百嵐の歌姫
「……というわけで、ついさっきこの子を見つけてうちまで連れてきたんだけど。どうしたらいいのかな?」
住み慣れたリュウ家の母屋、朝食を前に皆がそろった居間の中で胸に小さな緑髪緑眼の女の子イルルを抱いたリュウフォンが問いかけていた。
彼女の目の前にはこの家に滞在する三人の女性と二人の子供たち、それに厨房で忙しく腕を振るうリュウ家の女主たちがいた。
「そうだな、父親のイオレウスと姉のシグルラウネも心配しているはずだ。私たちがこの村に滞在するのも明日の朝までだし、その子の面倒くらいなら何とかしよう。同じ一族の子だ、二人もそれで構わないな?」
風の村の長を務める褐色の肌の女性、ナルタセオが呼び掛けると傍の長椅子に腰かけていた女性の一人、ラセルエリオが笑いながらうなずいた。
「私はいいよ――、それにしてもこんなに小さいのにエルカオネ恋しさに一人で跳んでくるなんて大したもんだね。うちの子たちとは大違い」
「あ――、お母さんいま私たちの方見て笑った――! ロクに風舞の練習に付き合ってくれないくせに!!」
「僕たちだって、一生懸命に練習しているんだからね――!!」
そう言って怒ったのはラセルエリオの娘シラルトリオとナルタセオの息子ラグセリオ。
二人は村にいる間中、エルカオネことリュウフォンやナルタセオと一緒に時間が許す限りの間で風乗りの練習に付き合ってもらっていた。
それは普段、大陸各地を行脚する行商人のナルタセオが一緒の過ごす時間を持てずにいる息子やその腹違いの妹に対するせめてもの慰めであった。
一方で、普段ラグセリオたちの世話をしているラセルエリオはお酒好きでよく近くの街道沿いの酒場に現れてはツケ払いで飲んだり食べたりを繰り返しているため、要注意人物として知られていた。
ともに酒好きなリュウ家の人々とは馬が合うらしく時折、この村の人々を交えて酒盛りをしているらしい。
そんな彼らの話を横で聞いていたもう一人の女性が、リュウフォンに抱かれたイルルの方に歩み寄る。
「そうか、私は初めて会うけどこの子がシレルレオネの下の娘なんだね。目鼻立ちがあの子にそっくり、小さいころのことを思い出すよ。ねえ、イルル。私はカロルレギオっていうんだよ、よろしくね」
そう言って笑うカロルレギオは長く伸びた髪の毛を後ろで束ねている。何より、彼女の右の頬から肩にかけて大きな傷跡があった。これは以前、大陸を支配した獣使いの軍勢との最後の戦いに参加した時に負った傷でもあった。
風の民、風守りの祭祀一族の中で唯一母なる原初の世界よりこの地へと侵攻した強大な獣使いの戦士団ラグナザレフの軍団と戦ったカロルレギオは百嵐の歌姫の名を冠する力の持ち主であった。
遥か偉大なる祖先に近い力をその身に宿した彼女は自らの命を削りながら荒ぶる原初の風を呼び覚まし操る力を持っている。その力を使い、始まりの地にて一族を滅ぼした獣使いとの戦いに最後まで勝ち抜いた彼女はその後、譲られた白馬とともに大陸を旅していた。
こうして一族のものと再会したのはほぼ数年ぶりのことであった。
幼いイルルは初めて見るカロルレギオをじっと見つめていたが、やさしい眼差しで自分を見る彼女に甘えるように手を差し出した。
「ふふ、素直でかわいい子だね。こっちにおいで」
リュウフォンからイルルを受け取ったカロルレギオはその頭をやさしく撫でていた。イルルは最初くすぐったそうにしていたが、すぐに慣れた様子で和らいだ表情を見せた。
「イルルも嬉しそう、ねえお腹空いてない?」
そろそろ朝食の準備が整いつつある食卓の方を見て、リュウフォンが問いかけたのとほぼ同時にぐうとイルルのお腹が鳴った。
「ふふ、リュウ家の朝ご飯はとってもおいしいけど、早くしないとなくなっちゃうからみんなと一緒に食べようね」
「うん、わかった。お母さん」
イルルはリュウフォンの方を見てそう答えた。それを聞いたシラルたちやナルタセオ達はともに顔を見合わせていた。
「う――ん、やっぱりこの子はエルのことをお母さんと思い込んでいるんだな……」
「リュウフォンとシレルって、顔立ちが似てたもんね」
「うん、よく似てる――!」
在りし日のシレルレオネ、イルルの母親のことを思い出し風の民は互いに頷き合っていた。
「お――い、皆悪いけど早く席についてくれ! さもないとうちの子たちが全部食べちゃうぞ!!」
