初の大会出場
いよいよ県大会の日程が始まってしまった。県大会では競技が4日間に分けれて行われる。競歩は4日目の最終日だ。木曜から日曜日にかけて行われるので、学校は公休させてもらう。僕の学校ではブロック大会で敗退したのは、二三人だけでほぼフルメンバーで県大会に臨む。
「しっかし、このグラウンドで競技ができるなんてな。」
僕の家はこの競技場の近所で、自転車を15分も走らせれば着いてしまう。当然幼い時から知っている競技場だが、中学生の時は県大会にまで進めるほど実力がなかったため、ここで競技をしたことはない。武道館やジム、野球場やプールも敷地内にあるこのここは県内屈指のスポーツ施設である。
「先輩?何を一人ごちてるんですか?下らないこと気にしてる場合じゃありませんよ!」
急に後ろから声をかけられて驚く。振り向いて少し視線を下げると、不機嫌そうな顔があった。
「荷物が沢山あるんですから、そのデカい体の使い時ですよ!」
失礼過ぎるだろう。
荷物というのは日差し除けのテントやストレッチ用のマット、ドリンクボトルや救急箱等だ。部員数が多ければ道具も増え、まさしく山のような荷物となる。
「はいはい、手伝うよ。元々そのつもりだったしな。」
僕のように家が近くない部員は電車で来る。正確には電車と、ぶら下がったタイプのモノレールで来る。競技場の周囲にレールがあり、それが頭上を通っている光景は近未来的で嫌いじゃない。
「先輩?起きてますかー。」
「起きとるわ!」
少しボーッとはしているが。
こういう荷物運び等の雑用は一年生の仕事だ。そのため一年生達は、上級生の乗る電車より一本早いものに乗り、荷物を運び、テントを組み立てるのだ。僕は自転車で来れるので一足早く来て一年生を手伝うことにしていた。
「さっすが先輩!やっさしい!」
手伝いがいのないやつだ。
他の一年生は彼と僕のやりとりを、何とも言えない表情で見ている。当然だ。彼のような行動を自分達の先輩にやろうものなら、それこそ『可愛がられる』だろう。だがそこは現代っ子、旧世代の風習が気に入らないと顔に書いてある。まあ、僕の知ったことではないのだが。
サブトラックと呼ばれる試合には使わないグラウンドの隅に陣地を敷いた。その頃になりようやく、上級生が到着し、その後すぐ顧問が到着した。
「ミーティングするぞ!」
よく言う。個人競技の陸上にミーティングも何もないだろうに。つまりは試合に向けての鼓舞だ。全員集合し、顧問の前に扇形で並ぶ。
「いいか!一人でも多く上の大会に行けるよう、自分の力を出し切れ!選手になれなかった奴らの分やブロック大会で落としてきた奴らの分も、背負っていることを忘れるな!」
「「はい!」」
茶番としか思えない。競技をするのは自分自身だ。レース中にそんな事を考える余裕があるなら、0.01秒でも速く、0.1cmでも遠く・高く、1点でも多くと考えた方が、絶対に記録は伸びるはずだ。他人に構ってられるほど余裕はない。
「最近うちは元強豪やら名門(仮)等言われているが、お前達が自信を持って試合に臨めば練習は応えてくれる。いってこい!」
「「はい!」」
ようやく終わった。貴重な15分を失ってしまった。ゆっくりしていたかったのに。
この後僕は軽めの練習をして、ビデオ撮影や選手の応援をして一日目を終えた。天気は晴れ日焼け止めを塗っておいてよかった。
二日目は荷物運びやテントの組立はない。サブトラックに全て置いていったのだ。僕が来たときにはもう、他校の選手がウォーミングアップを行っていた。一日の始めのレースに出る選手は早起きしなければならず、大変だと思う。人や季節にもよるがウォーミングアップは、レースの二時間前には始めなければ体が温まりきらない。
「先輩、競歩の人が練習してますよ!」
