第三十四話 戦わぬ強敵──ファビウスの忍耐
アペニン山脈を越え、カルタゴ軍がイタリア中部へと進出してから数週間。
ハンニバルは、これまでのどの将軍とも違う “不戦の強敵” と対峙していた。
その敵──独裁官ファビウス・マクシムスは、カルタゴ軍の視界の端に常に姿を見せながら、決して刃を交えようとはしなかった。
カルタゴ軍が平野に出れば、ファビウスは山頂の険路へ退いて高地から見下ろし、山へ向かえば、追わずに平野の補給線を固めて立ち塞がる。
どちらにせよ、決して “戦場の中心” には降りてこない。
こちらが小規模な徴発隊を出せば、影のように現れて物資を掠め取り、決戦の陣形を組む前に霧のように消え去る。
戦場そのものを拒絶する決して捉えられない、 “煙” のような敵だった。
ある日、カルタロが険しい山道を指し示しながら報告した。
「閣下。ファビウス軍は山頂の要害に陣を敷いています」
ハンニバルは険しい山脈を見上げた。
「ファビウスは、俺の騎兵を無力化するためにそこへ陣取ったんだ。山岳戦では高地にいる者が圧倒的に有利だからな」
マハルバルが舌打ちを漏らす。
「なら、このままローマへ直行するか? あの城壁の向こうで震えてる連中を叩き潰すってのも悪くねぇ」
ハンニバルは即座に首を振った。
「それもファビウスの思うつぼだ。
俺たちが通り過ぎた後で背後を遮断されたら、補給が困難になって袋の鼠になる」
「それじゃどう料理するよ?
相変わらずあの老亀は、俺たちの進軍路を遠巻きに眺めるだけで、攻めてくる気配がねぇ。
小競り合いばかりで胃がキリキリしてきやがる」
「料理しようにも、奴はこっちの手が届く場所に降りてくるほど愚かではない」
ハンニバルは地図を睨み、どこか愉しげな笑みを浮かべた。
「だが、焦っているのは俺たちだけじゃねぇ。あの男もだ。
……そして、何よりもローマの民衆だ」
「兄さん、どういうこと? ファビウスは一歩も動いていないよ」
「マゴーネ。ローマ人は『攻勢』と『勝利』こそが最高の美徳だと教育されてきた国だ。
その首都の目の前で、我が物顔で敵が略奪しているのに、全権を握った独裁官が『戦わない』のだぞ?
民衆や元老院が、いつまであの老将の忍耐に付き合えるかな」
ハンニバルの瞳に、陰湿で鋭い光が宿る。
「奴の『盾』は強固だ。ならば、その盾を支えるローマの内側から腐らせる。……カルタロ」
「はっ」
忠実な斥候隊長に、ハンニバルは冷酷な命を下した。
「これより、ファビウスの故郷、および奴が所有する領地一帯へ向かう。
……ただし、ファビウスの領地には一つの火も放つな。
周囲の村々を跡形もなく焼き払い、奴の土地だけを、文字通り『無傷』で残せ」
その命令に、マハルバルが目を丸くした。
「……あぁ? 嫌がらせで焼くんじゃねぇのか?」
「焼けば奴は『国家のための犠牲』となって耐えている英雄になる。
だが、周囲が地獄絵図の中で奴の土地だけが無事ならどうなる?
