4 力
自室のベッドに寝転んで、手にしているスマホの検索エンジンを起動する。そして、思いついたキーワードを片っ端から打ち込む。
『脳 損傷 機能』
『五感 異常』
『死 感知』…
昨晩の出来事はあまりにも理解を超えたものであった。傷が消えたり、五感が異常に鋭くなったり、人間の死を感知したり。そんな状態で安眠など出来るはずもなく、先ほど自宅のマンションに帰ってきた今に至るまで一睡もしていない。
ベッドのすぐ横にある窓からは秋にしては強い日差しが差し込んでいる。もう昼過ぎになるというのに、一向に眠くならない。このことも、今身体に起こっている異変と何か関係があるのだろうか。
幸い、退院手続きに時間がかかったお陰で今日は学校を休むことになったし、明日からは土日を含めた三連休なので考える時間は十二分にある。
少しの間検索を続けていると、気になる病名を見つけた。その病名は「聴覚過敏」。
聴覚過敏とは、健常な人間には気にならない些細な音が不快感をもたらすようになるという病らしい。原因は一つではなく、肉体的問題、精神的問題など、様々のようだ。
その中でも自分の症状と関係がありそうなものを探す。精神的な問題は関係が無い。と思いたいので肉体的な原因の項目まで読み飛ばした。
肉体的な原因は主に3つあるらしい。1つ目は、鼓膜や耳小骨の働きの不全によって、音が緩和されることなく直接耳を突いてくること。2つ目は蝸牛という器官がきちんと機能せず、音量の調節がうまくいかないこと。そして3つ目は、自分にとって必要な音を脳内で取捨選択する処理が正常に行われていないこと。
どれもピンと来ない。
昨晩、自分が鈴虫の声を聞きつけた時のことを思い出す。確か廊下が寒いと思ったことから季節が秋になったことを連想し、秋の虫の声を認識した。どういうことかというと、秋という情報から連想された情報を、脳が取り入れたということだ。そしてその間、虫の音源よりも近い場所にあったナースセンターにいる看護婦たちの声は耳には入っていたのであろうが、認識はしていなかった。つまり、3つ目の「音の取捨選択」はできている。2つ目の「音量調節」については、多少周りの音が大きく感じるようにはなったが、今のところ気にするほどの障害はない。1つ目の「音の緩和」についても同じことだ。
そして、この『聴覚過敏』という病名に意識が行き過ぎてあまり考えていなかったが、そもそも昨晩から音に対して異常は感じていたものの、不快感を感じてはいなかったのである。
ここまで考えて、ようやく一つの考えに辿り着いた。
自分の聴覚は異常に発達していながら、全く問題なく制御下に置かれているのではないか。いや、そもそも身体に不便を感じることすらなかったのだから聴覚を含めた五感全てがそうであるのではないか。
だとすれば。
一瞬よぎった期待の成すがままに、目を閉じて耳を済ました。車の音、鳥の声、足音。自分を中心とした広い範囲で発された音が耳になだれ込んできた。そしてその膨大な情報量を徐々に絞り込んでいく。周囲の部屋、自宅、自室ーーー自分。鼓動の音が響く。そこから意識を一つの方向へ向けて伸ばした。ここは8階だ。聞きたいのは7階の音。かしこまった話し声が聞こえる。明瞭で流暢なその声に意識を集中させる。
『台風は、本州上陸前に温帯低気圧へと変わり…』
期待が、確信へと変わった。目を開き、ベッドから飛び起きた。鼓動が高鳴り、興奮が体の底からこみ上げてくるのがわかる。
間違いない。この力は、利用できる。
改札を出て、人混みに足を踏み入れた。秋分の冷たい大気が肌を撫でる。街は看板や人々で鮮やかに彩られている。空からは鳩や鴉以外の種類の鳥の声がする。とあるレストランからは食欲を掻き立てられる油や肉の香りがする。
1歩ごとにいままで知らなかった景色が次々と浮かび上がってくる。雑踏の中を行く足取りは軽く、すべてのものが明るく鮮明に写った。