今日も軽めのメニューで、最後に1000mを80%の力で歩く。このように試合に合わせて調整するのが一般的だ。二人で並んで歩いていると彼が他の選手を見つけたようだった。
「そりゃあいるだろう。明後日には試合があるんだからな。」
試合のプログラムは既に確認済みだ。男子5000mWは21人が出場する。ブロック大会で落ちる事がないので、この県には競歩をしている男子高校生が、20人程度しかいないことになる。
「なんだか感慨深いですね~。某女児向けキュアニメの映画みたいですよ!」
「ごめん、ちょっと何言ってるか分からない。」
「自分たち以外にも競歩選手がいたなんて!って。」
「そらおるわ……。」
「分かってますよー。でも知ってたのと、実際に見るのとでは感じ方が変わるじゃないですか。この人達とレースするんだなって。皮膚がざわつきます。」
彼には珍しく静かな声だ。表情も、にやついてはいるが少し固いようだ。僕はただ緊張しているだけだった。
「楽しみなのか?」
「そうですね、楽しみです!今の自分でどこまで戦えるのか、どんな人達が出てくるのか、楽しみでなりません。」
「そうか……。しっかり楽しめよ。」
「先輩も楽しみましょうね!」
言葉に詰まる。僕は楽しめるのだろうか。憧れのグラウンドで、初めての県大会で、初めての競技で……。僕にそんなことはできるのだろうか。
「できることならな。」
ついそんな風に返してしまった。これがどうも喋りスイッチを入れてしまったらしい。彼が熱く語り出す。
「そんなことではいけません!せっかくの大会!チャンスを楽しまないなんて損しますよ!先輩は何のために練習していたのですか?大会に向けてでしょう?何のために毎朝毎晩歩き回ってたんですか?勝つためでしょう?他の部員に馬鹿にされても、邪険にされても、愚直にコーチの言うメニューをこなしていたのは何のためですか?見返すためでしょう!」
「確かに大会に向けての練習だけど、勝つことなんて考えてなかったし、見返そうなんてこれっぽっちも思ってないよ。」
「では今から考えましょう!出るからには勝つ!勝てば楽しい!そして見返してやるんです。推薦で入った人以外や実力が追いついてないだけで、馬鹿にする奴らを!努力すればお前等に負けないぞって!そうすればスッキリします。」
ここまでハッキリ自分の意見を言えるものだろうか。僕にはできない。
「できないと思うからできないんです。」
「お前も心を読むのか。」
「はて、何のことでしょう?と・も・か・く先輩、楽しみにいきましょう。楽しむことが勝利への第一歩です。」
「いや、僕は記録が段々伸びてくれればそれで……。」
「そんなことだからダメなんです!」
「はあ?!ダメとはなんだ!記録をモチベーションにするのは大事だろう!」
「ダメなもんはダメです!殺気が足らないんですよ。先輩のそれは、記録を伸ばすことに意識を置くことで、プレッシャーを考えないようにしているだけです。トップ選手のそれは自分との戦いに集中しているのであって、先輩の逃げとは違うんです!」
「そんなのは人それぞれだろう!」
「そうでしょうとも!でも逃げている人は少ないと思いますけどね。多くの人は向き合い、受け止め、打ち勝っているのだと思います!より多数の意見を取り入れるのは民主主義の基本です!」
ぐうの音も出ない。
「だから先輩!自分を殺しにいくつもりで敵を皆殺しにしましょう!」
「物騒すぎる!」
小さな体にどれだけの殺気を秘めているのか。目を輝かせながら放つ台詞ではない。そもそも勝てるとは思えない。
「確かに去年の入賞者に二年生がいましたからね。優勝は難しいかもしれません。」
「難しいじゃなくて不可能だろ!」
彼はにやりとしてこちらを見上げる。
「先輩お忘れですか?失格制度を。」
