第一楽章「ピエロ」
バチリ、音をたてて照明が点灯し、真っ暗だった世界が明転する。眩しさが薄らいできたところで、成実はそこがサーカス小屋だと理解した。客席は満員。隣に来也が座っている他には、黒いものたちで埋め尽くされていた。それは人の形をしていたが姿は見えず、ただ顔の中心にある眼だけがくっきりと浮かび上がっている。彼らの視線の先、舞台上では今まさにショーが始まろうとしていた。
「何これ。何が起こってるの」
「あなたのご友人がミドリガメになったのと同じことです」
「亀になるわけないんじゃなかったんですか」
「あなたがそう思い込んで、僕もそう思い込んでいる。それなら真実も同然です」
「でも、信じてないんじゃ」
「私が無意識のうちにそう思い込んでいない証拠はありません。僕らが彼女をミドリガメと思い込んでいるのか、あるいはあなたがミドリガメを彼女と思い込んでいるのかはわかりませんが、僕にできるのは心にかかった呪いを解くことだけです」
成実は納得しかけたが、ここがどこかは分からずじまいだと気付く。
「それで、ここは一体」
「これも僕らの見ている幻ですよ。それも外からの影響、誰かの幻が僕らに見せているのでしょう」
「じゃあ、あなたも私の見ている幻なんですか。なら、どうして自分が幻だと自覚できるんですか」
「いえ、僕もあなたも本物です。同じ幻を見ているんですよ、僕とあなたと、それから誰かが」
彼女の思考が、更なる混乱に陥る。
「そんなことってあるんですか」
「えぇ。特に思春期の揺らぎは、しばしば現実を食らってしまう」
「どうしたら、戻れるんですか」
「呪いを解くには、外から刺激を与えるのが一番です。この夢を見ている誰かが、夢から離れられるように仕向ければ」
「何それ、大丈夫なの」
成実は懐から取り出したカッターを、カチカチと鳴らしていた。
「きっと何とかしますから、その物騒なものをしまってください」
「すみません、つい癖で」
慌ててしまい込む。
ショーが始まった。綱渡りに空中ブランコに、会場は大盛り上がり。次の芸には大掛かりな準備が必要らしく、ピエロが現れた。しかし大玉に乗る足も、お手玉を繰る手もどこか覚束ない。やがてバランスを崩し転んでしまった。客席からはブーイングの嵐。
「見てられない」
来也は一言そう呟き、舞台上に躍り出た。どこからかトランプを取り出し、バラバラと点を切りピエロに差し出す。
「お好きなカードを一枚引いてください」
ピエロが引いたのはハートのエースだった。
「私に見えないよう、会場全体によく見せてください。不正のないように」
カードを裏向きのまま山に戻し、てきぱきとシャッフルする。そして彼は山の一枚目をめくる。それはハートのエース。客席全体に見せつける。
「このトランプに仕掛けがあるんじゃないかって。全部ハートのエースなんじゃないかって」
そう言ってトランプの束を放り投げる。宙を舞う。それは柄も数字もばらばらの、何の変哲もないトランプだった。
「ほら、この通り。種も仕掛けもありません」
黒いものたちが立ち上がる。万雷の拍手の中、天井を突き破ってそれは現れた。亀を狙っていたあの男だ。彼はその拳で、黒いものたちを殲滅した。バタバタと倒れてゆき、後には何も残らない。成実が来也の方に駆け寄る。
「逃げないと、早く」
照明が消え、サーカス小屋は闇に還った。前も後ろもわからずに、彼は彼女の手を引き走る。走って、走って、ようやく振り切ったようだった。立ち止まり、呼吸を整え、彼女は問う。
「そういえば、手品できるんですね」
「昔からカードを切ったりすり替えたり、騙すのだけは得意なんですよ」
苦笑が漏れた。