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婚約破棄された翌日、各国から求婚状が山のように届きました——どうやら私は"手を出してはいけない令嬢"だったようです

作者: カルラ
掲載日:2026/05/08

舞踏会の灯りは、いつだって残酷なほど明るい。

シャンデリアの光が降り注ぐ大広間の中央で、エリシア・ヴァルトハイムは静かに立っていた。絹のドレスは深い紺色——派手さより品格を重んじた選択だったが、今この瞬間、それが自分の首を絞めているとは思わなかった。

「エリシア・ヴァルトハイム。本日をもって、我々の婚約を解消する」

王太子ローデリック・アルデインの声は、音楽の合間を縫って広間に響いた。低く、よく通る声。公式の場で磨かれた、感情を乗せない声。

エリシアは瞬きをした。

一度だけ。

「……承知いたしました」

それだけ言った。それだけで十分だった。

ローデリックの隣には、薔薇色のドレスをまとった少女が寄り添っている。セリーヌ・モーヴァン伯爵令嬢。金の巻き毛と青い瞳、花が咲いたような笑顔を持つ、誰もが振り返る美貌の持ち主だ。エリシアとは、あらゆる意味で対極にいる人間だった。

「理由を聞かせていただけますか」

エリシアは問うた。感情のためではない。記録のためだ。自分の中の何かが、この瞬間を正確に刻んでおくよう命じていた。

ローデリックは眉をわずかに上げた。泣き崩れるか、懇願するかと思っていたのかもしれない。あるいは何も言わずに引き下がると。

「理由?」彼は繰り返した。「地味だ。華がない。隣に立たせて絵にならない。それに——役に立たない」

最後の一言が、広間の空気をわずかに変えた。

役に立たない。

エリシアはその言葉を、静かに胸の奥に収めた。怒りではなかった。悲しみでもなかった。ただ、ひどく遠い場所の話を聞いているような、奇妙な感覚があった。

「そうですか」

彼女はローデリックに向かって、礼儀正しく一礼した。王族に対する所作として完璧な角度で。三年間の婚約期間、ただの一度も崩したことのない所作で。

「では、これにて」

くるりと踵を返したとき、広間のどこかでざわめきが起きた。

小さな、しかし確かなざわめきだった。

エリシアの耳は、その中にいくつかの言葉を拾った。

「……本当に解消するのか」「……よかったのか、あれを手放して」「……まずい、まずいぞ」

振り返らなかった。

今夜はただ、家に帰ろうと思った。


翌朝、エリシアが目を覚ましたのは、いつもより一時間遅かった。

昨夜のことを引きずっていたわけではない。ただ、舞踏会から帰宅したのが深夜で、着替えを終えた頃には窓の外が白みはじめていた。それだけのことだ。

寝室の窓から差し込む光は柔らかく、穏やかな春の朝だった。エリシアはしばらくその光の中に座って、温かい茶を一口飲んだ。

婚約が終わった。

三年間の関係が、昨夜の短い宣言で幕を閉じた。

不思議と涙は出なかった。悲しいのかどうかもよくわからなかった。ローデリックのことを、愛していたのだろうか——今さらながら、その問いが浮かんだ。答えは霧の中にあって、どこまで手を伸ばしても掴めなかった。

「お嬢様」

扉が開き、老齢の執事グレイムが顔を覗かせた。ヴァルトハイム家に四十年仕える、白髪の紳士だ。

「おはようございます、グレイム」

「おはようございます。……その、少々お時間をいただけますでしょうか」

グレイムの声に、珍しい色があった。困惑、とも、狼狽、とも取れる色が。

「どうぞ」

「はい。……玄関の方へ、いらしていただけますか」

玄関?

エリシアは首を傾けたが、素直に立ち上がった。着替えを済ませ、廊下に出て、屋敷の玄関ホールへと向かう。

最初に目に入ったのは、使用人たちの背中だった。

全員が玄関を向いている。扉は開け放たれており、その向こうに——

「……え」

馬車が、いた。

一台ではない。エリシアの屋敷の前の通りに、馬車が列をなして止まっていた。それぞれに紋章が刻まれており、どれも見覚えのない——いや、見覚えはある。遠い国々の、王家や大公家の紋章だ。

使者らしき人物が、玄関の前に列を作っている。

そして玄関ホールには、すでに積み上げられた手紙の束があった。

「これは……」

「夜明けから届いております」グレイムが、落ち着いた声で言った。ただしその声の奥に、隠しきれない動揺がある。「最初の使者が現れたのは、日の出前でございました。それ以降、次々と」

