第六十八話 北の誓い、南の祈り ── 兄弟の絆
紀元前二〇五年、カルタゴ本国。
ビュルサの丘に立つ元老院議事堂は、怒号と混乱に満ちていた。
「ローマがイベリアを奪った! ガデス以外の都市はすべて失われた!」
「ガデスは孤立し、補給も途絶えかけている!」
「ハシュドゥルバルは死に、ジスコーネも敗れ、イベリアの財源はすべて失われたのだぞ!」
「このままでは、ローマがアフリカへ攻め込んでくるぞ!」
議員たちの声は震えていた。
「ジスコーネを本国へ呼び戻せ! 彼に本国防衛の指揮を執らせるのだ!」
「ただ守勢に回るだけで良いのか? イタリアでは、まだハンニバルが善戦しているぞ」
十年前、カンナエの大勝直後には、ハンニバルの台頭を恐れて支援を渋った彼らは、今や自らの卑しい政治闘争が招いた破滅の危機を前に、狼狽するしかなかった。
重鎮ハンノが机を叩いた。
「ハンニバルはイタリアで孤立している! だがローマ海軍は強力で、補給も援軍も届けられぬ! このままでは敗北は必至だ!」
別の議員が叫ぶ。
「だが、イタリアへ援軍を送る余力などない! 海軍は壊滅し、財政も破綻寸前だ!」
議場は混乱し、誰もが責任を押し付け合っていた。
その時、ハスドルバル・ギスコが立ち上がった。
「……まだ一つだけ道がある。」
議場が静まり返った。
「北イタリアだ。ローマ海軍は南の海域でハンニバルへの支援を妨害している。
しかし、北イタリアへなら海路新たな軍団を送る事が可能だ。
ローマ軍が南北に分散し、南の戦力が弱まれば、ハンニバルは息を吹き返す」
「だが、誰が行く?」
ギスコはゆっくりと答えた。
「マゴーネ・バルカだ」
議場にざわめきが走る。
「ハンニバルの弟か……」
「バルカ家の血筋なら、ガリア人たちも動くかもしれん」
「だが、彼はイベリアで敗れたばかりだぞ!」
ギスコは首を振った。
「敗れたからこそ、彼は兄を救うために命を賭けるだろう。バルカ家の結束は、我らが思うより強い。」
老ハンノが渋々頷いた。
「……他に道はない。マゴーネをイタリアへ送り北からローマを揺さぶるのだ」
こうして、十年前にはハンニバルの台頭を恐れて支援を渋った元老院が、追い詰められた末に方針を転換し、ジスコーネを本国へ呼び戻すとともに、マゴーネへイタリア行きの命を下すことになったのである。
今や、イベリアでのカルタゴ唯一の拠点となったガデス城内。
ジスコーネとマゴーネは、カルタゴ元老院からの命令書を受け取っていた。
マゴーネは封蝋を割り、書状を開いた。
『マゴーネ・バルカ。軍勢を率いイタリアへ渡れ。北からローマを揺さぶれ。ハンニバルを助けよ。カルタゴの命運は汝に託す。』
マゴーネは静かに目を閉じた。
(兄さん…… イベリアで敗れ、ハシュドゥルバル兄さんを失ったこの私に、
戦場に立つ資格がまだ残っているのなら……。私は、あなたと共に戦いたい)
ゆっくりと顔を上げ、使者に告げた。
「伝えよ。マゴーネ・バルカ、命に従い北イタリアへ向かうと。」
その瞳には、敗北の影ではなく、バルカ家の炎が宿っていた。
こうしてマゴーネ率いる艦隊は、紀元前二〇五年秋──総勢一万二千の軍勢を従えて、イタリア北部のリグリア海岸へ上陸を果たした。
彼はすぐさま地元のガリア諸部族を集め、熱弁を振るう。
「我はハンニバルの弟マゴーネ・バルカだ! ローマを撃ち破る為にこの地へやって来た! 南イタリアでは、我が兄ハンニバルが戦っている! 今、我らが北で立ち上がれば、ローマ軍は南北に分裂し、その力は弱まる! 今こそローマの支配を終わらせる時だ! 我ら兄弟に力を貸してくれ!」
「ハンニバルの弟か! あの象を連れてアルプスを越えた大将軍の血を分けた男なら、力を貸そう!」
北イタリアで反ローマ勢力の蜂起を成功させたマゴーネは、拠点として重要港湾都市ジェノヴァを占領した。
マゴーネのリグリア上陸の報は、即座にローマ元老院へ届けられていた。
「リグリアにカルタゴ軍が現れただと!?」
「将は……マゴーネ・バルカだと申します!」
議場に緊張が走った。
「ハンニバルの弟……」
「バルカ家の血筋が北で挙兵したとなれば、 ガリア人が一斉に蜂起するぞ!」
「南にはハンニバル、北にはマゴーネ…… ローマは挟撃される!」
重鎮ファビウス・マクシムスが 杖を突き、静かに言った。
「……合流を許すな。ハンニバルとマゴーネが手を結べば、イタリアは再び炎に包まれる」
若い議員が叫んだ。
