新しき風の向かう先
「――あの子が……イルルレーアがいない! くそっ、どうしてもっと早くに気が付かなかったんだ!?」
「……落ち着いて、イオレウス。外にいたあなたが気が付かなかったのなら、ほかの理由が考えられるわ。ともかく村の皆を集めましょう――」
外から大人たちの話声が漏れ伝わってくる。風や大気を司る化身である風守りの末裔は他の何物よりも優れた音感を備えている。それは自分の望む声や音を正確に聞き取ることを可能にしていた。
――皆、イルルがいなくなったのを心配しているんだ。私はお母さんのお墓に行っていたから気が付かなかったけど……。
外にいた父やほかの村人に声をかけて村外れにある母親のお墓に花を供えていたのはほんのわずかな間のことだ。妹のイルルレーアはいつも一人でじっと窓辺から外を見ている静かな子供だった。
だから少しの間だけ外に行くと伝えて戻ってきたらあの子の姿はもうどこにもなかった。ただ気がかりなのは、母のお墓にいた時に強い風の遠鳴りを耳にしたことだ。もしあれがイルルをさらった音だとしたら、あの子は今どこにいるのだろうか?
――お願い、お母さん。イルルが今どこにいるのか、私に教えて……!
神の祈る気持ちで亡くなった母シレルレオネに心の中で必死に呼びかける。その時、ふいに風の音が遠くなりその中に一つの澄んだ音が響いているのに気が付いた。
「そこだね、イルルがいるのはそこなんだね? お母さん……」
顔を上げた彼女は外に向かい走りだす、幼い妹が今どんなところにいるのかはわからない。けれど、自分があの子を守るだと心に誓ったのだ。
強い風に守られたもう一つの歌声が険しい峡谷に響き渡っていた――。
… … …
鍛冶師の村の工房は外界とこの盆地を繋ぐ険しい渓谷沿いに沿って続く街道のへの入り口にある。もともとその場所に開けた空き地が広がっていたことに目を付けた商人組合の重鎮がこの村で作られる品物の集積地と村の鍛冶師たちが集まる工房を併設したのが始まりであった。
以来、工房はある意味この村の中心的な役割を担うようになって久しい。売店や食堂も営業しており、外からこの村にやってくる旅人にもそれらは解放されていた。
普段ならば、工房で働く鍛冶師や商人組合の職員たちで込み合う食堂も収穫祭終盤となった今では閑散としている。
村の主だった者たちは姫長メイシャンやリュウレイの義母リュウメイ達とともに工房の真向かいにこの間建設されたばかりの迎賓館、収穫祭に訪れる貴族たちを迎えるための豪奢な建物の中で最後の宴会に臨んでいるためだ。
当然、その宴会を裏で仕切り盛り立てているのはこの村の女衆、それもその中心で取り仕切っているのはリュウレイの一つ年上の姉、リュウシュンであった。ぶっきらぼうな妹とは正反対の、人当たりのいい世話好きな彼女は村の人々からも厚い信頼を寄せられていた。
特に義理の姉である姫長メイシャンは彼女のことを頼りにしており、リュウ家の家計はもとより手間のかかる二人の義妹リュウレイとリュウフォンのお目付け役まで任せていた。
そんなリュウシュンから、食堂にある残り物の食材を全部使っていいと許可を得たリュウレイは手伝いのカンショウと配膳役の相棒リュウフォンを従えて、昼食調理に取り掛かっていた。
以前から食にうるさい姫巫女メイシャンの華麗なる食卓を支えていたと自負するリュウレイの料理の腕前は村人の間でも評判で、よく義姉のリュウシュンが忙しい時はその代役を自ら引き受けたりもする。
それは結婚して家族を持つ姉への彼女なりの気遣いだったりするのだが、口の悪さも災いしてか姉妹が心を通わせるのには障害の方が多いような気もする。
「よ――し、一皿上がったぞ! こっちは子供たちの方へ持ってってくれ」
「は――い、了解!」
リュウレイから受け取ったお皿を片手にリュウフォンが食堂の中を軽やかに飛んでゆく。途中、一口つまみ食いして味を確かめたリュウフォンは「うん、おいしい!」と一言呟いてから、リュウサンやリュウオウ達が囲む食卓の上に料理を置いた。
「はい、お待ち遠さま! どんどん持ってくるから張り切って食べてね!!」
「わかったのじゃ――!」
