↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ハンニバル戦記 ── 歴史に名を刻む天才戦術家の揺れ動く少年期から宿命を乗り越える青年期までを描いた物語  作者: 冨岡 和哉
第四部 最終決戦 ── すべてをかけたその先に・・・

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
82/86

第八十一話 ハンニバルの葛藤 ── 武門の矜持

 自陣に戻ってきたハンニバルを真っ先に捕まえたのは、マハルバルだった。

「ハンニバル。スキピオはどんな野郎だった?」

「スキピオは傑物《けつぶつ》だ。……かつてのマルケッルスを凌《しの》ぐかもしれん」

「そうなのか。強敵だな」

「会談の結果は聞かないのか? マハルバル」

「あぁ。あんたの顔みりゃ分かる。決戦だろ」

「そうだ。明日、決戦だ」


 決戦を前にした作戦会議。

ハンニバルは天幕の中央に立ち、長年戦場を共にした腹心たち──マハルバル、カルタロ、ハンノ── 、ハドルメトゥムで新たに合流した将たちを前に、ゆっくりと地図の上へ手を置いた。

「……明日、我らはスキピオと戦う」

その声は低く、しかし戦場の怪物らしい勝利を確信させる力を帯びていた。

「明日の勝利のための戦術だ」


 ハンニバルは地図の中央に置いた、ローマ軍の密集隊形の模型を指差す。

「まず、八十頭の象兵だ。集団で突撃させ、ローマ軍の第一列を徹底的に踏み潰す。

奴らの誇る一糸乱れぬ密集陣形を、開戦と同時に破砕《はさい》する」

将たちが静かに頷《うなず》く。

ハンニバルは指を自軍の梯団《ていだん》へと進めた。


「次に歩兵だ。第一列の北イタリアからの帰還兵部隊には、象の突撃に続いて一気に襲いかからせる。象兵に乱されたローマ前列に完全に追い打ちをかけ、血祭りにしろ。

第二列のカルタゴ・アフリカ兵部隊は、第一列と距離を保ち陣形を崩すな。

そして、ローマ軍の第二列目以降が反撃に出てきたら、その前進を受け止め、粘り強く磨耗させろ。前の二列は、ローマ軍を押し返す必要はない。ローマ軍を足止めするのが役目だ」


「我が隊は、敵を足止めするだけで良いのか?」

第二列を指揮するハンノが確認する。

「そうだ、敵を押し返す必要はない。崩れずに耐え、ローマ軍を疲弊《ひへい》させよ。……決戦の本命は、最後列にある」

ハンニバルは最後に、第三列──自らとともに十五年の地獄を潜り抜けてきた、イタリア帰還兵の精鋭を指した。


「第一列と第二列が敵の剣を鈍らせたその時、この第三列を投入する。

激戦で疲弊《ひへい》しきったローマ軍に、無傷の精鋭第三列が両翼から挟み込むように襲いかかり、敵を包囲し敗走させる。

象が乱し、前二列が止め、最後に第三列が決める」

その声は、十五年の戦場を生き抜いた男の静かな炎だった。


 マハルバルが前に出た。

「騎兵はどう動く?」

ハンニバルは地図の両翼を指した。

「マシニッサのヌミディア騎兵が敵にいる以上、我が方のわずかな騎兵で勝つことは不可能だ。だから、勝つ必要はない」

マハルバルは拳を強く握りしめる。

「……なら、どう戦う?」

「開戦と同時に我が騎兵は圧力に押されたように戦場の外へ後退し、敵の騎兵隊を誘い出せ。敵騎兵に追わせ、戦場の遥か遠くへ引き離すのが騎兵の役割だ。敵騎兵が戦場を離れている間に、我らが歩兵戦で決着をつける」

