大精霊と召喚士
◆◇◆
自宅へ戻ってきた日和又は、さっそく袋から目的の品を取り出して卓袱台に広げ、もう一冊はそのまま袋の中に放置した。そして、自身は卓袱台の前に座ると、読書を開始する。
「……」
元々、小説が好きなこともあり、彼は手際のよいペースで一ページ、一ページと本を読み進めていく。
およそ一時間が経過した頃。
「はぁ……」
日和又は、そこそこ分厚いそれを、ある程度まで読み終えて小さく息をついた。
だが、その表情はどこかパッとしない。
無造作に本を閉じると、まだ伝えるべきことが残っているはずの元戦利品を背後に積まれた本の山へと重ねてしまった。
一体、何が起きたのか?
その原因は、ノベライズの内容にあった。
どうやら日和又は読書を進めるうちに、原作ファンを裏切るようなそのあまりにドロドロとした内容に吐き気を催し、途中ですっかり読む気を失くしてしまったらしい。
小説は、主人公の〝ななは〟とライバル関係にある〝魔装メイドありす〟が自身に関わりのあるヒロインたちについて詳細に日記を記していくという設定で書かれていたのだが、その中身は良くも悪くも、予想よりもはるかにブラックかつシニカルであり、ヒロインたちの歯に衣着せぬ物言いや、お痛の過ぎる一面を幾度となく小説内で見せ付けられた彼は、それを読み終える頃にはかつての盲愛の心を残らず失っていた。
……それこそ、音楽家ワーグナーの演奏会にて失望のあまり途中退席した哲学者ニーチェのごとく。
すっかり、本に対して、そして『ななは』に対して不信の念を抱いてしまった日和又は、やがて哀愁の篭った悲しい嘆きを自室に響かせる。
「ななはっ! おまえ、処女じゃなかったのかよ……。彼氏いたのかよ。しかも五股かよ。しかもそのうち一人は実の……。あああ、もう、俺の嫁は死んだっ! 死んだんだ!」
……オタク産業における、典型的な敗北者の姿がそこにはあった。
失意のうちに日和又は、寝ることにした。
今日(というか今晩)の一連の流れは、無かったと、青年はそういうことで結論づけたかった。そして、彼は寝る時に交感神経を休めるための習慣として日々とっている行動を今回も行うことにした。
それも、やはり読書。
ただ、普通の読書と違うのは、可も無く不可も無い、さして見所の無い小説を思考停止した頭で読み進めていくという部分。
これには、先ほど古書店から贈呈された一冊がふさわしかろう。
そう考えた日和又は袋から『めぎすとすっ!』を取り出す。
「はぁ……。イラストのないラノベほどつまらないものはないな。ま、この際なんでもいいや」
まさかその一冊を巡って、過ぎし日に幾千の血が流れたなどという事実を、その時の彼は知る由も無い。
日付と時刻は、二月二十九日の二時二十九分ちょうど。
日和又の部屋を這う一匹のヤモリ、百円ショップで購入したお香、先ほど〝ななは〟のページで切ってしまった小指の血、そして、そこに加わるのは……。
「へぇ……。大精霊の召喚呪文……。なんだ? あぐろん、てたぐらむ? ばいけおん、すてぃむらまとん、えしてぃおん、おねら、もいん、めっふぁるす、そてる、あどない、めっふぃあす、めぎすとす」
奇書に記された呪文を読み終えたその瞬間……。
メギストスを召喚するあらゆる条件が偶然にも整った。
――――そして現在。
「……という訳なんです」
その目を細めて、日和又は虚空に語りかける。
そんな彼に、
「そなた。何をしておる?」
突如、乾いた声が掛かる。
メギストスだ。
「あ、メギストスさま。起きられましたか」
「……わらわはさっきから、起きておったぞ」
「えっ!」
「そなたが、なにやらブツブツと一人語りをしておるがゆえ、声かけのタイミングに戸惑って、寝たふりを続けておったのじゃ」
「……なっ!?」
どうやら、いままでの茶番は全て彼女の目に入っていたらしい。
「こほんっ」
一つの間を置いてメギストスの咳払い。
「な、なんという……」
一気に信じがたい現実に引き戻された青年の顔はみるみるうちに赤く染まっていく。
それを見た彼女は、艶々しい銀髪の先を指でくるりと遊ばせながら、
「まぁ、良い。忘れてやる。どうせ、中途半端な回想でもしておったのだろう。なにせ、わらわの足を大地に着けさせた者は、パラケルス以来、およそ二百年ぶりじゃからな」
何気にとんでもないことを言った。
「……さっきのはメギストスさま、勝手にずっこけられた気が……。というか、二百年って本当ですか!? あと、パラケルスって誰ですか!?」
