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ヴェロシティ  作者: Jang
Act 1
3/6

2 転機


  進路志望調査。

 机の上に置かれた1枚のプリントに書いてある言葉だ。この言葉を見るたび、まるで鉛を飲まされたかのように胃が重くなる。学期はじめの集会では進路指導の教師が「今から受験対策を始めれば受からない大学なんてない」などと言っていたが、2年生になったばかりの「受かりたい大学なんてない」高校生にはなんの励ましにも発破にもならなかった。

 こういう時はとりあえず都内にある私立の有名校を書いておくようにしている。そうしておけば教師にも両親にも心配されることなく日々を過ごすことが出来るのだから。

 席を立って教卓の担任にプリントを手渡した。

 

 2年〇組×番、日吉 皓

 第一志望:〇〇大学 第二志望:××大学

 

 自分の名前と将来の夢を書いた紙が手元を離れた。その紙は担任によって一瞥されたのち、すぐにクラスメートのプリントと一緒くたになってどれがどれだかわからなくなってしまった。窓の外を見ると、厚い雲が空を覆っているのが見えた。

 

 そんなことがあったのでホームルームが終わったたころには気分が沈みきっており、いつもより足取りは一層重くなった。

 人として生きている以上、どれだけ単調な日々を送っていても一喜一憂は必ず心に襲いかかってくるようになっている。それだけでも憂鬱だというのに、更に時代は完全に単調な生活を送ることも許さない。馴れたら次のステージ、そこにも馴れたまた次のステージ。進級、受験、就職。繰り返し与えられる変化の恐怖。そう、いつだって人生の節目は大きな陰となって地平の向こうからこちらを見つめているのだ。

 でも、そういうことを考えてみたところでこんなちっぽけな一人の人間にはどうすることも出来ない。それなのに、気にしないだけの強さも持ち合わせていないのだ。

 駄目だ、だめだ。これ以上は考えたくない。何か別のことを考えなくては。こんなときに有効な方法はいくつかある。本を読む、音楽を聞く、そして映画を観にいく。両親は共働きなのでいつも帰りが遅い。だからこちらもを門限を気にすることなく気軽に観に行けるのだ。たしか最近公開されたうってつけの作品があった筈だ、ハリウッドスターが主演のど派手なやつが。

 

 端正な顔立ちの俳優が命を狙われたヒロインを守りながら敵を薙ぎ倒していく。一対他の戦いにも臆することなく飛び込み、圧倒的な強さによってその場を制圧する。

 「俺が相手だ」

 俳優が敵に向かって高らかに宣言すると、またも戦いに身を投じていった。

 

 2時間ほど銃声と爆音に浸っていた甲斐あっていくらか気分を晴らすことはできた。しかし、いつもは学校から一直線で帰ってきている自分がいきなり帰宅ラッシュの電車内に乗らなくてはならないのが放課後の映画鑑賞の辛いところである。

 会社や学校を行き来する満員電車。制服を着た学生やスーツを着たサラリーマン達が一つの箱に押し込められて揺られている。いずれ、今着ている制服はスーツへと変わるのだろうか。制服がスーツになっても相変わらず満員電車のなかでゆられる日々が続くのだろうか。ドアの車窓から繁華街を見下ろすと、煌々と輝く看板の群れに照らされた大勢の人間が歩いているのが見える。自分は、あの中の「誰か」として一生を終えていくのだろうか。

 「誰か」として生きることは立派なことだと思う。しかし、自分がそうあれと望まれるのは何故だかこの上なく怖い。

 そんなことを考えながら先ほど観た映画のことを思い出していた。仲間の為なら相手が誰であろうと打ち破る。そんな無敵のヒーローの勇姿を思い浮かべると、心が少しだけ躍った。

 いいなぁ。

 自分もあんなふうになってみたいなぁ。

 

 急に電車が大きく揺れた。

 その拍子に制服を着た女子と体がぶつかった。

 「あ、すいまーー」

 言いかけたところで言葉が止まった。女子は体勢を戻さずに体を預けたままでいる。我が身に何が起こっているのかしばらく分からなかったが、女子の様子がどこかおかしいことに気付く。目は泳ぎ、体は小さく震え、手は何かにすがるようにこちらの制服のシャツを固く握りしめている。ふと女子の後方に目をやると、1人の中年がそこに立っていた。

