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最果ての海岸で

作者: 鯰川 由良

少し未来のお話です。

 この世界は、ゆっくりと終わりに近づいている。夕日が沈みやがて光が失われるように、ゆっくりと、そして確実に。その中で、最後の最後まで生に必死にしがみつこうとする人類の様子は、薄暗くなってからもなかなか夜が訪れない、暮れなずむ西の空を想起させる。


 わたしはひとり、ひび割れた波止場に腰を下ろして、海岸線の向こうに紅く光る太陽を見ていた。世界の終わりという未曾有の出来事を夕日という身近なものに例えてしまうのは、その規模があまりに壮大すぎる故かもしれない。世界の終わりが一体どのようなものか、実感は湧かなかった。それでも、大地震の頻度は確実に高くなっているし、遠くの空で立ち上る火山雲を見る機会も増えた。海面は少しずつ上昇を続け、波止場から釣り糸を垂らして魚が掛かることもなくなった。今腰を下ろしている波止場が海水に呑まれるのも、時間の問題なのかもしれない。あるいは、その前に観測者がいなくなれば、そんなことは知るよしもないのだけれども。




 ────わたしがこの海岸に辿り着いた頃、その隣にはもう一つの人影があった。もう五、六年ほど前のことだ。まだ幼かった二人は、小さな体に似合わない大きなバックパックを背負って、燦々と照りつける太陽の下に影を落としていた。

 世界人口の殆どが暮らす都市国家を除いて、世界の環境はあまりに過酷だ。いくつかの植物は生息域の環境の変化に耐えることができずに枯れ果て、生命の連続を絶やしてしまった。人間がかつて築いた建造物や舗装路はひび割れ、風雨よって擦り削られ、その殆どが崩落した。

 そんな環境のなかを、わたしたちは必死に歩き続けていた。そして、都市国家を追われてから長い旅を経て、様々な困難の末に、この最果ての海岸に辿り着いた。目の前には深く青い海がどこまでも広がっており、これより先に続く道はなく、正真正銘の行き止まりだった。


 二人が初めてこの海岸の砂浜を踏んだとき、空は面白いほどに晴れていた。砂浜は白く、燦爛たる太陽を反射した水面が嘘みたいに光り輝いていて、目が痛かった。わたしたちは素足になり、押しては返していく波を飽きるまで楽しんだ。湿った砂に足が埋もれて指の形が残る感覚とか、指と指との間に小さな海藻が入るくすぐったさとか、そういう些細な体験を、心ゆくまで楽しんだ。それから、わたしたちは岩場に近いところで、一匹の魚が打ち上げられているのを発見した。

 近くの波止場に場所を移して静かな水面に釣り糸を垂らすと、ひとしきりおいて一匹の小さな魚がかかった。釣り針を外そうとすると、魚は体を力強く波打たせて手の間を滑るようにうねった。乾いたコンクリートに水滴のしみがぽつぽつと模様づけられる。近くに転がっていたバケツに水を張ってその中に魚を放つと、のんびりとバケツの中を遊泳しはじめた。わたしたちは、その様子をしばらく眺めていた。居場所を得て優雅に泳ぐ様子に、視線を奪われていた。

 結局、わたしたちはその魚を食べることをしなかった。その代わりに、その後に釣れた大きな魚を二人で分け合って食べた。隣の少女は勢いよく咀嚼するあまり、口に小骨が突っかかって何度か顔をしかめていた。



 ────あの時のことは、遠い昔のことのようにも思えるし、つい最近のことのようにも思える。もう五年も前のことなのだから、時間的には昔のことなのだろうけれど。わたしは、あのときの景色を、今でも鮮明に思い出すことができる。まるで、ちょうどいまその景色を目の前にしているかのように。いや、それよりも幾分か色彩豊かに。


 辺りはだいぶ暗くなった。わたしは垂らしていた釣り糸をたぐり寄せ、バックパックの中に仕舞った。もう魚が釣れることはないのに、このような行動を毎日のように繰り返していて何になるのだろう。当時は潤沢とは言わないまでも定期的に手に入れることができていた食料も、今ではほとんど取れなくなった。あの頃のように二人で暮らしていくことは、物理的に不可能だ。

 海岸から少し歩いたところに、今の住処がある。住処といっても、むき出しのコンクリートの壁で四方が囲まれただけの簡素な空間だ。ガラスのはめ込まれていない窓枠からは、風が当然のように吹き込んでくるし、風の吹く方向によっては雨も防げない。そういう日はビニルのシートで窓を塞いでみたりもするが、あまり居心地の良い空間でないことは確かだった。

 この住処は、もともと二人で住んでいた頃のものとは別のものだ。この海辺に来てから、既に何回かの引っ越しをした。今の家よりもいくらか優れている家もあったが、地震で壁に大きな亀裂が入った等の諸々の理由で引っ越しを余儀なくされた。最初の家とはかなり様子も違っているので、もし訪問者がいるとすれば、この家に気付いてもらうために何かしらの手段を講じなければならないかもしれない。そう、例えば線香を焚いて、煙と香りをたててみるとか。


