当面の目標
遭遇したその日から、彼は競歩の練習を始めた。コーチは僕の時とは違い、初めからルール説明をしていた。コーチは説明を終えると、僕に彼を指導するよう言いおいて、帰っていった。
「では始めましょう!今日は何をするんですか?」
「今日は、走りで言えばジョギングに相当する、ストロールというものを60分間行う。フォームは見様見真似でやってみて。」
「了解しました!なんだか楽しくなってきましたね!」
むしろ彼が楽しくないことなんてあるのだろうか、と思ってしまう。
「何事も楽しめるかどうかは自分次第ですから、如何にして楽しむのかいつも考えています!」
「そうか、それはさぞかし楽しい人生になりそうだな。」
実際そんな考え方は羨ましく思った。僕は周囲に不平不満を持ちながら、それを内にため込んでいたから、こと部活に対して楽しいと感じたことはなかった。
「じゃあ手始めに今日の練習を楽しもうか。」
だからお手並み拝見といこう。
60分間ストロールは、余裕を持って喋れる位の速さで、歩くのが基本だ。つまり、彼に指導しながら練習できるというわけだ。しかしながら彼の歩きに訂正すべき点は少なく、慣れていない為ぎこちなさはあるものの、僕から見れば概ね完成形といってよかった。指導する側としては楽なものだが、これはこれで、なんだかつまらない。
「まだ余裕はある?」
40分を経過した辺りで声をかける。
「はい!……まだいけます!」
息は上がっていないが、表情はかなり辛そうだ。筋肉が悲鳴をあげているのだろう。歩型も崩れ始めている。
「上体をもっと起こして、腕をしっかり振った方がいいな。」
「はい!」
注意を促すといい返事が聞こえるが、元気は三割減といったところだろうか。
そうこうしてる間に、残り三分になっていた。
「あと一周で終わるから。」
「はい!」
現金なもので、長距離選手は皆そうだが、『あと一周』と言われると急に元気になるものだ。ラストスパートは誰でも頑張れるのだ。
残り一周を若干ペースアップし終わらせた。彼が僕から5m程離れたところで体操している。本練習後は脈拍を測り、疲労度や心肺への負担がどれほど掛けられたかを見るのだが、それを教え忘れていたことを思い出した。
「おーい、ちょっと教えなきゃいけないこと忘れてた。」
彼は一瞬キョトンとしたがすぐに笑顔に戻り、
「えー、先輩しっかりしてくださいよー。」
馬鹿にしている……。
「脈拍を測るから首を差し出せ。」
「怖っ!今この状況で急所を晒すのは怖すぎますよ!」
「分かっているならやるな!と、冗談は置いといて、自分の首の血管を触って10秒間心拍数を数えてみるんだ。」
「こうですか?」
僕の動作を真似て彼が心拍数を数える。
「いくつだった?」
「10秒間に15回でした!毎分80回ってところですね。」
スポーツをしている人の通常時の心拍数は、毎分60回前後である。毎分80回では少し息が上がっている程度か。
「本当は歩き終わった後、直ぐに測らないといけなかったんだよな。すまん、忘れてた。」
「先輩、気にしないでくださいよ~。今日はお試し期間、言うなればチュートリアルなわけですから、やればやるだけお得なんです!」
何を言っているのか分からない。
「つまり、本番は今日の午後から!ですよね!」
「まあ、やる気になってくれるなら、そういうことでいいかな。」
よく分からないまま乗ってしまった。彼の思考回路は、簡単に掴めそうもない。
こうして僕と彼のタッグは、彼のバイタリティに、引っ張られる形で始まった。まずは5月中頃の総合体育大会、通称インターハイ路線に向けて練習する事になる。一学校三人までしか一競技に出せないので、他の競技だと熾烈なレギュラー争いがあるようだ。が、競歩には関係のない話であった。
「あれ?去年先輩が惨敗したと聞き及ぶ、大会には出ないんですか?」
何故か最近自主的に、部室のトイレ掃除を始めた彼に、大会の説明をしていると聞いてきた。誰から聞いた……。
「いや~、自分ってトイレのみ限らず、あらゆる場所を掃除して回っているので、色んな雑談が聞けるんですよ!」
「それは盗聴じゃないのか?!」
「先輩、声が大きいです!それにこれは、盗聴ではなく、盗み聞きです!」
誇らしげに言われても……。
「じゃあ君には、僕の説明は必要なかったかな?」