 痴漢だ。

 誰かこの状況に気付いていないのか?誰かが男を止めるべきではないのか?様々な考えが頭を巡った。そして、彼女を助けることができるのは自分だけだということに気付くのにさほど時間はかからなかった。

 途端に足がすくんだ。彼女を助けたいのは山々だが、男が痴漢をしているという確信を得ることができない。男の手元は彼女の姿に隠れてしまっていてよく見えないからだ。どうする、声をかけるべきか?冤罪のリスクをおしてまで?もしただの勘違いだったとしたら責任を負えるのか?思考は行動を容認しようとせず、それどころか己を肯定するのに必死である。      

 ーーー自分もあんなふうになれたらなぁ。

 しかし、それとは裏腹にとある衝動が胸中にこだましているのを感じていた。そう、これは千載一遇のチャンスなのだ。何も持たない少年がヒーローになれるまたとない好機なのだ。衝動は論理を押しのけ、今まさに喉から言葉として放たれようとしている。手を力強く握り、目線を前へと持ち上げた。

 その瞬間、男と目が合った。

 「あーーーー」

 出かかった声がせき止められた。自分には無理だということがわかってしまった。慌ててポケットから携帯を取り出し、食い入るように画面を見つめる。自分には君を助けることはできない、だって君がどんな状況に晒されているのかなど知る由もないのだから。それからは必死で何も考えないように努めた。誰かが今日も交通事故で亡くなった。台風が近づいているらしい。電車で痴漢があったらしい。自分に関係のないニュースで頭の中を満たした。窓の外を見てみると、急な豪雨が降り出していた。

 

 しばらくすると、自分の降りる駅のアナウンスが聞こえてきた。いつの間にか男はいなくなっていたが、女子はまだ恐怖で動けないままでいるのか服の裾は握られままでいた。電車のドアが開く音がする。服を掴んでいる手を振り払うと、急いで電車から降りた。

 熱風を出しながら後方のドアが閉まる。走り出す電車の風圧を背中に浴びながらその場に立ち尽くしていた。人気のない駅に響くのは激しさを増した雨の音だけ。

 重くなった足を持ち上げ、コンクリートを踏んだ。冷たく硬い感触が足の裏に伝わってきた。もう片方の足でまた一歩進んだ。喉の奥から何かがこみ上げてきた。もう一歩歩いた。それが、巨大な後悔の念だということがわかった。

 ーーー徐々に足は速くなり、気が付くと豪雨の中を全速力で走っていた。

 くそ、くそ、くそ。

 ただ、走った。必死に、走った。雨に濡れるのも構わず、走った。

 何もできなかった。怖気づいてその場をやりすごした。なにがヒーローだ、そんなのものに俺がなれるわけないじゃないか。

 いつの間にか近所の河川敷に出ていた。豪雨のせいか、周りに人は誰もおらず、たったひとり自分だけが丘のへりに立っていた。

 懸命に押し殺していた声が、喉から濁流のように溢れ出た。一瞬大気を揺らしたその叫びも、雨の轟音ですぐにかき消された。

 それでも、叫んだ。将来の不安、孤独、学校の生徒たちが抱えている全ての物語への羨望。わけもわからぬままにありったけの言葉を虚空に放った。

 やがて、言葉は尽きた。それでも腹の中に不安は横たわり続けている。

 「・・・くそ」

 頭が冷え、体の熱も抜けていった。

 帰ろう。こんなことをしたってしょうがないんだ。

 力なく河に背を向ける。その拍子に、濡れたタイルで足を滑らせてバランスを崩した。その瞬間は尻もちをつくと思った。しかし、現実は違った。

 「あ」

 後ろにあったのは河川敷の高所と低所をつなぐための階段だった。

 視界が急にぶれた。一瞬、空から降ってくる雨粒が鮮明に見えた気がした。

 衝撃。

 頭蓋がコンクリートに叩きつけられる音が脳内に響いた。何が起こったのかわからなかったがとりあえず起き上がろうと努力する。しかし、体に力が入らない。

 雨の轟音が遠のいていく。かろうじて動かした目が捉えたのは雨に混ざって流されていく自分の血。そして静寂が辺りを包む。

 この景色を最後にして意識が途切れた。

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