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I would live.  作者: ろむえらー
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一章 面倒事

 朝5時。イド・ジブラルタルは目を覚ました。

 すぐに目に入ってくるごったがえった部屋。父親が見ればすぐに一喝が飛んでくるだろう。

 が、この高校二年生にとっては一喝が飛んでこないのは不幸せなことだった。その父親、サザンはこのスラム内を通る唯一の列車に乗り、数ヶ月前に遠くの炭鉱に働きに行った。

 言っとくが、イドにとってサザンはただ一人の血縁者だ。母親の方はイドを産んだ時に死んだ。詳しいことはイドも知らない。

「…片付けるか」

 落ちてくる瞼を擦り、学校に行く準備をする。ついでにちょっとした整理整頓も。

 実は五時に起きても時間は無い。6時21分にサヴェン駅を出る列車に乗り遅れると、物理的な理由で学校に行けないのだ。この理由はまた後で。


 …六時二十分。ギリギリで駅に辿り着く。こんな早くから列車に乗るやつは少ない。人数は少なかった。

 なぜこんなに遅れたのか。ちょっとした確認を行っただけ。…少し遡ろうか。


 イドの、正確にはイドとサザンの家はドッペンストリートと呼ばれる通りのボロアパートの2階だ。一階は新鮮でもなさそうな野菜売りが、同フロアはほとんどが空き部屋、3階は胡散臭い占いの店が入っている。

 このドッペンストリートは結構長く、まっすぐ行くと海が見える。汚物と工業廃水で濁った海が。数年前までは漁業もやっていたらしいが、ここ数年で周辺の水質が悪くなったようだ。

 正直イドはこの話題に興味が無かった。元から魚が好きでは無かったからである。

 だが、イドは毎日海を見に行ってから駅に向かうのである。理由は2つある。

 一つは父親のこと。サザンは海の向こうの炭鉱で働いているとだけ聞かされていた。それだから毎日父親の方向を眺めて感傷に浸るのかもしれない。

 もう一つは警官の確認。スラムの周りをぐるぐる回っている警官を確認する。二人一組で回っている場合、スラム内にはほぼ来ない。一人だけの場合、もう一人はスラム内を回っているはずだ。

 多くの警官はスラム内にあまり入りたがらない。

 なにせ、治安が悪すぎる。銃を所持してる奴が多すぎる。一応法律で禁止されてるはずだが、そんなことは知らないとばかりに違法に製造されたものやコピー品が出回っている。しかも、最近は入ってきた連中がどうしてか密造銃の流通に拍車をかけている。

 まあ、どっちにしろ物騒なのだ。

 それでも入ってくるやつは…命知らずの馬鹿か、凄まじい自信を持った自己陶酔家か。

 時間を戻そう。


 見慣れた顔に声をかける。

「よおジル。今日は二人組だ」

「ああ」

 口数少なく答えたこいつはジル。黒人で、同じ16歳だと思えないくらいの長身だ。

 ちなみに、このスラム街は移民で成り立っていると言っても過言では無いほど多民族だ。イドにもアラブ系やヨーロッパ系の血が混じっていた。

 ジルがこいよ、というふうに手招きをするので焦ってついていく。その間にポケットから金を引っ張り出しとく。…スられてねえな、よし。というのも、中学の頃のイドは今ほどしっかりしていなかった。注意散漫の坊主。要するに丁度いいカモだったのだ。実際、何度か盗られた記憶があった。

 腹立たしい記憶だ、と唇を噛む。

 気だるそうに帽子を斜めに被った駅員に金を渡す。この二人は中学の頃から乗っているので、駅員も何の切符か分かっている。秒で出てきた。

「…新学期だったな、そういえば」

 駅員が上の空で呟く。そして深く息を吐いた。

 その息には何が込められているのか。聞くところによると、駅員というのは案外給料が良いらしく、スラム街の奴らからは羨ましがられる立場なそうだ。が、物騒な環境で狭い部屋に篭りきりとなると、やはり憂鬱なのだろうか。まあ、そんなことは電車内で考えよう。時間が無かった。


 カチカチとパンチを鳴らしている駅員に切符を押し付け、ひったくるように受け取り、ホームを見渡す。

 まもなく列車が入場してくる。年季が入ったボロっちい骨董品。今にも崩れそうだ。床板は歩くたびにキイキイ悲鳴を上げるし、壁板なんか思い切り蹴ったら吹き飛びそうなほどだ。

