第五十三話 門前に迫るハンニバル ── 恐慌に陥るローマ
ハンニバルは、ローマという巨大な都市を力ずくで落とすつもりなど毛頭なかった。
彼の狙いはただ一つ──ローマという国家の心理を操り、市民を恐慌に陥いれ、城内の守備隊を城壁の外へと誘い出すこと。
そして門前でそれを瞬く間に踏み砕けば、カプアを囲むローマ主力軍も、首都陥落の危機に駆られて、鉄壁の陣地を解いて駆けつけざるを得なくなる。
カプアの包囲陣を解き、敵が動き出したその瞬間を狙って、背後の山影に潜伏させていたハンノが急襲すれば、ローマ軍に致命的な打撃を与えられる。
そうしてダメージを負い、長距離の強行軍で疲弊しきったローマの主力軍を、今度は得意の平原での野戦へ引きずり込み、各個撃破で叩き潰す──。
堅牢な陣地に引きこもる敵を、内と外から揺さぶって戦場へ引きずり出し、一網打尽にする。
それが、戦場を支配する天才戦術家、ハンニバルの冷徹な計算だった。
夜明け前。
ローマの街はまだ闇に沈み、人々は静かな眠りの中にあった。
その静寂を破ったのは、執政官プブリウス・スルピキウス・ガルバの邸宅を激しく叩く拳の音だった。
「執政官閣下──至急の報です!」
寝所から叩き起こされたガルバは、寝間着の上にトガの外套を素早く羽織りながら、冷気を伴って駆け込んできた伝令を激しい眼光で迎えた。
伝令の顔は恐怖で青ざめ、呼吸は激しく乱れている。
「南方の村が焼かれています! 炎が、炎が目と鼻の先まで迫っています! ……ハンニバルです! ハンニバル軍が、ローマへ向かって進軍しております!」
ガルバは一瞬だけ目を閉じた。
それは恐怖に身をすくませたのではない。
入ってきた最悪の情報を瞬時に整理し、己の脳内を冷徹な戦場へと変えるための、静かな、しかし濃密な間であった。
「……ただちに政庁へ向かう。元老院の全議員を緊急招集せよ。夜明けと同時に議事を始める」
伝令が弾かれたように走り去ると、ガルバは腰に鋭い短剣を差し、毅然とした足取りで邸宅を出た。
薄明の街を政庁へと急ぐ彼の背中に、まだ冷たい朝霧が絡みついていた。
まだ街は眠っていた。
しかし── この静寂は、あと一刻もすれば破られる。
ガルバが政庁に到着した頃、東の空がわずかに白み始めた。
その瞬間だった。
南の地平線から、黒煙が幾筋も天へと立ち上っているのが見えた。
それはまるで大地そのものが赤い炎を上げて泣いているかのようであった。
「火事だ……! いや、あれは、火事などという生易しいものではない……!」
アッピア街道が通る城門付近にいた農民たちが、指を震わせながら叫ぶ。
次の瞬間、血反吐を吐きながら馬を駆ってきた伝令が、ちぎれんばかりの声で絶叫した。
「ハンニバルだァーッ!! カルタゴ軍が、ローマのすぐそこまで来ているぞ!」
城門付近で最初に悲鳴が上がると、その叫びは乾いた導火線に火がついたかのように爆ぜ、雷鳴となって市内全体へ一気に広がっていった。
家々の扉が一斉に開き、夜着のままの人々が出てきて家の前で立ち尽くし、南の黒煙を指差して震えている。
神殿の階段には人々が押し寄せ、祈りとも叫びともつかぬ声が渦を巻き、街は恐怖と混乱の奔流に呑まれていった。
その頃、政庁では元老院議員たちが招集され、議事堂は怒号で揺れていた。
「カプアの包囲軍をただちに戻せ! 本国が焼かれているのだぞ!」
「馬鹿を言うな、今動かせばこれまでの苦労が水の泡だ!」
「だがローマが燃え落ちれば元も子もないではないか! 誰がこの首都を守るのだ!」
議員たちが互いの胸ぐらをつかまんばかりに怒鳴り合う中、宿老ファビウス・マクシムスだけは、微動だにせず、冷徹にガルバを見つめていた。
ガルバは卓上の地図の上で、拳を握りしめたまま指を止めていた。
現在の首都ローマには、引退間近の老兵と負傷兵がほとんどの守備隊二個軍団と、本来なら軍役につくことのない十六歳以下の ”少年” をかき集めた新編成の二個軍団しかいない。
対して、カプアの前線に出ているローマの正規軍団は六個。
もし、カプアの包囲を解いて彼らを呼び戻し、首都の軍団と合わせてハンニバルを数倍の戦力で挟み撃ちに出来れば、あの怪物を討ち取れる。
純粋な軍事の教科書としては、それこそが最善の選択肢だった。
しかし──。
「包囲軍を動かせば、カプアが生き返る」
ガルバは、地を撰うような低い声で呟いた。
「カプアが息を吹き返せば、南イタリアの戦線はすべて瓦解し、再びハンニバルの思うがままになる。……ハンニバルの狙いは、まさにこれだ。
奴は、我々にカプアの包囲を解かせたいがために、わざわざここまで走ってきたのだ」
議場が、水を打ったように静まり返る。
「ローマを救うために包囲軍をその場から戻せば、我々は目先の戦術で勝っても、この戦争の『戦略』において永遠に敗北する」
「では……ではどうするのだ、ガルバ!」
一人の老議員が、涙を流しながら震える声で問うた。
情報が圧倒的に足りない。
敵の軍勢の正確な規模も分からず、ハンニバルの真の意図も霧の向こうだ。
判断材料はほぼゼロ。
しかし、地平線の炎は今この瞬間も近づいており、国家の命運を分ける決断の刻限は、無慈悲に迫っていた。
ガルバはゆっくりと、全議員を見据えながら立ち上がった。
その背筋は、一本の鉄柱のように真っ直ぐに伸びていた。
「カプアの包囲軍は、一歩も動かさん」
「ローマが落ちるかもしれんのだぞ!」
「分かっている」
ガルバは、騒ぐ議員たちを圧するような静かな、しかし絶対的な声で言った。
「だが、敵の術中には絶対にはまらん。カプアの六個軍団はそのままカプアを圧殺させる。今、我々が揺らげば、ローマという国家の背骨が本当に折れるのだ」
「では、この門前に迫るハンニバルは……! 一体誰が防ぐというのだ!」
ガルバは、自らの腰にある剣の柄にそっと手を置き、己の赤い軍マントを毅然と肩にかけ直した。
「──ローマは、我々が守る」
その声は、微塵も震えていなかった。
「新編成の二個軍団と、この命を賭して、ハンニバルを門前で食い止める。
カプアの包囲軍は動かさぬ。これより、首都防衛の全責任は私が負う」
それは、重く、孤独な、ローマの執政官としての覚悟の表明であった。