「全部……手紙?」

「はい。しかも」グレイムはわずかに間を置いた。「すべて、同じ種類の手紙でございます」

エリシアは、積み上げられた手紙の一通を手に取った。上質な封筒。重い封蝋。そこに押された紋章を確認して、息をのんだ。

開封する。

丁寧な書き出し。格式ある文体。そして、その内容。

『謹んで、エリシア・ヴァルトハイム令嬢に申し上げます。貴女との婚姻を、心よりお願い申し上げたく——』

求婚状だった。

エリシアはもう一通手に取った。別の紋章、別の筆跡。しかし内容は同じだった。

また一通。同じ。

また一通。同じ。

「……グレイム」

「はい」

「これは、全部」

「はい」

エリシアは、玄関ホールに積み上げられた手紙の山を、もう一度見渡した。ゆうに五十通は超えている。使者はまだ外に並んでいる。扉の向こうに見える馬車の列は、通りの角まで続いていた。

「……なぜ」

それが、エリシアの口から出た言葉だった。

怒りでも歓喜でもなく、純粋な困惑として。

昨日まで婚約者だった。それが昨夜解消された。それだけのことだ。なぜ夜明け前から、見知らぬ国々の使者が屋敷の前に行列を作っているのか。

「お嬢様」グレイムが静かに言った。「少し、お話しさせていただいてもよろしいでしょうか」

「ええ」

「お座りになった方がよいかもしれません」

エリシアはグレイムの顔を見た。長年仕えた老執事の、穏やかで誠実な顔。その目に、今は複雑な色があった。

「……そんなに驚くことを言うつもりですか」

「少々」グレイムは言った。「お嬢様が、ご自身のことを正確に把握されていないようでしたので」

エリシアは、促されるまま応接室へと向かった。

窓の外では、まだ馬車が続々と到着しているようだった。

応接室のソファに腰を下ろすと、グレイムはエリシアの向かいに立ち、静かに口を開いた。

使用人が茶を運んできたが、エリシアはそれに手をつけなかった。窓の外で馬車が止まる音が、断続的に聞こえてくる。

「お嬢様は、ヴァルトハイム家の血筋についてどこまでご存知でしょうか」

「……古い家だということは知っています。父からも、あまり詳しく聞かされませんでしたが」

「古い、というのは正確ではございません」グレイムは言った。「正確には——この大陸に現存するすべての王家の、源流にあたる家系でございます」

エリシアは少し間を置いた。

「……もう少し、わかりやすく言っていただけますか」

「今から三百年前、この大陸が七つの小国に分かれていた時代、それらすべてを一時的に束ねた大帝国がございました。その帝国の直系血族が、ヴァルトハイム家でございます。帝国は崩壊しましたが、血は絶えなかった。各国の王家の多くは、その分家にあたります。つまりお嬢様は——」

「……各国の王族の、親戚」

「より正確には、正統の源流。格式で言えば、現存するどの王家よりも上位に位置します」

エリシアは、自分が今どんな顔をしているか、わからなかった。

父が、ヴァルトハイム家の歴史についてほとんど語らなかった理由が、今になってわかった気がした。語れば、娘がこんな顔をすると知っていたのかもしれない。

「それだけでは、ございません」グレイムは続けた。「お嬢様が王太子殿下の婚約者であった三年間——他国は、お嬢様に対して政治的にアプローチすることができませんでした」

「……それは、婚約者だったから当然では」

「当然、ではございますが」グレイムはわずかに首を傾けた。「意味合いが違います。通常の婚約者であれば、破談になれば終わりです。しかしお嬢様の場合、その血統が持つ意味が大きすぎる。王太子殿下の婚約者という立場は、言わば——お嬢様を、外交上の"聖域"に置くものでした。他国が手を出せば、アルデイン王国との摩擦になる。だから誰も動けなかった」

「つまり」

「はい」

「婚約が続いている間は、私はずっと——」

「"独占状態"でございました」グレイムは静かに、しかしはっきりと言った。「王太子殿下は、おそらくそれをご存知なかった。あるいは、ご存知であっても軽視された。婚約を解消された瞬間から、お嬢様は——市場に出た、と各国は判断したのでございます」

