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ヴェロシティ  作者: Jang
Act 1
6/6

5 逃避行

ビル陰の闇で、3人と1人が対峙している。

 こちらに気付いた男と目が合った。いや、この暗闇だから顔が見えているのはおそらくこちらだけであろう。今なら、まだ間に合う。この場から逃げられる。

 「助けてくれ!」

 くぐもった声が辺りに反響した。不精ヒゲを生やした男が声をあげて中年を蹴りあげる。悲鳴が、また一つ。

 「見てたよな」

 金髪がこちらに向かって歩いてくる。冷や汗が体じゅうの毛穴から体温を奪った。やめろ、こっちに来るな。自分は関係ないだろ。 

 「見てたよな、お前!」

 低くドスの効いた声。全身の筋肉が硬直する。男の額に深く刻まれた皺が眼前に迫る。

 「何も、見て、ない」

 回らない呂律でなんとか言葉を絞り出した。仁王の如く見開かれた眼が目を射抜く。それでも、体は動かない。

 「アホか」

 金髪は目線を外さずにその場で振りかぶった。

 あ。そうか。

 今から自分は殴られるのか。

 思考に認識が一瞬遅れて追いついた。反射的に目をつぶり、歯を食いしばった。ついでに全身に力を入れ、顔面に訪れようとしている衝撃に備える。

 しかし、いつまでたっても予測していた痛みはやってこない。恐る恐る目を開けてみると、そこには信じられない光景が広がっていた。

 男の拳が速度を失い、虚空の中をゆっくりと突き進んでいる。いや、違う。目に見える全てのものがまるでスローモーションのようになっている。拳の後方に目をやると、先程中年に蹴りを入れていたヒゲがもう1発蹴りをお見舞いしようと片足を上げた姿勢で止まっている。

 五感、発達、脳、進化ーーー『能力』。

 刹那、単語の連鎖が脳内を駆け抜ける。

 突然顔面を衝撃が襲った。

 急に時間の流れを取り戻した拳が顔面を捉え、一気に振り抜かれたのだ。拳の勢いのままに後方を向いて倒れ込んだ。

 「立てよ、おら」

 またも男の低い声が近付いてくる。

 しかし、体は体内を躍動する血液の熱で満たされている。直感的に理解した、自分が獲得した力がどんなものなのかを。

 沸騰する血が鼻の穴を伝ってアスファルトに落ちる。それを見つめていると、自然と頬が緩み、口角が上がってきた。 拳と脳内麻薬によって右頬に刻まれた痺れさえも心地よく思えた。

 男の促すままにその場でゆっくりと腰を持ち上げ、振り返った。

 ビル陰の闇の中、金髪はなにやら怒鳴って凄みながらあらゆる顔のパーツを不格好に歪めている。中年がビニール袋を被せられ無様に地面に伏している。不潔なヒゲを蓄えた男と薄い顔つきの茶髪が少ない語彙で傍らの中年をなじっている。

 たった10秒ほどの間に、世界がまるで色を変えた。

再び金髪と目を合わせる。

 「ぷ」

 しわくちゃ顔。

 「てめぇ!」

 金髪が振りかぶる。後方に大きく引き寄せられた拳に意識を集中させる。途端に金髪の動きが勢いを失った。腰の捻りを加えて放たれた拳がこちらの顔面めがけて近付いてくる。それも、蝿のとまりそうな速度でだ。 僅かに身体を反らして悠々と軌道から外れる。次の瞬間、勢いを取り戻した拳が今まで自分が立っていた場所へ向けて思い切り空を切った。

 金髪が間抜けな声を上げて大きく姿勢を崩す。何が起きたのか理解が追い付いていないのか、向き直った金髪の表情には困惑の色が浮かんでいる。後ろの二人はこの不測の事態に全く気付いていないようであった。

 確信していた一瞬先の未来に裏切られた不安から必死に目を反らすように、また金髪が襲いかかってくる。だが、またしても拳は宙へと振り抜かれた。金髪は更なる驚愕の表情を浮かべながらも、攻撃の手を休めることはない。対して自分は拳が飛んでくれば体を屈め、蹴りを出せば後退し、掴みかかってくれば脇をすり抜ける。