 だが、これが唯一の通学手段だ。贅沢は言えない立場だった。

 速度が上がる。次の駅までは少し時間がある。見慣れた景色だが、外を眺めてみる。

 薄汚いバラックや掘立て小屋。それすら持っていない路上生活者。ボロの服を纏った人々の往来。

 果物や野菜、けばけばしい匂いを放つ菓子の類。おおかた富裕層側の食えそうな廃棄品の横流しだろう。

 昼間っから酒を浴びている路上生活者の集団。ゲラゲラとやかましい。そのやかましさもこの人の量じゃ目立たないけど。…あ、一人潰れた。

 いくらかマシな建物と建物の隙間が一瞬見える。地面に無気力に座り、虚空を眺める人の姿。無一文で餓死を待つだけの人か、それとも薬中の類か。

 見ていて面白いものではなかった。イドは車内に視線を戻した。

 と言っても、車内にもいつもの光景があるだけだった。

 剥がれかけの求人のポスター。沿岸部の工場からだ。肝心の時給やらの記載の部分がなくなっていたが。先人が残してきたであろう落書きの数々。おおかた下品な単語か、カッコつけた創作者のイニシャルだが。

 客もまばらで、特筆するようなやつもいない。みんな荷物を膝上に抱え、眠そうな目を擦っている。

 ジルはというと、小難しそうな辞書を読んでいた。古ぼけていて、所々虫食いがあるようなものだ。だが、取り憑かれたように本にかじりついて離れなかった。

 そんな時、電車が止まった。駅だ。そして、今年も乗ってきた。

「…おい、ジル。見ろよ」

 ジルは無言で頭を上げ、ちらりと見る。

 乗ってきたのは果物売りのおっさん。首からバカでかいカゴを下げ、長席の三分の一ほどを占領している。この人も中学の頃からずっといる。姿はガリガリで今にも干からびそうな痩せこけたおっさん。髪の毛もかなり薄く、額のシワから年齢を感じさせた。

 問題はこのおっさんの果物に釣られて虫が大量に車内に入ってくることだった。不衛生には慣れっこだが、気分のいいものでは無かった。

「…そういえば、話したことねえな」

 もっと言えば人と話しているところ、もとい果物が売れているところも見たことない。どうやって生きているのだろう。心底不思議である。


 寄ってくる虫を払いつつ、列車に揺られること数十分。やっと学校に着いた。

 アークリッツ公立学校。開校十二年目で、比較的新しい校舎のはずだが、中も外も荒れに荒れていた。木造なため、柱にはいくつかアリの巣が走っているし、所々銃痕と見られる穴すら空いていた。

 おかしいな、ここら辺は銃規制の法律が適用されるはずだが。

 前述の通り、最近この地区に入ってきた新手の集団が密造銃の流通に拍車をかけている。こういった集団とは関わらない方がいい。密造された銃の安全性なんて高が知れている。

 …実はそうも言えなくなってきた。イドは基本的に武器を持たないようにはしている。だが、平和主義者という立場はこの環境上悪手にしか回らない。自己防衛の手段の一つとして所持するということも視野に入れていた。

 ただし、銃を売っている輩がいるのは大体危険な地区。東スラムの中央部だったり、橋の下で生活してる奴らだったり。

 ちなみに、物理的な理由で学校に行けなくなるのは、この橋の下を通らないと行けないからだったりする。

「よ、イド」

 突然の声で現実に引き戻される。顔を上げると、校門でタオとハントが待っていた。声をかけてきたのはハントの方。

 こいつらも中学からの友人で、年齢はひとつ下だ。と言っても、年齢はあまり関係ない。

 この学校では十二歳〜十八歳くらいの年齢層が一つの教室に集まって勉強する。いわゆる中高一貫校だ。

「急ごうぜ、もうすぐ始まりのベルが鳴る」

 ハントに促され、校門をくぐる。ハントが全速力で校内に走っていく。こいつはいつでも急いでる気がするな。イドが高一の時は廊下でよく怒られているのを見た。

 走っていくハントの後ろ姿を眺めつつ、ちらりと腰の位置に視線を落とす。すると、ベルトに沿うように金属光沢が見えるだろう。

 学校に来ると平和ボケを起こしそうだが、ここも決して平和ではないのだ。あくまで物騒なスラムの中。そこらじゅうに危険が潜んでいる。

 実際、過去に何件もの銃撃事件が起きているし、刃物で脅されるなど日常茶飯事。生徒の中には、地域を取りまとめているギャングまがいの組織に所属しているような奴すらいる。