朝食の準備を手伝っていたリュウレイが声を上げて、皆を手招きする。その後ろでは妹分のカンショウも忙しく動き回っている。その様子を見た彼女たちは互いに笑い合うと食卓へと向かうことにした。
「さ――、今日もいっぱい食べなくちゃね!」
楽しそうに声を上げるカロルレギオを先頭に戦場とも呼べるリュウ家の朝食は始まりを告げるのであった。
… … …
「母上のご飯はいつもおいしいのじゃ――!」
「ほれ、リュウサンよ。食事中は静かにせよといつも言っているであろう。早くしないとリュウオウに全部食べられてしまうぞ」
山盛りの料理を前に大いにはしゃいでいるのはリュウ家の長女リュウサンとその母親でこの村の長も兼ねる姫長メイシャン。美しい銀髪の母娘はおいしいご飯を食べるのが何より大好きであった。その横では、黒髪緑眼の男の子リュウオウが運ばれてくる料理を一心不乱に平らげている。
その様子をカロルレギオに抱かれたイルルレーアがじっと眺めている。そこに宙を舞いながら給仕をするリュウフォンがやってきてそっと笑いかけた。
「ふふ、皆おいしそうに食べてるでしょ? 遠慮はいらないからイルルも食べてね!」
うんと頷いたイルルを見たリュウフォンは持ってきた料理を空の皿と入れ替えて忙しく台所の方に飛び去ってゆく。気が付けばナルタセオ達風の民もそれぞれに朝食を楽しんでいた。
「ほら、イルルは私が食べさせてあげるよ。あ――ん」
「あ――ん」
口元に運ばれた料理をイルルがもぐもぐと食べている、その様子を炎神の姫巫女とも呼ばれるこの家の主メイシャンが横目でちらりと見つめていた。
「その子がそなたたちの住まう村から一人でこの盆地までたどり着いたというのは本当かえ?」
「ああ、リュウフォン達から聞いた限りでは間違いなさそうだな。正直、信じられないことではあるが……」
メイシャンの隣に座っていた風の長ナルタセオが小声でそう答える。彼女の息子ラグセリオや同じくラセルエリオの娘シラルトリオなどは今年に入ってようやく風乗りを始めたばかりだ。
それ以前は大人に抱かれたりしてともに空を舞うのが精いっぱいだった。偉大なる神の力に満ち溢れた母なる原初の世界ならともかく、静かで平穏なこの世界には神の恩恵は薄いと言わざるを得ない。
それでもナルタセオ達が変わらず力を行使できるのは、世界に満ちる風の精を集めて従えることができるからだ。いずれ子供たちも成長するに従い、その力を開花させてゆくだろう。
しかし、幼いイルルレーアは違う。生まれながらにして、風の民の偉大なる祖先たる風神の加護を受けている。しかしその風神をはじめとする水神、地神は自らの民とともに炎神に挑み敗れて消え去ったという伝説がある。
イルルレーアの母親シレルレオネはナルタセオの姉の子、姪に当たる人物であった。風守りの祭祀長ラグオリオの孫娘であった彼女は終の歌姫と恐れ称されたほどの力の持ち主。かつて大陸中原に栄えた姫長メイシャンの故国レゾニア王国は彼女の手によって呆気なく滅びたとされている。
以後、十年余りにわたって大陸の混乱は続いている。小さなイルルレーアの体に宿るのはそれほど恐ろしい力であった。
しかし、若くして死んだイルルの母にはその身を蝕む炎神の戒めが宿っていた。炎神の民を苦しめた彼女は二度とその力を振るえないように呪いとも言うべき楔を打ち込まれていたのだ。そして生涯炎神への憎しみを捨てることの無かった彼女はその力によって命を落とすこととなる。
幼いイルルにもその戒めは宿っている、そればかりかこの場にいる風の民全員が同じ戒めを受け入れることでこの世界とともに生きることを選んだ。戒めはやがて加護となり今では彼女たちに大きな恩恵を与えていた。
「おいしい」
料理を食べえたイルルが一言カロルレギオにそう伝えた。そのあどけない表情にカロルレギオは幼いころのシレルレオネの笑顔を思い出し、思わず顔を綻ばせる。炎神の民の虐殺した彼女が長く生きられないことはわかっていた。
それでも二人の娘を残してこの世を去ったことはシレルレオネにとって満足できることであったように思えてならない。たとえ命を失おうとも炎神の意のままにはならない。気高い誇りを抱いたまま終の歌姫はこの世を去っていったのだから――。
――けれど、もう私たちで終わりにしなければならない。この子たちに悲しい運命を背負わせてはならないのだから……。
カロルレギオはそんな思いを胸に小さなイルルの体をそっと抱きしめる。幼い両の瞳が百嵐の歌姫を見つめていた――。