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  作者: 他紀ゆずる
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人を喰らふ者  前編

この小説には、人肉を食べる表現があります。

不快感を示される方は、お読みにならないようお願い致します。

 加奈子にとってそれは、10年たった今でも昨日のことのように思い出せる鮮やかな記憶だった。

 だから彼女は娘に絵本を読んでやった後、必ず「でもね」と続けるのだ。

 本当の鬼は、恐くないのよ、と。

 本当の鬼は、人間の中にいるのよ、と。




 先日行方が分からなくなった法学部の女子生徒が昨日大学近くの公園で見つかった。構内は朝からその話で持ちきりだった。

 テレビのニュースでは『野犬に食い荒らされたような変死体』と言っていたが、実際変わり果てた彼女を発見したのが同じ大学の学生だったのがよくなかった。ショッキングすぎる光景を目にしてしまった彼は、細部まで克明に友人に詳細を話し、それは瞬く間に生徒の口づてに広がったのだ。


 手足が千切られたようにもぎ取られ、腹には穴が開き引きずり出された内臓が歯の形に欠損し、片目がくり抜かれてなかった。


 本当のところどうなのかわからないが、加奈子の元に届くまでに随分尾ひれが付いていた噂の事実を端的に抜き出すと、ざっとこんなところだ。

「うっわぁ、ひど。死体の状態がグロすぎて、可哀想通り越しちゃってるじゃん」

 学内カフェで遅めの昼食を取っていた美佐は、澄江が仕入れてきた情報に途中で相づちを打つのをやめ、顔を顰めるとフォークまで放りだしてしまった。

 目の前のミートソースに血を連想でもしたのか。なにしろ澄江の説明は随所に『黄色い脂肪』だとか『臓物』だとかの直接表現が多くて、正直モンブランを食べていた加奈子でさえ食欲をなくしたほどだ。


 食事中に出す話題ではないなと美佐と顔を見合わせるが、おしゃべりな友人は話しをやめるつもりはないらしい。こちらの様子などお構いなしに、その先をどんどん話していく。

「でね、警察も首を傾げてたんだって。草むらに飛び散った血や、遺体の状況からその場所で殺されたことに間違いはないけれど、手足がちぎれてるでしょ?そんなの人間の力じゃ無理な筈なのに、その子の足首や手首にはくっきり手形と足形が付いてて、まさかそこまでの怪力の持ち主が犯人なのかって」

「じゃあ指紋採れるんじゃない?確か人間の肌からも指紋採取できるってなんかの本で読んだよ」


 すっかり昼食を諦めた美佐は、ブラック珈琲を啜りながら投げやりに言う。ミステリー好きの彼女にとって、鑑識の知識はかなりなじみ深いものでするりとそんな言葉が出たようだが、無知な加奈子はへぇーと場違いに感心してしまった。

 それならば犯人を逮捕するのはそう遠くない日で、真相も早々に解明され、学生達の興味も直ぐに消えるだろう。

 ほっとしたような気持ちで澄江を見やると、にやっと口角を上げた彼女は得意げに言い放った。


「残念ながら手袋でもしてみたいで、指紋採れなかったんだって。怖いよね~」

「…そうね」

「…うん」

 怖いという割にどこかウキウキとした様子が覗く友人に微かな嫌悪を感じた時だった。


「恐ろしいなら楽しげに人の不幸を話すものじゃないわ。明日は我が身ってことだって、あり得るんだから」


 ありありと侮蔑を含んだ棘のある声に頭上を振り仰ぐと、冷めた表情で澄江を見ている女生徒が立っている。

 確か、心理学の授業などでたまに見かける…名前はなんと言っただろうか?派手な訳でも地味すぎるわけでもない彼女は、良くも悪くも平凡すぎて群衆の中に埋没していて思い出そうとしても名すら出てこない。だが間違いなく同じ2年生だったはずだと加奈子は誤魔化し笑いを唇に乗せた。

