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第13話 小さな魔法使いは、影と戦う②


 王都クロスフィリアの朝は、今日も規則正しく始まる。

 エルはいつものように、寝台の上で呼吸を整えた。鼻から四拍、口から八拍。胸の中で魔力の波が行き来し、静かな面がひろがる。洗面台で冷水をすくって顔を洗い、手帳を開く。昨日の観測値を一行だけ見直し、今日の予定を書き足した。


 扉を開くと、廊下に立っていたリーネが片手を挙げた。「早いわね」

 「いつも通りです」

 影がふっと揺れて、ノワールの低い声が耳に触れる。《主、今日の空気は乾いている。火と風が伸びる》

 「了解。水と土でバランス取る」

 「こそこそ話はそのくらいで」リーネがくすっと笑う。「朝食は済んだ?」

 「はい。甘いのは帰ってきてから」


 ブリーフィングルームでは、セレスティアが地図の上に白い指を置いていた。

 「灰牙の切り通し。昨日から今日にかけ、帝国式の微弱な魔力波が三回。周期は薄明・薄暮。中継か、輸送」

 ゼルネが短く頷く。「影の戦だ。偵察優先、交戦は最小。戻る足を残しておけ」

 「指揮は私。外周はゼルネ、探知と解除はエル。撤退判断は私が出す」リーネはいつもの落ち着いた声で段取りを刻む。

 セレスティアは視線をエルへ。「見たものを“観測値”に変えなさい。感情は後回し。いいわね」

 エルは「はい」とだけ答えた。胸の真ん中に、今日の目的だけを置いて。


     *


 灰牙の切り通しは、王都から半日。山脈を噛み砕いたような、灰色の岩の回廊だった。両側の岩壁は牙の列のように鋭く、空は細い。風が走れば音は跳ね返り、足音ひとつが遠くまで届く。


 「ここは昔、魔力鉱石の運搬路だった」馬車を降りながらゼルネが言った。「戦争で爆破され、放棄。今は……獣の道だ」

 「再び使われる理由は、皮肉にも“放棄されたから”ね」リーネが岩肌を撫でる。「目が薄い。監視の穴が多い」

 ノワールが影から鼻を鳴らす。《血の匂いはないが、練り粉の匂いがする。人の足は新しい》

 (搬送……“粉”は魔道搬送の比喩か、実物か。確認は後でいい)


 エルは膝をつき、指先で砂利を払った。魔力の“かけら”が皮膚に触れる。王国式の揺らぎではない。硬質で、直線的な波形。

 「拾える?」リーネ。

 「拾えます。《クロノ・トレース》……流れをほどいて、前後の道を見せて」


 淡い紋が地表に滲み、透明な線が二本、視界に浮かんだ。ひとつは谷の奥へ、もうひとつは右の斜面を跳ね上がる。

 ゼルネが斜面を見上げる。「上に“目”。俺が外、リーネは中腹、エルは谷底だ」

 エルは頷き、足裏の重さを半分に落とす。「《サイレント・ヴェール》」

 音の角が丸まり、気配が岩に溶ける。ノワールが《よい》と一言。


 岩棚の影。槍の穂先を模した紋章と翼の刻印が入った薄い金属板――帝国式の中継符が、青白い脈動を刻んでいた。

 (外環:感知。中環:圧縮。芯:鍵。逆流あり)

 エルは板から半寸指を離し、四属性を“滴”で重ねる。水で温度を落とし、風で拡散を抑え、雷で脈拍を測り、炎で鍵穴を膨張。

 「《四相・微調》――今」

 光が一段弱まる。リーネが「《封記》」と針を刺し、中継符は光を失った。


 その刹那、谷が低く唸った。

 エルは反射で右へ跳ぶ。次の瞬間までいた地点を、真白い光条が縫い付けた。

 「敵!」ゼルネが吼え、岩影から黒い影が三つ跳ね出る。黒ローブ、仮面、腕の筒――帝国の“無声サプレッサ”だ。上からはもう一つの影が、狙撃の角度でこちらを視ている。


 「《アクア・ウォール》!」

 エルは水の壁を立ち上げ、続けて土を練る。「《ラミナ・テラ》!」

 薄板状の土壁が水壁の裏に重なり、光条の熱と衝撃を分散した。

 ゼルネは一足で敵の前に入り、柄で仮面の頬をはじく。リーネの結界が展開し、上から降りてくる白線をはじいた。

 


 「《テンペスト・アロー》!」

 風雷の矢がひとつ目の“無声”の肩を穿つ。

 「《ナイト・ハンド》」

 闇の指が地から伸び、二つ目の足首を絡め取る。

 「《ルーメン・シールド》」

 光の盾が上空からの狙撃線を一拍ずらす。小さな反射で、照準が逸れる。

 「《グラヴィス・チェイン》」

 影から鎖が噴き上がり、三つ目の肘を固定――しかし、鎖は白くはぜて霧散した。

 (相殺……“無属性”で術式を撹乱された? いい、こっちも)


