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ヴェロシティ  作者: Jang
Act 1
4/6

3 異変

 「皓」

 名前を呼ばれた気がして目が覚めた。嗅ぎ慣れない枕の香りと乳白色の蛍光灯によって朦朧としていた意識が覚醒する。いつの間にか制服は入院患者が着るような薄緑の病衣に変わっており、体は囲いの立てられたベッドに横たえられていた。ベッドの傍らには母と白衣を着た男が立っている。

 ここはどこだ。何が起こったんだったか、よく思い出せない。確か…

 「気が付いたようですね」 

 「皓」

 声を上げた母の表情は安堵に満ちている。しかし、状況が一切理解できていない今はその表情の理由が全くわからない。少しの間唖然としていたが、思考がまとまってきてようやく口を開くことができた。

 「えっと…何、これ」

 「私が聞きたいわ。あんた、近所の河川敷の階段の下でずぶ濡れになって倒れてたのよ。その場に居合わせた人が気付いて救急車を呼んでくれたみたいだけど、一体何してたのよ」

 早口に母が言った。救急車。ああ、徐々に思い出してきた。あの時、いろいろあったあとに階段から足を滑らせて落ちたんだった。それで頭を打って病院に運ばれてきたというわけだ。そしてずっと意識を失って…

 「軽い脳震盪ですね」

 医者が取り繕った喋り方で言った。

 いや待て。

 「"軽い脳震盪"?」

 壁にかかっている時計に目をやった。時計は転落と同じ日付の11時、つまり映画が終わってから3時間後を示している。頭を触ると、髪が僅かに湿っているのがわかった。そして更に自分を混乱させたのは、後頭部にあるはずの傷が跡形もなく消えているという事実であった。

 「傷はどうなったの。手術は」

 「傷?それに手術って、何言ってるのよ」

 馬鹿な。意識は朦朧としていたが、自分の血が雨に流されていく光景を確かに覚えている。それもあれ程の量の血、手術と長期入院なしで済む訳がない。しかしーーー

 「外傷は幸いありませんでしたが、今夜は大事を見て入院したほうがいいでしょう。でも、明日の昼までには家に帰れますよ」

 それらの考察に反して、横に立つ医者はそう言った。

 今晩は医者の言った通りに入院することになった。わざわざ職場を飛び出してきて息子の無事を確認しに来た母は、いくつか言葉を交わしたのちに、すぐに家へと帰っていった。

 さて、面積の殆どをベッドで占めた小部屋には静けさだけが残されてしまった。最初はすぐに寝ようかと思ったが、一連の出来事のせいですっかり目は冴えてしまっている。暇つぶしをしようにも、先程まで豪雨に打たれながら地面に突っ伏していたせいで荷物の殆どがおじゃんになってしまっており、防水仕様のスマホは充電が切れていた。幸い、部屋には有料のテレビが備え付けてあったので、あまり好きではないがそれを観て過ごすことにした。

 リュックから湿った革財布を取り出すと、スリッパを履いてベッドから立ち上がり、テレビカードを買いに出る。身体に全く問題はない。むしろいつもより軽いといってもいいくらいである。

 ドアを開けて廊下に出る。先程までは夜の病院を歩くのには少々腰が引けていたが、実際は薄明かりやナースセンターから漏れる光のおかげでさほど暗くはなく、問題なく歩くことが出来た。しかし、夏が明けかけて気温が不安定な季節だからか、空調が効きすぎており病衣で動き回るには少し肌寒かった。微かにに秋の虫が鳴き始めているのが聞こえる。これはいけない、とっととカードを買ってきてしまおう。

 「すいません」

 ナースセンターの看護師に声をかける。

 「はーい」

 周りの看護師より一回り年上に見えるベテラン風の看護師が応対に出た。

 「テレビカード買いたいんですけど…どこで売ってますか」

 「販売機は、えーっと、一番近いのは6階ね」

 やたらと大きな声と看護師特有の距離感に一瞬たじろいだ。

 「それって、ひとつ下でしたっけ」

 「ついてらっしゃい。案内したげるから」

 ナースセンターから出てきた看護婦の後ろに着いて階段を降りる。履き慣れていないスリッパを履いて階段を降りるのは少し注意が必要だったが、大した問題ではない。

 「やだ、ちょっと涼しすぎるかもね。日吉くんは大丈夫?」

 階段を降りながら看護師が腕をさする素振りをする。

 「確かにこれ一枚だけだとちょっと肌寒いです」

 「あら、それはいけないわ。これ羽織んなさい、ほら」

 彼女は着ていたカーディガンを脱いで寄越してくれた。申し訳ないので遠慮したが、いいからといってそのまま着させられてしまった。着古されて袖口が多少ほつれていたが、そのわりに毛のダマは少なかったので、それが大事に着られているものだということがわかった。