 わたしたち二人は、いわゆる移民という立場だった。自然災害で滅んだ別の都市国家から避難してきた、とある民族であった。最初はかろうじて受け入れられていた「よそ者」も、物資の不足を前にして、真っ先に迫害の対象となった。いつの時代でも、その地域に後ろ盾を持たないよそ者は迫害されるのだ。 

 わたしたちは罪人であるかのようにその地を追われ、その身一つで野に放たれた。それからわたしたちは歩いた。居住地を求めて、ただひたすらに歩いた。

 過酷な環境を歩き続ける二人は、ときおり口をそろえてこう言ったものだ。

「絶対に生きて、わたしたちの存在を示してやるんだ」

 その文言は、二人をつなぐ合言葉のようでもあり、わたしたちを強くする魔法の呪文だったようにも思う。



 気付けば、太陽は地平の奥深くまで沈み、空は深海のような、どこまでも沈んでいきそうな黒色をしていた。この辺りはとうの昔から電気が止まっているので、夜間の灯りはもっぱら火の力に頼ることになる。よく乾燥した一本の薪を枕木にして、あとの薪を寝転がるように並べる。着火したのち、薪の火が安定してくると、その上に小さな鍋を設置する。貯めておいた雨水を鍋に入れしばらく待つと、やがて湯の沸く軽快な音が聞こえ始めた。こうして火を焚いていると、当時のことを思い出す。あれは確か、この辺りに辿り着いてから幾日か経った頃のこと。やっと生活にも慣れ始めた頃のことだった。




 

 ────野営が続いたおかげで、二人の火の扱いもだいぶ様になってきたように思う。最初はただ強く燃焼させるだけだったものが、今となっては薪木の組み方で火力や火の持続性も調整できるようになった。試行錯誤の連続で、わたしたちは強くなった。

 夜は深くなっていくばかりだ。辺りはすっかり暗く、焚き火のもとを少しでも離れると途端に視界を奪われてしまう。わたしの知覚のほとんどを、低く揺らめく炎と、薪の弾ける音、そして静かにさざめく波の音が占めている。しばらくそうした感覚に身を委ねていると、隣から聞き慣れた声が聞こえた。

「ふぁ、おはよぉ」

「うん。おはよう」

 睡眠を終えた少女が、体を伸ばしながら近づいてきていたのだ。少女は大きなあくびをしながら、火に手をかざす。このごろ、夜が冷え込むようになった。

 わたしたちは一息をつくと、立ち位置を入れ替わった。わたしは火の当番を少女に任せ、簡易的な寝袋にもぐる。こうして寝袋のなかでじっとしていると、たしかに、時折吹く風の冷たさが身にしみるようだった。


 いくらか眠れていただろうか。それとも、ずっとまどろみの中にいただろうか。どちらにせよ、わたしはどうにも目が冴えてしまって眠りにつくことができなかった。目を閉じてみるが、幾何学的な模様がまぶたの裏をぐるぐると回っているのが見えて、どうにもそれが気になってしまう。頭を空っぽにしようと試みるが、かえって普段は考えるにも及ばないような、どうでも良いことをうだうだと考えてしまう。

 そうしているうちになかば途方に暮れてしまい、むやみに体勢を変えることを繰返す。時間の感覚も失い、寝袋に潜ってからどれだけ経ったのかもわからなくなっていた。そのときだ。枕元の方から小さな声が聞こえた。

「ねむれないの?」

 寝袋から顔を覗かせると、少女がこちらを伺っていた。炎に照らされるその顔には、心配の色が浮かんでいる。わたしが寝袋に口をうずめ、言葉を濁したのは、妙に気恥ずかしくなったからだ。

「まあね」

 わたしのぶっきらぼうな返事を聞いた少女は、少し迷ったあげく、こちらに手招きをした。断る理由も特にないので、わたしはそれに従うことにする。

 少女の近くに寄ると、彼女がなにか筒状の缶のようなものを持っていることに気付いた。簡素な見た目の金属でできていて、揺れる炎の赤が曲面に鈍く反射している。

「なに? これ」

 わたしが問うと、少女は筒の上部、蓋のところを引き抜いた。中が密封されていたようで、辺り一帯にポンッという小気味の良い音が響いた。蓋の開いた筒に顔を近づけると、何やら香ばしい匂いが鼻孔をくすぐった。

「良い匂い」

「うん。お茶だよ」

 そういうと少女は筒の中に小さな匙を入れて、匙一杯分、茶葉のようなものをすくい取った。それを慎重に小さな鍋の上にまで持っていき、鍋で沸くお湯へと匙をひっくり返す。はらはらと茶葉が落ちていき、一瞬にして沸騰するお湯に取り込まれた。それから、少女はその鍋を火から離し、その上から蓋をした。蓋と鍋の小さな隙間から、湯気が細く立ち上る。次々に上る湯気は少し上ったところで、やがて大気に冷やされて姿を消した。

「お茶なんて、いつのまに持っていたの」

 私がそういうと、少女は再び筒を開けて茶葉を取り出し、それを手のひらにのせて私に見せた。手のひらに乗っているそれは、茶葉というよりも、木製のチップに近いように見えた。