「ま、まま待ってください!」
ちょっとした冗談のつもりだったが、思いの外強く引き止められる。
「信頼できる筋からの正式な情報と、その辺の雑談の盗み聞きとでは、情報の精度が違うんです!」
全身の力が抜けそうになった。
「君は……、僕を情報源としてしか見ていないのか?」
「そんなことありません!競歩の先輩であると共に、『まあまあ信頼性の高い』情報源だと思っています!一人の個人に対して、複数のレッテルを貼って見る、というのは格別珍しいことじゃないと思います。そもそも最も信頼できる情報はコーチからの物であり、それは発信源である為に情報を……」
「ストップだ!本題に戻ろう!」
彼は話し出すと止まらない事が時々あった。以前一度ストロールの一時間全て、彼の一人喋りで終わった事もある。
「僕が悪かった。一年生の最初の試合の話だったな。」
話し出したのに出鼻挫かれた彼は、少し不満げな顔で頷いた。
「あれには出場しない。というよりできない。」
「できない?」
不思議そうな顔に変わる。この点は盗み聞きしてないのか、そもそも他の部員は、競歩に興味がないから知らないのか。
「競歩の種目がないんだ。」
「へ~。そんなことがあるんですね。」
もっとマイナスな反応をイメージしていたのだが、むしろ彼は楽しそうな表情に変わる。不思議な奴だ。
「それはよくある事なんですか?」
「ああ、競歩は審判が複数人必要だから、インハイ路線のような、大きな大会でないと、どうしても人が集まらず、競技そのものがなくなるってことは、よくあるね。」
「なるほど!マイナー競技故の残念感がありますね!」
「残念とか言うな!」
マイナーなのは認める。最近こそ、世界ジュニアで優勝したり、世界陸上で日本人初メダルを獲得したりと好調子なので、陸上雑誌の通称陸マガにも特集され、テレビに取り上げられるまでにもなったが、あくまで一時的なものだろう。どうやっても地味すぎるし、何より見ていて飽きられやすい長距離だ。
「まあ、そんな訳で僕等は当面インハイ路線を目指すしかないってことだ。」
「なるほど、いきなり一番大きな大会に挑むわけですね!ワクワクします!」
どこの戦闘民族だ……。
「不安とか感じないの?初めての大会がインハイ路線で、しかも県大会からなんだよ?」
「それは初めて聞きました!なにそれ!」
「あれ?言ってなかったっけ?」
「インハイ路線に関しての説明は5月中頃ってだけです!」
「すまんすまん、忘れてたか。」
4月の終わりに県内の高校を幾つかのグループに分け、グループ内で試合を行い、一定順位以内の選手が県大会へ出場できる。これがブロック大会。
「なんだけど」
「ま、まさか」
彼は何かを察し息を呑む。恐らくは察した通りのことだ。
「競歩は人数が少ないから、うちのブロックでは競技を行わない……。」
「やっぱり……。」
彼は膝から崩れ落ち、俯いている。僕も初めて聞いたときは同じ反応をしたものだ。
「そしたら県大会特有の、様々な思惑入り乱れる中に、ノコノコ入っていくしかないじゃないですか!」
「ブロックだってそうだろ!」
「確かにその通りですね!」
実際県大会は様々な学校が出場する。出場当然あくまで通過点、毎年出場してるけど上には行けない、なんとか出場好調なら入賞狙い、出場こそ最終目標。本当にピンキリだ。ブロック大会ではこうはいかない。地方大会や全国大会でもあるのかもしれないけど、僕は見たことがないから何も言えない。
「とにかく諦めるんだな。」
「え?」
彼が顔を上げこちらを見る。
「嫌なんだろ?」
「嫌ではないです。」
即答だった。
「ただ流石に少しばかり緊張しますね!」
少し、というのがすごい。僕は競歩初出場に対して不安と緊張しかない。精神面では彼の方が、僕を大幅に上回っているのだろう。そして、長距離は精神力が大きなポイントとなるスポーツだ。
「とにかく、県大会に向けて練習する事になる。他の部員とは練習リズムが変わるから、一応覚えといて。」
「そんなのいつもの事じゃないですか。」
彼が苦笑で応える。確かにな。
「じゃあ、掃除はそれぐらいにして練習しようか。」
今やトイレの床と壁は鏡のように輝いている。
「イエッサー」
おちゃらけて額に手刀を当てる彼が
「いよいよ楽しくなってきた」
と呟いていたのは、きっと気のせいじゃないのだろう。