 二年前くらいのハントはもっとちっちゃいことをやっていたが、それでも、脅す側の立場に属していた。

 ナイフを使って脅す、被害者が脅しに屈しなかった場合、腹に蹴りをいきなり入れてひったくって逃げる。

 人を切りつけたことすらない臆病者だった。

 ある時、いつものように強盗しようとした。ターゲットは中肉中背くらいの年上。ガラが悪そうでもない、喧嘩慣れしてなさそうなやつを狙った。

 ただし、年上を狙うため、逃げる用意はしていた。小心ぶりが伺える。

「おい、金目のもの全部おきな」

 強盗の常套句だ。シンプルだが、一番効果があると考えていた。

「ああ…最近話題の強盗さんか」

「早くおけ、さもないと刺すぞ」

「やだよ」

「ああ!?」

 声はこう作っているものの、心の中では冷や汗が滝のように流れていた。

 やはり年上相手は成功しにくい。今度から狙うのはやめよう。そんなことを一瞬考えた。その一瞬のうちに被害者、もといイドは右足を踏み込み、強盗のこめかみに鋭い一撃を放っていた。

 ハントの目の裏に星が散ったあと、意識が消えた。



「…い、おーい、聞こえてる?」

 頬をペチペチと叩かれている。ハントはうっすらと目を開けた。強盗した相手の顔が映る。

 終わった。何されるかわからない。もちろん手に武器はない。下手に動いたら刺される。その考えが脳裏をよぎった瞬間、全身に鳥肌が走った。

 いやだ、死にたくない。

 この時、やっと脅される立場がわかった気がしたが、後の祭りだった。

「お前さ、名前は?」

「…………」

「答えろ」

「…ハント」

 次の瞬間、イドの手が動いた。反射的に目を覆う。幸い、ボコボコに殴られた経験はあった。

 が、拳は来なかった。その代わり、こんな言葉が来た。

「とりあえず立てよ。倒れたままだったら話しづらい」

 おそるおそる目を開けると、自分の前に差し出された右手。困惑で動けなかった。

「どうした?痛むか?…そりゃ殴れば痛むよな」

 申し訳なさそうに苦笑するイドの手をゆっくりと握った。


 その後、イドの奢りで西スラムの屋台を周り、身の上を聞いた。

 両親がいないこと、学校に通う傍ら、工場にも勤めていること、金銭面に余裕がないこと。

 これが俺とハントの出会い。我ながらお人好しがすぎる。強盗してきた相手に奢り、身の上相談をするなんて。が、それが今の友と考えると、悪いことだけではないのかもしれない。

「イド、集中しろ」

 後ろから頭を叩かれる。

「珍しいな、お前がぼーっとしてるの」

 言ってきた本人について考えていたことは口に出さなかった。

 ペンを持ち直し、教科書に線を引く。覚えるべき場所と、その理由。本当はノートか何かあればいいのだが、そんな高級品を買える余裕は無かった。


 そんなこんなで午前中の授業が終わる。次で今日の授業は終わり。教室の移動があるのであまりゆっくりはしていられない。

 教科書とその他必要なものを確認し、教室から出た時。生徒の往来の中で人だかりができていることに気づいた。横目で眺めると、よくあるカツアゲの一幕だった。

 気弱そうな年齢低めの子を狙ってやってるやつがいる。名前はフィンチ。イド達と同年齢で、ギャングまがいの組織と癒着があると噂の不良。こいつらと関わり合いにはなりたく無かった。こいつらだけならどうにでもなるが、相手がギャングとなると話が変わる。

 中学の時にこいつらに敵対したチンピラの集団がいた。校内での対立が深まり、そこらで喧嘩が多発し始めた頃、西スラムで火事が起きた。一夜で十二件。次の日、チンピラの集団は消えた。先生も何も言わなかった。

