第五十六話 彼の覚悟と、私の決意
それから一年が経った。
学院の四年目——最終学年に入った私とセリアは、卒業後の進路を現実のものとして考え始めていた。
一年生の頃は『そのうち来る未来』だったのに、今は『来月の予定』みたいに近い。
セリアは王国の聖女として正式に叙任されることが決まっている。
王宮付きの聖女として、国の守護と医療支援に携わる予定だ。
式典の段取りや礼拝の作法まで、既に訓練が始まっていて、セリアはそれを「忙しいけど、嫌いじゃない」と笑った。
私は——。
私の進路は、まだ『言葉』としては決まりきっていないのに、心の中では一つの方向へ、静かに引っ張られていた。
「マリアンナ」
クロードが呼ぶ。
週に一度は会う機会を作るようになっていた今、私たちは王宮の中庭に来ていた。
春の花が咲き乱れ、風に乗って甘い匂いが流れてくる。
石畳には日差しがやわらかく落ちて、影が揺れていた。
クロードは少しだけ視線を逸らし、それから私を見て、静かに言った。
「卒業後のことを、相談したい」
「はい」
「マリアンナが卒業した後——正式な婚約を、と思っている。父にも、すでに話してある」
「……国王陛下に」
「うん。マリアンナのことを話したら、『ヴェルナー家の聖職者の家柄か。まあ良かろう』と言ってもらえた」
「……割とあっさりと」
「お父は人を見る目がある。マリアンナのことを気に入ってくれたようだよ」
「いつ会いましたか、陛下と」
「先月、一度」
「聞いてない!!」
「サプライズのつもりだった」
「それはサプライズじゃなくて報告漏れです!!」
「……ごめん」
クロードが、少しだけ笑いながら謝った。
笑ってる場合じゃないのに、その顔を見ると、腹が立ち切らない自分が悔しい。
「でも、良かったとは思わない?」
「……良かったは良かったですけど、事前に教えてくれたら心の準備が——」
「マリアンナ」
クロードの表情が、ふっと真剣になる。
空気の温度が一段下がったみたいに感じて、私は背筋を伸ばした。
「婚約、してくれるか?」
一瞬、頭が白くなった。
(婚約、婚約、婚約……!!)
これはゲームのイベントじゃない。現実だ。
現実で、クロードに婚約を申し込まれている。
嬉しいのに、怖い。怖いのに、嬉しい。
どっちも嘘じゃないから、余計に息が詰まる。
(どうしよう。なんで心拍数が、こんなに——!!)
「……マリアンナ?」
「す、少し待ってください」
「うん」
「心の準備が——」
「うん」
「少し——」
「うん」
クロードは、急かさず、ただ待ってくれていた。
私は深呼吸を三回した。ちゃんと吸って、ちゃんと吐く。逃げない。
(これが現実。クロードが好きで、クロードも私を好きで——それは確か)
(怖いのは変わらない。でも、もう封印しない。封印しないと決めた)
「……はい」
「はい?」
「婚約、します」
声にした途端、胸の奥がほどけた。
クロードが、やわらかく笑う。
「ありがとう」
また『ありがとう』。
何かをもらった時だけじゃなくて、気持ちを受け取った時にも、ちゃんと礼を言うクロードが——私は好きだ。
「セリア嬢には、もう話したか?」
「……してないです。でも、なぜか知っているような気がします」
「うん。今頃、どこかで喜んでると思う」
「念力を送ってるかもしれない」
「念力?」
「……セリア特有の応援方法です」
「面白い妹だね」
「本当に。自慢の妹です」
花の影が揺れて、風がまた一度、私たちの間を通り抜けた。
「一つ、聞かせてほしい」
「何を?」
「マリアンナは——幸せか?」
真剣な目で聞かれて、私は言葉を探した。
幸せ、という言葉は簡単なのに、軽く言いたくなかった。
「幸せです」
「本当に?」
「本当に。セリアも元気だし、殿下もいてくれて、お父様もお母様も健康で——」
「マリアンナ自身のことで、幸せか?」
念を押されて、私は一拍、黙った。
そして、逃げずに答えた。
「……はい。好きな人がいて、その人が好きでいてくれて、怖いのにちゃんと前に進めてる。これが幸せじゃなかったら、何が幸せなんですか」
クロードが少し目を細める。笑いそうで、笑わない顔。
「そうだな」
「……殿下は?」
「幸せだよ。マリアンナが傍にいてくれるから」
「……ずるい」
「何が?」
「そういうことを、さらっと言うから」
「さらっと言えるようになったのは、マリアンナのおかげだよ」
「私のおかげ?」
「マリアンナが『好きです』と言ってくれた時——それまで『言いたいけど待とう』と思っていたことが、やっと言葉になった気がして」
クロードは、そこで少しだけ息を吐いた。
「だから、ありがとう」
クロードが私の手を取った。
指先から伝わる体温が、まっすぐで、落ち着く。
「……どういたしまして」
私はその手を握り返した。
中庭の花が、また風に揺れていた。
今度は、その揺れさえ優しく見えた。
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