 こっそり窺えば友人達も自分と同じ状況のようで、微妙な顔をしている。


「えっと、あの…」

「間に合わないの。多分、もう少しかかる。だから命が惜しければ男には関わらない事ね」

 戸惑いを一掃する断言をした彼女は、内容を問う時間すら与えてくれずにそのままカフェの喧騒をするりと抜けていく。

 残された3人はその様子を呆然と見つめるしかなくて、ただ名前も思い出せない学生が残した忠告に湧き上がる不安を胸の内のどこかで感じていた。



 そして、2日後。現実となった不安がもたらしたのは、澄江の死という最悪の結末だった。



「止めれば、よかった…」

 友人の遺体が発見されたゼミの研究室にそっと花束を置いた美佐が、呟く。

「え?」

 意味が解らず加奈子が顔を向けると、後悔を滲ませ唇を噛んだ美佐は澄江が死ぬ前日に『合コンに行く』と聞いていたのだと話してくれた。

 それが決まったのは変死体が見つかる以前で、カフェで言われたことは気になったが無関係に決まっていると、いつもの調子で澄江は約束している店へ向かったのだという。


「あんなことになるなら、放っておくんじゃなかった。うるさがられても迷惑がられても、あの子を止めておくんだった」

 首を千切られ、内臓を引きずり出された遺体が転がっていたという床は、既に綺麗に掃除されているが、未だ規制の黄色いテープが張り巡らされ立ち入ることができない。その前に供えられた花は真新しく、線香から立ち上る煙が人の命の儚さを表しているようで、加奈子はジワリと浮かんだ涙を必死でこらえる。


 不安だった大学生活ではじめに声をかけてくれたのが彼女だった。その後美佐も交えて構内ではほとんど3人でいることが多かった分、思い出は山ほどある。

 無邪気でたまに意図せず言いすぎるところもあったけれど、基本的には明るくて楽しいいい子だった。あんな風に、ひどい殺され方をしなくてはならない理由などないのに。

 美佐と澄江が最後の会話をした日、たまたま加奈子は別の講義に出ていて会うことはできなかった。だからこその後悔もあるが、後姿を見送った美佐の悔いに比べたら微々たるものだ。


「誰にも予想できなかったことじゃない。澄江が殺されるなんて、まさかあんな不幸が自分たちの身近で起こるなんて、誰も想像しなかった。だから美佐のせいじゃないんだよ。もちろん、澄江のせいでもない。全部、殺した相手が悪いんだから」

 とうとう涙をこぼし始めた美佐を宥めながら、可奈子自身が自分に同じことを言い聞かせていた。


 誰のせいでもない。誰にもわからなかった。


 何度も何度も胸の中で繰り返すのに、だがそれは端から否定されていく。

『忠告をされたはずだ』と。『男に関わるなと言われたはずだ』と。


「…そう、そうよ…なんで、あの子は知っていたの?どうして、あんなことを言ったの…?間に合わないって、どういう意味?」

 ぼんやりしていた頭の中がクリアになっていくごとに、見上げた彼女の顔がフラッシュバックする。


 冷たい、表情だったはずだ。なのに思い出そうとすると細部がぼやける。

 冷たい、声だった。けれど高かったのか低かったのかすら曖昧で、記憶に膜がかかっているようだ。

 知っているはずの彼女。でも思い出せない彼女。

 あれは本当に実在する人間だったのか?なぜ急に話しかけてきたのか、あんなことを言ったのか。

 考えれば考えるほどわからない。薄気味悪くすらあるあの女。


「加奈子…?どうしたの…」

 泣いていた美佐が自分のことを放り出して心配するほど、加奈子は顔色を失くしていた。

 記憶を探るほど気分が悪くなる。触れてはならないと、本能が警告して恐怖が湧き上がってくる。

「お、かしい…おかしいの」

 カタカタと歯の根が合わないのを無理にねじ伏せて出した言葉は震えていた。

 どこかに自分を見下ろすもう1人の自分がいて、お前は怯えているのだと余計なことを囁いてくる。


 でも、これに抵抗しなくては。絶対に澄江が殺された原因を、あの女は知っているはずなんだから!


 確信して叫びをあげる気持ちを伝えようと、美佐を振り返った時だった。

 教室の入り口からするりと男が中に入ってきて、緊張する2人を気にすることなく微笑みかける。

「大丈夫?鳴き声が聞こえたもんだから、覗いたんだけど」

 場違いなほど柔らかな声は耳に心地いいバリトンで、長身に白衣を纏っている姿は何度か会ったことのある院生のものだった。


「加藤さん…」

 名前を憶えていたのは彼が有名人だからだ。

 澄江がここの民俗学のゼミに必死にもぐりこんだ理由でもある、目立つ容姿の男。

 加藤 まなぶは整った顔立ちと、学生が身につけるには高価な衣服や装飾品を身に着けた、女子には憧れられる、男子には少々敬遠される人物である。


 絶妙なタイミングの登場に、2人は山ほどの言い訳を考えながら慌ててしゃがみ込んでいた床から立ち上がった。

 規制線が示す通り、この場への立ち入りはまだ警察によって禁じられている。そして大学からも周囲へ近づくことを制限する通達が出されていた。

 それを破ってここへ入ったのだから、加藤にも当然叱責されるだろう。わかっていたからこそ、彼女たちは必死に言い訳を考えていたのだが、当の本人は咎めるどころがふわりと表情を緩めてみせる。


