前奏曲「ミドリガメ」
前奏曲
一人の少女が、暗い裏通りを駆ける。年の頃は十六くらいだろうか、夏だというのに長袖を着ている。すでに日は高かったが、密集したビル群に阻まれ薄暗く湿った空気が流れていた。その中の一軒、「呪い解きます」と看板の出された建物に彼女は駆け込む。階段を上がり、扉を開けた先は黒い部屋だった。書物や器具に圧迫されひどく狭い部屋を、蝋燭の光が照らしている。そしてその中心には、一人の男が座っていた。闇に同化するように黒いスーツを身にまとい、綺麗に中心で分けた髪を手鏡片手に直している。ひとしきり髪を整え終えた彼が口を開く。
「用件は、言わなくともわかります」
面食らう彼女と対照的に、彼は平然と続ける。
「呪われたのはあなたではない、あなたに近しい人。あるいは、愛しい人と言い換えてもいいかもしれない。行きましょう、その人物がいるのはそう遠い所ではないはず」
「なぜ、わかるんですか」
「職業柄といえばいいんでしょうか、読めるんですよ昔から。そういえば、まだ名乗っていませんでしたね。僕は、加賀美 来也というものです。加えて賀し美しい、来るなりと書きます」
「私は成実。鶴木 成実です」
暗い部屋を出て、二人は街を歩く。
「そうですね、依頼について詳しく聞かせてください」
「聞かなくてもわかるんじゃなかったんですか」
「そんなわけないじゃないですか。エスパーじゃあるまいし」
「騙したんですか」
詰め寄る彼女をいなし、彼は笑って言った。
「やだなぁ、ちょっとしたパフォーマンスですよ。あなたが呪われているなら、もっと疲れているはず。息を切らして走ってきたあなたは、赤の他人のためとは思えない。ここにはバスも電車も通っていない、これから遠くに行くなら徒歩とで来るとは考え難かったので」
「すごいですね。名探偵みたい」
「実際は真逆ですがね。僕は、真実を解き明かすつもりはありません。大事なのは誰が救えるか。仕事の話をしましょうか」
来也は懐から、手帳と万年筆を取り出した。
「私には、幼馴染がいました」
記録を読み上げるように、成実は淡々と語る。
「いました、ということは今は」
「はい。彼女は呪いにかかって、今ではミドリガメになってしまいました」
「ミドリガメ、ですか」
メモの手を止め、困惑した様子で聞き返す。
「昔から家が近くて仲良しで、でも高校が別になってなんとなく疎遠になっていきました。彼女はいつからか自室に閉じこもるようになってたみたいで、ミドリガメになってしまいました」
「よくわかりませんが、仕方ないでしょう。実際に見てみないことには何とも言えません」
「そうですね、丁度よく着きましたし」
成実がインターホンを鳴らす。「何とかしてくれる人が来る」という話は通っていた。二階に上がり、「澄香の部屋」とプレートのかけられた扉を開く。抵抗どころか、人の気配すらない。その中にはただ一匹、手足を引っ込めたミドリガメがいるだけ。重苦しくこもった空気を入れ替えるため、彼は窓を開いて息を整えてから言った。
「ミドリガメじゃないですか」
「だから、ミドリガメって言ってるじゃないですか」
「人間じゃなかったんですか」
「人間でした。でも今はミドリガメなんです」
少し呆れた様子で彼は返答する。
「もしかすると、呪われているのはあなたの方かもしれない」
「どうして、ですか」
「人間がミドリガメになるはずがないからです」
「でも、これは呪いで」
「呪いなんてありません。あるのは呪ったと思っている人と、呪われたと思っている人だけです」
「今のこの状況は、思い込みなんですか。なら、あの子はどこに行ったの」
「例えばその幼馴染が死んでいて、あなたがそれを受け入れられなかったとしたら」
「そんな、そんなのって」
言葉を失う成実を、来也が宥める。
「あくまで可能性の一つですよ」
と、扉が開く。そこには一人の男がいた。カジュアルな服装をしているが、凄みを隠しきれてはいない。ドスの効いた声で言い放つ。
「その亀を渡せ」
奪い去ろうとする左腕に、成実がしがみつく。
「澄香を、どうする気なの。どうなっちゃうの」
「治療だよ。元の状態に戻すために」
「戻ってくるの」
「ああ、然るべき時が来ればな」
成実の心に迷いが生まれる。その隙を突いて、侵入者は彼女を振りほどいた。しかし、伸ばした手の先には何もない。呆然とそれを見ていた彼女の手を引いたのは来也だった。そして彼の手の中には、ミドリガメが握られている。
「僕が何より嫌いなのは、一度受けた仕事を遂行できないことだ」
男が半ば呆れたように問う。
「一丁前に仕事人気取りか。わかっているんだろうな、自分が何をしようとしているか」
「わかってるさ。お前なんかの助けなんて、要らないって言ってんだよ」
二人は窓から逃げ出す。男はすぐに部屋を出て階段を降り、玄関から出て彼らを探したが見つかることはなかった。屋根の上で、彼女は申し訳なさそうに言う。
「すみません、私のせいで」
「僕がしたいと思ったからした、それだけです」
成実が足を滑らせる。来也が手を伸ばすが空を切り、二人は落ちていく。塀の内側、深い闇の中に落ちていく。地平はいつまでも現れず、限りなく落ちてゆく。いつの間にか彼女は彼を見失い、上も下もない闇の中にいた。不思議と自分の姿だけは薄く浮かび上がって見える。手にはカッターが握られていた。手首の傷から声が漏れ出す。
「お前は、無知だ」
「お前は、無力だ」
「お前は、無価値だ」
何重もの傷が口々に言う。成実は沈んだまま、何を言い返すこともない。背後で扉が開き一条の光が差す。
「成実は無価値なんかじゃない」
「そんなわけないじゃん」
扉が閉まる。再び世界が黒一色になり、闇の中で静かに泣いた。