市場。

その言葉が、エリシアの胸のどこかに引っかかった。

自分が商品のように語られている、という不快感ではなかった。そうではなく——昨夜のローデリックの言葉が、まったく別の意味を帯びて聞こえてきたのだ。

役に立たない。

彼はそう言った。しかし各国の使者たちは、夜明け前から行列を作っている。

「お嬢様」グレイムは言った。「もうひとつ、申し上げなければならないことがございます」

「……まだあるのですか」

「財政についてです」

エリシアは眉を上げた。

「お嬢様が婚約期間中に行われた、アルデイン王国の財政改革をお覚えでしょうか。三年前、国庫が逼迫していた折に、複数の増税案が議会で否決され続けていたあの件です」

「……覚えています。結局、別の方法で解決されましたね」

「はい。その別の方法を、実質的に立案されたのはお嬢様でございます」

沈黙が落ちた。

「私は——ただ、父の蔵書を読んで、思ったことを書き留めただけです。それが父の目に止まって、父が提案したと」

「お父様は、提案者としてお嬢様のお名前を伏せることを選ばれました。王太子の婚約者が王国の内政に深く関与することへの、風当たりを懸念されて」グレイムは穏やかに言った。「しかし、わかる者にはわかります。あの改革案の出所を。外交の場に出れば、情報は流れます。三年間で、お嬢様の能力を把握した者は、国外にも相当数おります」

エリシアは、じっとグレイムの顔を見た。

「……私は、自分がそんな大層なものだとは思っていません」

「存じております」グレイムは微笑んだ。老いた、穏やかな笑みだった。「それがまた、お嬢様の厄介なところでもございます」

そのとき、扉を叩く音がした。

別の使用人が顔を出し、困り果てた表情で言った。「あの、新たな使者が三名……それと、馬車がもう四台」

エリシアは、ゆっくりと立ち上がった。

「わかりました」彼女は言った。「お通ししてください」


最初の使者は、カルデア王国から来ていた。

北方の軍事大国として知られるカルデアは、この大陸で最も強力な軍事力を持つ国家だ。その第二王子、ヴァルター・カルデアの使者は、鎧のような礼服をまとった屈強な男で、エリシアの前に膝をつき、重厚な文書を差し出した。

「殿下より、エリシア・ヴァルトハイム令嬢への求婚状にございます。殿下は直々に申されました——"この大陸で最も賢明な頭脳を、カルデアに迎えたい"と」

エリシアは文書を受け取り、開いた。

流麗な筆跡で書かれた文面は、率直だった。美辞麗句は少なく、代わりに具体的な条件が並んでいた。カルデア王国が現在抱える北方諸部族との停戦交渉——十年以上膠着しているその問題を、エリシアに解決してほしいという。婚姻はその後でも構わない、まず顧問として迎え入れたいとさえ書いてあった。

「戦争を終わらせる頭脳が欲しい、と」エリシアは静かに繰り返した。

「はい。殿下は申しております。美しい妻は他にも求められる、しかしあなたのような人材は、この大陸に二人といないと」

正直な言葉だった。ある意味で、婚姻よりも能力に重きを置いた、非常に実務的な求婚だった。

二番目の使者は、ルミエール商業連合から来ていた。

正確には国家ではなく、五つの都市国家が連合した商業同盟の盟主、ソレイユ家の嫡男フィリアスの使者だ。細身で目の鋭い男は、エリシアの前に立つなり、そつなく一礼した。

「フィリアス様からの言伝でございます。"私は感情で婚姻を決めない。あなたとの婚姻は、この大陸で最も利益率の高い投資だと判断した"——以上でございます」

エリシアはしばらく使者を見た。

「……求婚をするのに、"投資"という言葉を使うのですか」

「フィリアス様は、飾り言葉を好まれません」使者は淡々と答えた。「ただし、誠実であることだけは保証いたします。不誠実な取引は、長期的な利益を損なうと心得ておりますので」

これはこれで、清々しいほど正直だとエリシアは思った。

ルミエールからの求婚状には、エリシアの財政手腕についての詳細な分析が添付されていた。アルデイン王国の改革案を外部から検証し、数値で評価した文書だ。それを見て、エリシアは静かに息をのんだ。自分でも気づいていなかった部分まで、精緻に分析されていた。

三番目は、少し趣が違った。

マーリン魔法学院国家の使者は、黒いローブをまとった老齢の女性だった。この国は王族ではなく、魔法師の評議会が統治する特殊な国家形態を持つ。

「評議会の名のもとに、エリシア・ヴァルトハイム令嬢に申し上げます」老女は言った。その声は静かだが、部屋の空気が少し締まった気がした。「令嬢の魔力について、ひとつ確認させていただきたい」