ローマの民衆は叫ぶだろう。
『なぜ独裁官は戦わない? 奴はハンニバルと内通しているから、自分の土地だけを焼かれずに済んでいるのだ』とな」
マハルバルは一瞬、背筋に冷たい戦慄を感じ、それから喉を鳴らして笑った。
「ハッ! 悪魔だな、大将。肉体を殺すんじゃなく、あの老人の政治生命を焼き殺すわけだ」
「アブディル。お前は配下にファビウスの領地だけが火を放たれていない事実をローマ市中に広めさせろ。これでローマは内側から崩れる」
「はっ。承知しました」
───
数日後。
カルタゴ軍はローマの目と鼻の先で堂々と略奪を行い、ファビウスの領地の周囲の土地を灰に変えた。
だが、もたらされたローマ市街の状況とファビウスの忍耐は、ハンニバルの予想を超えるものだった。
「ローマの街中では、すでにファビウスを『ハンニバルの奴隷』『臆病者』と罵る弾劾の声が満ちているようです」
アブディルの報告を受け、カルタロが表情を変えずに付け足す。
「しかし閣下……ファビウス軍、依然として動く様子なし、です」
マハルバルが今度は心底呆れたように吐き捨てた。
「あのガンコ老人。そこまで言われても梃子でも動かねぇつもりかよ」
ハンニバルはしばらく無言で南の空を見上げていたが、やがて、感嘆を込めて呟いた。
「……己の名誉すら屠って、国家を守る防壁になるとは。
見事だ、ファビウス・マクシムス」
ハンニバルは手綱を強く握り直した。
「だが、お前が耐えても、お前の後ろにいるローマがその重圧に耐えきれん。ならば俺は、お前を無視してローマの “血管” を切り裂き続けるだけだ」
───
ローマの街は、いまや戦場以上に騒がしかった。
ファビウスが「戦わぬ」と宣言してから数週間。
カルタゴ軍が中部イタリアを蹂躙するたびに、ローマ市民の不安と怒りは、煮えたぎる泥の海のように膨れ上がっていった。
元老院前の広場には、連日、暴徒と化した群衆の怒号が渦巻いている。
「ファビウスは臆病者だ!」
「独裁官のくせに戦わぬとは何事だ! ローマの名誉を地に落とす気か!」
攻勢こそが美徳とされるローマの歴史において、 “不戦” は敗北以上の屈辱だった。
群衆の中には、ファビウスの邸宅に石を投げつける者すら現れ、主戦論を唱える副官ミヌキウスを真の英雄と称える声が日増しに高まっていた。
その狂熱の群衆から少し離れた回廊の陰で、若きプブリウス・コルネリウス・スキピオは、冷めた目でその騒乱を見つめていた。
「……愚かな」
スキピオが小さく呟いた時、広場から流れてきた “新しい噂” が、彼の耳を打った。
『おい、聞いたか? ハンニバルの奴、中部イタリアを焼き尽くしているクセに、ファビウスの領地だけには一粒の火も放たなかったらしいぞ』
『まさか……独裁官が、敵の怪物と裏で繋がっているのか!?』
『だから戦わないんだ! 奴はローマを売った裏切り者だ!』
その会話を聞いた瞬間、スキピオの背筋に、恐怖を通り越したぞくぞくするような戦慄が駆け抜けた。
(違うぞ……! 裏切りなどではない。これは、ハンニバルの罠だ!)
スキピオは拳を血がにじむほど強く握りしめた。
肉体を殺すのではない。ファビウスの政治的信用を、ローマ市民自身の猜疑心によって焼き殺させる、悪魔的な精神攻撃。
市街にはいないハンニバルの知略が、この広場を支配しているのを、スキピオは確かに感じ取っていた。
───
だが、その針のむしろの中に置かれたファビウス本人は、恐ろしいほどの沈黙を保ち続けた。
民衆がどれほど罵ろうと、元老院が罷免を叫ぼうと、副官ミヌキウスが自分を批判しようと──老将の眼は、ただハンニバルの進軍路だけを冷静に追い、狂わぬ距離を保ち続けていた。
決してハンニバルの挑発には乗らない。
罵声を浴びながら、己の名誉をドブに捨ててでも、国家を守る防壁になりきる──凄絶なまでの理性がそこにあった。
夜、自邸の書斎で一人、地図を見つめるスキピオは、深く息を吐き出した。
「……民衆の眼にはどこまでも臆病に見えるその不戦が、今のローマにとってはハンニバルという異次元の怪物に対抗するための、唯一の、そして絶対の正解だ」
ファビウスの凄絶な孤独と覚悟が、スキピオの胸に深く、重く突き刺さる。
しかし、同時に暗雲のような予感がスキピオの脳裏をよぎった。
(ファビウス閣下は耐えている。だが……このローマという国家が、これ以上民衆の批判の重圧に耐えきれるか?)
広場からは、夜になっても「ハンニバルが来る」という恐怖と怒りの声が絶えなかった。
二人の傑物の我慢比べの裏で、ローマの精神は、確実に限界へと向かってパチパチと音を立ててひび割れ始めていた。




