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田舎の貧乏男爵の娘ですが、前世の知識でパンを焼いていただけなのに王都の騎士団長に溺愛されてます〜気づけば兵站改革で国が強くなってました〜  作者: はりねずみの肉球
第2章:王都のパンはまずい

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シーン4:既得権益の牙と、騎士団長の絶対防壁

「頼む! 俺にその端っこだけでも!」

「どけ! 俺は先月からまともな飯を食ってないんだ!」


押し寄せる屈強な兵士たちの波に、私は文字通り押し潰されそうになっていた。

 分厚い胸板と丸太のような腕が四方八方から伸びてきて、私が切り分けたカンパーニュの欠片を奪い合っている。

 たった一つのパンが発する暴力的な香りが、軍の規律すら吹き飛ばしてしまったのだ。


「ちょ、ちょっと待って! 押さないで! 生地ならまだ発酵中のやつがあるから!」


私が叫んでも、狂乱状態の男たちには全く届かない。

 肩にしがみついたトゲマルが「ピギィィィッ!」と悲鳴を上げ、全身の針を限界まで逆立てている。


このままじゃ押し潰される――と、本気で身の危険を感じた、その瞬間。


『――貴様ら、恥を知れ』


厨房の空気が、文字通り『凍結』した。


怒鳴り声ではない。

 ただ低く、静かに紡がれた言葉。

 だが、その声には絶対的な権力と、背く者を容赦なく切り捨てる冷徹な殺気が込められていた。


ピタリ、と。

 群がっていた数十人の兵士たちが、まるで魔法にかけられたように動きを止める。

 彼らの視線の先には、ゆっくりと歩みを進めてくるレオンの姿があった。

 カツン、カツンと、硬いブーツの音が静まり返った厨房に響き渡る。

 彼は兵士たちの間をすり抜け、私の前まで来ると、ぐるりと周囲を睥睨した。


「たかがパン一つに、餓鬼のように群がるとは。第一騎士団の誇りはどこへ消えた」


「だ、団長……申し訳ありません……ッ!」


先頭にいた兵士が、顔を真っ青にしてその場に膝をつく。

 連鎖するように、全員が一斉に片膝をついて頭を垂れた。

 その圧倒的な統率力に、私はただただ息を呑むしかない。


「この娘――エリナ・フォルティスは、本日から我が軍の特任技術顧問として遇する。彼女の焼く『保存パン』は、今後の遠征における第一種軍需物資として扱う。勝手に手を出す者は、軍法会議にかける」


レオンの宣言に、兵士たちの間に微かな、しかし熱狂的なざわめきが走った。

 『あれが、配給される』。

 その事実が、彼らの絶望的な遠征にどれほどの希望の光を灯したか、垂れた頭から滲み出る喜びのオーラで痛いほどにわかる。


「……なんか、大事になっちゃったわね」


私は呆然と呟き、作業台に残ったパンの欠片を見つめた。

 ただ、美味しいものを食べさせたかっただけなのに。

 レオンは私の方を振り返り、その灰色の瞳で私をじっと見下ろした。


「これが、お前の持つ価値だ。自覚しろ」


私が何か言い返そうと口を開きかけた、ちょうどその時。


「――団長! レオン団長!」


厨房の入り口から、青ざめた顔をした若い伝令兵が転がり込んでくる。


「何事だ。騒々しい」


「も、申し訳ありません! ですが、正門に『パン職人ギルド』のギルドマスター、ガルド氏が押し掛けてきておりまして……! 『軍が不当な技術でパンを焼いている』と、ものすごい剣幕で……」


伝令兵の言葉に、レオンの細い眉がピクリと動いた。

 料理長が「ヒッ」と短い悲鳴を上げ、顔を青ざめさせる。


「ガルド……あのタヌキ親父、もう匂いを嗅ぎつけやがったのか」

「料理長さん、そのガルドって人、誰なの?」


私が尋ねると、料理長は震える声で答えた。


「王都のパン流通を牛耳る、ギルドの長です。この街でパンを焼く者は、すべて彼の許可を得なければならねぇ。軍の配給パンも、彼らから材料を仕入れて、彼らの定めた『製法』通りに焼いているんです」


