第三十話 最高の舞台装置 ── 掌の上のイノシシ
北イタリアの温泉地に敷かれたカルタゴ軍の冬営地。
立ち上る白い湯気は凍てつく夜気と混ざり合い、幻想的な霧となって本陣の幕舎を包み込んでいた。
幕舎の中では、油灯の炎が、低く不気味な音を立てて爆ぜる。
その小さな明かりを囲むように、カルタゴ軍の幹部たちが影を長く伸ばしていた。
影の中から音もなく這い出るようにして、影の軍団の長であるアブディルがハンニバルの前に進み出る。
余計な前置きは一切ない。
彼は冷徹な声で、核心だけを告げた。
「ハンニバル様。ローマではセルウィリウスとフラミニウスを新たな執政官に選出。
同盟国兵と合わせて総勢五万を二分し、それぞれが半数を率いて北上を開始しました」
ハンニバルは口の端を獰猛に吊り上げ、燃えるような双眸を輝かせた。
その姿は、いかなる逆境をも楽しむ野心家であり、戦場という名の舞台で己の命すら賭け金にするような凄みと華があった。
「トレビアで四万も失って、まだそれだけの軍勢を湧き出させてくるか……ローマという国家は、本当に底が知れねぇな、マハルバル」
ハンニバルは顎をさすりながら、楽しげに笑い声をあげた。
その傲岸不遜なまでの自信は、周囲の者に恐怖ではなく、狂熱的な信頼を植え付ける魔力がある。
「なおさら斬り伏せ甲斐があるってもんだ。
あんたが牙を剥けと言うなら、どんな相手だろうと、俺の騎兵はいつでも噛みつく」
マハルバルも豪快に笑い飛ばす。
「して、アブディル、奴らの進軍ルートは?」
「セルウィリウスは東のアリミヌムへ。
そして、民衆の熱狂を背負うフラミニウスは、西のアレティウムへ向かっています」
アブディルが指し示した地名を羊皮紙の地図の上でなぞり、ハンニバルは鋭い視線を向ける。
アルプスを越えた苛烈な冬が終わり、いよいよ、この肥沃な地での戦いもイタリアでの二年目を迎える。
ここからが、ローマという巨獣の息の根を止めるための、本当の勝負の始まりだった。
「東のアリミヌムと西のアレティウムに分かれて、俺たちを両翼から挟むつもりらしい。
堅実といえば聞こえはいいが……戦いってのは、自分の都合どおりに敵が来てくれるほど甘くねぇ。そうだろ、大将」
「その通りだ、マハルバル。
奴らは俺たちが、整備された平坦な街道を歩いてくると信じ切っている」
ハンニバルが地図のさらに南、アペニン山脈を指さしたとき、幕舎の片隅でずっと戦況を分析していた弟のマゴーネが、鋭く息を呑んだ。
マゴーネはまだ若く、兄たちのような獰猛さはない。
しかし、その明晰な頭脳は、戦場のあらゆる可能性を恐ろしいほどの精度で組み立てていく。
彼は地図の一点を指差した。
「兄さん……まさかアペニン山脈を越えた先にある、アルノ川の湿地帯を通るつもりかい? あそこは、春の雪解け水で底なしの泥沼と化しているはずだ。
誰もが『行軍不可能』だと断言する、死のルートだよ」
「だからこそ行くのさ、マゴーネ。
誰もが通れないと思う場所から、四万の軍勢が神出鬼没に現れる。
これ以上の奇襲が他にあるか?」
「確かに、戦術的にはローマの裏をかく完璧な一手だ……」
マゴーネは大きく息を吐き出し、即座に思考を切り替えた。
「でも、リスクが大きすぎる。
底なしの泥沼を行軍すれば、兵たちに相当の疲労とダメージを与える。
もし湿地を抜けた瞬間に待ち伏せされていたら、僕たちは間違いなく全滅だ。
そのためには、正確無比な現地の案内人と、完璧な索敵が不可欠だよ」
「そうだな、マゴーネ。
……カルタロ、アルノ川の湿地帯の偵察任務についてくれ。
現地ガリア人の案内人を確保して、アルノ川周辺の泥の深さ、安全に踏破できる微細な道筋を探し出すんだ」