「ご飯――!」
「お腹空いた――!」
子供たちは元気な声を張り上げて大皿に盛りつけられた料理を片っ端から平らげ始めた。その勢いはいつも以上といっても過言ではあるまい。
それを見たリュウフォンは冷や汗を流しつつ、笑顔でその場を後にする。厨房に戻れば勢いづいたリュウレイがまだなれないカンショウを叱咤しつつ、次々と鉄鍋を振るい料理を仕上げていく。
「カンショウ、グズグズしてるなよ! 少しでも遅れたら客が怒り出すぞ! みんな短気だからな!!」
「はい、わかりましたっ! フォン姐さんこれもお願いします!!」
「はい、わかったよ! カンショウも頑張ってね――……」
受け取り台の前に並んだ皿を前にリュウフォンは持ちきれない皿を風の力で浮揚させて零れ落ちないように気を付けながら、慎重に移動していく。
その後ろ姿を見送るリュウレイは自分たちの賄い飯を何にしようかなと考えるのだった。
… … …
「ほら、イルル。こっちのご飯はどうかな?」
イルルレーアを胸に抱いたカロルレギオが運ばれてきたばかりの料理をその口元に運ぶ。それをおいしく頬張る幼子の姿にナルタセオは顔を綻ばせていた。
「ふふ、メイシャンの料理だけじゃなくてリュウレイの方も気に入ったみたいだな。よかったな、イルル」
「うん」
隣の食卓では子供たちの楽しい会話ではなく、ひたすら食事に勤しむ姿がある。普段はそれほど食べないシラルトリオやラグセリオもこの時ばかりはリュウ家の兄妹に負けじとその食欲を発揮していた。
「ハハ、子供は元気だな。こうしてみているだけで心が和む」
「そうだね、子供が笑っているこの村は平和だよ」
幼いころからの親友同士、ナルタセオとカロルレギオはそう言って互いに頷き合った。先の戦争が終わった後二人は戦の無い時代を作るためにお互いが尽力することを誓い合っていた。
幼いわが子を風の村に残して日々、各地を行き来するナルタセオの心の底にはそうした決意があった。それは愛馬とともに各地を旅するカロルレギオとて変わることはない。
もうしばらくこの地に滞在したのちにはまた西方へと旅立つつもりであった。
それまでの間は可能な限り仲間たちやその子供たちと過ごすつもりでいる。それが今のカロルレギオにとっては大いなる活力となるからだ。
――……なんだかおいしそうな匂い。
カロルレギオの腕の中でイルルレーアが厨房の方から漂ってくるにおいを嗅ぎ取ってそちらの方を見つめていた。事実、そちらの方ではリュウレイたちが少し遅めの賄を楽しんでいる最中であった。
「向こうが気になるの?」
いつの間にか隣に来ていたリュウ家の長男、リュウオウがイルルに話しかける。それを見たカロルレギオが驚いた様子で問いかけた。
「リュウオウはもう食べ終わったの? さすがに早いね」
「うん、リュウレイたちがおいしいのを食べてないかなって思ったからこれから厨房に行くところだよ」
「そ、そうなんだ、リュウレイたちも大変だね……」
向こうの食卓に積み上げられた皿の山を見たカロルレギオはため息をついた。腕の中のイルルはリュウオウの方を静かに見つめている。
「イルルも一緒に行く?」
リュウオウの問いかけにうんと頷いたイルルレーアを見たカロルレギオは観念したように両腕を開いた。すると浮かび上がったイルルはにおいに惹かれるようにして厨房の方へと飛び去っていく。
「あの年で風を我がものとするか、あの子の力はエルに次ぐものかもしれないな」
イルルの後を追いかけるリュウオウの後姿を見送ったナルタセオは目を細めた。
… … …
「ん――、これおいしい――」
一つまみ料理を口に放りこんだリュウフォンがのんきに感想を述べている。厨房の中では一休みがてらに、リュウレイの作った賄料理を手伝いのカンショウを含めた三人で楽しんでいる最中。
リュウレイたちの中では一番小食のカンショウだが、最近は体を使うことも増えた影響もあり徐々に食事量も増加している。今も小皿に分けられた料理を次々と口に運んでいた。
「でも、少し味付けが濃くないですか、これ? ちび姫様たちに出していた方はもう少し薄味だったと思いますけど」