凄い。なんという能力だ。これを用てすれば、あらゆる物事を好きなだけ見ることが出来る。前を歩く人の携帯のメッセージ画面、ちょっとしたぼやきや呟きの内容まで。本来他人の知り得ないことが次々と向こうから飛び込んで来てくれる。
胸の内に優越感が湧いてくる。見ているぞ、お前の裏側を。知られざる物語を。誰にも見られないよう、爪先を見つめながらにやりと笑った。
その後しばらく1人で歩いていたが、一向に飽きも疲れもしない。当たり前だ、こんなに楽しい出来事が今まさに自分の身に起こっているのだから。
次第に日が傾いてくると、人々の会話の内容が変わってきているのに気付いた。いや、変わっているのは内容ではなく、話している人々そのものだ。今は金曜日の夕方。仕事を終えた社会人たちが繁華街へと流れているのである。それに気付いたとき、とくに深い考えもなくその流れについていった。酒の入ったサラリーマンの愚痴がどんなものなのか少し興味があったからだ。
日の沈んだ繁華街の地面は窓から漏れた明かりで華やかに照らされている。しかし、気分は少々沈んでいた。先程まであれほど爽やかであった気分が何故こうも濁ってしまったのか。
昼間のうちは学生や若者も多かったので部活や色恋沙汰、ファッションや音楽など話のネタは豊富だったのだが、退社したての社会人のする話といえば社内や家庭の悩みを持ち寄って互いの傷に唾をつけるような話ばかりで、高校生にはいささか重厚すぎて生々しすぎたのだ。最初の方は多少なりとも面白かったのだが、似たような他人事ばかりを聞き続けていればもはや気の毒だなと思うことしかできない。
何か、他に面白い話はないのだろうか。並び立つビルに体重を預け、耳を済ます。客引き、笑い声、ため息、怒号。
怒号?
それが聞こえた方向へ意識を向ける。続けて鈍い音を捉えた。音の響きからして、建物の内部ではない。おそらく路地裏。
喧嘩か何かかと思ったが、それにしては様子がおかしいように見えた。何故なら、静止する声や罵り合いが聞こえてこないからだ。聞こえるのはくぐもった唸り声と笑い声だけ。一体何事だろうか。いや、何となく想像はついているが本当にそんなことがあるのだろうか。この時も深く考えることはなく、単純な怖いもの見たさで音の方向へと歩いていった。
徐々に声が近づいてくる。おそらく、このビルの陰だろう。暗闇に足を踏み入れた。姿勢を低くして暗中で目を凝らすと、その光景は浮かび上がってきた。
ジャージ姿の男が3人。そして、ビニール袋を被せられて地面に伏しているスーツ姿が1人。体型からしてスーツは中年の男性だろうか。突如として金髪の男が中年の腹部に蹴りを入れた。中年は成す術もなくその場にうずくまる。
いわゆる「オヤジ狩り」だろうか。
痴漢と目が合ったあの瞬間。
先日の電車での出来事がフラッシュバックした。全身に緊張が走る。普段の現実はからかけ離れたその光景を現実として実感することは容易くなかったが、繰り返し響く鈍い音とうめき声が浮遊していた意識を徐々に身体へと引き戻していった。
どうする。いや、どうしようもないだろこんな状況。自分はヒーローでも何でもないんだぞ。
一瞬よぎった葛藤はすぐにかなぐり捨てた。だが、このままこの場を立ち去るには覚悟がいる。それはあの中年を見捨てて逃げるということなのだから。
呼吸が早まり、浅くなる。やっとの思いで固まった身体と回る頭の折り合いをつけ、重い腰を持ち上げて背を向けた。しかし、この場から一刻も早く逃げたいという思いが強すぎたのだろうか。
かかとに何かが触れるのを感じる。後ろを振り返ると、空き缶がそこにあった。
今のいままで足元に転がっていた空き缶の存在に全く気付いていなかったのである。しまった、と思った時にはもう遅かった。その場に倒れた空き缶が、薄いアルミの空洞をビルの谷間に響かせる。
その音に気付いた金髪がこちらを向いた。
「誰だよ、お前」