「北へ軍団を送れ! リグリアを封鎖し、マゴーネの南下を阻止するのだ!」
元老院は即座に防衛線を再編した。
北イタリア防衛の任にあたる法務官ウァルス、そして将軍ケテグスらに命じ、アリミヌムを中心に四個軍団、総勢三万五千の大軍を急速展開。
マゴーネの南下を絶対に許さぬ絶対防衛線を築き上げた──。
──同じ頃、南イタリア。
アプリアからルカニア、カンパニアにかけて、 ローマ軍は巨大な封鎖線を築いていた。
アプリアには センプローニウスの二個軍団。
ルカニアにはフルウィウスの二個軍団。
カンパニアには、亡きマルケッルスの副官が受け継いだ軍団が陣を敷く。
さらにブルッティウムの要衝には、数千の分遣隊が点々と配置されていた。
総勢三万を超えるローマ軍が、ハンニバルを南に縛りつけるためだけに重層的な包囲陣を敷いていたのである。
ハンニバルは地図を見つめ、静かに息を吐いた。
(……この封鎖線を破るには、あまりにも戦力が細い)
十三年にも及ぶイタリア戦線で、かつてアルプスを越えたアフリカ・イベリアの古参兵、戦死し、傷つき、あるいは老い、いまやその精鋭は五千人にも満たない。
騎兵戦力の劣化はさらに深刻だった。
かつてカンナエでローマ軍を蹂躙したマハルバル率いるヌミディア騎兵は、いまや百騎ばかりにまで落ち込み、その他の騎兵を合わせても数千騎に過ぎない。
ハンニバルの無敵の戦術を支えていた機動力は、もはや往時の影すら留めていなかった。
さらに、タラントを失って以来、同盟都市は次々とローマに屈し、ハンニバル軍は補給を断たれ、南イタリアの果てで孤立無援となっていた。
この頃には軍資金も尽き果て、アブディルの “影の軍団” に支払う報酬すらままならず、彼に従う者は、貿易商としてのローマの拠点に潜り込んでいた数名のみとなっていたのである。
そんな折──数ヶ月ぶりに、アブディル本人が姿を現した。
ローマの街道を隊商の主として渡り歩いてきた男は、砂塵をまとったまま、ハンニバルの前に膝をついた。
「ハンニバル様。マゴーネ様が北イタリアのリグリア海岸に、カルタゴの軍勢を率いて上陸いたしました!」
その瞬間、ハンニバルの眼に小さく、しかし強い光が宿った。
「……マゴーネが……来たのか」
傍らのマハルバルが、興奮を抑えきれずに身を乗り出した。
「ハンニバル! マゴーネが俺たちを助けに来たんだ! 北へ向かって何とか合流しなきゃならねえ!」
しかし、今のハンニバル軍にとって、ローマの重層包囲網を打ち破ってマゴーネの待つ北イタリアまで進軍するという選択は、あまりに現実味を欠いていた。
ハンニバルとて、すぐにでもマゴーネの元へ駆けつけたかった。
だが、出来なかった。
軍略家としての冷徹な計算が、いまの戦力でローマの重層包囲陣に挑むのは、兵たちを死地へ追いやる以外の何物でもないと告げていたのである。
(どれほど願おうとも……いまの削り取られた戦力では、ローマの罠に飛び込むようなものだ)
軍略家としての冷徹な理性が、弟を思う兄の感情を静かに押し殺していく。
「今、ローマの封鎖線へ挑むのは、兵に死地へ向かえと命ずるに等しい。
仮に突破できたとしても、北イタリアへ辿り着く前に全滅するだろう」
「なら、どうしたらいいんだよ! マゴーネは俺たちの為に、命を懸けてイタリアへ渡ってきたんだぞ!」
マハルバルは、どうにもできない苛立ちを、そのままハンニバルへぶつけた。
ハンニバルは無言のまま、地図の北端──リグリアの地へ、そっと指を置いた。
どうにもできない胸の痛みを抱えているのは、誰よりもハンニバル自身であった。
(マゴーネ……。お前は俺を助けるために、イタリアへ渡ってきたのか)
その胸中の独白は、戦場の怪物のものではない。
ただ一人の、弟を愛おしむ兄の声であった。
夜。陣営の篝火の前で、ハンニバルは独り佇んでいた。
亡きハシュドゥルバルと過ごした若き日々のことが、夜の底から静かに浮かび上がり、また沈んでいく。
そして──幼いマゴーネの笑顔が、ふと胸の奥に灯った。
『ハンニバル兄さん』
無邪気に笑い、必死に自分の後を追いかけてきた、あの小さな末っ子。
(マゴーネ……お前だけは、どうか生きていてくれ……)
ハシュドゥルバルを失ってしまった今、マゴーネまでも失うことなど、もはや耐えられるものではなかった。
夜風が吹き抜ける静寂の中、ハンニバルは深く暗い夜空を見上げ、遠く北の地にいる弟の無事を、ただ祈り続けるのだった──。