なるほど。

 要するに、既得権益の親玉というわけだ。

 自分たちの不味いパンを売りつけるために、新しい技術を排除し、王都の食文化を停滞させている元凶。


「通せ。ここで話をつける」


レオンが短く命じると、伝令兵は慌てて飛び出していった。

 数分後。

 重い足音と共に、厨房に足を踏み入れたのは、丸々と太った初老の男だった。


上質な絹の服に身を包み、太い指にはいくつもの宝石の指輪が輝いている。

 だが、その豪華な装いとは裏腹に、彼から漂ってくるのは、ひどく酸化した古い油と、死にかけた酵母の酸っぱい匂い。

 パン職人としての魂を、とうの昔に金貨と引き換えに売ってしまった人間の匂いだ。


「レオン団長! これは一体どういうことですかな!」


ガルドは甲高い声を上げながら、ずかずかと厨房の中央へ進み出てきた。

 彼の背後には、護衛らしき屈強な男たちが数人控えている。


「軍の厨房から、我々ギルドに登録されていない異端のパンの匂いが街まで漏れ出している。これは王家が定めた『ギルドの独占権』に対する明白な反逆行為だ!」


ガルドは怒りで顔を真っ赤にしながら、傲慢に言い放つ。

 しかし、レオンは表情一つ変えない。


「反逆、だと? 軍の兵站を強化するための独自の改善だ。貴様らギルドの出す石ころのような配給品では、兵が遠征に耐えられんのでな」

「石ころだと!? 我々の伝統ある製法を愚弄するか!」


ガルドが吠えながら、作業台の上に残っていた私のパンの切れ端に目を留めた。

 彼は太い指でそれを乱暴につまみ上げる。

 だが、その指先がパンの柔らかい内側クラムに触れた瞬間――彼の顔から、スッと血の気が引くのがわかった。


「な……なんだ、この異常な水分量は……」


ガルドの目が限界まで見開かれ、指先が微かに震えている。

 彼はパンを鼻に近づけ、狂ったように匂いを嗅ぐ。


「……あり得ない。これだけの水分を含ませながら、どうして生地が崩壊していない? しかもこの香り……どんな魔法薬を混ぜた!?」


パニックに陥ったように叫ぶ彼を見て、私は思わずため息をついた。


「魔法薬なんて使ってないわ。高加水生地を高温で一気に焼き上げて、水分を閉じ込めているだけよ。職人なら、触っただけでそれくらい理解しなさいな」


私が前に出ると、ガルドは弾かれたように私を睨みつけた。


「貴様が……この異端のパンを焼いたというのか。どこから来た、小娘」

「田舎の貧乏男爵家の娘よ。王都のパンがあまりにも不味くて可哀想だったから、本物のパンの焼き方を教えてあげていたの」


「き、貴様ぁッ!」


ガルドの顔が、今度は怒りでどす黒く染まった。


「軍をたぶらかし、ギルドの権威を汚す魔女め! こんな水分を含んだパンなど、数日でカビが生えて腐り落ちるわ! 兵站を担うだと? 笑わせるな!」


「腐らないわよ。二度焼きしてあるから、常温で一ヶ月は持つわ」


「嘘をつけ!!」


ガルドは激昂し、手に持っていた私のパンを床に叩きつけようと腕を振り上げた。

 ――許せない。

 食べ物を粗末にする人間は、絶対に許さない。


私が止めに入ろうと足を踏み出した、その時。


ガシッ。

 鈍い音とともに、ガルドの太い腕が空中で完全に停止した。

 レオンだ。

 いつの間にか私の前に立ちはだかり、黒革の手袋をはめた手で、ガルドの手首を万力のように締め上げている。


「……痛ッ! 離せ、レオン団長!」


「それは、我が軍の重要な物資だ。貴様のような豚が、無闇に触れていいものではない」


レオンの声は、地獄の底から響くような絶対的な冷たさを帯びていた。

 灰色の瞳が、殺意を隠すことなくガルドを射抜く。

 その凄まじい威圧感に、ガルドの護衛たちでさえ一歩後ずさりし、誰一人として剣を抜くことができない。


「ひっ……!」


レオンが手を離すと、ガルドは無様な姿で尻餅をついた。

 手首には、くっきりと手袋の跡が残っている。


「帰れ。そしてギルドの幹部どもに伝えろ。今後、第一騎士団の食糧事情に一切の干渉を禁ずる、と」

「ば、馬鹿な! そんなことが許されると思っているのか! ギルドへの小麦の卸しを止めれば、軍といえども干上がるぞ!」

「やってみろ。その時は、国家反逆罪で貴様らの首を一つ残らず刎ねてやる」


レオンは腰の剣の柄に手をかけ、静かに言い放った。

 その言葉がハッタリではないことを悟り、ガルドは恐怖に顔を引きつらせる。

 彼は這うようにして立ち上がり、護衛たちに抱えられながら厨房の出口へと逃げ出していった。


「お、覚えておれ! このまま済むと思うなよ、小娘ぇッ!」


捨て台詞を残し、逃げるように去っていくギルドマスター。

 重い扉が閉まり、厨房に再び静寂が戻る。


「……いいの? あんなに喧嘩を売っちゃって」


私はレオンの広い背中を見上げながら、ポツリと呟いた。

 レオンはゆっくりとこちらを振り返り、無表情のまま私の頭にポンと重い手を置いた。


「言ったはずだ。お前のパンは、私が責任を持って守り抜く、と」


「……」


「それに、お前のその技術は、ただの兵站改善には留まらない。いずれこの国の力関係を根底から覆す火種になる」


彼の言葉に、私は息を呑む。

 ただ美味しいパンを作りたい。ただ、硬いパンで泣く兵士を減らしたい。

 その純粋な思いが、既得権益という巨大な怪物に火をつけてしまったのだ。

 技術を独占し、富を貪ってきた者たちにとって、私の『誰でも美味しく焼ける知識』は、最も恐ろしい毒薬に他ならない。


「……後悔、してるか」


レオンが、珍しく探るような声色で尋ねてきた。

 私はトゲマルを抱きしめ直し、小さく、しかし力強く首を振る。


「するわけないじゃない。美味しいものは、みんなで分け合ったほうが絶対に幸せだもの」

「……そうか」


レオンは短く応えると、再び私から視線を外した。

 その横顔には、冷徹な騎士団長としての顔の中に、わずかな熱情が隠されているように見えた。


こうして、王都のど真ん中で起きた小さな『パン革命』は、静かに、しかし確実に国全体を巻き込む嵐の目となっていく。

 私はまだ、自分がこれからどれほどの選択を迫られ、どれほど深くこの冷たい騎士団長に囲い込まれていくのかを、完全に理解してはいなかったのだ。

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