ハンニバルは地図から手を離し、居並ぶ指揮官たちを見渡した。

「騎兵は時間を稼ぎ、歩兵で圧殺する。……これが、明日の戦いだ」


 ザマの平野に夕闇が落ち始めていた。

ローマ軍とカルタゴ軍の陣営は、互いに焚火の灯を揺らしながら、決戦前夜の静けさに沈んでいる。

戦術会議を終えて天幕へ戻ったハンニバルは、誰にも声をかけず、ただ外套を脱ぎ捨てた。

机の上に置かれた地図を見つめる。

ザマの平野── 騎兵が最も力を発揮する地形。

自軍が最も不利な盤面。


「……スキピオは、騎兵をどう使う」

その言葉は、誰に向けたものでもなく、静かに漏れた独白《どくはく》だった。

和平交渉の場で、スキピオは淡々と条件を告げた。

しかし、それらを受け入れることは、カルタゴの死を意味していた。

交渉の場では毅然《きぜん》としていた。

だが今──天幕の薄闇の中で、彼は静かに目を閉じた。

「……和平を望む理性はあった。

だが、和平を選べば祖国は死ぬ。

戦わずして祖国を差し出すことはできん」

その声は、武門としての矜持《きょうじ》と、国家を背負う者の苦悩が混じり合った、深い孤独の響きだった。


 ハンニバルは立ち上がり、天幕の外へ出た。

アフリカの夜風が、彼の髪と外套を静かに揺らす。

(……静かだな、アフリカの夜は。イタリアの山々で迎えた夜とは、風の匂いも、星の巡りもまるで違う。

十六年……いや、九歳のあの日、父さんの前でローマを生涯の敵とする誓いを立ててから、俺の人生には、ただローマとの戦いしかなかった。

トレビアで、トラシメヌスで、そしてカンナエの赤き平原で、幾万の兵を屠《ほふ》り、奴らの喉元《のどもと》に刃を突きつけ続けた。……だが、ついにローマは膝を折らなかった。そして我が祖国カルタゴもまた、私に勝利を掴《つか》ませようとはしなかった)

ハンニバルは自嘲気味に、かすかに口元を綻《ほころ》ばせた。


(皮肉なものだな。俺が人生を懸けて追い求めた勝利の果てに待っていたのは、己の手で自滅の道を突き進む愚かな祖国と、俺の前に立ちはだかる若き才能──スキピオだ。

今日の会談で見たあいつの目は、迷いも怯《おび》えもない、澄み切った瞳だった。

かつての俺がそうであったように、奴もまた時代のうねりを背負い、俺を越えていこうとする目だった。

あいつとなら……分かち合えるはずだった。

戦争の空しさも、国家という愚かな怪物を背負う指揮官の孤独も。

……だが、お互いの宿命がそれを許さない。

カルタゴが自ら壊した和平の道は、もはやどれほど望んでも繋がりはしない。

明日の戦いは、私とスキピオ──持てるすべての智謀と命を懸けた、最後の対話だ)

ハンニバルは深く息を吐いた。


(ハシュドゥルバルもマゴーネも先に行ってしまった。バルカの血を引く者は、ついに俺一人か……)

そこまで思い至ったとき、真っすぐな瞳で自分を見つめる少女の姿が浮かんだ。

すべてを背負って戦う英雄ハンニバル・バルカ。

だが、その鎧の奥にいるもう一人の自分。

彼がどうしても忘れられない、可憐な少女の姿。

(……アリサ。君が待つ場所へ無事に帰れるかは分からない。

けど、明日の戦いに勝利し、カルタゴへ戻れたなら……一目君に会いたい)


 遠く、ローマ軍の篝火《かがりび》が点々と揺れている。

その光はまるで運命の灯火《ともしび》のようだった。

ハンニバルは、その光をじっと見つめていた。

「……父さん。私は、カルタゴを守れるだろうか」

それは、思わず零《こぼ》れ落ちた、誰にも聞こえぬほどの小さな呟《つぶや》きだった。


 だが次の瞬間──。

「いや。俺は最後まで『ハンニバル・バルカ』として戦い抜く。

ザマを──俺の最高傑作の舞台に仕上げる!」

出かかった弱気の自分を即座に打ち消すように、ハンニバルは『ハンニバル・バルカ』としての言葉を力強く言い放った。

その言葉を聞いていた者は誰もいない。

ただ冷たい夜風が吹き抜けるだけだった。

ザマの夜は静かに、深く、決戦の朝を待っていた──。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紀元前220年ころの地中海世界の地図を下記リンクに置いたので参考にしてください。 地図
第六話のオリエント地方の地図を下記リンクに置いたので参考にしてください。 地図
当時の北イタリアの地図を下記リンクに置いたので参考にしてください。 地図
トラシメヌス湖畔の戦いの両軍の配置図を下記リンクに置いたので参考にしてください。 地図
当時の南イタリアの地図を下記リンクに置いたので参考にしてください。 地図
カンナエの戦いの両軍の配置図を下記リンクに置いたので参考にしてください。 地図
当時のイベリア半島の地図を下記リンクに置いたので参考にしてください。 地図
メタウルス川の戦いの両軍の配置図を下記リンクに置いたので参考にしてください。 地図
当時の北アフリカの地図を下記リンクに置いたので参考にしてください。 地図
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。