↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ハンニバル戦記 ── 歴史に名を刻む天才戦術家の揺れ動く少年期から宿命を乗り越える青年期までを描いた物語  作者: 冨岡 和哉
第四部 最終決戦 ── すべてをかけたその先に・・・

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
80/86

第七十九話 二人の天才の邂逅 ── 宿命の対峙

 夕陽が砂塵《さじん》を赤く染め、ローマ軍の陣営は静かに息を潜めていた。

整然とした陣営の奥で、スキピオは一人、天幕の前に立っていた。

そこへ副官レリウスが駆け寄ってきた。

「スキピオ。カルタゴ軍より使者がきた。ハンニバルが、会談を望むと言っている」

スキピオの瞳にわずかな光が宿った。

それは驚きではなく、長い年月を経てようやく訪れた宿命の瞬間を迎える者の、静かで深い昂《たかぶ》りだった。


「……あのハンニバルが、会談を」

レリウスは慎重に言葉を選んだ。

「和平を望んでいるのかもしれん」

スキピオは静かに首を振った。

「レリウス。私がハンニバルの立場でも、和平を模索する。

だが、この申し出の目的はそれだけではないはずだ」

スキピオはザマ平原の向こう、カルタゴ軍の陣営を見つめた。

「十五年。彼はイタリアでローマを恐怖に陥れ続けた。私がヒスパニアで剣を執る前から、彼はすでに “伝説” になっていた」


 レリウスは黙って耳を傾けている。

「ハンニバルは、戦場で敵の心を読む男だ。会談を望むのは、和平のためだけではない。私という人間を見極めるためだ」

スキピオはゆっくりと息を吐いた。

「私も彼を見極めたい」

レリウスが眉をひそめる。

「見極める……とは?」

スキピオは静かに言った。

「ハンニバルが、まだ “戦う意思” を持ち続けているのか。

それとも、十五年の戦いが彼の心を疲弊《ひへい》させたのか。

彼が明日、どれほどの覚悟でこの平原に立つのか。

それを知らずに剣を交えることはできない」


 スキピオは天幕の中へ歩み、机上の地図に手を置いた。

「私はハンニバルと会う。和平のためではない。真の決戦のためだ」

レリウスは息を呑《の》んだ。

「……では、申し出を受け入れるのだな」

スキピオは頷《うなず》いた。

「ハンニバルが望むなら、私は会う。この戦いは国と国の戦いではない」

スキピオは地図の上の一点、ハンニバルの名を指でなぞった。

「私とハンニバルの戦いだ」

ザマの風が天幕を揺らし、二人の将軍の運命が静かに交錯し始めた──。


 翌朝。

乾いた風が砂を巻き上げ、両軍の陣営の間に広がる荒野を吹き抜けていく。

その中央──荒涼《こうりょう》とした砂漠の縁に設けられた簡素な天幕で、その歴史的瞬間は訪れた。

双方ともに護衛を遠ざけ、通訳だけを連れて歩み寄る。

ハンニバルはゆっくりと歩みを進めた。

十五年の戦場が刻んだ傷と皺《しわ》が、朝日に照らされて深い影を落としている。

天幕の前に立つ若き将軍──スキピオは、静かにハンニバルを見つめていた。

二人の視線が交錯した瞬間、ザマの風がぴたりと止んだ。


 ハンニバルが、重々しく口を開く。

「……君が、スキピオか」

スキピオは不敵かつ快活な笑みを浮かべ、礼を尽くして深く頷《うなず》いた。

「ハンニバル・バルカ。あなたの名は、私が剣を握った時から常に戦場にありました。

イタリアでの十五年── あなたはローマにとって、恐怖そのものだった」

ハンニバルの目が、静かに相手を射抜く。

「君はイベリアを制し、アフリカを揺るがした。見事な手腕だ」

「感謝する。……あなたは、私が人生で唯一、心から尊敬する敵だ」


 二人はしばらくの間、無言で見つめ合った。

重苦しい静寂が、広大な平原を支配する。

地中海の運命を背負う二人の天才の瞳が、静かに火花を散らしていた。

静寂を破ったのは、スキピオだった。

「あなたが会談を望んだ理由を聞きましょう」