「そうか、君たち澄江ちゃんのお友達だったね」

 覚えていたのかと加藤を窺うと、彼の微笑みが苦いもの含んでいることに気付いた。

「誰が、彼女にあんなことをしたのか…悔しいんだ、僕も」

「加藤さん…」

 同じ感情をもつ者同士、共感してふらりと踏み出しそうになった美佐を何故だか加奈子の手は反射的に押し留めていた。

 いつになく強い力で美佐の袖を引いて、一歩下がると不審げな視線を寄越した友人を尻目に加藤に頭を下げる。


「澄江のこと、そう言っていただいてありがとうございます。私達、次の授業があるのでもう行きます。勝手に入ってすみませんでした」

「え、ちょっと加奈子!」

 一息にそれだけ言うと、美佐を引きずるようにして部屋を出た。

 いや、正確には逃げ出したのだと、早鐘を打つ胸を押さえながら彼女は思う。


 どこが、とはっきり言えるわけではない。けれど加藤が怖かった。

 なにが、とわかるわけではない。けれど笑顔の裏に垣間見えるものがあったのだ。


「加奈子!どうしたっていうのよ、一体!!」

 どれほどあの場所から離れただろうか?薄日の差し込む階段の踊り場で美佐に腕を振りほどかれ、彼女はやっと歩みを止めた。

 正体不明の恐怖は、まだ身の内に残っている。だが心配に顔を曇らせて覗き込む美佐にこの曖昧な恐怖を上手く伝えることはできないと、加奈子はただ首を振った。

 そうして、思いついた言い訳は。


「…あの、言われたじゃない?男の人に近づくなって。澄江があんなことになったばかりだし、あの人も男の人だから…怖くなって」

 もっとも疑わしい女が発した警告ではあるけれど、こうして口にしてみるとあまりにしっくりと心情と馴染んで、するりと言葉は加奈子の口から零れ落ちる。

「あ、ああ…そっか、そんなことも、あったね」

 対して記憶を辿るように眉根を寄せた美沙は、そうだったと何度も小さく呟いて自分に何かを言い聞かせているような様子であった。


 規制線の外側で、合コンに行くという澄江を止めればよかったと嘆いていたはずなのに、加藤に会った瞬間、美佐の中から忠告は吹き飛んでいた。加奈子が思い出させてくれなければ、きっとずっと忘れていたように思う。

 それに思い当った時、彼女は傍らの友人の腕を強く、掴んでいた。

「美、佐…?」

「会わなきゃ…あの子に会って…加藤さん事、言わなきゃ…」

 掴まれた腕の痛みに顔を顰めた加奈子だったが、ただならぬ様子の彼女に動きを止める。


 血の気の引いた顔をして、恐怖に体をこわばらせた美佐は少し前の自分によく似ている気がした。

 加藤、とういう存在に本能的に怯えた自分に。


 あの女が味方かどうか、加奈子は未だに決めかねている。だが、少なくとも美佐は彼女の方が信頼に足ると、少なくとも加藤よりは数段ましな存在だと気づいて・・・・いるようだ。

 確かに加奈子とて、本能的に恐怖を感じる加藤より、得体が知れないと感じるだけのあの女の方が数倍ましな気もした。


 ならば、答えは簡単だ。

 犯人について含みのあることを言っていた彼女なら、もしかしてこの恐怖の正体を知っているかもしれない。加藤についても何か。


「行こう。あの子、探さなきゃ」

「うん」

 ともかく人気のないこの棟から、生徒が集まる本校舎へ移動しようと踵を返した時だった。


「どこにも行けないよ。君たちは、ここで死ぬんだから」

 ザンバラに背を覆うほど伸びた、髪。

 耳近くまで裂け黄ばんだ長い牙を覗かせる、口。

 血色に変色した瞳と、醜く捻じれ30センチはあろうかという2本の、角。

 唯一、元の姿を想像させる声に加藤だと知れたが、どこからどう見てもその姿は…


「鬼…」

 だった。


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