2話 明音の憂鬱2
店の看板娘として、誰からも必要とされていたあの頃――そんな大学時代の輝かしい栄光に、明音はしばらく思いを馳せていた。
アツッ!
ジリジリ音を立てた煙草は、いつの間にか指に熱が伝わるほど短くなっていた。明音は溜め息混じりに煙を吐きながら、煙草を揉み消した。
自然と、また鏡に目がいく……
なんてつまらない顔をしてるんだろ。
なんて疲れきった顔をしてるんだろ。
なんてくすぶった顔をしてるんだろ。
なんて、惨めな顔をしてるんだろ。
なんて悲しそうな顔なんだろ。
なんて、
なんて、
なんて、不幸を一切合切背負ったような顔をしてるんだろ………
「明音ちゃん、コーヒーいれたけど、飲むかい?」
休憩室に突如声がした。
ぼーっとしていた明音は、背後からの突然の呼び掛けに、やっと我に返った。
どのくらいそうしていたのか…
時計の針は20時半を指していた。
笑顔でカップを運ぶその男は、この店の店長。わたしの直々の上司だ。
「わぁ〜すみません!ありがとうございます〜」
さっきまでの陰鬱な表情を隠すように、いつもの笑顔でカップを受け取った。
「この天気じゃ、客はもうこなそうだな。今日は早く店閉めちゃおっか。」
店長は笑顔でそう言うと、わたしの隣に腰を下ろした。
彼は、わたしがコーヒーを飲む姿を見届けながら、自分もコーヒーを煤る。
「ところで、明音ちゃんはいくつになった?」
わたしの笑顔の裏にある暗い影に気付いているように、彼は笑顔でそう尋ねた。
わたしは彼に自分の心を見透かされたような気分になり、恥ずかしいような、切ないような、なんだか辛い気持ちになった。
「25歳です。今年の冬で、26歳になっちゃいます。」
精一杯微笑みながら、そう答えた。
「そうかぁ。もう明音ちゃんもいいお姉さんだなぁ。」
「いいお姉さんだなんて…。もういいおばさんですよ。この店でも嫌われもののお局さまですもん。」
それは本当のことだ。
それは自分でもしっかり理解していた。
だけど、それをハッキリ口にすると、とてつもない切なさに駆られ、自分でもわかるほど、瞬時に笑顔が歪んだ。
泣くな!明音!
一人ならまだしも、
店長の前では絶対泣くな!
店長は、全てを理解しているようだった。
それはそうである。
7年前、わたしをこの店に採用してくれたのは彼。
わたしに店のマニュアルから接客のあれこれを教えてくれたのも彼。
笑顔や身のこなし方、愛想の振り撒き方を身に付けさせてくれたのも彼。
わたしを必要としてくれ、わたしを正社員として迎え入れてくれたのも彼。……
7年もの長い年月、苦楽を共にし、店を盛り立ててきたのだ。
わたしと一回り歳の違う、温厚な、
「人の好い」という言葉がぴったりのこの男は、わたしの7年間の全てを知っていた。
だからこそ、わたしの心の闇にもずっと気付いてくれていたのだ。
「明音ちゃんのこと、わかってるやつは、もう俺しかいないんだもんなぁ。俺にとっちゃあ、明音ちゃんは、いつまでも明るく元気な看板娘のまんまなんだけどなぁ。」
感慨深げな表情で、彼は月日の流れを噛み締めていた。
そして、二人の間にだけ流れるその過去の年月を振り返り、彼は深い溜め息をついた。
店長のその溜め息には、
『この職場にひっぱっちまって、ほんとごめんな……』
―そんな申し訳なさが溢れていた。
外は、まだ雨は降っていない。
ただ、今にも強い雨が降り出しそうな夜空の下を通り過ぎる人は、もういない。
「今日もお疲れ。また明日な。」
「はいっ。お先に失礼しま〜す。」
店長に笑顔で挨拶をし、明音は帰路につく。
台風はすぐそこまで来ていた。
遠くでゴロロロロという雷の低い音が聞こえる。
―降り出す前に家に帰ろう
明音は、懸命に足取りを速めた。
だけど、先を急ぐ足の運びとは裏腹に、明音の心はそこになかった。
そこにも、あそこにも、どこにも………。
あの日
あの瞬間
あの場所から
わたしの心は動き出せないでいた。
気付いていたが、わたしは足だけを前に前に動かした。
決して振り返らず、戻ろうとせず…。
ふと思い出しそうになるときは、尚更足を速めた。
そうして、いたずらに、年月だけ流れていた。
でも無理だ。
今日は思い出さずにはいられない。
店長が変なこと言うから。
あの日と同じ、風の匂いがするから。
信吾………
雨が降り出した。
名前を呟いた明音に、容赦なく雨が降り注ぐ。
ただ、
今は、
今だけは、
とめどなくこぼれ落ちる涙を隠すには、とても都合のいい雨だった。