「本当じゃ。……パラケルスについてはおまえが知る必要はない。さて、と。このクマさんクッション借りるぞ。カモシカのような我が脚が痛む」
メギストスは、側に置いてあったクッションを引きよせるとそれに身を乗せる。
羽衣の隙間から覗くのはムッチリとした柔らかそうな太もも。
「どうぞ、お使いください。僕が愛用しているもので、この部屋にフカフカさで右に出るクッションはありません」
「ふむ、良い。だが、意外だな。貴様は湿った座布団しか部屋に置かない類の人間に見える」
「はは……。おい」
苦笑しつつも、日和又は突っ込んだ。
「冗談じゃ」
「あ、そういえば最初の願いをまだ叶えてもらってないのですが……」
視線を彼女の太ももから顔へと移した青年は、もみ手をしてメギストスに尋ねる。
「ああ、あれか」
「すみません。なるべく早めにお願いします。大家さんが来るかもしれないので」
「わかったよ。むっつり青年」
日和又の言葉を鬱陶しそうに受けた大精霊は、一息をつくと、その目を閉じる。
そして、
「ソテル、エムマヌ――」
なにやらブツブツと呪文らしきものを唱え出した。
と、同時に。
嘘のように消えていく部屋中の煌き。
――――
「あっ」
数秒後。
部屋は完全に元の明るさに復元されていた。
これに、日和又はほっと胸を撫で下ろす。
「第一の願いは叶えたぞ……」
そう言って、目を開けたメギストスは静かな眼差しを彼へと向ける。
「あ、ありがとうございます。これで大家さんにも怒られずにすみますよ」
その視線に少しドキリとしつつも、日和又は彼女に謝意の言葉を送る。
「……っ」
しかし、こうして見るとメギストスは本当に可愛らしい娘である。
その古風な話し方と、特徴的な耳さえ除けば、双眸はやや吊り気味で勝気な印象を受けるものの、そこらの西洋娘より顔のランクは数段上なのではないかと感じられる程。
彼女の身体が先ほどより少し小さく、表情もどこか幼くなったように見えるのは部屋の光加減によるものだろう。
ついでに太もものムッチリ具合は……合格点だ。
青年が密かにそのようなことを思っていた時、
「うむ。ただな……」
頷きつつも、どこか言葉に濁りを残して、メギストスは細い顎に手をあてた。
「ただ?」
日和又は気になってその続きを尋ねる。
「おまえ、願いのスケールが小さすぎる。せっかく叶えてやったのに、これじゃ、あまりにもわらわに充実感がない」
彼女は頬を少し膨らませて拗ねた口調で言い放つ。
「あ……。で、でも、最初はこれくらいの方がいいかなと思いまして。大家さんが来たら面倒ですし」
これを聞いて、ぴくりと動く猫耳。
「ふむ……。まぁ、願いは、あと二つ。どうせなら、もっとスケール大きいやつにしたらどうだ。例えば世界平和とか。それくらいの願いじゃないとロマンというものがないだろ。日和又……。バカヤロ」
やはり、叶える側からしても、先ほどの願いはあまりに華やかさに欠けたらしい。ちなみに最後の〝バカヤロ〟のセリフ。『ヤロー』とあえて伸ばさずに『ヤロ』で止めたのは、故意の産物とも、舌足らずな萌え要素ともとれる。
「あ、はい」
「これはアドバイスだからな。別に強いてるわけじゃないからな」
「あ、はい。わかってます」
「スケールの大きな願いなんて、それこそいっぱいあるだろ……。例えば、……世界平和とか。あとは、……世界平和とかな」
「はい」
「とりあえず、世界平和は――――」
その後、何故か平和の重要性について熱く語りはじめたメギストス。
これに対し、若き召喚師は表向きはこくこくと相槌を打っておく。
さて、聞く限りでは、大精霊である彼女は筋金入の平和主義者で、かつてPKO(国際連合平和維持活動)に参加していた………………などという訳ではなく、単にいまのところ世界平和という単語しか頭に浮かんでいないだけらしい。少し突っ込みを入れたくなったものの、相手が大精霊であるということや自分が願いを叶えてもらう立場であるということを考慮して、日和又は黙認した。
だが心中、彼が望むのは、世界平和などではない。ついでに平和の象徴である鳩が怖くて触れない。
「よし、それじゃあ。次の願いを言え、大召喚師!」
やがてメギストスの放つ声に無言の圧力をひしひしと感じつつも、若き暇人は次なる野心を大精霊へと告げる。
「じゃ、じゃあ」
「うむ」
「とりあえず、願いをもう三つほど増やしてください」
「……!」
日和又はそれを言い終えると同時に、いままでの良好な雰囲気がガラガラと音を立てて崩壊していくのを感じた。