 ことごとく攻撃を避わされる金髪の顔面は依然としてしわくちゃであったが、今ではそれが泣き出しそうな赤子でもあるかのようだ。

 苛立ちが限界に達したのか、訳のわからない声をあげながら大振りの一発を繰り出してきた。

 顔面、顎、鳩尾、腹。みっともなく弱点をさらけだして投げ出された五体は、まるで攻撃してくれとでも言っているかの様だ。

 その様を前にして一瞬どうしたものかと迷ったが、右を金髪の左頬へ叩き込む。拳から固い頭蓋の感触が伝わってくる。確かな手応えに漏れだした金髪の声が一瞬遅れて応えた。すかさず、がら空きになったボディにもう一発拳を突き刺す。金髪は腹にめり込んだ腕に視線を落としたのち一瞬こちらを睨んだが、そのままアスファルトに崩れ落ちた。

 体が軽い。今まで体感したこともない程のエネルギーが体の芯から湧き出てくるのを感じる。

  昨日の今ごろは何をしていたのか、思い出すことができない。思い出すこともできないほど退屈で何の変鉄もない日常を過ごしていた。昨日の今ごろは、自分の弱さやクラスメイトへの羨望、将来の不安に押し潰されそうになっていた。それがどうだ。ビル陰の闇、自分より年齢も体躯も上回る人間を軽々と打ち倒している。

 昨日までの自分には想像もつかなかった状況。アクション映画の主人公の如き活躍。夢のような光景。その中心に自分は確かに立っていることを滴る血が教えてくれる。

 顔を上げると、この事態に気付いた残りの二人がこちらを見て騒いでいる。ふと、昨日観た映画のワンシーンを思い出した。

 「俺が相手だ」

 そんな台詞がいつのまにか喉から出ていた。

 戦意を煽られた二人組が雄叫びを上げて真っ直ぐ走ってくる。応えるように前方の敵に向けて駆け出す。互いの距離がおよそ身の丈三つ分まで迫ったところで、思い切り地面を蹴って跳躍する。ヒゲが驚愕し、足を止めた。当然の反応である。なにせ、目の前の人間が突然、目線よりも高く飛んだのだから。そしてその隙を見過ごすつもりはない。空中でビルの壁を蹴って推力を得ると、蹴足をヒゲの側頭部めがけてぶつける。人間一人分の質量の衝突に為す術もなく、ヒゲは背中からその場に倒れた。

 茶髪は思考が状況に追いついていないのか、突如視界から消えた男を探して必死に辺りを見回している。そして彼は後ろ襟を掴まれてようやく男の所在を知ることができた。掴んだ襟を握りしめ、腰を横に捻って茶髪を闇へと放り投げた。地面に全身をしたたかに打ち付けた茶髪は、這いつくばってうずくまることしかできなくなった。

 全員が沈黙したところで先ほどの中年のことを思い出し目をやると、こちらが暴れているうちに少し回復したようでビニールを被ったまま壁にもたれかかっていた。歩みよってビニールを外すと、情けない涙目が姿を現す。中年は何があったのか全く理解出来ていないようで、暗闇に同化している人影を見つめて唖然としていた。

 「早く行けよ」

 そう促すと中年は我に返り、よろよろと立ち上がって光の指している表通りへ歩いていった。

  静まり返ったビルの谷には、3つに増えたうめき声だけが響いている。冷たい大気が熱しきった頬を撫でる。依然として高揚感は身体を包んだままでいる。浮き足立った足でコンクリートの感触を確かめた。確かな硬さが足の裏に伝わってきた。

 ーーー夢じゃない。

 そう思った時には既に体が駆け出していた。

 そう、夢じゃない。映画や漫画のようなフィクションなんかじゃない。

 高鳴る心臓の律動が爆発的なエネルギーを生む。あらん限りの力を込めてビルの壁へと跳び上がった。浮遊感が全身を包み込む。壁に着いた足で重力よりも速く更に上へと跳ぶ。両の手が対岸の水道管を捉えた。すっかり軽くなった身体をぶら下げて管を登っていく。漆黒の天に輝く月を見据えて、ただひたすらに上を目指す。

 そうだ、自分は手に入れたんだ。掛け替えのない、自分だけの物語を。他の誰にも変わることの出来ない、唯一無二の物語を。

 自分は、自分は。

 ーーー俺は。

 屋上を冷たい風が吹き抜ける。ビルの淵から街を見下ろした。夜を背負った体を鮮烈な光の群れが彩った。

 そしてまた、駆けた。何処へ行くでもなく、ただ駆けた。意識は体を抜け出して遥か遠く。街の眩しさを見失わぬようビルのへりをひた走った。躍動する四肢が風を裂き、さらなる速度へと身体をいざなう。

 まるで、この世の全ての不安を振り切ろうとするかのように。

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