「そんな都合のいい話があるかな~。」
競歩はレース中の失格がある唯一のトラック競技だ。ロス・オブ・コンタクトとベントニーで、レッドカードを三枚出されると失格である。トラックには審判が五人おり、その内三人からレッドカードを出されてしまうとアウトだ。レッドカードは、ゴール近くに設置されている掲示板に貼られていく。
「都合が良かろうが悪かろうが、自分達が勝つためには犠牲になってもらうことも、やぶさかではありません。」
「おい、犯罪には手を染めるなよ。」
「そんなことしません。呪います。あ、間違えた、祈ります。」
「呪う……。」
「祈ります。」
相変わらず、何を言っているのか理解に苦しむ。
「分かったよ。今回はお前の言うとおり、自分に勝ちにいくよ。」
勢いに流されてしまった。
「楽しむことが一番ですよ!」
「分かった分かった。全力で楽しませてもらうよ。」
ちょうど歩き終わる時間だった。あとは1000m流して、今日の練習は終わりだ。
試合会場に行きバックホーム側の観客席から応援する。
「バックホームって野球みたいですよね。」
「ボール取ったらバックホーム!ってか?意味が大分違うな。」
100mを行い、ゴールのある直線がホーム。反対の直線がバックホームだ。この競技場はスタンドがある観客席はホーム側だけで、コーナーとバックホームの観客席は芝生になっている。
「今日は4×100mリレーの決勝ですね。地区大会に進めればいいんですけど。」
僕としてはどちらでもいい。他の人達が上の大会に進もうが、ここで敗退しようが関係がないことだ。しかしチームワークを変に崩す必要もない。
「そうだな。」
一言だけ答えて。二日目にやるべき事は終わった。
寝る前に、昼間彼に言われたことを反芻する。殺気が足りないと言っていたが、そもそもレース相手を敵として認識したこともない。それともやる気が足りないということなのだろうか。それもなんだか違う気がする。自分に打ち勝つというだけではないようだったし、きちんと考えてみる必要がありそうだ。
三日目は曇りだった。ジメジメとして暑い。日焼けの心配こそないものの、体力が削られる。自身の体調管理能力が問われる。
コーチは昼頃にやってきた。
「やあ、もうウォーミングアップは終わってるかな?」
「はい、既に完了しています。」
今日のメニューでは2000mを試合のペースで歩く。試合前なので長々練習はせずに、体にペースを覚えさせるのだ。
「じゃあ、実際のスタートの時間に合わせて始めようか。」
「はい。」
あと10分程だ。体が固まらないよう、動き回ってほぐしておく。
「もしペースに余裕があったら、スピード上げちゃっても構わないよ。」
コーチの言葉に彼が食いつく。
「本当ですか!」
「こんな小さな嘘はつかないな~。」
大きな嘘はつくのだろうか。
「いえ、そんなつもりでは……。ではペースを上げてもいいんですね!」
彼が確認をする。
「うん、全然問題無しっていうか、推奨するかな。ただし、最後まで上げ続けること。これが条件ね。」
条件を付けられても、彼の表情は変わらない。むしろより興奮しているようだ。
「好き勝手に、適当に上げるのではなく、自分を制御し、潰れないよう、考えながら歩くんですね!」
「その通りだね。潰れちゃったら、後続の人達が元気になって追いかけてくるからね。」
僕は一定のペースがこなせるかも不安なのに、なぜそんなに自信を持てるのだろう。
「おっと、そろそろスタートだ。わざわざ空砲も持ってきたんだよ。」
コーチが嬉しそうに言う。絶対に鳴らしたかっただけだろう。
「さあさあ、スタート位置について。」
二人でスタートラインに並ぶ。
耳が張り裂けるような破裂音が響き、二人が歩き出した。