「……魔力?」

エリシアは自分の手を見た。魔力については、特に優れているという自覚がなかった。人並み程度だと思っていた。

「令嬢は、交渉の場にいると場の空気が変わることに、お気づきでしょうか」

「……それは」

「私どもが調べたところ、令嬢の魔力は特殊な性質を持ちます。感情の場を安定させ、対話の成功率を引き上げる——古い言葉では"調和の魔力"と呼ばれる能力です。三百年前の帝国が安定していた理由のひとつは、帝室がこの魔力を持つ血族だったからと言われています」老女は静かに続けた。「令嬢ご自身が意識せずとも、令嬢が同席した交渉は成功しやすく、令嬢が離れた場では対立が生まれやすい。アルデイン王国の外交がここ三年でやや改善されていた理由も、おそらく——」

「私のせい、ということですか」

「令嬢のおかげ、でございます」老女は穏やかに訂正した。「マーリン評議会は、その魔力を研究したい。そして、国家の外交基盤に組み込みたい。令嬢に与えられる自由と権限は、どこよりも大きいと約束します」

エリシアは、三通の求婚状を膝の上に並べて、しばらく見下ろした。

軍事。商業。魔法。

それぞれがまったく異なる理由で、しかしそれぞれに確かな根拠を持って、自分を求めていた。

窓の外では、まだ馬車が来ていた。

「グレイム」エリシアは静かに言った。「残りの手紙は、後でまとめて確認します。今日届いた分は、すべて保管しておいてください」

「かしこまりました」

「それと——」エリシアは少し間を置いた。「父に連絡を。少し、話したいことがあると」

グレイムは深く頭を下げた。その顔に、長年仕えた老執事としての安堵が、静かににじんでいた。

エリシアは窓の外を見た。

春の光の中、馬車の列は続いていた。

昨夜まで、自分は選ばれなかった側だった。

今日から、自分は——選ぶ側だ。

その事実が、まだ実感として胸に馴染んでいなかった。しかし確かに、何かが変わっていた。胸の奥の、長い間閉じていた扉が、ほんのわずかに開いたような感覚があった。


噂というものは、火よりも速く広がる。

エリシアの屋敷に各国の使者が殺到しているという話は、その日の夕刻には王都の社交界全体に知れ渡っていた。翌日には貴族たちの朝の茶会で語られ、三日後には新聞の社会欄に小さな記事が載った。

見出しはこうだった。

『ヴァルトハイム令嬢に各国より熱烈な求婚状——婚約解消から一夜にして大陸が動く』

その記事を、ローデリック・アルデインが目にしたのは、朝の政務室でのことだった。

「……なんだ、これは」

彼の声は低かった。側近のひとりが新聞を持ってきたとき、ローデリックはそれを一読し、しばらく黙って紙面を見つめた。

「本当なのか」

「は、はい。確認が取れております。カルデア第二王子、ルミエール連合のソレイユ家嫡男、マーリン評議会からの使者——それ以外にも複数の国から使者が出向いているとのことで」

ローデリックは新聞を置いた。

窓の外、王宮の庭では朝の光が木々に差し込んでいる。穏やかな春の景色だ。しかしローデリックの胸の中には、穏やかとはほど遠い感情が渦巻いていた。

なぜ。

なぜ、エリシアが。

あの、地味で、目立たない、舞踏会でも壁際にいるような令嬢が——なぜ、各国の王子や代表が競うように求婚状を送るのか。

「カルデアは、何と言っている」

「"戦略的頭脳を求めて"とのことです。北方停戦交渉への参加を期待していると」

「ルミエールは」

「"最も利益率の高い投資"と——殿下、そのままお伝えするのが躊躇われますが、先方の文言がそのようで」

ローデリックは眉間に皺を寄せた。

「マーリンは」

「"調和の魔力を持つ稀有な人材"と。具体的には……交渉成功率を引き上げる特殊な魔力があると、評議会が判断したようです」

沈黙が落ちた。

ローデリックは立ち上がり、窓のそばに歩み寄った。庭の向こう、王都の屋根が連なる景色を見る。どこかにエリシアの屋敷がある。今頃あそこには、まだ使者が来ているのだろうか。

「……三年間」彼は、独り言のように言った。「あいつは三年間、俺の隣にいた」

「はい」

「財政改革の件は——」ローデリックはそこで口を止めた。記憶を辿る。三年前の財政危機、何度も否決された増税案、そして突然現れた代替案。あれは父王の側近が提案したと聞いていた。「あの改革案は誰が立案した」

