野良猫と彼
その日、霧雨が降っていた。
空は薄暗く、風が吹いて、もうすぐ夏を迎えるというのに寒々しい日だった。
私は人気のない通りをどこにいくとも考えることなく、傘も刺さずにただ足の赴くまま歩いていた。
住宅街の中は、この陰気な天気のせいか静かで、雨に霞み、まるで誰も住んでいない忘れ去られた町のようだった。
遠くで雷鳴が轟く。
嵐が近いのかもしれない。
それでも私は家に帰ろうとは思わなかった。
今帰っても家には誰もいない。
だから、この私のプチ家出を知る人はまだいない。
私は普通の子どものつもりだった。
それでいて普通じゃないことを私は知っていた。
私は縄張り意識が特別強い人間だった。
自分の部屋には親であっても可能な限り入れたくなかったし、兄弟などもってのほかだった。
前に一度、勉強していて親の声に気づかず、親が部屋に入ってきてしまった時は、思わず叫んで手に持っていたシャーペンを投げつけてしまった。
それ以来、家族は私に対して腫物を扱うように接するようになった。
学校などではもっと酷かった。
まず、公共の場というものが耐えられなかった。
どこにも安心できる場所がなくて、あまりにもたくさんの人がいて、誰が危険で誰が危険でないのか判断しようにもできなかった。
小学校の時。
誰も親しい人のいない場所で、誰にでも積極的に話しかけることのできる人間というものはどこにでもいるものだ。
自分の席に座ってじっとしていた私にも話しかけてきた子はいた。
でも私は相手をじっと見つめるだけですぐに返事することができず、大抵の子はすぐに興味を無くして去っていく。
しかし、その中でも何度も話しかけてきた子がいた。
何度も、でも無理矢理でもなく。
私はその子は大丈夫だと判断して、言葉を交わすようになった。
友達は増えなかった。
担任の先生は、私のことをおとなしくて特に問題のない子だと判断したのだろう。
特に何も言われることはなかった。
それでも、自分の意見を言わなければならない時というのは必ずやってくる。
そして私に、誰が味方かもわからないような場所で自分を表現するほどの勇気は無かった。
そうして私は、学校の中で忘れられた存在になっていった。
中学の時。
周りでは大人っぽい子や大人ぶった子も出てきた。
小学生の時ほど集団の中で過ごすことを強いられなくなり、スクールカーストが明確になってきた。
私は当然底辺の人間で、時には望まない役を押し付けられることもあった。
それでも私は目をつけられないように過ごすことを選んだ。
私にとって人間は最も理解不能で、そんな相手を思いやるなんてことは到底できないことだった。
だから、複雑な人間関係に入ることなく、時々上の人々の気まぐれに付き合わされる程度の立ち位置がちょうどよかった。
高校に入ると、より楽だった。
授業も休み時間の過ごし方もずっと自由になった。
この頃には授業の受け答えくらいはできるようになっていた。
カーストもあってないようなもので、誰かに目をつけられる心配もほとんどなかった。
私の居場所は家の中の自分の部屋の中だけだった。
誰もいない家の中で、雨の音に誘われるように家を出た。
しばらく歩き続けて疲れてきた頃、ちょうど見つけた公園に入って、そこにあったベンチに座った。
膝を抱え込んで顎をその上に乗せ、何を見るでもなく視線を宙に彷徨わせる。
どのくらいそうしていたのかはわからない。
半分寝ていたのかもしれない。
しばらくして、人の足音が近づいてきて、視線を向けると傘を差した男の人が立っていた。
こちらをじっと見つめるので、私もいつも初対面の人にそうするように見つめ返す。
「君は、生きづらいだろうね」
その人は言った。
自分でもそうだろうと思った。
その人は私との適切な距離を測るかのように近づいてこなかった。
傘を差すなんて余計なお節介を焼こうともしなかった。
ただ、私の少し斜め前で立ち止まって、時折視線を外しながらもじっとこちらの様子を窺っていた。
「僕は、そこのマンションに住んでいるんだ。家の窓から君がずっとここにいるのが見えてね。」
その人がまた話し出した。
その人は私のことは聞かなかった。
「君は野良猫に似ているね」
その人が言った。
そんなことを言われたのは初めてだった。
少し目を見開き、首を傾げる。
「僕は動物保護団体のボランティアに参加しているんだけど、君は保護した動物に似ているんだ。人間をとても警戒している。」
「なんで」
「そうだね。一番は目かな。初対面の僕をじっと見つめているだろう?」
そう言ってその人は少し微笑んだ。
じっとその様子を見てから、私はその人に向かって手を差し出した。
「もう少し近づいてもいいかな?」
私はこくりと頷いた。
その人が近づいてきて、傘を持っていない方の手を私に伸ばす。
私はその手をとって、じっと観察した。
握り、甲を摩り、指をぎゅっと握り込んむ。
その人は何も言わずされるがままになり、私から完全に視線を外して辺りを見回していた。
手に満足すると、私は手を離した。
そして少しだけ横に避けて座り直す。
「隣に行ってもいいのかな?」
私はそれに頷いた。
「じゃあ、お邪魔するよ」
彼は濡れたベンチに座ると、少しの間沈黙した。
「僕は動物を飼うのが小さい頃からの夢だったんだけど、仕事が忙しくてね。どうしても一歩踏み出せないんだ。とは言っても、休みの日なんかはさっき言ったボランティアをして動物に触れることができているから、今は今で満足しているんだけどね。」
「他の匂いは嫌い」
「ああ、そうだね。そうかもしれない。なら、今のままでいいかもしれないな。」
彼はまた沈黙した。少し逡巡した後、おずおずと口を開き、私に尋ねた。
「晩御飯は食べたかい?」
私は首を振った。
「僕の家に食べに来るかい?」
私は首を振った。
「じゃあ、何か買ってくるからここで待っていてくれるかい?」
私は頷いた。
彼は立ち上がって、少し早足で公園を出ていく。
しばらくして、彼が公園に戻ってきたのが見えた。
私が見ているのに気付くと、彼はにっこり笑って持っていたコンビニの袋を持ち上げ、ゆらゆらと揺らした。
「お待たせ」
彼はさっきより少しだけ私に近いところに座り、まず傘を私に持たせ、家から持ってきたらしいタオルで私の濡れた手を拭いた。
そしておにぎりを一つ私にくれた。
それから自分でも一つ取り出して、雨に濡れながら食べ始めた。
私は傘を見て彼を見て少し考えた後、彼に近寄って傘が彼にも架かるようにした。
「入れてくれるのかい?」
私は頷いた。
「ありがとう」
彼が微笑む。私は頷くとおにぎりのパッケージを開けた。
焼き鮭のおにぎりだった。