料理中少しでも姉貴分の味付けを覚えようと味見を繰り返していたカンショウが調理役のリュウレイに尋ねた。すでに自分の分を食べ終えていたリュウレイはカンショウの質問に今更かと呆れた様子だった。
「簡単に言えば向こうはいつもの食堂の味付け。リュウシュンの出している料理に合わせてみたんだよ。だからこっちは私本来の濃い味付けなんだ、それでもいつもよりは薄くしてみたんだけどな」
料理は風味が命、その風味を損なわない匙加減が難しいのだがそれを今のカンショウに説明するは無理だろう。
「リュウレイ姐さんの料理はいかにも鍛冶師って感じですからねぇ……体を動かした後は確かにあれくらいがちょうどいいのかもしれませんけど」
「今だって結構動いていたし、ちょうどいいんじゃないの? 私はどっちも好きだけどね」
「フォンは宙を飛んでただけだろ? それどころか、いつも浮かんでばかりで体なんて動かしてないんじゃないか?」
腕組みをしたリュウレイが運動不足の相棒を茶化すように笑う。それを見たリュウフォンは怒った様子で否定した。
「そんなことないよ、常に宙に浮かぶのだって風の精を制御しているってことだし、見かけ以上に力を消費しているんだからね! だから私はたくさんご飯を食べないといけないの、分かった!?」
「……風の民でもない私たちにそんなことわかるわけなんだろ、論外だ論外」
話にならないとばかりに腕を振るリュウレイにリュウフォンはますます怒りを募らせていく。二人にしてみればいつものことなのだがそんな姉貴分たちの間に挟まれたカンショウはたまったものではない。
どうにかして、二人を仲直りさせようと慌てふためているところにまたしても見慣れない物体が前を横切っていった。それは緑色の髪と瞳の幼子であった。
「また、イルルちゃん……?」
朝方、風に乗ってこの村にたどり着いたイルルレーアを見つけたカンショウは厨房に現れたイルルを興味深そうに眺めていた。
にらみ合うリュウフォン達をよそに調理台に置かれた料理を見つけたイルルはそれらを食べたそうに凝視していた。おそらく初めて見る料理の山に幼いその好奇心を大いに刺激されたのかもしれない。
「えーと……よかったらこっちも食べてみる?」
遠慮がちに声をかけたカンショウの方を見たイルルは小さな瞳を輝かせてうんと頷いていた。正直言って可愛い、かわいいのだがどこか鬼気迫る迫力を見せるイルルの姿に食事命な姫長一族を重ね合わせたカンショウは苦笑いを浮かべていた。
「じゃあ、私が食べさせてあげるね。はい、あ――ん」
「あ――ん」
もぐもぐと味わうように口を動かすあどけない表情のイルルを胸に抱いたカンショウは軽い感動を覚えていた。
――いつか私もお母さんになったら、こんなふうに子供の面倒を見ることになるのかな?
笑顔のカンショウがイルルの相手をしているその横でちゃっかりリュウオウが賄料理に手を伸ばしている。
「兄上がいないのじゃ――!」
「多分、厨房の方だよ。きっと!」
リュウレイたちが気が付いた時には残りの料理はすべて後から来た子供たちによって食べつくさていた。空の皿を片付けながら、リュウフォンが思わず嘆息する。
「私たちの分無くなってたね……」
「仕方ない、焼き菓子でも作ってそっちを食べるか……」
いつも姉のリュウシュンが売店で売りに出しているお菓子の材料を戸棚から取り出したリュウレイが深いため息をついた。この分では、いくら焼いてもきりがなさそうだ。
お腹がいっぱいになったリュウオウ達はカンショウが入れた食後のお茶を楽しんでいる。
結局、いつも通りの展開に二人が肩を落としたのは言うまでもない――。
… … …
「そろそろ母上たちを迎えに行くのじゃ――!」
そんなリュウサンの声を合図にリュウレイたちを含めた全員で迎賓館へと向かう。あの後焼き菓子を鉄板で焼き始めたにおいに誘われて、再び厨房へと集結した子供たちにせかされて半分以上を焼き上げた端から食い尽くされ、自棄になったリュウレイは自分たちでは食べきれない分量を作り上げてしまうことになった。
「後で材料費を請求されるな、これは……」