側近は少し間を置いた。

「……調べ直しますか」

「調べろ」

「かしこまりました」側近は一礼して、しかし出て行く前にもう一言添えた。「殿下——その、先ほどお持ちした新聞の件ですが、今朝の閣議でも話題になっているようで」

「閣議で?」

「"国益を損ねた判断"という意見が、複数の大臣から上がっているとのことです」

ローデリックは振り返った。側近は目を合わせなかった。

「誰が言った」

「外務大臣閣下と……財務大臣閣下も、懸念を示されているようです」

ローデリックは何も言わなかった。

側近が退出した後、静かな政務室に彼一人が残された。

国益を損ねた判断。

その言葉が、棘のように刺さった。

ローデリックは自分の判断が間違っていたとは思っていなかった。あのとき、エリシアを選び続ける理由を見出せなかった。地味で、華がない。舞踏会でも目立たない。セリーヌと並べたとき、どちらが王妃にふさわしいか——見た目だけで言えば、答えは明らかだった。

だが。

役に立たない、と言った。

その言葉が、今になって引っかかった。


それから二日後、ローデリックはエリシアの屋敷を訪れた。

事前の連絡はなかった。王太子が直接足を運ぶなど、通常であればあり得ない話だ。しかしローデリックは、それを気にするような状況ではなかった。

屋敷の玄関で応対したのはグレイムだった。老執事は王太子を前にして、礼儀正しく一礼したが、その表情は読めなかった。

「お嬢様にお取り次ぎいたします。しばらくお待ちを」

待つ間、ローデリックは玄関ホールに積まれた手紙の束を見た。まだ増え続けているのか、あの山はさらに高くなっているように見えた。

一通を手に取ろうとしたとき、廊下の奥からエリシアが現れた。

いつも通りの落ち着いた歩き方。質素だが上品なドレス。整えられた黒髪。表情は穏やかで、驚きも動揺も見えなかった。まるでローデリックが来ることを、最初からわかっていたかのように。

「殿下」エリシアは一礼した。「本日は、どのようなご用件でしょうか」

「話がある」

「承りましょう」

応接室に通された。エリシアはローデリックの向かいに座り、背筋を伸ばし、膝の上で手を組んだ。三年間、変わらない所作だ。

ローデリックは少し間を置いてから、言った。

「戻れば、王妃にしてやる」

沈黙があった。

エリシアは表情を変えなかった。ただ静かに、ローデリックの顔を見ていた。

「婚約を復活させる。俺が考え直した。お前には、それだけの価値があると判断した」

「……殿下」エリシアは穏やかに言った。「少しうかがってもよいですか」

「何だ」

「今回のご判断の理由は、各国から求婚状が届いたからですか」

ローデリックは答えなかった。それが答えだった。

エリシアは静かに続けた。「三日前の殿下のご判断は、"地味で役に立たない"でした。私は何も変わっておりません。変わったのは、外部からの評価だけです」

「だから、俺も評価を改めた」

「……そうですか」

エリシアはそれきり黙った。何かを考えているようだった。その沈黙が、ローデリックには妙に落ち着かなかった。泣くか、怒るか、あるいは喜ぶべき場面のはずだ。なぜこの女は、いつも——

「殿下は」エリシアがゆっくりと言った。「私のことを、今も知らないのだと思います」

「何?」

「三年間、殿下の隣にいました。财政改革の件も、外交文書の件も、議会向けの資料の件も——すべて、殿下の名前で通りました。私が関わっていたことを、殿下はご存知でしたか」

ローデリックは黙った。

調べろと言った二日前の命令の結果は、まだ手元に届いていなかった。しかし今、エリシアの口から直接聞いて——何かが、胸の中で静かに崩れた気がした。

「なぜ言わなかった」

「申し上げようとしたことは、何度かありました」エリシアは言った。「しかし殿下は、私の話をあまり聞かれないことが多かったので」

それは責めではなかった。ただ事実を述べていた。その静けさが、逆に重かった。

「だから言えなかった、ということか」

「……いいえ」エリシアはわずかに首を横に振った。「言えなかったのではありません。言っても届かないと、思っていたのだと思います」

ローデリックは黙った。

窓の外の春の光が、応接室の床に落ちている。三年間、この女は自分の隣にいた。財政を支え、外交の場で空気を変え、名もなく仕事をしていた。そしてローデリックは、その女を"地味で役に立たない"と言った。