 家族ごと無かったことにされたのだろう。西スラムにはこう言った組織がないのが救いだろうか。

 カツアゲなんてよくあることだ。関わらないに限る。目線を戻し、教室に移動しようとした時。

「おい、やめろ!」

 群衆の中から大声が聞こえた。聞き覚えのある声。まさか…。

「カツアゲなんてだせえぞ!」

 ハントの馬鹿がフィンチ率いる不良集団にくってかかっていた。正義感のあるやつはこれだから困る。

 さてどうしたもんか。下手に出ると例のチンピラと同じことになる。だからと言って見捨てることもできない。

「は?誰お前」

 当然フィンチが黙っているはずもなく、ハントに拳を振り上げる。

 当然一対一の喧嘩になんか慣れていないハントはモロにくらってしまう。どさりと尻餅をついた。群衆から歓声が上がった。全く…くそっ。

 観衆を押し除け、喧嘩の輪の中心に乱入する。円の中心近くにいる奴らの表情がチラリと見える。闘争を求める下卑た表情。これだけにはなりたくないと考えた表情。

 一部から乱入者を歓迎する口笛が上がり、一部からは非難する罵声が浴びせられた。そんなことは耳に入らない。ハントとフィンチの間に割り込むように立つ。

 もちろんフィンチから歓迎の拳が飛んでくる。思い切り身を屈め、相手の腹に入り込んだ。

 殴るときは体重で。昔からの教えだ。右の拳がフィンチの腹にめり込む。

 ゲホッと息を吐く音が聞こえたが、気にしない。やると決めたなら容赦なくやらないと。第二の手を考えたが、その必要はなかった。いつの間にか立ち上がったハントがフィンチ目掛けて蹴りを放っていた。

 どこに当たったか知らないが、フィンチの野郎はぐらりとよろけ、そのまま後ろに倒れていった。仲間らしき奴らが慌てて支える。周りの奴らは大興奮。どっと拍手と歓声が沸く。拍手喝采の中、ハントと俺は低学年の子の手を引き、群衆から抜け出した。

「イド、やったな!」

 満面の笑みのハントと救世主を見るような目を向けてくる低学年を交互に見つめ、そしてため息をついた。

「…めんどくせえことになった」


 幸いフィンチのグループは別の教室にいる。今日はもういい。問題は報復。例のチンピラ集団と同じ目に遭いたくなかったら…フィンチを先にやるくらいしか…。

 これだから面倒ごとは嫌なのだ。絶対に報復がある。そしてそれはどちらかが潰れるまで終わらない。その場合、先に潰れることになるのは間違いなくこっちだ。

 眉間に皺を寄せ、教科書に線を引いた。心なしかいつもより筆圧が強かった。


「名前とどこに住んでるか、言え」

 放課後、高校前の駅。先ほど助けた子に尋問まがいのことをしているハントがいた。

「名前は、マーセル…家はえーと…」

「だいじょーぶ、俺たちは家燃やすとか野蛮なことしねえからよ!あ、大声で言うなよ、燃やすやつはいるから!」

 笑って言うハントに若干の苛立ちを覚える。冗談じゃない。本気で燃やす奴がいるから怖いんだよ。

「…あの人だかり、イドだったの。珍しい、普段面倒ごとには首を突っ込まないのに」

「タオ、違う。俺じゃない。そこの馬鹿がだな…」

「誰が馬鹿だと」

「実際そうだろ」

「辛辣」

 ハントは無駄に正義感が強くなっただけで全く頭はいい方じゃない。

 長身のジルがマーセルに目線を合わせて聞く。

「マーセル、ここらの地名わかるか?」

 首を横にふるマーセル。引っ越してきたって感じか。…この無法地帯に?訳ありだな。深くは聞かない方がいいだろう。

「電車乗るか?」

「…うん」

 よかった、西スラム側の人間だ。

「わかった、電車内でここの常識について教えてやるよ」

 それだけ言うと、ジルは本を開いた。行きの電車で読んでいた分厚い辞書だ。相変わらず口数の少ないやつだ。

 ただし、いいタイミングでもあった。ホームに電車が入ってくる。やはり古い車体は悲鳴をあげている。ジルが足早に乗り込んでいった。俺も続く。ハントとタオに手を振り、マーセルに手招きした。軋む床を不安がるマーセルに、

「俺が初めて乗った時からこうだから気にすんな」

と言ってやった。さらに不安になったようだ。一層顔が真っ青になった。

 硬い席に座り、荷物を膝上に抱える。車内はやはり空いていた。朝ほどではないが。

「マーセル、荷物は絶対に離すな。スられる」

 小声で耳打ちする。マーセルは慌てて自分の鞄を膝上に持ち上げる。

「おおかた窓の外は面白くねえぞ。ここらに来たばかりなら物珍しいかもだが、見飽きる」

 チラリと外に目をやると、バラックやボロいアパートの集合が見える。蟻みたいにひしめく人の集団。全員個性の無いボロ布を纏っていた。まあ経済的状況から見れば個性なんぞ気にかけるものじゃないがな。