すっかり空になった厨房の保管庫を見たリュウレイは静かなる怒りに震える姉の姿を思い浮かべて、げんなりとした表情だった。齢十七歳にして既に金貨百枚の借金を押し付けられた身分である。
今更怖いものは無いが、それでも並の借金取りより執拗な姉リュウシュンの性格を知るだけに正直後が怖い。
「気にしたってしょうがないよ、残りの焼き菓子は皆のところに持っていけば食べるだろうから、それでうやむやにしちゃえば?」
「そうできれば、誰も困らないんだけどな……」
一抱えもある包みを持ったリュウレイにイルルを胸に抱いたリュウフォンが笑いかける。先を行くリュウサンやナルタセオ達は和やかに話し合っていた。
そんな時、村の上空を強い一陣の風が吹き抜けた。それと同時に鳴り響いた歌声を思わせる旋律に誰もが空を見上げる。
「今度は何だ?」
リュウレイのつぶやき、その横で旋律の主を見つけたイルルレーアが小さな声ではっきりと囁いた。
「お姉ちゃん……」
空に浮かぶ小さな人影、リュウサンたちとさほど変わらない年頃の彼女はイルルによく似た目鼻立ちをしている。その姿に見覚えのあったリュウフォンはその名を呼ぶ。
「あなたはシグル、イルルの姉のシグルラウネだね」
「イルル、迎えに来たよ」
リュウフォンの呼びかけに答えることなく、妹の名を呼ぶシグル。それと同時に強い風がリュウフォンの周囲に渦巻きその腕の中からイルルレーアを強引に奪い取ってしまった。
「っ……、イルル!」
叫び声を上げるリュウフォンを制したのはリュウレイ、彼女は相棒の前に立ちふさがると妹を抱き抱き締めたシグルラウネを見上げていた。
「心配しなくても、邪魔するつもりはないよ。ちょうどいいから、これも持ってけ。私が焼いたお菓子だ、村のみんなによろしく伝えてくれ」
「……わかった」
シグルラウネはリュウレイの掲げた焼き菓子を風の力で受け取ると、静かなる旋律を奏でて消え去ってゆく。その時、視線をこちらに向けたイルルは名残惜しそうにしていた。
「行っちゃいましたね、あの子たち」
「来るときもいきなりなら、帰るときもいきなりだったな。まあ、こういうこともあるってことだろう。そのうちまた来たりしてな」
感慨深げに空を見上げるカンショウの肩を叩いたリュウレイがふっと笑みを漏らす。その視線はイルルと突然別れることになった相棒へと向けられていた。
「また、こっちの方から会いに行けばいいさ。その時は手土産でももってな」
「それも、そうだね……。また会えるといいな」
リュウレイに励まされたリュウフォンはどこか寂し気な笑みを浮かべていた――。
… … …
それから数日後、東の峰の頂にリュウフォンの姿があった。相棒のリュウレイは村の周囲にそびえる八つの峰の頂を走破する八峰巡りという無茶な鍛錬に出かけている。
眺めのいい岩場に腰かけたリュウフォンの横で力尽きた妹分のカンショウが横たわって空を見上げていた。
「ああ、空が青い。私はどうしてこう無力なんだろう……」
今朝も頂に通じる岩場でリュウフォンに回収された彼女は自分の不甲斐なさを嘆いている様子だった。それでも、少し前に比べれば大した進歩ではあるのだが。
「カンショウはよく頑張っているよ。リュウレイは特別、皆に鍛えられているから地道に頑張ってね」
「すべては一日にしてならず、ですね。私も負けないように頑張ります……」
いまだに起き上がれないカンショウ、そんな二人のいる岩場に聞きなれた足音が近づいてくる。
「今日もこれで終わりだ――!!」
飛び上がるような勢いで、リュウフォン達の近くに着地したリュウレイは全身汗だく。今にも倒れそうなほど激しい呼吸を整えながら、拳を握りしめている。
「本当にどうやったら、ここまでたどり着けるんですかね……」
「とにかく自分を信じて鍛えること、それだけだ!!」
ようやく体を起こしたカンショウにリュウレイが断言する。そんな彼女を笑うリュウフォン、その時その視界に見慣れないものが映った。
「あれ、リュウレイ姐さん。その背中に背負っているものはひょっとして……」
「お前何言ってるんだ?」
困惑するリュウレイの背中にいたもの、それは――。
今日もまた新たな風が吹く、それは見果てぬ未来へとつながるものであった。