この願いにメギストスは目を閉じて深く嘆息すると、ゆっくりと首を横に振る。
これだけで彼女が抱く不快感が充分に伝わってくるというものだ。
そして、
「あー。その願いは、『天法』の第十五条に引っかかっているから叶えられんな。……それどころかルール違反として逆に願いをひとつ没収させてもらってる」
メギストスは冷めた口調で日和又の願いをあっさり却下。さらには無慈悲にも最後の一つを残して願いを没収することを宣言した。
彼の悪知恵は完全に裏目に出たらしい……。
「え、ちょっ」
「なんじゃ?」
「『天法』って何ですか!?」
「天界に住む者が厳守しなければならない法律のようなものじゃ」
「そんなっ! じゃあ、さっきの願いはダメなんですか!?」
「それを繰り返せば、無限に欲望を増やせるからな」
「そういう大事なことは最初に言っておいてくださいよ!」
「……言い忘れた。ごめんにゃさい。……はい。という訳で次の願いを」
「可愛いけど、ちゃんと謝る気ないでしょ!」
「いいから、次の願いを」
「めぎ――――」「貴様にはわらわの悲しみに満ちた謝罪の声が聞こえんかったか!」
「……すみません」
(逆切れかよ)
当初と約束が違う……。
日和又は思わず呻くのだった。
だが、願いを叶えてもらう立場の彼は、とても不満など言えるはずもない。
ガクリとうなだれるその身に注がれるのは明らかな軽蔑の眼差し。
さすがにこういった視線に晒されるのはいたたまれない。
しかし、すこぶる可愛いらしい娘から睨まれていることを考慮すれば、それほど悪い気ばかりというわけでもなかった。
むしろ、交感神経からアドレナリンが分泌されていた。
もっときつく睨んでください、密かにそう懇願したいくらいであった。
だが、その危ない衝動をなんとか抑えた日和又は、気を改めて最後の願いを……と、その時。
プルルルルル。
ジーンズのポケットに入れられていたスマホが鳴る。
「あ、はい。日和又です」
ワンコール目で電話に出た日和又。
機敏性は大事である。
すると、電話の向こう。
『昇。さっき、キミのアパートの近くを暗視スコープ付きの小型偵察機で観察してたら、キミの部屋全体が煌いてるように見えたんだけど……。あれ、何なのっ!?』
どこか意思の強さを感じさせる、澄んだ声がした。
「……!」
それを聞いた途端、日和又の額をツーッと冷たい汗が流れ落ちる。
というか瞳孔が開きかけている。
「……な、なんでもない。大丈夫だから」
青年は微かに震える声で電話の相手に返事をする。
だが、電話口からのさらなる声の前、それは無残にかき消された。
『何、その震えた声っ! そんなに震えてて大丈夫なわけない! 怪しいよっ。いまから、キミの部屋行っていい!?』
電話相手の言葉は有無を言わせないほどの強引さに満ちている。
「いや、ちょっと、困るわ」
『え、何だって、コマンダーがキミの部屋で自動小銃を乱射している!? 本当か!?』
「いや、そんなことは言っていない」
『居合い切りで立ち向かっているが、敵の数が多くてどうしようもない。もうだめだ。援護に来てくれだと!?』
「おい、ふざけるな!」
『なるほど。オイルを身体に塗った上半身裸の男たちが敵なんだね。分かったよ』
聞き間違いも、ここまでくるといいところである。
どうやら、電話相手はどうしてもこの部屋に来たいらしい。
「おい、おま」
『何故、もっと早く連絡をよこさなかったのさ。馬鹿っ! 分かった。事態が事態だからね。すぐに行くよっ。フル装備のわたしが駆けつけるまで絶対にその場を離れないでよっ。生きて会おうぜベイビー』
いや、馬鹿はおまえだ、ちょっ、おま、ちょ、どんだけ、頭の中でそんな言葉にならない言葉を吐き出しながらも日和又は、
「ちょっ、待てっ!」
これから起こりうる事態を察知して、すぐさま相手に呼びかける。
ツー。ツー。
しかし、必死の呼びかけむなしく、相手は一方的に電話を切った。
日和又は思わず、頭を抱える。
「む……。誰じゃ?」
この様子を不審に思って尋ねるメギストス。
すると日和又は虚ろな表情で答える。
「……狂った幼馴染な同級生です」
「ふむ」
「……いまから来るそうです」
「ほぉ」
「……やばいです」
「何故?」
「……このままではきっと修羅場になるから」
そう言うや否や、彼は素早く立ち上がる。
そして、部屋に設えられたクローゼットを開けると、そこから何かを取り出す。
「仕方ない」
日和又が取り出したもの。
それは……。