第二十二話 影の軍団の力 ── アブディルの報告書
神々の峻嶺アルプスを血で染めながら踏破したカルタゴ軍は、ついにイタリア本土の北端、パドゥス平原へと降り立った。
だが、地獄の雪山を越えてきた二万六千の軍勢に、すぐさまローマへ進撃する力など残されているはずもなかった。
兵士たちの体は凍傷で黒ずみ、衣服は裂け、頬は痩せこけて幽鬼のようだった。
軍の誇りであった戦象も、いまや片手で数えられるほどまでに減り、巨体を虚ろに揺らしている。
「この地に天幕を張れ。次の命令が下るまで、泥のように眠るがいい」
ハンニバルの大音声がパドゥス平原に響き渡る。
極限の緊張から解放された兵たちが、一斉に安堵の息を漏らした。
しかし、総大将の頭脳は一瞬たりとも休息を求めてはいなかった。
ハンニバルはすぐさま、傍らに控える実直な斥候隊長へと鋭い視線を向けた。
「カルタロ、隊に一休みさせたら、ローマ軍が今どこにいるのか探ってきてくれ」
「畏まりました」
カルタロは深く頭を下げた。
派手な武功こそないが、規律を重んじ、過酷な任務も確実に遂行するこの男なら、ローマ軍の動向を必ず掴んで戻ってくるだろう。
ハンニバルは満足そうに頷くと、次に愛馬を並べる実弟を見た。
「マゴーネ。お前は、贈り物をたんまり持って、周辺のガリア部族の長どもと片っ端から接触してくれ。俺たちへの協力を取り付けるんだ」
マゴーネの明晰な頭脳は、兄の意図を瞬時に弾き出した。
ただの兵力補填の交渉ではない。
マゴーネの瞳に、不敵な知性の光が宿る。
「……なるほどね。兄さん。
ガリアの連中をこちら側に引き込めば、奴らをローマの支配から完全に切り離すことができる。まずはこの平原から、ローマ連合の切り崩しを図るんだね。
いいよ、その役目、僕が一番適任だ」
マゴーネはふっと笑み、兄の壮大で冷徹な戦略の全貌を完璧に共有した。
ハンニバルもまた、低く笑う。
「ハハハ! 話が早くて助かる。
アルプスを越えて生き残った二万六千……こいつらは地獄の底から這い上がってきた一騎当千の精鋭だ。ローマの首を獲る刃(本隊)はこいつらだけでいい。
ガリアの協力は、その刃の『添え物』であり、ローマの力を削ぎ落とすための一石だ。
アブディルが合流してくるまでに、完璧に盤面を整えるぞ」
───
数日後の夜。
薄曇りのパドゥス平原に、アルプスからの冷たい風が吹き下ろしていた。
カルタゴ軍の本陣の天幕のなかでは、ハンニバルがマハルバルを従え、地図を囲んでいた。
そこへ、ガリア部族との交渉から戻ったマゴーネが足早に入ってくる。
その端正な顔には、一仕事を終えた安堵と、わずかな苦渋が混じっていた。
「兄さん。……大同盟、というわけにはいきませんでした」
ハンニバルは、微かに口元を笑わせた。
「分かっている。そう簡単じゃないさ。勝ち馬に乗るのがガリアの習性だ。
奴らが同盟を求めてくるのは、俺たちが、ローマ軍を叩き潰して強さを見せた後だな」
「ですが──」とマゴーネが続ける。
「インスブレス族の長は、我らに『敵意はない』と明言しました。食糧と水、それに案内役を数名、提供してくれます」
「それで十分だ。よくやった、マゴーネ」
そこへ、足音荒くカルタロが偵察から戻り、ハンニバルの前に片膝をついた。
「閣下! 敵の動向を掴みました。
現在、ティキヌス川南岸に布陣し、川沿いに野営を張っている模様です。
兵力は騎兵六百前後、そのうち重騎兵が半数ほど、残りはガリア騎兵。
さらに、一千前後の軽装歩兵を随伴しています」
「よくやったカルタロ。この情報こそが、この戦の勝敗を決める」