瞬間、僕が彼の前に出る。今までの練習はずっと、僕が引っ張ってきたから、当然今回も僕が引っ張ろうと思っていた。400mを通過したとき、予定通りのタイムがコーチから告げられ、このままのペースを維持しようと考えていた。
しかし1000mを目前にして、突然彼が横に並んできた。僕のペースは落ちていない。このままなら特に疲労することなく、2000mが終わるだろうと思える感覚があった。だから彼が僕の前に出る理由がない。だが、彼は強引に前に入ってきた。彼の背中から不思議な力が出てきて、僕を引っ張ろうとしてくるという感覚に陥る。
1600mを通過した。ペースは当初の予定より随分と上がっている。最後の一周を前にして既に、肺が外に出ようともがいている。足先と手先を柔らかな布で包まれたかのような感覚が襲う。彼は常に僕の前50cmの位置を滑るように進む。
あと200mになった。ペースは落ちていないが上がってもいない。一度上げたら上げ続けなければならない。上げなければ。彼を置いていってでもペースを上げなければ、条件を満たせない。もう脳みそが白くなっている。何か考えていたような気もするけど、足を動かさなければいけない。早く次の足を出さなければ、速く歩けない。
最後の直線。周りは見えない。ゴールがある。前に人はいない。体が前に進みたがっている。気持ちいい。風を切る感覚。頭と足の裏が熱い。コーチが笑っている。自分のストップウォッチを止めた。体が一気に重くなる。さっきまで飛ぶように軽かったのに。心臓の音が聞こえ始めた。肺が痛い。
彼が後からゴールした。僕の脈拍は毎分180回だった。足がガクガクして立ちにくい。
「試合前に体力を使い切りそうだね~。」
コーチが苦笑している。
「一定のペースでいくつもりだったんですが……。」
僕はうなだれる。
「いやいや、責めてるんじゃなくてね。思ったことを言っただけだよ。むしろ良い予行練習になったんじゃないかな?後輩君に感謝しなよ。」
審判の打ち合わせがあるからと、コーチはそれで去っていった。
「先輩!自分に感謝してくださいよ!」
「分かってるよ。」
分かってる。彼が自身の限界より速く歩いてくれたおかげで、僕が自分を追い込めたのだ。ようやく自分と戦う土俵に立てたのだ。
「でも明日は自分が勝ちますけどね!」
「僕に2000mで負けたのにか?」
「明日は5000mですから!また条件が変わります!頭洗って待っておいてくださいよ!」
「それを言うなら首だろう!頭洗ってどうすんだ!」
「そうでした!まあ、今日の自分達を見ていた方々にも、首を洗っておいてもらいましょう。」
他の競歩選手が見ていたのだろうか。全く気付かなかった。
「先輩、アンテナは三本立てておきましょう。基地局が足りないんじゃないですか?」
「お前には敬意が足りんがな。」
ともあれ、試合は明日となった。どんなレースができるのか。彼のおかげか。不安はほとんどなくなっていた。
レース当日、午前6時に起床する。20分程度ジョギングをして体を起こし、ホカホカの白ご飯にゆで卵、焼いたベーコン、玉ねぎとワカメの味噌汁を食べる。レースは12時半からなので、しっかり食べておく。早めに家を出て、ゆっくり自転車をこいで会場へ向かう。できるだけ無駄な体力消費をしないよう、注意を払う。それなのに
「ああ、先輩!おはようございます!」
「おはよう。今日も元気だな。」
彼は今日も元気に雑用していた。スポーツドリンクを作り、ビデオのバッテリーを確認し、テント内を掃除していた。
「おいおい、今日はお前は出場選手なんだから、落ち着いておけよ。」
「しかし、いつも通りの動きをしないと、落ち着かなくてですね。」
驚いた。どうやら緊張しているようだ。
「自分だって緊張ぐらいしますよ!マトモな人間なんですから!」
