第三話 ゲーム知識、最強(ただし赤ちゃん)
生まれたばかりの肉体は、依然として自分の意思を完璧には反映してくれない。
首を動かしたいのに、動かない。指先に力を入れたいのに、力が入らない。
なのに、私の視線だけは、隣の小さな布団に横たわる存在に、きっちり釘付けになっていた。
セリア。
私の、最推し。
ついこの間まで画面の向こうで苦難の道を歩んでいた彼女が、今は腕一本分の距離にいる。
うっすら甘いミルクの匂いの中で、まるで絵画みたいに穏やかに眠っているのだ。
現実味が追いつかない。
薄紅色の小さな唇が、時折ぷくりと開いて、またきゅっと結ばれる。
その一回一回に、私の中の『かわいいセンサー』がピピピと警報を鳴らし、心臓がキュンと締め付けられる。
いや、締め付けどころじゃない。
胸の奥がぎゅっと掴まれる。呼吸が浅くなる。
ああ、なんてこと。
この子が、あの『聖女の涙、君に捧ぐ』の、血と涙にまみれたヒロインだなんて——誰が信じられるだろう。
いま目の前にいるのは、無垢そのもの。
柔らかくて、丸くて、触れたら溶けそうな生き物だ。
私が前世で彼女を『推し』ていた理由は、もちろん健気さや強さもある。
どんな絶望的な状況でも、最後の一粒の光を見失わない。そのひたむきさに心を持っていかれた。
けれど今は、理由なんてどうでもよくなる。
目の前にいるのは、まだ何の色にも染まっていない、生まれたばかりの『バブちゃん』セリアなのだから。
ふと、セリアの小さな手が虚空をさまよって、私のほうへと伸びてきた。
正確には、私の顔の近くをふわふわ漂っているだけだ。
掴む対象を探しているのかもしれない。
でも私にとっては、まるで「ここだよ」と呼ばれたみたいで、たまらなく愛おしい。
その小さな指の、なんと繊細なことか。
爪さえ米粒より小さく、指先はうっすら透けて、ふにゃりと力が抜けている。
こんなにも小さな手が、やがて剣を握り、魔法を唱え、世界を揺るがす運命を背負う——。
そう思うと胸が締め付けられるのに、同時に、この『バブみ』を永久保存しておきたい衝動が強烈に湧き上がる。
このスチルの保存先はどこだ。私の脳内ハードディスクは足りるのか。
「あぅ……!」
思わず喉から漏れたのは、赤ちゃん特有の甲高い声だった。
自分で出した音に自分がびくっとする。体って勝手すぎる。
その声に反応したのか、セリアの薄いまぶたがぴくりと震えて、ゆっくりと開かれた。
淡い菫色の瞳。
まだ焦点の定まらないまま、ぼんやりと私を見つめる。
まばたきはゆっくりで、睫毛の影だけがふるふる揺れる。
視線が合った気がして、胸の奥がじん、と熱くなった。心臓が、また跳ねた。
その瞬間、私の脳内には、かつて見たゲームのスチルがフラッシュバックした。
涙に濡れたセリアの頬。絶望に歪む口元。それでも光を求める澄んだ瞳。
あらゆる悲劇の断片が走馬灯みたいに駆け巡る。
——のに、次の瞬間には、目の前の『バブみ』が全部を上書きした。圧勝である。
「ひゃう……っ!」
攻略対象のイベントCGを見たときみたいに、心臓が爆音を立てる。
ううん、それ以上だ。
これはリアルだ。リアルセリアだ。
しかも、無垢で、柔らかくて、可愛さの権化だ。地獄。尊い。尊すぎる。
「……ぅ、あぅ……」
セリアが私に向かって、小さな口をぱくぱくさせた。
何の意味もない動きだろう。ミルクを求めているのか、不快を訴えているのか。
それでも、私のオタクフィルターを通すと、もうだめだった。
呼ばれてる。話しかけられてる。
たぶん『おねえたん』って言ってる。言ってない。いや、絶対言った!
理性もへったくれもない。
私の使命は、確かに彼女を悲劇から救うことだ。
王太子ルートへ、きっちり誘導することだ。
決意は揺るぎない。……揺るぎないはず。
なのに、この『バブみ』に打ちのめされている現状では、まだ第一歩すら踏み出せていないではないか。
隣でふにゃりと笑ったセリアの顔は、あまりにも天使だった。
その笑顔を守るためなら、私はこの身を盾にする。
盾どころか、世界を敵に回してでも、この『バブみ』に満ちた妹を幸せの絶頂へ導くのだ。
私の推しは、絶対に泣かせない。
この純粋な光を、未来永劫、曇らせてなるものか。
そう誓いながらも、私はセリアの小さな手首にそっと触れて、その柔らかさに、またしても『萌え』で意識が遠のきそうになっていた。
指先が、羽毛みたいに軽い。温かい。……ダメだ、尊さで脳が溶ける。
推しがこんなにも身近にいるという事実が、私の理性を常に破壊しにかかってくる。
これは、悲劇から救うことと同じくらい——いや、ある意味ではそれ以上に、困難な試練なのかもしれない。
推しの可愛さに、私が先に倒れてしまうのではないかと、真剣に心配になるほどだった。
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