「戻ってくる気はないということか」

「はい」エリシアは言った。迷いのない声だった。「殿下のご提案は、大変光栄です。しかし——」

彼女は少し間を置いた。

「私はもう、"与えられた場所"に戻ることを、選べません」

ローデリックは立ち上がった。何か言おうとして、言葉が出なかった。

「お送りする必要はございません」エリシアは立ち上がり、一礼した。「遠いところをご足労いただきました」

ローデリックが屋敷を出るとき、玄関の前にまた新しい馬車が止まった。鮮やかな金色の紋章が、春の光を反射して輝いていた。


それから一週間、エリシアは手紙を読み続けた。

六十通を超えた求婚状を、一通ずつ丁寧に開き、内容を確認し、父と相談し、グレイムの意見を聞き、自分の頭で考えた。条件が良いものもあった。名声が高いものもあった。血統の相性が良いものもあった。

しかしエリシアが求めているのは、条件ではなかった。

各国の使者を改めて呼び、直接話した。カルデアのヴァルター王子の使者とは、北方停戦交渉の現状について二時間話し込んだ。ルミエールのフィリアスの使者とは、商業同盟の財政構造について意見を交わした。マーリン評議会の老女とは、魔力の性質について問いを深めた。

話すほどに、見えてくるものがあった。

カルデアは、エリシアの頭脳を"武器"として欲しがっていた。敬意はあった。能力への評価もあった。しかしそこには、エリシア自身ではなく、エリシアの持つ機能への欲求があった。

ルミエールは、正直だった。投資という言葉は冷たく聞こえたが、フィリアス本人から直接届いた二通目の手紙は、驚くほど率直だった。"あなたが何を望むか教えてほしい、私が提供できるものを考える"——ビジネスの言語で書かれた、しかし誠実な問いだった。

マーリン評議会の老女——評議員のシルヴァ・ハーネットは、最も長く話した。魔力のことだけでなく、エリシア自身のことを聞いた。何が好きか、何が嫌いか、何に喜びを感じるか。

「あなたは長い間、自分の価値を他人の言葉で測ってきたのではないか」

シルヴァはある夜、茶を飲みながらそう言った。

エリシアは、すぐには答えられなかった。

「私どもは、あなたに国家のための仕事をしてほしいと思っている。それは本当のことです。しかしそれと同時に——あなた自身が、自分の意志で立つ場所を選んでほしいとも思っている。使われる人間は、いつか摩耗する。あなたには摩耗してほしくない」

「……なぜそんなことを」

「あなたの魔力は、あなたが満たされているときに最もよく働くからです」シルヴァは言った。「それが、私どもの調査でわかったことです」

エリシアは窓の外を見た。夜の庭に、花が咲いている。

「シルヴァさん」エリシアは言った。「マーリン評議会に行けば、私は何をするのですか」

「何でも、と言いたいところですが——まず、あなたが望むことを教えてください。私どもは、それに応えられるかを考えます」

「……逆ですね」

「何がですか」

「普通は、先に条件を提示されます」

「私どもは逆から始めます」シルヴァは静かに笑った。「そちらの方が、長続きするので」

エリシアはその夜、久しぶりに日記を書いた。

長い間書いていなかった日記だ。婚約してから、なぜか書く気が起きなくなっていた。

ペンを走らせながら、自分が今何を感じているかを確かめた。

各国の求婚者たちは、みな自分を必要としていた。それは確かだ。しかしその"必要"の質が、それぞれ違った。カルデアは頭脳を必要としていた。ルミエールは能力を。マーリンは魔力を。

でも——シルヴァだけが、エリシア自身に何を望むかを聞いた。

日記の最後に、エリシアは一行書いた。

『私を必要とする場所は多い。でも私が必要とする場所は、どこだろう』


翌朝、エリシアは父を呼んだ。

ヴァルトハイム侯爵、エドガー・ヴァルトハイムは六十を過ぎた穏やかな男で、娘の顔を見るなり何も言わずに椅子に座った。娘が話したいときに話すということを、長い年月をかけて学んでいる父親だった。

エリシアは、この一週間で読んだ手紙のことを話した。各国の使者と交わした言葉を話した。グレイムから聞いたヴァルトハイム家の血筋のことを話した。シルヴァとの会話を話した。

父は黙って聞いていた。

「……お父様」エリシアは最後に言った。「なぜ、私に何も教えてくださらなかったのですか」

沈黙が落ちた。

エドガーは窓の外を少し見てから、娘の顔に視線を戻した。

「お前が、穏やかに生きられると思っていた」彼は静かに言った。「この家の血筋を知れば、お前は一生、誰かに利用されることを恐れて生きることになる。知らなければ——ただの令嬢として、好きな人のそばで、静かに暮らせると思っていた」

