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「この後も是非楽しんでね」
そう言っていつものように美しい姿勢で戻っていく翠を西條巴は見送った。
「巴くんあの人は…」
隣に立つ葛木桃が、不安げに巴の顔を窺う。桃の瞳は潤んでおり、巴を見上げる仕草はひどくか弱かった。巴は軽く首を振ると、いつもの冷静な声で答えた。
「気にするな。ただの知り合いだ」
桃は巴の言葉に安心したように、小さく息を吐いた。そして、さらに巴の腕に身を寄せてくる。その温かさに、巴は微かに安堵を覚えた。
西條家は代々、当主が優秀であることが当たり前だった。父は類稀なる手腕で家業を拡大し、兄は若くしてすでに父に劣らぬ才覚を見せ始めている。
しかし、巴は違った。容姿こそ父譲りではあったが、学業も運動も、全てにおいて兄や父に及ばない。どれだけ努力しても、越えられない壁がそこにはあった。
そんな自分にとって、高城翠の存在は、常に喉に刺さった小骨のようなものだった。
高城翠。才色兼備、絵に描いたような名家の令嬢。学園でも常にトップの成績を修め、教師からも生徒からも信頼を置かれている。その優秀さは、時に巴の心を深く抉った。
たとえ彼女にそんなつもりはなくとも、年下の自分を諭すようなその声は、巴には屈辱でしかなかった。彼女の視線が、まるで未熟な自分を見下しているように感じられてならなかった。だから、嫌いだった。彼女の完璧さが、自分を惨めにする。
だから巴の目には、年相応な態度を見せる葛木桃は鮮やかに映った。彼女は、学園に入学してきたばかりで、この上なく無垢で甘え上手だった。巴は頼られることに無上の喜びを感じた。
「巴くんが隣にいてくれると安心する」
そんな風に桃が甘えるたび、巴の心は満たされていく。彼女は巴を頼り、巴の存在を必要とした。翠が持ち合わせない健気さや弱さ、そして何よりも巴を「優秀な人間」として見てくれる無邪気なまなざし。それが巴の心を癒した。
そして星見の会でのグレーチェックの装い。それは、彼女が望んだことではあったが、巴にとっても都合が良かった。自分は翠じゃなくたっていい、自分は選ぶ立場である、という翠への意思表示。
西條巴は周囲の目から逃げるように、ただ優越感を満たしてくれる彼女の横を選んだのだった。