 多少マシな建物が並ぶ通りが見えてくる。

「ここらへんがフローツ地区。このスラムの中じゃ治安がトップクラスにいい」

「ついでに給料と物価と安全性も高い」

 ジルが口を挟む。確かにその通りだ。将来は父親とここら辺に住みたいなあ…なんて考えたことがあるくらいの平穏。ドッペンストリートの治安が悪いわけではないが。

「で、その奥に広がってるのが工業地帯。その隣にヘゼン港っていうスラム最大の港がある。さっきの馬鹿…じゃなくて、ハントがここで働いてる」

 列車が止まる。駅だ。一度車内を見回してみる。特筆するようなやつはいないが、行きの果物売りのおっさんはまだ乗っていた。もしかしたら一日中乗っているのか?完全に売り方を間違えていると思うのは俺だけだろうか。

 数十秒の停車の後、また悲鳴をあげながら列車が発車する。車内の人はほとんどが降りていってしまった。そもそも列車に乗るという行為自体が高級だから、ある程度いい生活を持っている人しか利用しないのは事実。

 そのいい生活を持っている人は基本的にフローツ地区に住むからここで降りる。

 ちなみに、治安いい地区は薬や銃といった平穏を脅かすものを嫌う傾向がある。そのため周りの治安の悪い地域、橋の下の連中とかが入ってくることはほぼない。さらに入ったところで商売がほとんど成立しないのだ。

 そういうわけで、基本的に地区と地区で争いになることは少ない。案外世界は上手く回っているのかもな。

 話がだいぶ逸れた気がする。なんだっけ。

 思考の世界からイドを現実に引き戻したのは軽快な重低音だった。

 ジルが眉根を寄せた。マーセルが恐る恐る尋ねる。

「…今の音って」

「銃声だ、間違いない」

 ああ、そうだった…今は橋を通過中だったな…。

「…この下はスラムの中で一二を争えるくらいには治安が悪い。入らない方がいい」

 通称橋の下。正式名称はオルター地区だが、橋の下と呼ばれすぎて正式名称を知っている人は少ないようだ。

 このスラム内で起きている犯罪の半分はここで起きていると言われている。残りの半分は東スラムだが。橋の下には一回だけ入ったことがある。父親の知人の用事に付き合って行った。その時はまともな大人が一緒にいたものの、一人でなら金をいくら積まれても絶対に入りたくない。

 川のすぐ近くということもあり、物凄くジメジメした空間だ。湿って嫌な感覚の地面には吸い殻や食べ物のゴミの他、明らかに薬物の類とわかる白い粉やらすり潰された麻やら。それだけならまだマシなんだ。俺の見間違えじゃなければ、あれは絶対に人の指だった。工業油かなんかで汚れ、爪はひび割れ、節くれだった指だった。

 思い出すだけでも鳥肌が立つ。

 地上と変わらず建物はおおかたボロいが、たまに小綺麗で洒落た電飾をつけてる店がある。幼い頃のイドは目を輝かせて見ていたらしいが、それの正体は橋の下の実権を握ってるギャングかマフィアかのバーだ。

 そういったバーの前には大体無気力に虚空を眺める人間が一体二体いる。魂が完全に抜けたような状態の、薬中。もう見慣れたものだ。…見慣れたくなかった。

 幼い時の記憶ではバーの店主は物凄く優しく描写されているが、今喋ればおそらく本音がわかる。

 当時の頭じゃ父親の知人が店主と何を話していてもあまり興味がなかった。暗くて狭い店内を眺めていても何もないのでつまらなかった。

 やっと話が終わり、知人に連れられ店を後にした。その時、知人は何か包みを持っていた。包みの中身はおそらく銃だろう。今ならよくわかる。行きはあれだけ警戒してゆっくりと進んでいたのに、帰りになった途端足取りが軽くなって堂々と歩き始めるのは、幼い目から見ても流石に異常とわかる。

「…もしかしたら近い未来お世話になるかも知んねえな」

「え?なんて?」

「いや、お前は気にすんな」

 マーセルには取り繕ったが、ジルは勘づいているだろう。

 銃の入手。今日の面倒事の対策としてもそうだ。銃自体の流通量は前より多い。規制が入る前に入手すべきだとは考えているが、実行する時を図っている段階だ。幸い仲介を担ってくれそうなやつも知っている。

 …腹を括る時かもな。今日の深夜にでも行ってみるか。

「…顔色が悪いよ、大丈夫?」

「他人の心配する前に自分の心配をしなよ、マーセル」

「イド、少し酔っただけだろ?悪いな、こいつは昔から酔いやすい体質なんだ」

 ジルが上手く言いくるめてくれた。普段の口数は少ない割に上手く喋るやつだ、こちらとしてもありがたい。

 無意識のうちに拳を固めた。今夜の面倒事のために。

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