第四十五話 もう一つの敵──バルカの勝利を恐れる祖国
カルタゴの港にマゴーネが降り立った時、街はカンナエでの圧倒的勝利という快挙の話題で沸き立っていた。
バルカ家を支持する民衆は、勝利の象徴であるローマの執政官の赤き軍旗と討ち死にした執政官パウルスの絢爛たる飾剣を掲げ、堂々と街を行進するマゴーネの姿を見るや、割れんばかりの歓声を上げて熱狂した。
市民の歓声を浴びながらも、マゴーネの胸を占めていたのは懐かしい我が家への思いだった。
(母さんは達者でいてくれているだろうか? 幼かった自分が戦いの日々でこんなにも変わってしまっている……母さんは、すぐにマゴーネだと気づいてくれるだろうか?)
マゴーネは、幼いころに離れ離れになって以来、二十余年もの間会っていなかった母ミルカへの思いを抑えられなかった。
記憶にあった我が家の門前にたどり着くと、知らせを聞いたバルカ家の人々がそこに待ち受けていた。
その中に、微かな記憶の中にある母の面影を見つけたマゴーネは、思わず涙が溢れてくるのを止められなかった。
「母さん……マゴーネだよ……」
「マゴーネ……ああ、こんなに立派になって……」
ミルカは、自分よりはるかに背の高くなっている末っ子の精悍になった顔を見上げながら感極まっていた。
「母さん……母さんが元気でいてくれて良かった」
マゴーネは、記憶にあるよりもずっと小さく華奢な母をそっと抱きしめた。
「マゴーネ、俺のことが分かるか?」
母の隣に立っていた恰幅の良い紳士が声をかけてくる。
「ミルカトン叔父さんかい?」
「そうだ。ミルカトンだ。
お前たち兄弟の活躍は俺の耳にも入ってきているぞ。
お前たちは、バルカ家の誇りだ」
「ありがとう、ミルカトン叔父さん。
カルタゴへは、イタリアでの戦勝報告に来ました。
それと、元老院へ本国からのイタリア戦線参加を要請するためでもあります。
僕たちは、イタリアへ攻め入って丸二年、全く外からの援助を受けずに戦ってきました。
しかし、ローマを完全に打ち負かすためには、もう少し戦力が足りないんです。
元老院での叔父さんの力添えも欲しい」
「分かった。俺の方から根回ししておこう」
「助かります」
「後のことは、俺に任せてお前はミルカとゆっくり過ごすがいい」
「ありがとうございます。ミルカトン叔父さん。よろしくお願いします」
その日マゴーネは、兄から託された重要任務の重圧をしばし忘れ、母と血の通った温かい時間を過ごし、心から安らげていた。
だが、カルタゴへ戻った本当の目的──真の戦いはこれから始まる。
翌日、元老院議事堂の重い扉を開けた瞬間、街の熱狂が嘘のような冷気がマゴーネを襲った。
豪奢な議場に並んでいたのは、ハンニバルを、ひいてはバルカ家の台頭を何よりも憎む “ハンノ派” の老人たちだった。
彼らの凍てつくような視線の中、マゴーネは堂々と演壇へと歩みを進めた。
「ローマ軍八万を完全撃破! 執政官パウルスは討ち死に! イタリアの同盟市は激しく揺らいでおります! 諸公、これを見られよ!」
マゴーネが叫ぶと同時に、従者たちが巨大な革袋を議場の床へとひっくり返した。
ジャラジャラジャラッ!!!