ハンニバル、マゴーネ、マハルバルの三人がカルタロの報告を地図に突き合わせ、脳内で戦術の盤面を組み立てていく。
その時、天幕の外から待ち望んでいた声が響いた。
「報告! アブディル殿、到着されました!」
「……来たか」
天幕の垂れ幕が撥ね上げられ、冷たい空気と共に滑り込んできたアブディルは、その手にある重みのある革袋をハンニバルの前へ差し出した。
「ハンニバル様、こちらが、今後ローマで執政官や法務官となって軍を指揮する可能性のある有力者を網羅した報告書です。
貴族と平民に分け、それぞれの年齢、軍歴、性格から、ローマ社会での風評、さらに軍を動かす際の戦術的傾向まで記しております」
「でかしたぞ! アブディル!」
ハンニバルは身を乗り出し、その報告書を掴み取った。
「して、今年の執政官は、プブリウス・コルネリウス・スキピオと、ティトゥス・センプローニウス・ロングス。
……今、この地へ接近しているのが、スキピオです」
アブディルは地図の上の一点、イタリア西岸の港町ピサを指し示した。
「ハンニバル様の動向を察知したスキピオは、即座に弟のグナエウスに二個軍団を託してイベリア半島へと出発させ、本人はわずかな側近だけを連れて海路を急行し、ここピサの港へ上陸しました」
マゴーネが感心したように眉をひそめる。
「自分の手兵はすべてイベリアへ送った……。つまり今のスキピオは、自分が指揮を執るべき直属の兵を持っていないということかい?」
「その通りです。マゴーネ様。ですが、スキピオはピサに降り立つや否や、執政官の権限をもって、北イタリアの防衛部隊――すなわち、この地でガリアの反乱を抑え込んでいた法務官たちの軍団を徴発し、我が軍に対処するために集結させました。
さらに、シチリアにいたもう一人の執政官センプローニウスも、アフリカ遠征に行く予定だった軍団を率いて、大急ぎでこちらへ向かって北上している模様です」
ハンニバルは地図上のティキヌス川の一点を長剣の先で叩いた。
「ということは、カルタロの報告にあったローマ軍が、そのスキピオの急造部隊か」
スキピオがイタリアに上陸してから、わずかな期間で防衛線を構築してみせた圧倒的なスピード感。
その全貌が、アブディルの情報収集能力によって完全に暴露された。
「なるほどね、兄さん」
マゴーネの瞳に、敵に対する冷徹な警戒の光が宿る。
「スキピオは兵力が足りなすぎるから、センプローニウスが合流するまで防衛線を張って、時間稼ぎするつもりだね」
「だとしたら──そんな時間は与えてやらねぇ」
ハンニバルは長剣を音もなく鞘へと収めると、不敵な笑みを浮かべた。
その瞳には、地獄の雪山を越えてなお少しも衰えぬ、圧倒的な野生の覇気がギラギラと渦巻いていた。
「センプローニウスが来る前に、目の前のスキピオを叩き潰す。──マハルバル! 牙は十分に研いだろ」
豪胆な猛将マハルバルが、待ってましたとばかりに凶悪な笑みを浮かべ、拳を打ち鳴らした。
「ケッ、待ちくたびれて欠伸が出そうだったぜ!」
「もう敵は眼の前だ。──さぁ、ローマの度肝を抜きに行くぞ!!」
冷たい風が吹き抜けるパドゥス平原。
それは、これから始まる地中海世界最大の戦乱を、静かに待ち受けているようだった。
歴史書では見えてこない、ハンニバルという人物の内面を描くこと。
それが本作の主題です。
史実の流れを踏まえつつ、彼の心に宿る影火、葛藤、誓いの重さを
一話ごとに丁寧に追っていきます。
皆さまの感想やご意見は、物語をさらに深める大きな力となります。