「はっ。直ちに取り掛かります」
カルタロは完璧な礼を取り、天幕を出て行った。
彼はどれほど過酷な任務であっても決して軍律を乱さず遂行する、ハンニバルが最も信頼する斥候隊長だ。
──それから数日後。
カルタロから「極めて過酷な泥濘だが、強行突破できる道筋がある」との確たる報告がもたらされた。
ハンニバルは再び、今後の作戦を指示するため、幹部たちを自らの天幕へと集める。
机の上には、アブディルの影の軍団が集めたローマの有力者たちの極秘報告書が広げられている。
「カルタロから湿地帯を抜けられる道筋があると報告があった」
ハンニバルの言葉に、幕舎に集まった将領たちから「おぉ……」と驚きの声が上がる。
「敵の裏をかくルートは確保した。ここからが本当の『舞台の仕込み』だ」
ハンニバルは油灯の光に報告書をかざし、不敵に目を細めた。
「アブディルの報告書によれば、東のセルウィリウス。
こいつは伝統を重んじる生真面目なだけの堅物だ。
風評も『無難な凡将』といったところだ。
だが、西のフラミニウスは、元老院の老人どもを『腑抜け』と罵り、平民の支持だけで執政官にのし上がったような過激な奴だ。
ローマでの風評は『救国の英雄』か『国を壊す狂人』の真っ二つだという」
ハンニバルは密書を机に叩きつける。
「当然、元老院はこいつを蛇蝎のごとく嫌い、手柄を立てさせまいと足を引っ張る機会を狙っている。
逆にフラミニウスは、特権階級の鼻を明かして歴史に名を残したくて仕方がねえ。
つまり、奴らには、決定的な『政治的ヒビ』が入っているのさ」
ローマはフラミニウスという “怒れる英雄” を、カルタゴ軍を打ち破るための矛として送り出してきた。
だが、その英雄の性格こそが、ハンニバルにとっては最高の舞台装置だった。
「フラミニウスという男は、平民の熱狂で執政官になった。
つまり、民衆の手前、無様な持久戦や不甲斐ない後退は絶対に選べない。
俺たちが湿地帯を抜けて奴の横を通り過ぎ、ローマ本国へ向かう素振りを見せれば……奴はプライドをズタズタにされ、血相を変えて陣営地から飛び出してくるはずだ」
マハルバルが面白そうに、低く喉を鳴らして笑った。
「なるほどねえ。
プライドの高いイノシシを、巣穴から引きずり出して、俺たちが用意した極上の屠殺場へ追い込むわけだ。
相変わらず悪趣味な策だぜ、大将。だが、嫌いじゃない」
「マゴーネ、お前は輜重隊と歩兵の配置を計算しろ。
泥の道を抜ける順番を間違えれば自滅する。
マハルバル、お前の騎兵は湿地を抜けた瞬間に、最高の速度で動けるよう馬を仕上げておけ」
「合点承知だ。いつでも動ける」
とマハルバルが不敵に笑う。
「……すぐに計算を始めます」
マゴーネが鋭い目で頷き、すでに頭の中で軍列を組み替え始めていた。
「カルタロ。今後はガリアの部族たちにも金を掴ませ、フラミニウスの動向を一時も途切れさせずに監視し続けろ。
奴がいつ陣営地を出るのか、一刻の狂いが今回の策の成否にかかわる。
お前の目の確かさが、この戦いの鍵を握っている」
「はっ。すぐに取り掛かります」
一礼する斥候隊長の瞳には、どのような指示でも完遂してみせるという確固たる意志が宿っていた。
ハンニバルは油灯の炎を、じっと見つめた。
(ローマよ、大軍を率いて来るがいい。 “次こそは勝てる” と熱狂し、進軍の足音を響かせるその場所は、すでに俺の手のひらの上だ)
アペニン山脈の向こうで待ち受ける、深い霧と底なしの湿地帯。
その暗闇の先に、ハンニバルは新たなるローマの生贄たちが血を流して倒れる、トラシメヌス湖畔の凄惨な光景を、確かに描き出していた。