「でも実際は」

「そうだな」エドガーは苦く笑った。「知らなくても、同じことだった。お前の血は隠せないし、お前の能力も隠せなかった。わかる者にはわかる。……すまなかった」

エリシアは首を横に振った。

「怒っているわけではありません。ただ——知った上で、選びたかったと思いました」

「そうだな」父は言った。「それが正しい」

「私、決めました」

エドガーはエリシアを見た。

「マーリン評議会に行きます」

父は少し間を置いた。それから、深く頷いた。怒りも、止める言葉も出なかった。ただ一言だけ言った。

「理由を聞かせてくれるか」

「条件が、最もよかったわけではありません」エリシアは言った。「血統の相性でもありません。シルヴァさんが、私に何をしたいかを聞いてくれたからです。私が何を望むかを、最初に尋ねてくれた場所だったから——私はそこへ行こうと思います」

エドガーはもう一度、深く頷いた。

「シルヴァ・ハーネット評議員か」彼は言った。「古い魔法師だ。信頼できる人間だよ」

「ご存知なのですか」

「若い頃、一度だけ会ったことがある」父は少し遠い目をした。「……あの人が選んだなら、間違いない」

エリシアは立ち上がり、父に一礼した。父は娘の肩に、一度だけ手を置いた。それだけで十分だった。


シルヴァへの返事を書きながら、エリシアは改めて自分の選択を確かめた。

マーリン評議会国家は、小さな国だ。軍事力ではカルデアに及ばない。経済規模ではルミエールに及ばない。華やかさも、知名度も、中程度だ。

しかし、あの老魔法師は言った。

あなたが満たされているときに、あなたの魔力は最もよく働く。

エリシアはそれを、単なる口説き文句だとは思わなかった。シルヴァの目に、そういう計算の色はなかった。ただ静かに、事実として言っていた。

返事を書き終えたとき、グレイムが扉を叩いた。

「お嬢様、王太子殿下から再びお使いが参っております」

エリシアはペンを置いた。「……今度は何と」

「"直接お話ししたい、もう一度機会をいただきたい"とのことです」

エリシアは少し考えた。

「お通しください」

今度はローデリック本人ではなく、彼の側近が来た。若い貴族の男で、どことなく気まずそうな顔をしていた。

「殿下からの伝言です。"先日は言葉が足りなかった、改めて誠意をもって話し合いたい"と」

「誠意」エリシアは静かに繰り返した。「殿下が、そうおっしゃったのですか」

「は、はい」

「わかりました」エリシアは言った。「一度だけ、お時間をいただきます。ただし——私からも、殿下に直接申し上げたいことがあります。それをお伝えした上で、構わないとおっしゃるなら」

側近は頷き、去った。

翌日の午後、エリシアは王宮を訪れた。

婚約者として通い慣れた廊下を歩きながら、不思議と懐かしい気持ちはなかった。見慣れた石の壁も、整えられた庭も、今は少し遠い場所のように感じられた。

ローデリックは政務室で待っていた。

前回と違い、側近たちを部屋から出していた。二人きりだ。ローデリックは立ったまま、エリシアが入ってくるのを見た。

「来てくれた」

「はい」

「座ってくれ」

エリシアは腰を下ろした。ローデリックも向かいに座った。

「調べた」ローデリックは言った。「財政改革の件。外交文書の件。他にも、いくつか」

エリシアは何も言わなかった。

「……お前だったんだな、あれは全部」

「一部は父の助けも借りました」エリシアは静かに言った。「ただ、骨格は私が考えました」

ローデリックは目を伏せた。三年間で初めて見る表情だった。自信の鎧が、わずかに剥がれたような顔だった。

「俺は」彼はゆっくり言った。「お前を見ていなかった」

「そうですね」

「反論しないのか」

「事実ですので」

ローデリックは黙った。

エリシアはまっすぐ彼を見た。怒りはなかった。憎しみもなかった。ただ、言わなければならないことがあると思った。

「殿下」エリシアは言った。「一つだけ、申し上げてもよいですか」

「……言え」

「殿下は、私を評価しなかったのではありません」

ローデリックは顔を上げた。

「"理解しようとしなかった"のです」

静寂が落ちた。

エリシアはそれ以上、言葉を重ねなかった。責める必要はなかった。これは罰ではなく、ただの事実の確認だ。ローデリックがこれからどうするかは、ローデリック自身が決めることで——エリシアには、もう関係のない話だった。

