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「娘と海に行ったことがあったの。水が怖いあの子は、泳いだりはしなかったけれど、潮風を体に受けるのはとっても気持ちがいいって笑っていたわ」
「それは、ボクにもわかります。その……恥ずかしながらボク、カナヅチなので……」
「あらあら、そうなの? うふふ、それを聞いたらそのうち、是非とも海かプールに連れていきたくなってしまうわね」
「ちょっと、もう! シフォンヌさん、意地悪です!」
「うふふふ!」
そのあと、ボクはシフォンヌさんとお喋りする温かなひとときを過ごしていた。
「……ねえ、シフォンヌさんじゃなくて、お母さんって、呼んでもらえないかしら……?」
ふと、シフォンヌさんは控えめにそんなお願いをしてきた。
もともと娘さんの代わりにお話をしたい、という依頼のはずだから、そう呼んであげたほうがいいのかもしれない。
だけど、ボクは決意を固めて、今日ここに来た。
ボクはボクだから、ボクらしくシフォンヌさんと接する。
それはつまり、お母さんと娘ではなく、ボクはボクなんだという意識でお話すること。
そう考えていたはずなのに、ボクはなんだか悪い気がして、つい口をつぐんでしまった。
「……あ、ご、ごめんなさいね。いいのよ、べつに。ちょっとしたわたくしのわがままですから。聞いてもらえなくても、仕方がないわ」
黙り込んでしまったボクが、お母さんと呼ぶことを嫌がっていると受け取ったのだろう、シフォンヌさんはちょっと寂しそうにつぶやく。
「ごめんなさい……」
それを聞いたボクは、ただそう答えるのが精いっぱいだった。
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気を取り直したのか、シフォンヌさんは次々と娘さんとの思い出を語ってくれた。
娘さんのこと、ほんとに心から愛して、可愛がっていたんだな……。
それは親だったら当たり前なのかもしれない。
でも、幸せなことだと思う。
娘さんは亡くなってしまったけど……。
今でも確かに、シフォンヌさんの心の中に生きているんだ。
ボクなんかが娘さんの服を着て娘さんの代わりになろうとしたって、とうてい敵うはずのない絆で、ふたりは結ばれているんだ。
……だったらどうして、シフォンヌさんは今回の依頼をしてきたのだろう?
思い浮かんだ疑問を、ボクはつい顔に出してしまっていたようで。
「どうしたの?」
シフォンヌさんはそう言って、心配そうにボクの顔をのぞき込んでくる。
「いえ、なんでもないです……」
思わず目を逸らしてしまったボク。
そんなボクに向かって、シフォンヌさんは意を決したように、今までとは違う話を語り始めた。
☆☆☆☆☆
今までとは違うといっても、娘さんに関する話題には変わりなかったのだけど――。
「こんな大きなお屋敷に住んでいるから、わたくしの娘のこと、なんの不自由もなく育ったお嬢様だったはずだって、そう思っているでしょう?」
疑問形から始められたその話は、シフォンヌさん本人によって、すぐに否定を重ねられる。
「でもね、違うの……」
彼女の娘さんには、障害があった。
生まれつき知能が低く、年齢を重ねても、ある程度までの知能レベルまでにしか達しない。
つまり、知的障害――俗に言う知恵遅れだったらしい。
学校に通ってはいたものの、周りの子供たちと比べて、明らかに未発達だった娘さん。
自然と仲間外れにされてしまい、泣いていることが多かったという。
心配ではあったものの学校にまでついていったりまではできないシフォンヌさんに、担任の先生から伝えられたのは、そんな娘さんの状況だった。
もしかしたら先生の目の届かないところで、いじめられたりもしていたのかもしれない。
そう思えるようなアザを作って帰ってきたことや、なにを訊いても答えなかったらしいけど、ただ部屋にこもって泣き続けていたこともあったから……。
シフォンヌさんは悩んだ。
そういった障害のある子だけを受け入れてくれるような施設に預けるほうがいいのではないかと。
結果、シフォンヌさんは、娘さんを普通の子と同じように普通の学校に通わせることに決めた。
なぜなら、娘さんは長く生きられないと、医師に宣告されていたからだった。
脳だけではなく内臓までもが、発達しきれていなかったのだ。
だったらせめて、普通の子と同じようにのびのびとした生活を送らせてあげたい。シフォンヌさんはそう考えた。
そのほうが、精神的にもいい影響があるでしょう。医師も賛同してくれた。
娘さんはシフォンヌさんの愛情を一身に受け、精いっぱい生きていた。
つらいこともあったとは思うけど、それでも、幸せだったに違いない。
シフォンヌさんの話を聞きながら、ボクは自分の過去と重ねていた。
ボクは女の子ではなかったけど、引っ込み思案な性格もあって、なかなか他の人たちに話しかけたりできず、結局ひとりでいることが多かった。
たまに話しかけてくれる人もいたけど、ボクはしっかりと受け答えできずに、ただもじもじするだけだった。
そんな様子を見て、クラスメイトから気持ち悪がられたりもした。
悲しくて涙を流す日もあったけど、幼くして両親を亡くしているボクには、温かく優しいお母さんにすがりつくこともできなかった。
つらい記憶が蘇ってきて、涙が溢れた。
「ごめんなさい……」
流れ出る雫が止められないボク。
シフォンヌさんは椅子から立ち上がって、そっとボクのそばに寄り添ってくれた。
そして、
ぎゅっと抱きしめてくれた。
「あの……」
「いいのよ。わたしをお母さんだと思って、泣いても……」
澄んだ綺麗な声と、優しく頭を撫でてくれる温かな手――。
「お母さんっ……!」
ボクは感情を抑えきれず、シフォンヌさんにすがりつくと泣き出してしまった。