「根菜のお茶だよ。作ったみたの。乾燥させる工程が必要だったんだけど。ここら辺は日差しも強いからね。ちょうど良かったよ」

 少女は続ける。

「ここに来る途中に、山林の中を通ったでしょ。あのときに見つけて、ナイフでささがきにしておいたんだよ。それをここに来てから天日干しにして、最後に煎ってみたの」

 そう言うと、少女は閉じていた鍋の蓋を開けた。湯気がいっせいにもくもくと広がり、高くまで立ちのぼる。少女は鍋のなかに漂う茶葉を持ち合わせの箸で取り除くと、二つのマグカップにそれを注いだ。秋の木漏れ日のような柔らかな茶色で、ふたつのカップが満たされていく。芳しい香りが二人のまわりを包んだ。

「どうぞ」

 差し出されたカップを受け取り、顔に近づける。息を吹きかけると、水面が揺れ、湯気がもわっと立ち上った。誰かの優しさにつつまれるような、そんな温かな感覚を覚える。一口すすると、深く煎った重厚な香りが鼻を抜けていった。ほんのりと土臭さもあるけれど、それ以上になんだか温もりのある、安心する味だった。自然と肩の力が抜けるような、そんな感覚がした。

「ちょっと土臭いね」

 隣でカップを傾けていた少女が、そう言って笑った。そんなに正直に言うものかと、つられて私も小さく笑った。それからしばらく、わたしたちは炎のはじける音を聞きながら、無言でお茶をすすっていた。そうしているうちに、次第に身体が内側のほうから温まってくるのを感じた。

「ありがとう。なんだか寝れそうかも」

 わたしが言うと、少女はよかったという様子で微笑んだ。隣で炎を見つめる少女の黒い瞳が揺れているのが印象的だった。


 後で少女が教えてくれたのだが、あの根菜の茶には血行を促進して身体をあたため、睡眠をうながす効果があったのだそうだ。




 ────今夜も冷え込みそうだ。冷たく澄んだ夜風が肌にあたって、思わず身体を縮こませる。

 この調子だと、沸いたお湯もすぐに冷めてしまいそうだ。赤くなった手で茶筒から茶葉をすくい取り、鍋に放り込む。そして、蓋の裏側に水滴がつくほどにしばらく蒸らすと、早々にひとつのカップに注ぎきる。わたしはあれから何年も経った今でも、喫茶の習慣を続けている。あのときの味を超えられないことはわかっている。

 数年前、眠れない日々が長く続いたことがあったが、最終的にわたしを深い眠りへと導いてくれたのは、このお茶だった。今日もわたしは、そうして一息をついてから眠りにつく。身体が温まると、身震いもいくらかマシになる。



 どれくらいの時間が経っただろう。わたしはふいに目を覚ました。寝袋の外を覗くと、空はまだ暗く、夜の様相を保っていた。いくつかのまばゆい星が間隔をあけて光っているのが見える。夜風に吹かれたせいだろうか。眠気はどこか遠くにいってしまって、再び寝ることは叶いそうになかった。

 わたしは続けて空を見上げる。焚き火の灯りはもう影を潜めていて、夜空に浮かぶ細かい光さえもよく目立って見えた。それは、数えることなど到底かなわないほど、無数に夜空にちりばめられている。こうして溢れんばかりに広がる星々を見ていると、昔の人々が亡くなった人の影を星に見ていたことにも納得できる気がしてくる。言葉を失ってしまうほどの壮麗さには、それだけの神秘性がある。それに、故人が空から見てくれていると思えれば、なんというか、生きていくうえで都合がいい。

 気温はだいぶ低くなっている。火でも熾そうか。そう思ってわたしは立ち上がった。

 その時だ。私の瞳に、尾を引きながら、他の星など比にならないほどに明るく光る天体が映った。


 ────彗星だ。


 わたしは息を呑んだ。

 たなびく尾を輝かせながら、宙を横断していく彗星。何十年、何千年と暗い宇宙を漂い、地球に接近する一瞬だけ輝く彗星。その圧倒的な存在は、周囲の星々をも霞ませてしまうほどの明るさで。わたしは、その存在にただただ見とれていた。

 ふと、今は隣にいない少女の顔を思い出す。彼女はこの彗星を見ているだろうか。この輝きを見ることができているだろうか。いや、きっと見ている。美しく輝くこの箒星を静かに見つめながら、その瞳を誰よりも輝かせている。

 そういえば、と幼い頃なにかの本で読んだことを思い出す。彗星は、最初に発見した者がその命名権を得ることができるのだそうだ。

 ここは、誰も寄りつかぬ最果ての地。わたしが第一発見者でなくて、だれがそうであると言えるだろうか。

 わたしは命名した。美しく輝くその星に名前をつけた。最初の観測者であろう、わたしたち二人の名前を。


 ──朝をまってから、わたしは手頃な石を探しに海岸線に足をはこんだ。そして、見つけた石に昨晩見た彗星の名を彫った。わたしたちが生きていたのだという証拠を、しっかりと残してやった。

読んでいただき、ありがとうございました。

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