「戻ってくる気はないか」ローデリックは言った。今回の声は、前回より低く、静かだった。「王妃として、という話ではなく——お前の力を、この国のために使ってほしい」

「それも、私への必要ですね」エリシアは穏やかに言った。「ありがとうございます。でも——私はもう、行き先を決めました」

「マーリンか」

「はい」

ローデリックは長い沈黙の後、「そうか」とだけ言った。

立ち上がり、窓のそばへ歩み寄る。その背中を見ながら、エリシアは思った。この人は今、何かを学んでいるのかもしれない。遅すぎた学びかもしれないが、それでも——学ぶならば、無駄ではない。

「殿下」エリシアは立ち上がり、一礼した。「三年間、お世話になりました」

ローデリックは振り返らなかった。ただ、小さく頷いた。

エリシアは政務室を出た。

廊下を歩きながら、気づいたことがあった。

胸が、軽かった。


出発は、二週間後に決まった。

マーリン評議会からは、エリシアの条件をほぼすべて飲んだ返事が届いた。住居、職務範囲、自由時間の確保——そして、エリシアが最も重視した一点:「私の判断を、まず尊重すること」。

シルヴァからの個人的な手紙には、こう書かれていた。

『あなたの条件は、当然のものばかりです。なぜ"条件"として提示しなければならないのか、私には少し不思議でした。もしかして、これまでそれが当然でなかったということでしょうか。もしそうなら、それは改善の余地があります』

エリシアはその手紙を読んで、小さく笑った。

出発前日、グレイムが荷造りを手伝いながら言った。「お嬢様が赴任先で困らぬよう、ヴァルトハイム家の財政資料と、歴代の外交記録の写しを荷物に入れてよろしいでしょうか」

「……グレイム、それは私への贞餞ですか、それとも仕事の続きですか」

「両方でございます」老執事は言った。「お嬢様に仕事のない生活など、三日で飽きられると存じますので」

エリシアは笑った。

久しぶりに、声を出して笑った。


出発の朝は、晴れていた。

馬車に乗り込む前、エリシアは屋敷を振り返った。生まれ育った家だ。白い壁に蔦の絡まる、古い屋敷。父が玄関の前に立っていた。

「達者でな」父は言った。

「はい」エリシアは答えた。「お父様も」

馬車が動き出した。

王都の石畳を、蹄の音が叩く。大通りを抜け、城門をくぐり、やがて街の建物が遠ざかっていく。

窓から外を見ていると、道沿いに一台の馬車が止まっているのが見えた。黒い馬車で、紋章は——マーリン評議会のものだった。

窓から、白髪の老女が顔を出した。

シルヴァだった。

「迎えに来ました」彼女は言った。「驚きましたか」

「少し」エリシアは答えた。

「長旅です。一人より、話し相手がいた方がいいでしょう」

馬車が並んで走り出した。しばらくして、シルヴァが言った。

「マーリンでやりたいことは、考えてきましたか」

「少し」エリシアは言った。「ずっと、誰かの仕事を名前なしでやってきたので——今度は、自分の名前でやってみたいと思います。何が得意なのか、まだ自分でも全部はわかっていないのですが」

「それでいいですよ」シルヴァは言った。「わかってから始めようとする人間は、たいてい一生始めません」

エリシアは窓の外を見た。

王都がもう見えない。代わりに、広い草原が続いている。緑の中に、春の花が点々と咲いている。

——私はずっと、選ばれるのを待っていた。

婚約者として、令嬢として、誰かの隣に立つ存在として。自分の価値を他人の言葉で測り、他人の必要に応えることで、自分の居場所を確かめてきた。

それが悪いことだったとは思わない。しかし——それだけが全てだと、思い込んでいた。

「シルヴァさん」エリシアは言った。

「何ですか」

「私のことを、最初から対等に扱ってくれましたね」

シルヴァは少し考えてから、言った。「そうでしたか? 当たり前のことをしたつもりでしたが」

「当たり前ではない人が、多かったので」

「……それは、周囲の問題ですよ」シルヴァは静かに言った。「あなたの問題ではありません」

馬車は進む。草原の向こうに、山が見えてきた。マーリンへの道は、まだ長い。

エリシアは、手元の日記を開いた。

出発前夜に書いた最後の一行が、目に入った。

『私を必要とする場所は多い。でも私が必要とする場所は、どこだろう』

その下に、今日の日付を書いた。そして一行、添えた。

『私はようやく、"選ばれるだけの人生"を終えた』

馬車の窓から、風が入ってきた。

春の、草原の風だ。

どこまでも続く緑の中を、エリシアを乗せた馬車は走り続けた。

終幕








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