ハンニバルは、天幕の外に広がるザマ平原に視線を向けた。

「スキピオ。私はこの戦争を終わらせたい」

スキピオの瞳がわずかに揺れた。


 ハンニバルは続ける。

「十五年。私はローマと戦い続けた。勝利の歓喜も敗北の苦汁も味わった。

だが── この戦いが両国を完全に滅ぼし尽くすことだけは、避けねばならない」

その声には、十五年の戦いが刻んだ疲労と、戦争を終わらせたいという静かな悲願が滲《にじ》んでいた。

スキピオは静かに言った。

「あなたは和平を望むのか」

ハンニバルは首を横に振った。

「私は和平を乞《こ》いに来たのではない。

……だが、望まぬと言えば嘘になる。

両国が呑める穏当な条件に至れるのならば、私は直ちに剣を収める用意がある」


 スキピオは深く息を吐き出した。

「ハンニバル。私もあなたと同じだ。

私は殺戮《さつりく》のために戦っているのではない。戦争を終わらせるために戦っている」

ハンニバルの瞳がわずかに揺れた。

しかし、スキピオの言葉は冷徹に続いた。

「だが──カルタゴは自ら和平協定を破った。

補給船団の掠奪《りゃくだつ》、そして我が使節への襲撃。

あなたが望む和平の道は、カルタゴ自身が壊した」

ハンニバルは静かに目を閉じた。

「……そうだ。言い逃れのできぬ愚かな行為だった。私が帰還するという報せが、愚か者どもを狂わせたのだ」


 スキピオは一歩踏み出す。

「ハンニバル。あなたが望むなら、私は和平を拒まぬ。

だが──ローマの名誉を傷つけ、協定を破棄した以上、条件は厳しい」

ハンニバルはスキピオを見つめた。


「聞こう」

スキピオは静かに、だが逃れようのない重みをもって言い放った。

「先の和平条件に加え、掠奪した船団と物資の全面返還または補償、使節襲撃に対する公式な謝罪と補償。

そして協定違反の責任をカルタゴが公式に認めること。

カルタゴという国家が滅びずに済む道は、もはやこれしか残されていない」

ハンニバルは深く、重い息を吐き出した。

「……スキピオ。それは和平ではない。カルタゴの死だ」

スキピオは表情を変えない。

「敗者となるとは、そういうことだ。それを呑めぬというなら、提示できる条件は他にない」


 ハンニバルは立ち上がり、スキピオの瞳をまっすぐに見据えた。

「私は祖国を差し出すためにここへ来たのではない。

戦場で、お前と決着をつけるために来た」

スキピオは静かに頷《うなず》いた。

「ならば──戦場で決着をつけよう」

二人の将軍は、最後に深く視線を交わした。


「スキピオ。明日、ザマで戦う。

……この戦いは、もはやローマとカルタゴの戦いではない」

「ええ。あなたと、私の戦いだ」

その瞬間、止まっていたザマの風が再び吹き抜け、天幕の布を大きく揺らした。

二人の英雄は背を向け、それぞれの陣営へと歩み去っていく。

去りゆく二人の背中には、長きにわたる両国の戦争の終焉《しゅうえん》と、避けられぬ宿命の影が、重々しく刻まれていた──。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紀元前220年ころの地中海世界の地図を下記リンクに置いたので参考にしてください。 地図
第六話のオリエント地方の地図を下記リンクに置いたので参考にしてください。 地図
当時の北イタリアの地図を下記リンクに置いたので参考にしてください。 地図
トラシメヌス湖畔の戦いの両軍の配置図を下記リンクに置いたので参考にしてください。 地図
当時の南イタリアの地図を下記リンクに置いたので参考にしてください。 地図
カンナエの戦いの両軍の配置図を下記リンクに置いたので参考にしてください。 地図
当時のイベリア半島の地図を下記リンクに置いたので参考にしてください。 地図
メタウルス川の戦いの両軍の配置図を下記リンクに置いたので参考にしてください。 地図
当時の北アフリカの地図を下記リンクに置いたので参考にしてください。 地図
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。