら黄慈は、口とはまるで逆に母を抱きしめて離さない。
その姿に記憶を辿れば、確かに母は藤乃に構う時間が少なかった。あれは黒嶺が姉を独占しているせいだと思っていたが、どうやら別の思惑があってのことのようだ。
「それでも、紫乃。お前はもう番を得た。だから綾子にべたべたすんな?」
「ちっせぇのはどっちだよ。大概大人げねぇよな、おっさんっ」
驚きながらも吹き出してしまった紫乃の旋毛に唇を落としながら、銀灰はやれやれと溜息を零した。
「どっちもどっちやないんかな?ほんま男はちいそうてかなわん」
女達はこれに、一斉に頷いた。