乾いた金属音が響き、床一面に広がったのは、カンナエで討ち取ったローマの貴族や元老院議員たちの指から剥ぎ取った、数千個の “金の指輪” であった。
あまりの衝撃的な勝利の証拠に、議場は一瞬で言葉を失い、重苦しいざわめきが広がった。
だが、その沈黙を切り裂いて、一人の老議員がゆっくりと立ち上がった。
バルカ家の宿敵、ハンノである。
彼は床の金指輪を冷ややかに見下ろすと、小馬鹿にするような笑みを浮かべた。
「なるほど、見事な戦果だ、マゴーネよ。
では、三つほど尋ねたい」
ハンノの声は、老獪な毒を帯びていた。
「第一に、そこまで大勝利したのなら、ローマから『和平を乞う使者』は来たのか?」
「……いや、まだ来ていません」
「第二に、ローマの息の根を止めるほどの大勝利なら、イタリアの同盟市で、我らに寝返った主要な都市はどこだ?」
「カプアを筆頭に、南イタリアの諸都市が次々と我らに従いました。
サムニウム、ルカニア、ブルッティウムの諸部族も同様です」
ハンノは深く溜息をつき、周囲の議員たちを見回した。
「諸君、聞いての通りだ。ローマは降伏しておらず、南イタリア以外の同盟市も離反してはいない。北も中部もローマの同盟市は揺らいでおらぬ。
つまりローマの心臓部は無傷で、敵は尚強大なままだ。
……そして第三の質問だ、マゴーネ」
議場に漂う空気は、勝利への歓喜ではなく、ハンニバルという圧倒的な実力を持つ男を恐れる怯えで満ちていた。
ハンノの目が、蛇のように鋭く光る。
「お前の兄ハンニバルは、それほど完璧に勝っているというのに、なぜ今になって、本国に『援軍と金と攻城兵器』を物乞いしてくるのだ? 勝っているなら、己の軍勢だけでローマを滅ぼせばよかろう」
「何だと……!? 兄は敵地の真ん中で孤立しながらも戦っているのだぞ! 攻城兵器もなしに、どうやってローマのあの高い城壁を越えろというのだ! ローマ本国を落とさなければ、この戦いに終わりは来ない!
なのにあなたたちは、勝利の成果だけを要求して、戦いへの支援は何一つしないというのか!」
マゴーネは拳を血がにじむほど握りしめて叫んだが、ハンノは冷笑を崩さなかった。
「我らカルタゴは商業国家だ。
一将軍の私怨に、これ以上の国力を浪費するわけにはいかん。
……むしろ今こそ、その『金指輪』を材料に、ローマと有利な条件で和平交渉を始めるべきではないか?」
「和平だと!? 正気か!
あなた自身が、ローマの心臓部は無傷で、敵は尚強大なままだと発言したばかりではないか!
あのローマがこちらに有利な条件での和平交渉など応じるわけがない!
ハンノ殿、あなたの主張には理がありませんぞ!」
マゴーネの反撃に、ハンノ派は返す言葉がなかった。
ミルカトンの根回しもあり、民衆の熱狂にも押され、元老院はハンニバルへの大規模な追加増援と、マゴーネがその軍勢を率いてイタリアへ帰還する案を可決した。
(勝った!)
マゴーネは議場で拳を握りしめた。
これで兄の元へ、あの高いローマの城壁を破る攻城兵器を届けることができる。
──だが、運命の女神は、あまりにも冷酷だった。
マゴーネがカルタゴで増援の軍勢を編成し終え、まさにイタリアへ出航せんとしたその前夜、カルタゴの生命線であるヒスパニア戦線において、デルトサの戦いでローマ軍に大敗したという、最悪の報せが届いたのだ。
元老院議事堂はヒスパニア戦線への危機感に襲われる。
ハンニバルの強大化を恐れるハンノ派は、これ好機とばかりに牙を剥いた。
「ヒスパニアの銀山を失えば、国家の大損失だ!
今は、イタリアよりもヒスパニアだ!
可決した増援軍はすべて、ヒスパニアの防衛に回せ!」
大勝利のために集められた大軍と攻城兵器は、すべてヒスパニアへの増援のために奪われた。
それどころか、マゴーネ自身もヒスパニア軍の副将として派遣されることが決定した。
──それは、ハンニバルから血を分けた弟を奪い、最後の光を完全に奪い去る、最も残酷な政治的処断となった。
マゴーネは、出航直前の港で、ただ一人絶望に震えながら立ち尽くした。
(……兄さんごめん。兄さんの力になれなかった……カルタゴは……この国は、あなたの勝利を恐れている……)
──
カンナエの歓喜から半年。
カプアでの冬営を終えつつあったハンニバルのもとに、カルタゴ本国からの頼りない返書と、わずかばかりの形式的な兵の報せが届いた。
ハンニバルは封を切り、書状に目を落とすと、静かに、本当に静かに目を閉じた。
「……マゴーネは、本国の政治に敗れたか」
ローマ連合を断ち切り、外堀から弱らせてローマの城壁を包囲し陥落させるという壮大な勝ち筋。
そのために必要な最後のピース──攻城兵器と大軍は、ついに届かなかった。
ハンニバルは、冬枯れた南の空を見据えながら、自嘲気味に呟いた。
「情を捨ててでも、狂気的に一致団結するローマ。
……そして、目先の利益に目を眩ませ、身内の勝利すら恐れて自壊していく我が祖国……」
その横顔は、史上類を見ない大勝利の戦術を創り出した怪物のものではなかった。
ただ一人、世界の真実を見つめながら、祖国の限界という絶望に直面した、孤独な天才の横顔であった。