 「《ヌル・インデックス》」

 エルは無属性の薄い指標を、敵の術式層へ差しこむ。王国式でも帝国式でもない“穴”を、構造の境目に挟み、連結を一瞬、弛緩させた。

 その“隙間”に土の杭を滑り込ませる。「《テラ・スパイク》」

 仮面が揺れる。ゼルネが一歩詰めて柄で後頭を打つ。ひとつが崩れた。


 上空で乾いた光が瞬く。

 「狙撃手、右上。二十度」エルの声が先に届き、リーネの結界がその角度で厚みを増す。

 ノワールが影から“息”を吐く。《よく視える》

 「《ハボック・ゲイル》」

 エルは風の渦で狙撃線に乱流を入れ、密度の濃いところに雷を落とす。「《サンダー・フォール》」

 上の影が短く呻き、岩の陰に後退した。


 「強そうな奴、来るよ」

 谷の入口。灰の風を切って、銀の仮面が歩み出た。黒ではない――装束の縁に銀糸で鷲と槍の紋章。

 腕の装置はさきほどの“無声”よりも長く、背の金具から冷たい光がじわりとにじむ。

 「王国の小さな魔法使い」仮面の奥から、低い声が落ちた。「君は“聞き分けが良さそうだ”。ここで引き返すなら、今日は見逃そう」

 ゼルネが鼻で笑う。「ありがたい申し出だが、仕事中でな」

 リーネが短く告げる。「交渉の余地なし。――エル」

 「分かってます」


 銀仮面が腕を上げる。

 空の光が一瞬、固くなり――白い槍が、短く生まれかける。

 (セラフィック・ランス……の“縮小位相”。連打でくる)

 エルは足の重心を落とし、手を開く。

 「《フロスト・ベール》」

 薄氷の膜が空気の温度勾配を変える。槍の生育が一瞬鈍る。

 「《フレイム・ループ》」

 環状の炎で白槍の軌道を“撓ませる”。

 「《エア・ブレード》」

 風の刃で先端の位相を切る。

 「《アクア・ランス》!」

 最後に水の槍で、白槍の根元を叩き落とす――同時に、エルの足元の土が低く鳴った。

 「《テラ・リフト》」

 土台を薄く持ち上げ、衝撃を逃がす。

 爆ぜる白。光の欠片が、風に乗って消えた。


 「へぇ」銀仮面が小さく笑う。「連携が速い。王国にしては珍しい」

 (口調。余裕。見せ札はまだ、ある)

 エルは掌を返し、光の盾をもう一枚重ねる。「《ルーメン・カーテン》」

 銀仮面は一歩、足を出した。その靴裏が灰の砂を踏む音が耳に刺さる。

 「君の“無属性”。王国式ではまれだ。――研究対象に良い」

 「結構です」エルは即答した。「あなたたちの“研究”は、もう見飽きました」


 銀仮面の肩がわずかに揺れる。「そうか。では次は、もっと面白いものを」

 空の縁に、形の悪い白がひとつ――槍ではない。輪だ。

 光の輪が、狭い空を横切って、彼らの頭上を切り分けようとする。


 「《ダーク・ベイル》」

闇の帷が輪の下に落ち、光の位相を鈍らせた。

 「《テンペスト・アロー》!」

 風雷の矢が輪の厚い面に当たり、たわむ。

 「《ヌル・インデックス》」

 無属性の指標が輪の“継ぎ目”に滑り込み、連結を一瞬だけ緩める――

 ゼルネがそこへ投石を叩き込み、リーネが結界で縫い留める。輪が、ぱちん、と弾けて消えた。


 銀仮面は身を翻した。

 「今日はここまで。位相鍵を追うなら、追えばいい。君の速度が“こちら”に届くかどうか――確かめよう」

 仮面の目に、淡い縦線が走った。輪に縦線、脇に三点。稜線の向こうへ、帝国の影が溶ける。


 風が戻る。谷の上で、薄明の色が一段階ほど白んだ。

 リーネが息を吐く。「深追いしない。撤退。拾えるものだけ拾う」

 ゼルネが破片を集める。エルは中継符の芯から文字列を引き出した。


 『光務局 第七枝:セラフィック・ノード

 周波—L7-弧状/搬送時刻—薄明/薄暮/転送位相—東縁・南環』


 「……やっぱり」エルは小さく頷く。「補給路だ。薄明・薄暮、東から南へ。位相鍵はL7、弧状」

 「十分な成果よ」リーネが封記針を深く刺す。「帰るわ」


     *


 帰りの馬車。

 エルは焼き菓子の袋を開き、ひとつをゼルネに、ひとつをリーネに渡した。

 「甘いものは撤退の後に効く」

 「毎回言うな」ゼルネが笑い、がぶりとかじる。

 ノワールが影で鼻を鳴らす。《主、今日の動きは無駄がない。だが“あれ”はまだ本気ではない》

 「分かってる。今日は“測った”。次は――届かせる」


 本部に戻ると、セレスティアは一瞥で破片と中継符を確認し、短く言った。「よくやった。線が見えたわ」

 エルは簡潔に報告する。「位相鍵はL7、弧状。搬送は薄明・薄暮。東縁から南環へ。狙撃手と“無声”に加え、隊長格が“輪”を使用」

セレスティアは頷き、地図に小さな印を付けた。「次は網を絞る。位相鍵の合わせ目を狙い、補給を断つ。……その前に――休みなさい」


 部屋に戻る途中、エルは中庭の噴水の縁に腰を下ろした。

 手帳を開き、今日の“見たもの”を数字と線に変える。

 (輪の厚みの変化、ヌルの食い込み角、雷の密度――)

 ノワールが影から姿を覗かせる。《主》

 「うん」

 《“次”は、牙が向こうから来る》

 「来させる。あの仮面を、ここで終わらせる」


 空は群青に沈み、王都の灯りがひとつ、またひとつ点っていった。

 エルは手帳を閉じ、立ち上がる。呼吸はもう、静かに整っている。

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