「マトモか……。」
マトモって何だったんだろう。
「失礼なことを考えていますね。先輩こそ、いつもみたいに、不安がらなくていいんですか?」
「そんなにいつも不安がってねえよ!なんかお前を見てたら落ち着いたよ。」
「あ、自分そういう趣味ないんで。」
「そうじゃねえ!自分よりパニクってる人見ると落ち着くだろ?そんな感じかな。」
「そうやって遠回しに馬鹿にする!」
遠回しではない。馬鹿にもしていない。
「ともかく雑用は他の一年とか、既に敗退した奴らに任せろよ。」
「了解です……。先輩に気を使わせるなんて……」
彼が珍しく俯いている。
「屈辱です!この借りは試合で返しますからね!覚えておいてください!」
そう言った彼は走り去っていった。僕の心配を返せ。
9時半になった。スタート3時間前はマトモな食事のできるタイムリミットだ。僕は鮭お握りを一つと卵サンドイッチを二つ食べた。ここで食べておかないと、レース中エネルギーが保たない。
「先輩のお握りデカ過ぎませんか……?」
「うん?そうか?いつも通りだけどな。」
彼は僕のものより、一回り小さいお握りを頬張っている。
「母はキレてたけどな、一合を握るのは面倒過ぎるって。」
「やっぱりデカいんじゃないですか!」
体の大きさも、彼と僕では一回り違うのだから、仕方ないだろう。と思うのだが。
食べ終わったら、そろそろ準備を始めなければならない。体操を入念に行い、ウォーミングアップを開始する。散歩を10分、ジョギングを20分行い、速めに100m歩くことを三回程繰り返す。今日は晴れ、気温も高いので、あまり動きすぎてもいけない。
出場受付を済ませスタート付近へと向かう。
「おお!競歩の動きをしている人が沢山いますよ!」
ウォーミングアップの時もそうだが、試合直前ともなると、競歩選手をよく見るようになった。いくら人数が少ないとはいえ、20人集まれば、なかなか壮観だ。
体が固まらないよう動いていると、他校の選手が話しかけてきた。
「君達初めて見る顔だね。今日はよろしく。」
「はあ、よろしくお願いします。」
知らない人に話しかけられたら当然警戒するだろう。僕は無意識に距離を取った。対して彼は近付いている。
「アナタはもしかして、あの、あれですよね!」
記憶をひっくり返しながら喋っているようだ。相手の名前を思い出し、確認した。
「去年4位の!」
「おおー、まさか4位を覚えてる人がいたなんてね。去年の三年生に惨敗しちゃったけど、今年は俺が三年だからね、負けられない戦いってやつだよ。」
爽やかオーラを発しながら話す元4位。体育会系独特の眩しさに、浄化されそうになる。
「今回自分達は初出場なんですが、胸を借りるつもりでぶつかりますね!」
彼は彼で、爽やかでムカつく。この差はなんだろう。
「あっはっは、俺なんかでよければどうぞ。」
「ありがとうございます!」
係員がスタートラインに並ぶ順に、選手を呼び始める。
「じゃあ俺は行くよ。よろしくね。」
小走りで去っていく。あの人も殺気を発するのだろうか。
「先輩、無愛想過ぎますよ。もっと愛想良くしないと。」
「敵なんだから、馴れ馴れしくする方がおかしいだろ。」
「仲良くなれば情報が手に入るかもしれないのに。」
「僕は別に情報なんていらん!」
僕のナンバーが呼ばれる。
「それでは先輩後ほど。」
「ああ、次会う時は敵だな。」
彼のナンバーが呼ばれる。
「3秒後でしたね!」
ムカつく笑顔だ。
スタートラインに並ぶ21人の選手。色とりどりのユニフォームに身を包み、思い思いの動きをしている。僕でも分かるほど殺気を放つ人から、俯き誰とも目があわないようしている人まで様々だ。共通点としては、皆緊張した面持ちであるということだ。
