第三十六話 南イタリア進軍 ── 揺らぐ同盟都市
アペニン山脈の冷たい北風を背に、カルタゴ軍が険しい峠を越えた時、眼下に広がったのは黄金色の波が一面に広がる生命力の溢れる景色だった。
そこは──陽光に恵まれたカンパニア地方。
北部や中部の荒涼とした山岳地帯とは比べ物にならないほど温暖で、見渡す限りの肥沃な平野が広がり、豊かな麦畑と豊かな馬の産地が連なる、イタリア最大の豊穣の地であった。
馬上でその暖かな風を受けたマハルバルが、深く息を吸い込んで笑った。
「生き返るぜ! 食い物も馬のまぐさも、いくらでも取り放題じゃねぇか!」
斥候隊長カルタロが、馬を並べて冷静に報告する。
「閣下、この険しい峠を抜けた前方が、ファレルヌス平原です。
現在はローマ軍の影もなく、我らの進軍を阻むものは存在しません」
ハンニバルは満足げに頷き、眼前に広がる広大な平野を見渡した。
──間もなく冬が来る。
南イタリアで安全に冬を越すためには、この豊かな地で、当分は飢えずに済む量の兵糧を確保しておかねば、この大軍を維持することはできない。
「よし。この地で出来るだけ兵糧を確保する」
ハンニバルは、各隊に食料の調達を指示した。
しかし、ローマ軍はハンニバルの掠奪行為をただ黙って見過ごしてはいなかった。
独裁官ファビウスが適度の距離を保ち、執拗にハンニバルを追跡していた。
ハンニバルの動きを冷徹に追いながら、打撃を与える機会を窺っているのだ。
「閣下。ハンニバル軍は全軍ファレルヌス平原に入り、略奪行為に及んでいます」
ファビウスは、ファレルヌス平原近郊の地図を睨みその特異な地形に気づく。
「そうか。それなら、平原周囲の峠道を全て封鎖して、カルタゴ軍を平原内に閉じ込めろ」
ファビウスは、広いファレルヌス平原も、実は周囲を山々に囲まれており、平原に通じる狭い峠道を封鎖すれば陸の孤島と化すと見抜いていた。
平原と違い、狭い峠道ではハンニバル軍の強みの騎兵を使った機動力を発揮できない。
不利な山岳戦を挑んで、ローマ軍の封鎖を突破するには多大な犠牲を強いられ、カルタゴ軍にとっては壊滅の危機となる。
ファレルヌス平原の出口はすべてローマ軍に固められ、カルタゴ軍が完全に袋の鼠となったかに見えた。
しかし、ある深い夜。
「閣下、準備はすべて整いました」
闇の中から現れたカルタロが、静かに報告した。
その夜、峠を守るローマの守備隊は、遠くの丘から無数の “松明の明かり” が、凄まじい地響きとともに突撃してくるのを目撃した。
守備隊の指揮官は、それをカルタゴ軍の夜襲と誤認し、慌てて迎撃陣形を組む。
だが、そこにいたのはカルタゴ兵ではなかった。
角に松明を縛り付けられ、火の熱さに狂って暴走する数千頭の牛の群れだったのだ。
ローマ軍がその奇策に大混乱に陥っている隙に、ハンニバル軍の本隊は、カルタロの完璧な先導によって、もう一つの無警戒な脱出路を静かに、規律正しく通り抜けていた。
夜陰に紛れた見事な撤退。
翌朝、もぬけの殻となった平原に取り残されたローマ軍を振り返り、ハンニバルは満足げに口の端を吊り上げた。
「人間は暗闇の中では、見たいものを勝手に形にする。
ローマの将軍どもは、今頃ようやく自分たちが牛を相手に名誉ある戦いを繰り広げていたことに気づいた頃だな」
カルタロもまた、満足げに頷く。
「奴ら、完全に振り回されています。これで南の都市への面目は丸潰れでしょう」
「その通りだ、カルタロ。ローマの “土台” を揺らすには、こうして奴らの無力を同盟都市に見せつけるのが一番の特効薬だ」
ファレルヌス平原を南へ抜ければ、その先にはローマの同盟都市であるアウスニア、アトラニア、要衝カシリヌム、そして堅牢な要塞都市ネアポリスが連なっている。
「兄さん……この先にある同盟都市アウスニア、アトラニア、カシリヌム、ネアポリスは、ローマに莫大な税と兵力を供給している “土台” そのものだ。もしここが揺らげば──」
「ああ、ローマの同盟網は連鎖的に崩壊する」
ハンニバルは冷徹に笑った。
「ローマの重税と終わりの見えない兵役負担に、同盟都市の腹の内はとっくに煮えくり返っているはずだ。
我らの圧倒的な力を示し、さらに『重税からの解放』を約束すれば、奴らは自らローマの鎖を引きちぎる」
南イタリアへ進軍したハンニバルは、同盟都市に対し、冷酷かつ鮮やかな罠を仕掛けた。
ローマ軍を徹底的に翻弄してその無力を晒すと同時に、カルタゴに味方すれば税も兵の提供も求めないと約束する。
力と利。この両面からの揺さぶりは、じわじわと効果となって現れ、アウスニアやカシリヌムの一部勢力が、恐怖と期待に震えながら密かにカルタゴの意向を伺い始めていた。
ローマの強固な同盟網に、ついに小さな亀裂が走り始めた。
───
ローマ軍が醜態を晒すたびに、南イタリアの諸都市の動揺は決定的なものへと変わっていく。
やがて季節は流れ、紀元前二一六年の春が訪れた。
実り豊かな地で冬を越したカルタゴ軍の幕舎には、再び牙を研ぐ活気が戻り始めていた。
北方の険しい山岳地帯での軍事行動で疲弊していた兵たちは、この南の地での十分な休息を経て、その士気を完全に回復させている。
地中海全土を揺るがす大決戦の足音が近づく中、ハンニバルは次なる政治戦の種を蒔くべく動き出した。
マゴーネとカルタロを呼び寄せると、地図の上に指を滑らせながら冷徹に告げた。
「南の各都市の反ローマ派へ、密使を放て。
狙うのは、カンパニアの盟主たる大都市カプア、海上交易の要たるネアポリス、そして
アッピア街道の要衝カシリヌムだ。
奴らの腹の内を探り、ローマへの不信の火を絶やすな」
それは、ローマを支える同盟網を内側から破滅させるための、静かなる前哨戦であった。