 「暑くなったり涼しくなったりするから季節の変わり目は空調の調節が難しいのよね…」

 「でももう鈴虫が鳴きだしてるし、そろそろ気温が安定する頃じゃないですかね」

 「あら、もう鳴いてたの?」

 「鳴いてましたよ。ていうか今だってーーー」

 「あ、ほら、あったわよ。あれ」

 6階に出ると、ひらけた休憩室の奥にテレビカードの販売機があるのを見つけた。紙幣の投入口の上には一枚千円と書いてある。

 「千円か…意外とするなぁ」

 「え」

 看護師が急に間の抜けた声を出したので一瞬何かと思ったが、その意味に気付いた瞬間、ぎょっとした。

 今、自分がいるのは6階の入り口。対して販売機は部屋の奥。その距離は見ただけでも20mほど離れているのがわかる。加えて、この薄暗がり。にもかかわらず、自分の目には販売機の小さな表示は読める程にはっきりと映っている。

 おかしい。先程から何かが明らかにおかしい。後頭部の傷、この視力。そして、もう一つ奇妙なことに気付いた。先程から聞こえている鈴虫の声だ。ここは6階の屋内、しかも空調を使用しているためすべての窓は締め切られている筈だ。そんな状況下で、微かではあれど外で鳴いている虫の声など聞こえるだろうか。

 「日吉くん、カード買わないの」

 看護師の声が思考に割り込んできた。その声はやたらと大きかった。

 そうだ、カードを買うんだった。動揺しながら財布の中身を確認すると、紙幣を切らしていたことを思い出した。おぼつかない手つきのまま小銭を取り出そうとすると、カーディガンの袖からほつれ出た糸をチャックに噛ませてしまう。焦ってなんとかチャックを開こうと、取っ手を引っ張った。

 ーーー悪寒。

 寒気に似た奇妙な感覚が突如として背筋を駆け抜けて頭の内側で反響する。その拍子に財布のチャックが開き、財布の中身を床にぶち撒けてしまった。

 「ちょっと、大丈」

 「田中さん!」

 若い看護師の声が田中と呼ばれた看護師の声を遮った。若い看護師が田中さんに駆け寄って耳打ちをするが、その声は明晰に自分の耳に届いている。

 聞き終えた田中さんは血相を変えた。

 「ごめん、日吉くん。用ができちゃったから行くわね。一人で戻れるわよね」

 そう言うと田中さんは若い看護師と階段へ駆けていった。

 多くの事態が一度に起こりすぎて、しばらくその場で唖然としてしまう。先程の奇妙な感覚がまだ頭の内側で響いている。ひとまず、床に撒いてしまった財布の中身を拾おうとして、絶句した。

 床には小銭とカラフルなカードたち、そして真っ二つに引き裂かれた革財布が落ちていた。

 奇妙な感覚が一層強くなって反響した。

 痛みでもない、寒気でもない。これはーーー気配?

 誰に言われた訳でもないのに、自然とそう理解した。うまく言うことは出来ないが、これは紛れもなく人間の"気配"だ。しかし、だとすれば何故突然に強烈な気配を感じたのだろうか。その感覚は自分が立つ床より下方へと引き付けられている。

 先刻若い看護婦が言っていたことを思い出す。ある一つの予想が脳裏をよぎった。耳を済ましてみると、下の階が何やら騒がしくなっているのが聞こえてきた。

散らばった財布の中身を集めることもせず、下りの階段へと向かう。予想が当たっていたとすれば、この状況がより不可解で恐ろしいものであるということを知ってしまうということなのだが、それを押してなお確かめずにはいられなかった。鼓動が速まり、呼吸が浅くなっているのを感じる。それにも関わらず震える足は勝手に階段を降りていく。二つ目の踊り場を折り返したところで、廊下に出た。先程の看護婦がごちゃごちゃと医療器具を乗せたワゴンを押しながらある部屋に駆け込む姿を捉えた。全身の筋肉がより緊張し、脊髄が縮み上がる。気配はあの部屋から発されている。

 若い看護婦。彼女が耳打ちで伝えた言葉。

『414、急変です』 

 414号室。ドアの横のプラカードには確かにそう書いてある。

 「心肺停止…!」

 「電気ショックだ、急げ!」

 「バイタル、低下してます!」

 「くそ!」

 遠巻きに見ることしかできなかったので部屋の中がどんな状況か見ることは出来なかったが、聞こえてくる声の内容からどんな状況かは容易に想像がついた。

 必死なやり取りはしばらく続いていたが、その最中で気配が徐々に気配が弱くなっていくのを感じる。

 やがて、あれほど強く感じていた気配が完全に途切れてしまった。

 一瞬の静寂。しかし、自分にはその一瞬が永遠にも感じられた。何が起こったのか、理解してしまったから。

 薄暗い廊下に、間延びした電子音が響いた。

 「12時5分」

 「先生」

 「ーーー臨終だ」

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