ピストルを持った係員がトラック内で準備を終えたようだ。もうスタートまで間もないだろう。
彼の姿を探すと、右に二人挟んだ所にいた。彼もまた緊張しているようだが、やはり笑いを浮かべている。彼の笑顔を見て、何故か僕の心臓は落ち着きを取り戻した。今すぐにでも彼の背中を叩き、冗談を言い合いたい。我ながらレース前の思考じゃないな、と思う。
「位置について。」
声がかかる。皆若干上体を前に倒し、スタート姿勢を作る。静寂。
「下がって。」
誰かの準備が遅かったようだ。21人の緊張が一瞬解かれ、雰囲気が変わる。本当に束の間だった。
「位置について。」
改めて前にでる。さっきより短い静寂。破裂音が響く。
一斉に動き出す選手達。何も聞こえない世界に入る。初めの十数秒、ただ前に出ることだけを考える。元4位と彼が飛び出していく。先頭集団は二人だけのようだ。僕は第二集団の先頭についていく。彼も僕も明らかなオーバーペースだ。このまま付いていける筈がない。そんなことを考えたのも一瞬だった。
できないじゃなく、ここまできたら、やるしかないのだ。ひたすら前に付いていく。初めに自分のペースでなくなった時点で、元のペースに戻ろうとしない時点で、選択肢は一つだ。
1000m通過。早くも息が上がっている。もう彼は見えない。目の前の黄色いユニフォームだけが、僕の視界に入ることを許されている。時々緑や青が邪魔しようとするが、前には入らせない。
2000mを通過する。もう肺が限界を訴えている。いつの間にか、彼が黄色の少し前にいる。その瞬間他の選手が消え、彼だけがトラックにいる感覚に陥る。彼を抜かなければならない。使命感に狩られる。もう半分は過ぎた。負けられない。
前しか見えない。周りの声も聞こえない。彼は目の前にいる。しかし頭の中は真っ白だ。僕達は置いていかれたのか。考えるのも億劫だ。ただ足を動かす。時計を見るだけの余裕はない。でも彼がスピードを上げたときは、僕も上げる。絶対に離されない。僕が抜こうとすると、彼もペースを上げる。
残り800m、ランナーズハイになったことを感じた。ペースが一定ならどこまででも歩いていけそうだ。息は苦しくない。足の感覚は鈍いが、しっかり動いているようだ。ギアを二つほど一気に変え、彼を抜き去る。急に息が苦しくなる。目の前に人はいない。50m程先にノロノロ動く選手が見えた。その選手だけが視界にいる。その瞬間、追いつけると思った、分かった。
『最後まで上げ続けること。』
コーチの言葉が蘇る。こういうことか。自分の足からモーター音が聞こえるようだ。体が前に進みたがっている。自分で自分の背中を押しているように感じる。
残り一周の鐘が鳴る。もう追い付いた。その選手は後ろから来た僕に驚いた後、諦めたようにフォームが崩れた。
もう僕の肺は破裂してしまったのだろうか、呼吸をしている感覚がない。手足の感覚は随分前からない。残り150m、最終コーナー。倍の距離に感じる。全身を腰の力だけで動かしているようだ。
最後の直線。突然目の前が開けたように感じる。歓声が聞こえる。体が軽くなる。本当に浮かないよう、一歩一歩に体重を乗せる。
白線を越えた。終わった。失格することなく。自分を出し切った。レース展開なんて、これっぽっちも考えられなかったけど、今できる全てができた。
「君!すぐにコースから出て!」
声がかけられる。
「は、はい。」
重い体を引きずるように、実際には両手を膝に付いた状態で体を揺らすように、コースから出る。
彼がいつの間にか僕の後ろに立っている。気付いた僕に笑顔を向けている。
「先輩、だらしないですよ!」
「ムカつく笑顔だな!」
彼は満足したように、声を上げて笑った。僕も笑った。他の選手は苦笑で見ている。構うものか。僕は純粋な満足感に包まれていた。